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今回は、全国的に前線の影響で不安定な天候が続くと予報されていた。確かに二日間とも、同じ時間帯にゲリラ豪雨に見舞われた。しかし、たまたま近くに逃げ込める家の軒先があり、助かった。それ以外の場所では、何もない国道や山中であり、まったく逃げ場所がなかったのだ。
また、一日目は歩行4時間、二日目は5時間半、途中にコンビニなど休むところなし。
そういう中で、家一軒もない国道添いに、突如現れた自販機1台。そこにトマト1.8個分と書かれた果汁があって、体力回復。なぜそこにあったのか不明だが、ありがたい自販機であった。
また、子どものイノシシに出会い、子どもであってもイノシシなので、親がいないか、恐怖を覚えた。また、2時間、登り放しの坂道(塩尻峠)も、東海道、中山道を通じて最大の難所であった。

第1日目 8月19日(月)贄川宿~本山~洗馬宿
距離と時間のことしか考えず、うっかり昼食の事は何も考えずに出発。4時間の行程で途中、1軒もコンビニなどない。時折風が吹いていたのでまだ良かったが、暑さの中、国道沿いを休みなく歩くのは、なかなか厳しいものがある。そういう中で家など1軒もない国道沿いに自販機発見。どうして? 何よりもトマトジュースがあったのには感激した。
あ、野良犬? 良く見ると鼻が長い。ウリ坊だと妻。えっ、親がいるんじゃない? きょろきょろ、後ろを振り向き、振り向きしていると、妻は後ろなど見ず、さっさと先に。さすが、イノシシが干支の人は違うな…
そば打ちで有名な本山宿で、そばを食べようと楽しみにしたが、月曜日休業(涙)
そういえば、この辺りに来ると、木曽の山並みが次第に低くなり、そして、山の端が見えた。その先は、山はなく、塩尻の平地になる。ついに、ついに木曽谷の終わりに来たのだ。
…と思ったら、なぜか今までの木曽谷の道行きが急に懐かしくなったから不思議。それほど「谷」は印象深かった。木曽川と言い、宿泊を繰り返した上松も、そこの「いろは寿司」も。
道の先にやっと、コンビニを発見し、食糧調達。ところが、店を出ると雨。しばらくすると、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨。幸い、近くの家の軒先で雨が通り過ぎるのを待つことができた。もし、これが家が何もない、自販機一台しかなかった、あの国道沿いだったらと思ったら、ぞっとする。
こうして、雨の合間を駆け抜け、洗馬駅に滑り込んだ。きょうは日出塩駅までと考えていたが、初日なのに余裕で4キロを歩けたのは、あのトマトジュースのおかげか。

第2日目 8月20日(火)塩尻のホテルから下諏訪宿
今回、歩行スケジュールの関係で、洗馬宿から塩尻宿手前まではカット。いよいよホテルから塩尻峠に向かう。そういえば駅近くでもあり、街道にもほぼ近いところにあった「ホテル 中村屋」は和風のホテルで、狭いながらも、お風呂が良かった。人に会わないようにはいれば、独り占めできるすてきなお風呂だった。
さて、9時前にホテルを出発し、下諏訪駅に着いたのが午後2時20分。きょうも、途中に休む場所がない、しかも2時間も上り続ける(!)坂道、あげく、最後は昨日のようなゲリラ豪雨。これもまた昨日のように山中では降られず、逃げ込める民家があって、その軒先を借りることができたので、助かったわけだ。天気予報は全国的な悪天候を繰り返し報じていたから、峠の下で雲行きを見て引き返すバスの時間など調べておいたが、結局、雲行きも大丈夫そうだったので峠越えを決行。無事、峠も通過して、下に降りてからの大雨だった。
峠を下る途中で、夢にまで見た諏訪湖を遠望(夢にみてない。見たのは写真)。そのようなお天気だったから、当然、富士山は見えなかったのは残念。しかし、眼下に広がる湖を見れば、(峠の反対側で塩尻の町を見下ろしたのと同様)木曽谷の景色との違いは、歴然! スポットで行くのではない、歩き続けて見る旅の「だいご味」が、ここにある。

