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「聖書検定」

昨年秋に、「聖書検定」がスタートしました。聖書検定とは、聖書から出題される検定試験です。まず、聖書検定公式テキストによって学習します。具体的には、第5級から第1級までがあり、まず第5級のテキストで学ぶことになります。こうして、聖書の膨大な内容を、バランス良く、やさしく学習することができます。検定を受けることにより、聖書を系統的に理解し、また、その真髄を知ることができるのです。聖書を知らずに信仰生活は出来ません。しかし、手引きがなければ、聖書を読もうという最初の志もなかなか続かないと思います。このテキストによって聖書の知識を身に着けることで、聖書を読むことが楽しくなり、また、深みが増して、信仰生活に必ず益すると確信します。検定試験は、それぞれのテキストの範囲で出題されます。受験の方法は通信による自宅での受検スタイルなので、時間、場所を問わず、誰でも受検することができます。

今まで、自分で出来る聖書の組織的な勉強方法は、「べテル聖書研究会」など、限られたものしかありませんでした。今回、聖書検定が誕生し、その学習の方法が一人で家でも出来るという便利さもあり、泉教会ではさっそく皆さんにこれを紹介し、希望者に受験をお勧めすることにしました。

希望者は各自で申し込み、受験しますが、泉教会では、一応、今年は年内を目標にして取り組んでいただくことにしました。

希望者は、お申し出ください。詳細、ご案内いたします。テキスト代1,000円、受験料1,500円(高校生以下1,200円)


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by rev_ushioda | 2018-06-23 18:56 | Comments(0)

「信徒クロス礼拝」

泉教会は今年になって、「信徒クロス礼拝の提案」という文書を近隣の小中規模の仲間の教会(カンバーランド長老教会)に送りました。信徒が相互に出席し合う礼拝(信徒クロス礼拝)を始めませんか、と。

泉教会は20年前、開拓伝道によって生まれた教会ですが、最初の頃、他の教会の方から、一枚のはがきを受け取りました。「開拓伝道のために祈りました」と書かれてありました。その心遣いは嬉しかったのですが、妻一人しか教会員がいない時、「教会員の皆さんによろしく」とも書かれてあったのです。「皆さん」は、いない。ああ、顔が見えないことは、こういうことなんだなあと、思った。ですから、顔が見えること、来て、見てもらうことが、一番の祈りなのだと、盛んに、来てください、と訴えてきたわけです。最近では、中会女性会が「世界祈祷日礼拝」を行うに当たり、毎年、会場教会を変えて集まり、礼拝を共にしていますが、そういう形でお互い他の教会を知ることはもとより、そこで他教会の皆さんと出会う喜びを共有しています。こうした経緯から、地域にある教会が祈りを共にするという共同体の在り方をつくりたいな、と思いました。中会と言っても、顔が見えなければ、組織の理念だけでは意味がない、力にならない、ということです。しかし、もし人が出会えば、人との出会いにより、「中会」という人間的に言えば教会組織が、しかし、目の前に人間として現れるのです。
こうして、5教会に呼び掛け、この5教会間で、きょう、「信徒クロス礼拝」が実現しました。きょうは泉教会からは工藤夫妻と、永見兄が渋沢教会を問安しています。私たちは、あさひ教会からお二人を迎えての礼拝となりました。他の教会間でもこうした問安がなされています。地域にこの人たちがいて、この人たちと共に中会という一つの共同体をつくっているのだ、とわかるのです。中会とは…などと、くどくど説明しなくても、もうわかります。人と出会うということは、百聞に勝るのです。このような繰り返しが、少なからず各個教会の伝道の姿勢によい影響を与えるに違いないと、私たちは確信するのです。願わくはこの繰り返しから、将来、新たな宣教的な芽生えが起こされるなら幸いです。他教会の信徒の皆さんとの、礼拝での出会いは、様々な可能性の宝庫となるでしょう。


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by rev_ushioda | 2018-05-27 10:57 | Comments(0)

