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「イースター」

今年の泉教会のイースター礼拝では、洗礼式、信仰告白式が行われた。洗礼は小学校4年生になる男の子。自分の口で信仰告を白した、いわゆる成人洗礼である。信仰告白は、今春から中学生になる女の子。幼児洗礼を受けていたが、やはり自分の口で信仰を告白したのである。大人の言葉ではない、子どもなりの言葉が光る。すばらしい、感動の礼拝であった。
礼拝ではほかに賛美の会の皆さんの歌が2曲入り、聖餐もあり(上の二人の子どもたちは初めての聖餐にあずかり)、外ではガレージセールでイースターをアピール。という具合に、朝から、実際は先週1週間を通じて準備を重ね、それはそれは賑やかな、うれしいイースターの一日であった。ちなみに礼拝出席は、39人(夕礼拝を入れて40人、内ゲスト10人)に子ども10人であった。


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by rev_ushioda | 2018-04-06 18:01 | Comments(0)

「按手礼説教」

私の神学校卒業の証書にこう書かれています。
「願わくは貴君の生くる限り主の召命にこたえて 教理と生活とを兼備し 敬虔なる献身と救霊の業に励みつつ 神の栄光をあらわされん事を祈る」
私の思いや感じ方が初めにあったのではなく、「主の召命」が初めにあった、それにこたえるのだと。
パウロは、自分の体験を繰り返し語るうちに、主の召しは、ダマスコでアナニヤに出会った時ではなかった。ダマスコに向かう路上、あの光の中であった、と言うようになりました。さらに時間が下ると、神は「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」ておられた、と変わります。さらには「天地創造の前に」選ばれたのだと言っています。自分自身の召命の日がいつなのか、その深さを語っているのです。事実の受け止め方が、時間の流れとともに、どんどん深まって行くのです。彼の生涯は、初めからあった恵みの、その意味に目を開かれる祈りの道であった、そのように理解するのです。
私は、初め、神からの「召命」をどうして確認できるのだろうかと思っていましたが、属する教会の牧師の推薦を受け、神学校の入学試験に合格、中会会議の承認を受けて中会神学生になり、その神学校を卒業でき、中会会議で伝道師に任職され、最初の教会に派遣され、その後、教職者の任職式(按手礼)を迎えました。この節目節目を越えて初めて、ああ、本当に神からの「召命」だったのだ、と思ったものです。
しかし、ずっと後になって、気づいたことがあります。私の家、生まれた家は、武蔵国と相模国の二つの国の国境線だったと。そうだったのか。私は「国境の人」だ。牧師、伝道者として、「あなたに神の国は近づいた」と、まさに生まれた日から神の国の「国境の人」だったのだということに気づきました。
さらにある時、知りました。私に洗礼を授けた牧師の、父君は、戦時中(76年前)、殉教した7人の牧師の一人でありました。私は殉教者の信仰上の孫ということになります。私は、40年前に神学校を卒業し、献身の道を志したと思っていました。しかし、生まれた日(67年前)を越えて、主の召しは76年前にまでさかのぼっていったのです。そのようなバトンが、殉教者から手渡されていたのです。「向こうから」バトンを渡す者を選んでいて、ついに私は、そのバトンを受け取った、ということなのです。
召しは、私たちが知らない、思いがけないところから神によって始められていたのです。牧師、伝道師の苦悩、いえ、それにも勝る喜びの中で、召命の日はさかのぼり、そして召しの確信は深まり続け、私たちの思いをはるかに超えて、必ず、その意味を知るに違いありません。
きょう、牧師になる人にお渡しする按手証の文面は、こうです。 ― 「あなたは、カンバーランド長老キリスト教会日本中会の按手によって牧師のつとめに任じられました。日本中会は、感謝をもってあなたが教職者按手を受けた者であることを証します。あなたは、おびただしい証人の群れに囲まれています。とこしえの御腕があなたの働きを支えます。それゆえ、召命の日より誠実に訓練を受けた初めの愛から生涯 離れることなく、このつとめのため、主イエス・キリストにあって健闘されるよう祈ります。」
天地創造の前に神の子にするようお定めになった「とこしえの御腕」が、今、教職者、伝道師のそれぞれの任職をうける三人を包み、その働きを支えるのです。