第3日目(水) 足湯
3日目のコースは、なし。ホテルから車で上諏訪まで来て、湖畔公園の足湯に。あったまった! そして、疲れがどこかに行った感じだ。帰路に着く。
さて、次回はいよいよ最大の難所(1700メートルの峠という意味でも、交通の不便が際立った場所という意味でも)、和田峠越えとなる。どうやってこの難所をクリアできるか、今からムラムラと挑戦意欲が湧いてくる。


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4時間を歩き続け、本山宿を過ぎたところでようやく見つけたコンビニから木曽谷方向。写真正面(西の方角)に見える木曽の山並みは、ついに、ここで終わった。

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by rev_ushioda | 2019-08-22 23:42 | Comments(0)


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今回は、目の前には桜が満開であり、しかし、遠くに雪を頂いた基礎駒ヶ岳が見え、4月にしては非常に暑い日差しの中、4月だからと油断して帽子を持ってこなかった頭に、用水路の水で浸したタオルを載せてという、不思議な感じの道行きとなった。
トピックとしては、中山道中間点の通過が、まず挙げられるだろう。そして、難所「福島の関所」と「鳥居峠」越え、その先にある、あの有名な奈良井宿、ということになる。
ガイドブックに紹介された二つの特選コースと、今回のコースとは、ちょうど重なり、ガイドブックの見出しは、写真のように書かれている。二つの特選コースを歩く、ということになる。

第1日目 4月22日(月)木曽福島宿~宮ノ越宿
駅間8.8キロ。
木曽福島には、中山道中、碓氷とともに名が知られた、福島の関所があった。そういえば、最後の日、三日目に行った贄川宿にも、番所とはいえ、のちに関所のような役割を果たしたという建物があった。この辺り、自然の難所でもあり、人間もまた、こうした難所を作ったのだ。
そして、福島の東に進むと、中山道の中間地点があった。中間点をついに通過。ここまで、母の3年間の介護もあったので、長かったね~ 
途中、JRと並行する道で、中学生が熊鈴を鳴らしながら歩いていた。お~、そうか。私も、そこで持っていた鈴を鳴らし始めることにした。そのJR、だれでも簡単に線路に入ることができる。東京なら大変だが、こののどかな時間が流れる所で、まさか飛び込む人はいないのだ。

第2日目 4月23日(火)藪原宿~鳥居峠~奈良井宿
駅間6.3キロ。
通常、中の一日は15キロくらいは行くのに、峠越えのため、その半分以下となった。しかもコース取りがうまくいかないため、宮ノ越から藪原まではカットした。中山道で最初のカットである。
藪原の駅に降り立つと、外国人の人たちが多い。しかも私たちが地図を見ながらきょろきょろしているのに、もう良く知った道のように、どんどん進んでいく。必ずしも仲間ではないようだ。何かのツアーか? どうして道を知っている? 
さて、「難所」とガイドブックに書かれている鳥居峠であるが、そこは街道であり山登りとは違うにしても、確かに難所であった。そして、この難所を境に、今まで並走していた木曽川が離れていく。そして山の反対側から来た川が、奈良井川だ。これから、この川が旅の道連れになる。二つの川を分けるのが、この鳥居峠なのだ。
鳥居峠をどんどん下って、そこに現れたのが、奈良井宿。奈良井宿で発見したのが、次の写真にある看板である。
「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」エレミヤ書6章16節
隣の観光案内所で聞いたら、「キリスト教の人です。時々書いている内容が変わるんですよ。」と。すばらしい! 今回は、街道にぴったりの言葉であった。新共同訳か、ならば、日本基督教団の方だろうか。そう思ったが、お話を聞くのに声をかけるのは控えさせてもらった。

第3日目 4月24日(水)奈良井宿~贄川宿
駅間7.3キロ
まさに奈良井川の岸辺を歩く。そして現れたのが「平沢」漆器の旗やら看板やらが目立っていたが、この平沢こそ、その名産地。山間に残る伝統的町並み保存地域だ。その山間の道をどんどん進み、今回の目的地、贄川に到着。三日目は少し小雨模様であったが、初日の暑さよりは、ちょうど良い感じだったかも。