「傍観者」

ある時、郵送で送られてきた封筒を開けたら、いくつかの教会の「訪問記」が入っていました。その中に、泉教会もありました。誰が書いたか、すぐ見当がつきました。しばらく前に、ここまで何時間かかって来たと言われて、自転車で来られた人がいたのですが、その人でした。教会をキャラバンして、こうして訪問記を書いていたのです。その教会の様子や、牧師の感想などを書いていて、悪いことは書かれていませんでしたが、しかし、外側から教会を傍観して回る姿勢に、ものすごい違和感をおぼえました。この人は傍観者であり、評論家であり、そのことをもって自分を満足させるだけ、ただ通り過ぎて行くだけの人でした。おそらく今も、どこかの教会を傍観し続けていることでしょう。
そして、思いました。もしかしたら私たちもいつの間にか、礼拝者ではなく、傍観者に、キリスト者ではなく、評論家になる要素はあるのではないかと。
傍観とは、外側から見ることです。泉教会を構成している一人という、つながりからではなく、つながりを持たない外側から、教会を見るのです。その人は、当たり前ですが「私の教会」とは決して言わず、「この教会」と言います。私たちの中に傍観的態度があると、「この教会」と言って、批判的態度になるのが常です。すると、あのキャラバンする人のように、礼拝は守らない、献金はしない(教会を支えない)、いつも他の教会と比較する、…ようになります。教会を壊すものが、もし、あるとしたら、このような「傍観的態度」だということは、言うまでもないことでしょう。教理や、牧会の内容によって教会が壊れることはきわめて稀で、多くの教会で問題が起こるのは、「この教会」と言う、傍観的な態度が原因しています。悪魔が教会を壊すためにまず最初に用いる巧妙な方法は、果たして教会員の口に「この教会」と言わせることでしょう。
自分がはたして傍観者か、そうでないかをチェックする簡単な方法、それは、泉教会を「私の教会」「私たちの教会」と言っているか、いないかです。

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by rev_ushioda | 2018-05-12 17:23 | Comments(0)

「聖書に聴くために」

来週から「気持ちの聴き方」講座の第50期クラスが始まります。ところで、この講座の理論は、カール・ロジャースの「来談者中心」という考え方です。平たく言えば、相手の中にあるもの(環境、価値観、感情の動き)をそのままに読み取ろうとするものです。聞き手は、何かの先入観やテクニックによって相手を見ようとするのでなく、また、ただ時間をかけて聞いていればいいというのでもなく、相手の中にあるものをそのままに読み取る姿勢とか態度が大事だという考えを「来談者中心」と言います。ロジャースは、聴き手が備えるべき3つの原則を上げています。第一は、無条件の肯定的配慮。相手のありのままの態度・価値観などを無条件に受け容れること。第二は、共感的理解。相手の感情を自分自身の感情として受け止めること。第三は、自己一致で、自分を偽らず、自分自身に対して誠実なことであり、あるがままの自分を受容していること。 ― 言ってしまえば、それだけのことですが、私はこの考え方や実際の訓練に出会って、自分が何であるか知ることができたように思っています。私は気づいていなかったのですが、それまで相手を無条件に肯定できない、相手の感情をそのまま受け止めることができない、自分自身さえ一致していない、そういう自分がいました。訓練の中で初めて、そういう自分に気づいたのです。なぜこの話をするかというと、そのことは、聖書を読む姿勢につながっていくからです。私たちは、自分の価値観や思い込みでしか、聖書を読むことができない。また、主イエスの「憐れみ」という、はらわたを引きちぎるほどの感情を理解できない。さらには自分自身さえ偽る、ということをするのです。そういう自分がいたら、少なくとも自分に気づこうとしなかったら、聖書の言うことは伝わってこないのです。気づくというのは、そこで、ある程度の訓練が必要なのです。その訓練が、「気持ちの聴き方」という学びと共通します。予断を持たず、聖書の言うところ、主イエスの言うところをそのままに受け止めることの何と難しいことか。しかし、だからこそ、「聴く」ことの良い訓練をしたいのです。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(フィリピの信徒への手紙第2章5節・文語訳)
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by rev_ushioda | 2018-05-04 20:15 | Comments(0)