(教職者按手・伝道師任職式説教)


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by rev_ushioda | 2018-03-26 14:32 | Comments(0)

泉教会の特徴がすぐに分かるのは、玄関先にのぼり旗が立っていることです。まず、このような教会はないのではないでしょうか。のぼり旗は日本の文化だと思い立ち、何年か前のイースターの「祭」から実行に移しました。

教会には、どこもその教会だけの特徴があり、それをいかに活用するかで、信仰生活が豊かになるのです。泉教会には、小さな教会ですが、ほかの教会にはない特徴があります。どこに行っても自分のスタイルを変えないのも良いかも知れませんが、所属する教会の特徴を生かした信仰生活の歩み方をするとき、信仰が思わぬ形で動き始めることにも気づいておきたいと思います。

1.NPO法人心を聴く市民ネットワーク

このNPO法人とのかかわり、学びのチャンスは、泉教会の最大の特徴と言えるでしょう。この法人によって、教会は開拓当初から社会との接点をつけています。さらに、神を理解するのと同じに大事なのは、目の前の人間を理解することであり、教会は、その必要に応えています。


2.テアトルフォンテ礼拝、同聖書会(聖書おもしろ読み)

私たちの教会の施設は狭いですが、公的施設を用いることで、教会に空間的、宣教的視野を開いています。参加することで自らを豊かにするだけでなく、伝道のチャンスにすることが出来るのです。


3.キリスト教ほっとライン(電話メッセージ)、ライフライン(テレビ放送への広告)

同じく、これも教会に空間的、宣教的視野を開くだけでなく、これは電話やテレビという方法を用いて、教会のメッセージをそこにアクセスする人に直接伝えることが出来るものです。


4.バイブルカフェ、賛美の会、英会話

教会周辺の家々と教会とをゆるやかにつなぐプログラムです。


5.信徒クロス礼拝

礼拝における他教会との交換プログラムです。教会が自ら置かれた時と場所を意識するための新たな試みです。


6.子どもと共にまもる礼拝

礼拝の初めに、子どもの礼拝部分を置いています。主イエスの周りにはいつもこのように子どもたちがいたことでしょう。子どもから大人は神の国を学びます。


7.聖書のリレー読み

聖書の言葉をリレー読みする。その言葉をもって、語りあう。祈り合う。聖書をリレー読みすることで共同体としての会話と、祈りに導かれます。何と刺激的なことでしょうか。


8.説教の当日配布

説教の原稿が当日、配布されますから、礼拝説教を文字で何度も振り返ることが出来ます。


9.メール版週報

もし礼拝を休んでも、その週の数日後には携帯やパソコンに週報が配信されますから、何があったのか、予定はどうなのかが分かります。

上記の8項目、13の内容は、泉教会固有のものです。内容には今後のことも含まれていますが、現在、皆さんはいくつ活用しているでしょうか。せっかく泉教会にいるのですから、泉教会を十倍、楽しんでください。



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by rev_ushioda | 2018-03-19 18:27 | Comments(0)

昨日の教会員総会で、小会が考える今後の牧会体制について説明した。
すなわち、借入返済が終わる、今から8年先まで私との契約関係を続ける。補佐のために主事を雇用する。その間、良い引継ぎができるようにする、という方向性だ。
小会で、この数か月にわたって考えてきたもので、私自身、いい提案だと思っている。おそらく教会員の皆さんにも、牧師が定年を迎えて、今後どうなるのかと不安があったので、安心を与えたに違いないだろう。この考え方については、諸方面でさらに詰めていかなければならないが…