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by rev_ushioda | 2019-04-28 23:20 | Comments(0)

「雪情報のため断念」

今年の中山道第一回を3月に設定した。
しかし、あいにくの現地の雪情報。それはそれでいいのだが、高速道路の雪、凍結が心配になり、ネットを見ると、やはりスタッドレスは必須とか、結局、今回は断念した。予定した日が雨とかであればあきらめもつくというものだが、こちらは晴れの日が続き、よけいに悔しい。
旧中山道は「イチニチジュウヤマミチ」とも読める。仕方ない。
西から東に向かっているので、次回4月、そして夏、秋に行くことができれば、今年は木曽路(木曽福島)~諏訪湖~和田峠を越えた辺りまで、だろうか。そして、来年は軽井沢を目指す。碓氷峠を越えれば、気候を気にすることなく「江戸」(笑)を目指すことができるだろう。
2007年3月に江戸を発ったので、14年目で江戸帰着という、順調にいけば、残り3年である。

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by rev_ushioda | 2019-03-14 20:33 | Comments(0)

休暇は、ねじ込まないと永遠に取れない。前後にしわ寄せが来るのを覚悟で、この3日間を確保した。木曽路の続きである。宿泊は前回と同じ国民宿舎「ねざめホテル」。実は、木曽路の馬籠宿~福島宿間で、ベッドの部屋があるホテルは、ここしかない。前後移動はJRをかなり長距離、利用することになるが、布団ではなくベッドを求めて、ここを利用するしかなかった。
孫娘は今回も同行したかったが、娘「何か歴史的なもの、ある?」「今回は、ないかなあ」「じゃ、学校休ませるわけもいかないかなあ」 実は、前回、馬籠、妻籠を通った時、同行。街道をテーマに夏休みの自由研究にしたのだ。孫娘にとっては、今回は、残念デシタ。
到着地、木曽福島は、この先(東側)に、中山道中間点がある。いよいよ、ほぼ中間まで来たことになる。

第1日目 11月12日(月)野尻宿~須原宿
前回、この近くでお水をくれた家があった。あの時は、それほど暑かったが、今回は、晩秋。歩くにはきわめて快適な季節となった。ただ、紅葉を観るには、あと2週間ほど早く来る必要があったが… 
今回も、前回同様、木曽川、国道19号、JR中央本線と「並行して」木曽谷を行くことになったが、木曽路に国道やらJRやら通すとなると、この木曽谷の区間は山々が覆いかぶさるような地形なので、多くの個所が旧道の上に重なるか、廃道になり、旅行案内書いわく「中山道は、ズタズタに削られている」今は通れないところも多かったので、国道を歩くことになる。
それでも旧道があるので、その道を進むのだが、今回は道に迷い、あるお寺に「マリア観音」があるというので楽しみにしていた道には、残念ながら行くことができなかった。迷ったのは、東海道で一度、そして今回くらいである。
宿場にはそれぞれ趣があるが、須原宿は「体勝寺の建築や庭園」「桜の花漬け」「須原ばねそ」(郷土民謡で、ばねそとは、はね躍る衆という意味らしい)。そして「水舟」。街道沿いに檜の丸太をくりぬいたなかに湧水が注がれている。

第2日目 11月13日(火)須原宿~上松宿
木曽川沿いには、いたるところに発電所が設けられている。山から水を落としこみ、発電し、川に放流する、といった施設である。今回の道中で4、5か所見ただろうか。
須原から上松間12.6キロ、4時間歩き続けても、休憩する店が、何もない。ひたすら国道を歩くことになった。1軒は休業日。もう一つは、看板で期待を持たせておきながら、着いてみれば廃屋。がっかりだ。ただ、国道と言っても交通量はさすがに少なく、景色は晩秋の木曽谷である。歩いて快適であったことはうれしかったが、休憩施設が何もないのには、閉口した。妻も下の写真のポールを、ついには、ひきずる始末。それは名誉のために不掲載です(笑)。上松駅までなお50分ほどのところ、この日の通過点に、今回泊まったホテルがあって、そこでようやく昼食休憩でき、ほっとした次第…
この上松には、中山道の観光ポイントとなっている「寝覚めの床」がある。「天下の奇勝」とガイドブックには書かれている。何でも、浦島太郎が竜宮から帰って、今までの楽しい夢から「目覚めた」ところだ、そうな… 全国各地にある浦島伝説の一つである。