「イースター」

今年の泉教会のイースター礼拝では、洗礼式、信仰告白式が行われた。洗礼は小学校4年生になる男の子。自分の口で信仰告を白した、いわゆる成人洗礼である。信仰告白は、今春から中学生になる女の子。幼児洗礼を受けていたが、やはり自分の口で信仰を告白したのである。大人の言葉ではない、子どもなりの言葉が光る。すばらしい、感動の礼拝であった。
礼拝ではほかに賛美の会の皆さんの歌が2曲入り、聖餐もあり(上の二人の子どもたちは初めての聖餐にあずかり)、外ではガレージセールでイースターをアピール。という具合に、朝から、実際は先週1週間を通じて準備を重ね、それはそれは賑やかな、うれしいイースターの一日であった。ちなみに礼拝出席は、39人(夕礼拝を入れて40人、内ゲスト10人)に子ども10人であった。


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by rev_ushioda | 2018-04-06 18:01 | Comments(0)

「按手礼説教」

私の神学校卒業の証書にこう書かれています。
「願わくは貴君の生くる限り主の召命にこたえて 教理と生活とを兼備し 敬虔なる献身と救霊の業に励みつつ 神の栄光をあらわされん事を祈る」
私の思いや感じ方が初めにあったのではなく、「主の召命」が初めにあった、それにこたえるのだと。
パウロは、自分の体験を繰り返し語るうちに、主の召しは、ダマスコでアナニヤに出会った時ではなかった。ダマスコに向かう路上、あの光の中であった、と言うようになりました。さらに時間が下ると、神は「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」ておられた、と変わります。さらには「天地創造の前に」選ばれたのだと言っています。自分自身の召命の日がいつなのか、その深さを語っているのです。事実の受け止め方が、時間の流れとともに、どんどん深まって行くのです。彼の生涯は、初めからあった恵みの、その意味に目を開かれる祈りの道であった、そのように理解するのです。
私は、初め、神からの「召命」をどうして確認できるのだろうかと思っていましたが、属する教会の牧師の推薦を受け、神学校の入学試験に合格、中会会議の承認を受けて中会神学生になり、その神学校を卒業でき、中会会議で伝道師に任職され、最初の教会に派遣され、その後、教職者の任職式(按手礼)を迎えました。この節目節目を越えて初めて、ああ、本当に神からの「召命」だったのだ、と思ったものです。
しかし、ずっと後になって、気づいたことがあります。私の家、生まれた家は、武蔵国と相模国の二つの国の国境線だったと。そうだったのか。私は「国境の人」だ。牧師、伝道者として、「あなたに神の国は近づいた」と、まさに生まれた日から神の国の「国境の人」だったのだということに気づきました。
さらにある時、知りました。私に洗礼を授けた牧師の、父君は、戦時中(76年前)、殉教した7人の牧師の一人でありました。私は殉教者の信仰上の孫ということになります。私は、40年前に神学校を卒業し、献身の道を志したと思っていました。しかし、生まれた日(67年前)を越えて、主の召しは76年前にまでさかのぼっていったのです。そのようなバトンが、殉教者から手渡されていたのです。「向こうから」バトンを渡す者を選んでいて、ついに私は、そのバトンを受け取った、ということなのです。
召しは、私たちが知らない、思いがけないところから神によって始められていたのです。牧師、伝道師の苦悩、いえ、それにも勝る喜びの中で、召命の日はさかのぼり、そして召しの確信は深まり続け、私たちの思いをはるかに超えて、必ず、その意味を知るに違いありません。
きょう、牧師になる人にお渡しする按手証の文面は、こうです。 ― 「あなたは、カンバーランド長老キリスト教会日本中会の按手によって牧師のつとめに任じられました。日本中会は、感謝をもってあなたが教職者按手を受けた者であることを証します。あなたは、おびただしい証人の群れに囲まれています。とこしえの御腕があなたの働きを支えます。それゆえ、召命の日より誠実に訓練を受けた初めの愛から生涯 離れることなく、このつとめのため、主イエス・キリストにあって健闘されるよう祈ります。」
天地創造の前に神の子にするようお定めになった「とこしえの御腕」が、今、教職者、伝道師のそれぞれの任職をうける三人を包み、その働きを支えるのです。