ところで、私自身、まず、まだ先と思っていた定年に直面したとき、まことに妙な気持ちになった。退職金を受け取るに至っては、まだこうして現役なのにという思いと錯綜して、事態を受け止めるのに時間がかかった。今は、それでも何年先までは出来るだろうと見つめている自分がいる。定年などと言わなければ、普通にしていたものを、何年先まで出来るかしらと、思う(不安を感じるようになっていく)のである。
ちょうど車が車検になったので、80歳で運転を辞めることにして、では逆算して残り13年、今が買い替え時だと車を新しくしたことも、ある。延長線で考えてみたり、逆算で考えてみたり、いったい、今の自分はどこにいるのだろうか、体力はどのくらいなのだろうかと、何だか自分がわからなくなったりする。


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by rev_ushioda | 2018-02-19 14:47 | Comments(0)

「今日は雪」

予報通り、今日は雪になった。予報は、「大雪」。
それにしても、きのうがお餅つきでよかった。ポカポカとした陽気の中で、本当に明日、雪なの? と話しながら、教会のみんなでワイワイしながらお餅つきを楽しむことができた。今日だったら・・残念なことになっていたわけで、ほんとうに良かった。
まさかと思ったN兄ががんばってお餅をついていたのに驚き、最近来られた方も教会に誘うね、と喜んでくださり、子どもたちは言うに及ばず。28人という礼拝人数の復調もあり気持ちも軽やかで、良い一日になった。
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by rev_ushioda | 2018-01-22 15:51 | Comments(0)

「クリスマス会?」

「クリスマス会」という言い方に違和感があります。どこかの子ども会の、イエス・キリストなしの年末恒例のお楽しみ会に聞こえるからです。実際、教会のクリスマス(燭火礼拝)を案内していたある年のこと、電話がかかってきて、「ケーキとか食べるのですか?」 まさに「クリスマス会」のイメージだったと思います。昔、地域の学童保育所で、クリスマス会をするからお話をしてほしいと請われて、聖書からお話をしたことがありました。最近、その担当者がその時のことを話されました。「あの時、聖書のお話したんですよね。」「はあ…?」そこで、気づきました。期待していたのは、「クリスマス」のお話で、聖書の話、つまり、イエス・キリストの話ではなかったようだ、と。それ以上は聞きませんでしたが、牧師さんだからクリスマスの話をしてほしいと依頼してきたのですが、しかし、聖書の話ではない。ではどういう話かというと、そこで想像するのですが、年末助け合いとか、そのような、クリスマスにプレゼントをもらうことばかり考えないで、人助けするとか、世界の平和に貢献できる人になれとか、といったことが期待されていたのかなと。教会以外のどこもかしこも「クリスマス会」です。

クリスマス CHRISTMAS とは、キリスト CHRIST + マス MASS つまり、キリストのミサ(礼拝)です。イエス・キリストを礼拝する日、または礼拝の時を指すのです。それに「会」をつけると、「礼拝」と「会」を合わせた、妙な言い方なのです。クリスマスの時に合せて行う「祝会」という意味なら、まだ分かります。キリスト者でも「クリスマス会」と言う時は、おそらくクリスマスの祝会の短縮形として言っているのだろうと思いますが、似て非なるとはそういうことを言うのでしょう。「クリスマス会」は、この社会ではキリストなしの「お楽しみ会」という意味になっていて、本当のクリスマスを知らない社会が作り出した俗語なのです。

私たちは、教会においてはただしく「クリスマス」という、礼拝を指した言葉を大事にしたいと思うのです。(ただ、伝道的な意味では、この社会が馴染んでいる世俗の言葉の中に身を置いてイエス・キリストを紹介する「クリスマス会」をあえて使うのもいいのかもしれませんが。)
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by rev_ushioda | 2017-12-19 00:31 | Comments(1)