(教職者按手・伝道師任職式説教)


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by rev_ushioda | 2018-03-26 14:32 | Comments(0)

泉教会の特徴がすぐに分かるのは、玄関先にのぼり旗が立っていることです。まず、このような教会はないのではないでしょうか。のぼり旗は日本の文化だと思い立ち、何年か前のイースターの「祭」から実行に移しました。

教会には、どこもその教会だけの特徴があり、それをいかに活用するかで、信仰生活が豊かになるのです。泉教会には、小さな教会ですが、ほかの教会にはない特徴があります。どこに行っても自分のスタイルを変えないのも良いかも知れませんが、所属する教会の特徴を生かした信仰生活の歩み方をするとき、信仰が思わぬ形で動き始めることにも気づいておきたいと思います。

1.NPO法人心を聴く市民ネットワーク

このNPO法人とのかかわり、学びのチャンスは、泉教会の最大の特徴と言えるでしょう。この法人によって、教会は開拓当初から社会との接点をつけています。さらに、神を理解するのと同じに大事なのは、目の前の人間を理解することであり、教会は、その必要に応えています。


2.テアトルフォンテ礼拝、同聖書会(聖書おもしろ読み)

私たちの教会の施設は狭いですが、公的施設を用いることで、教会に空間的、宣教的視野を開いています。参加することで自らを豊かにするだけでなく、伝道のチャンスにすることが出来るのです。


3.キリスト教ほっとライン(電話メッセージ)、ライフライン(テレビ放送への広告)

同じく、これも教会に空間的、宣教的視野を開くだけでなく、これは電話やテレビという方法を用いて、教会のメッセージをそこにアクセスする人に直接伝えることが出来るものです。


4.バイブルカフェ、賛美の会、英会話

教会周辺の家々と教会とをゆるやかにつなぐプログラムです。


5.信徒クロス礼拝

礼拝における他教会との交換プログラムです。教会が自ら置かれた時と場所を意識するための新たな試みです。


6.子どもと共にまもる礼拝

礼拝の初めに、子どもの礼拝部分を置いています。主イエスの周りにはいつもこのように子どもたちがいたことでしょう。子どもから大人は神の国を学びます。


7.聖書のリレー読み

聖書の言葉をリレー読みする。その言葉をもって、語りあう。祈り合う。聖書をリレー読みすることで共同体としての会話と、祈りに導かれます。何と刺激的なことでしょうか。


8.説教の当日配布

説教の原稿が当日、配布されますから、礼拝説教を文字で何度も振り返ることが出来ます。


9.メール版週報

もし礼拝を休んでも、その週の数日後には携帯やパソコンに週報が配信されますから、何があったのか、予定はどうなのかが分かります。

上記の8項目、13の内容は、泉教会固有のものです。内容には今後のことも含まれていますが、現在、皆さんはいくつ活用しているでしょうか。せっかく泉教会にいるのですから、泉教会を十倍、楽しんでください。



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by rev_ushioda | 2018-03-19 18:27 | Comments(0)

昨日の教会員総会で、小会が考える今後の牧会体制について説明した。
すなわち、借入返済が終わる、今から8年先まで私との契約関係を続ける。補佐のために主事を雇用する。その間、良い引継ぎができるようにする、という方向性だ。
小会で、この数か月にわたって考えてきたもので、私自身、いい提案だと思っている。おそらく教会員の皆さんにも、牧師が定年を迎えて、今後どうなるのかと不安があったので、安心を与えたに違いないだろう。この考え方については、諸方面でさらに詰めていかなければならないが…

ところで、私自身、まず、まだ先と思っていた定年に直面したとき、まことに妙な気持ちになった。退職金を受け取るに至っては、まだこうして現役なのにという思いと錯綜して、事態を受け止めるのに時間がかかった。今は、それでも何年先までは出来るだろうと見つめている自分がいる。定年などと言わなければ、普通にしていたものを、何年先まで出来るかしらと、思う(不安を感じるようになっていく)のである。
ちょうど車が車検になったので、80歳で運転を辞めることにして、では逆算して残り13年、今が買い替え時だと車を新しくしたことも、ある。延長線で考えてみたり、逆算で考えてみたり、いったい、今の自分はどこにいるのだろうか、体力はどのくらいなのだろうかと、何だか自分がわからなくなったりする。


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by rev_ushioda | 2018-02-19 14:47 | Comments(0)

「自分の性格かも」

信仰、信仰と言うのですが、それは本当にキリスト教会が継承してきた信仰なのか、ということは考えてみる必要がありそうです。もしかしたら、ただ自分の願いや関心、自分の信条を聖書に読み込んで、気にいる言葉拾いをしているだけ、ということはないだろうか、ということを考えてみたいのです。

私自身、成育歴からして「マジメ」タイプの人間だと自他ともに認めていると思います。すると、自分の中に聖書の読み方がマジメになる、というカラクリがあることに、ある時、気づきました。聖書にある「きよさ」が妙にひっかかり、するとそのようなことを強調する神学もまた世にはあるもので、いつの間にかそういう教会に心魅かれたことが、若い時にありました。自分の性格や考え方に合う個所ばかりが気になり、自分に合うように聖書を読み込んでいる自分がいたのです。

同じように、厳しい人は、明けても暮れても聖書の厳しい教理ばかりに目が行ってしまうでしょうし -すると目の前の弱さを持った人を受け入れることが出来ない― 逆に優しい人は、明けても暮れても聖書の優しい個所ばかりを拾い出す -すると人間の罪に気づくことが出来ない- というようになると思います。そういう意味で、聖書を読むことは難しいのです。

以前も紹介しましたが、「カモレレロ」という文字を、日本人なら知っているカタカナで読んで、意味が分からないと言うのです。日本人ではない人は、(特殊フォントであるにはあるのですが)これをHELLO(こんにちは)と読んで意味が通じるのです。

聖書も同じです。今のカタカナのように私たちは自分が経験してきたことがあり、そしてそこで作られた性格や判断の仕方があって、結果、聖書をそのまま読むことが出来なくなっているのです。難しい、と言って離れるにしても、反対に、関心をもって深く読むにしても、私たちは自分の性格がそこで大きく動いて、その性格をもって聖書の言葉と向き合ってしまわないでしょうか。私は「気持ちの聴き方」という講座をしていますが、この講座によって自分の心の動き方に気づき、自分の性格や信条を聖書に読み込むのではなく、聖書が語るように聖書から聴くことが出来ればと願っています。


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by rev_ushioda | 2018-02-05 17:27 | Comments(0)

「今日は雪」

予報通り、今日は雪になった。予報は、「大雪」。
それにしても、きのうがお餅つきでよかった。ポカポカとした陽気の中で、本当に明日、雪なの? と話しながら、教会のみんなでワイワイしながらお餅つきを楽しむことができた。今日だったら・・残念なことになっていたわけで、ほんとうに良かった。
まさかと思ったN兄ががんばってお餅をついていたのに驚き、最近来られた方も教会に誘うね、と喜んでくださり、子どもたちは言うに及ばず。28人という礼拝人数の復調もあり気持ちも軽やかで、良い一日になった。
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by rev_ushioda | 2018-01-22 15:51 | Comments(0)