今年は12月31日が日曜日なので、私たちの教会では翌日の元旦礼拝はおこなわないことにしました。また、いわゆる「三が日」に日曜日が含まれる場合も、元旦礼拝はおこないません。元旦礼拝は、してもしなくても良いと考えているのですが、では、「礼拝」と名がついたものをしてもしなくても良いのでしょうか。
礼拝をいつ行うかというと、それは教会歴に従っています。まず礼拝が毎週あるのは、主イエスが復活された記念の日だからです。そこから始まって1年を通じてクリスマス、イースター、ペンテコステがあるのも、教会歴というカレンダーがあるからなのです。
では1年の初めの日、「元旦」はどう位置付けられているかというと、カトリック教会では、「神の母 聖マリアの祭日」、聖公会では「主イエス命名の日」、ルーテル教会では「主の割礼と命名の日」としていますが、皆、同じ意味です。聖書を開くと、「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」とあります。12月25日がイエス・キリスト誕生を祝う日であれば、8日目というのは、1月1日となります。そこで そう、1月1日は「イエス命名の日」となるのです。(カトリックは名付けた母マリアに焦点を当てています)
プロテスタント教会の場合、上記の教会を除いて、特にこの日に聖書的な意味づけをしていません。むしろ新しい年の初めには1年1年を創造される主なる神を礼拝しよう、という、気持ち的なとらえ方によって、礼拝の時を持つようです。「初詣」に対して、教会では「元旦礼拝」をするのだと、証しの意味もあるでしょう。いずれにしても、教会歴ではないので、対応の仕方は各個教会に任されているのです。(教会暦では12月25日がクリスマス礼拝になるのですが、多くの教会ではアドベント第4主日をクリスマス礼拝と言って、教会歴さえも大事にしていません)1月1日は特に位置づけがありませんので、12月31日が日曜日、翌日が1月1日のような年の巡りの場合、私たちの教会では元旦礼拝はおこなわないことにしました。年末、そして新年最初の主日礼拝を大事にしていただきたいと思います。
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by rev_ushioda | 2017-12-15 19:47 | Comments(0)

「活動会員」

洗礼を受けると、その教会の「教会員」と呼ばれます。

教会員は、第一に、洗礼を受けたときのペースで、これからも礼拝出席を続ける人です。
第二に、月定・会堂献金によって、教会の働きを支える人です。額は自分で決めていただきますが、定期的にしてくださることが大事です。
第三に、年2回の教会員総会に出席する人です。泉教会の場合、教会員総会は長老を選ぶことが中心で、他に活動や会計の説明ですから、礼拝後の30分です。

ところで、洗礼を受けると、なぜ「教会員」になるのでしょうか。それは、一人ひとりにはキリストに従う者としての役割、機能があるからです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一 12章 27節)と書かれている通りです。キリストの体の部分としての役割を果たすため、私たちは、教会の一員という、有機的なかたちを大事にするのです。たとえば、教会員総会で長老を選びます。その時に選ばれるのも、選ぶのも、教会員なのです。誰でも長老になることが出来て、また誰でも選ぶことが出来るのではありません。こうして選ばれた長老は、教会の牧師を招くこと、礼拝を招集すること、会員を受け入れることをはじめ、教会の活動全体に仕えるのですが、その「選ぶ」という一番大事なところ、キリスト者の信仰が立ちもし、倒れもする一番大事なところで、教会員が、かかわるのです。キリストの体の部分であるというのは、そういうことです。
洗礼を受けただけでいいではないか、と言う人もいるかも知れません。しかし、それは「群集」であることと、ほとんど変わりません。好きな時にあっち、こっちと動いてしまうのです。キリストへの責任を果たせる立場にいないのです。ですから、最初に挙げた3つのことが3ヶ月以上ない教会員は「不活動会員」とされ、当然のことですが、教会の責任を果たせる立場(選挙権・被選挙権)を失います。キリストに従う(キリスト者である)というのは、教会に生きる、ということなのです。教会に生きるとは、礼拝を守り、主が再び来られる時まで、教会を次の世代に手渡していくことです。群集であっては、その責任が果たせないのです。



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by rev_ushioda | 2017-11-10 10:34 | Comments(0)

「説教批評」

牧師会では説教の研さんが行われる。今回は私の説教の当番であった。「潮田先生らしい」という感想が何人かから述べられた。以前からそういう評価が与えられることが気になっていた。
実は、牧師会での説教は、直前になされた説教となっている。使徒言行録を講解しているのでこの日はどこになるかと思っていたが、いよいよ近づいてきて、ここか!と思った。困ったなあという意味である。使徒言行録19章11~20節、開かないでもいいが、こういう個所だと困ったなあ、と率直に言って、そう思ったのである。その前の説教(成瀬教会から招かれておこなった説教)にしてしまおうか、という誘惑があった。そういう誘惑と戦いながら(笑)、準備した。そして、先の評価である。
私は思った。困ったなあというところをうまくすり抜けてしまったんだな、と。そしていつものように、自分で納得できる、分かる説教になった。牧師会では、「牧会的」「教会形成的」と言われ、おおむね良い評価であったかもしれない。しかし、私にしてみれば、それは、すり抜けた、というのが当たっている。そこのところを、ズバリ、おひとりA先生が指摘されたのであった。カウンセリングだと思った、と。実のところ、今日になって、説教をその場で聞いていた一人の姉妹から、ご主人とちょっとしたすれ違いがあり、怒らせてしまった重い心をもって説教を聴いていたが、説教を聴いて「泣きそうになった(慰めを受けた)」と。カウンセリングだと思った、という評価は、まさに的中であった。良くも悪くも、説教とは何か。いつになっても突きつけられてくるテーマである。



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by rev_ushioda | 2017-10-04 17:03 | Comments(0)

「代わって祈ります」

「今、ちょっといいですか」見知らぬ女性からの電話でした。「大丈夫です」と言った瞬間、電話口で泣き始めました。泣きながら、今、離婚の調停を進めているところだということ、事はうまく進まず、夫に投じた、なけなしのお金も戻らない、弁護士にも誠意を感じられず、自分の体調も良くない。キリスト教学校に行った者なので、お祈りはしてきたが、一向に埒が明かず、もうどうにもならない。切羽詰った電話でした。
この方がどなたか、どういう事情か、詳細をお聞きするわけにもいかず、お聞きしたところで、どうにかなるものでもなく、ただ「よく、お電話くださいました」と言うしかない内容です。「よくお電話くださいました。あなたがどうにもならない時のために、この電話がつながったのです。私が、あなたに代わって祈ります。いつでもお電話ください。」そう言って電話を切りました。
これをここに書いたのは、これは牧師の仕事ではなく教会の仕事だと思うからです。この方は、教会に電話をくださいました。牧師に電話してきたのではありません。教会に電話したということは、教会はこの方のためにあったのです。私たちは自分のために教会があると思っているかも知れない。しかし、教会は、少なくともこの方のためにあったのです。私は、皆さんを代表して電話に出たにすぎません。だから、皆さんが言うのです。 - 「よくお電話くださいました。あなたがどうにもならない時のために、この電話がつながったのです。私が、あなたに代わって祈ります。いつでもお電話ください。」
皆さんの祈りは、他の誰かのための祈りなのです。皆さんが聖書を読むとき、それは他の誰かのために聖書を読むのです。皆さんが礼拝に出るのは、他の誰かのために礼拝に出るのです。20年を超える教会に今いるのは、そういう信仰の成熟、献身を期待されているのだということを覚えたいと思います。自分の気分で教会を私物化せず、まだ知らぬその誰かのために、今、共に出発したいと思います。

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by rev_ushioda | 2017-09-30 00:21 | Comments(0)