第3日目 11月14日(水)上松宿~福島宿
『夜明け前』はこう書いている。「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」
前回もそうであったが、今回も、この小説にあるような、かつての難所を行くことになった。南木曽~野尻(実際は十二兼という駅辺りまで)そして、上松~木曽福島間、この区間の街道は、まさに「あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」というところであった。現在は木曽川と国道、およびJRが並行して走り、コンクリートで固めて、難所ということはない。かえって、国道も新しい道に移った辺りは、落ち葉を踏みしめ、木曽川の流れを楽しむ快適な散歩道であった。しかし、このコンクリートの道を外して想像してみたら、にわかに、この道を行くのは命がけであったであろうことはすぐわかる。浅田次郎の『一路』にはその辺りの事が書かれていて面白い。そして、『夜明け前』である。あの道を、今、こうして歩く感動があった。下の写真は「桟(かけはし)」が保存されているところである。国道の下に桟の一部が見える。江戸時代のものだ。

やがて木曽福島駅。木曽路に沿って走るJRは、どの駅も、午後など2時間半待たないと、次の電車は来ない。来ても、特急の通過ばかりである。駅は無人駅。しかし、この木曽福島駅には、特急が停車していた。当たり前の光景だが、木曽谷を歩き続けてきた目からすると、感動であった。

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国道下の石積みが、江戸時代のもの。この石積みの上を人々は行き来したのだ。写真の国道も、車は今は新道に回されて、通る車はほとんどなかった。山が覆いかぶさる景色と、木曽川だけは、今も昔も同じだった。



by rev_ushioda | 2018-11-14 11:51 | Comments(0)

ここでどうしても街道に行きたいと思い、日程の遣り繰りをした。
結果、1週間の母の預け先が病院となり、それだけで相当な費用が嵩んだが、晴れて中山道に立つことができた。1年ぶりだ。今回も孫と一緒であった。孫は1年生の時に岐阜県に入り、中を飛ばして、今年6年生で岐阜県から長野県に入ったことになる。去年、5年生の時に江戸時代からの国境を通過したはずだが、13年前の市町村合併により、「県境」は東に移動。今年、「長野県」に入ったのである。

1日目(7月30日)馬籠宿
馬籠に車を停め、妻籠まで。バスで馬籠に戻って馬籠宿観光。島崎藤村で一躍有名になった、そして、坂の宿場として有名な馬籠に立つのは、一つの小さな目標でもあった。
途中の道は、中山道きっての観光コース。といっても、出会うのは外国人ばかり。あと熊除けの鐘。100メートルも行かないところにまた設置されているという具合で、かなり危険なコースのはずが、外国人家族が山の中の谷川で水着になって遊んでいるのには驚いた。
宿場は坂の途中にあって、いきなり上りだし、馬籠から峠までの道は、ずっと上り。いきなり上り続きで、林の中とはいえ、着いて、いきなり、かなりきついスタートとなった。
しかし、馬籠宿は、坂の宿。そのため、遠く恵那山まで山の緑がつながって、目を転じれば中津川方面に「下界」の景色が開けていて、景色のすばらしい場所であった。中津川方面を見ながら、『夜明け前』にも中津川へのあこがれが書かれていたことを思い出す。しかし、ついに13年前、あこがれの中津川市に編入したというのも、ここに立ってみて、面白く感じた。

2日目(7月31日)三留野宿
鉄道(JR中央線)から離れたところにあるのが、馬籠、妻籠である。それゆえにホテルから妻籠に戻るためには、この日は電車と、バスの時刻表とにらめっこになる。まず、ホテルじたい、駅までバスを使うので、選択肢はほとんどなく、これで行くしかないという乗り継ぎで、11時…だったか、妻籠着。着いて早々、資料館にしている脇本陣に入ると、また係りの人がよく説明してくれて、お昼の時間にもなって、食事を済ませたらすっかり出発が遅くなった。
昔の面影を色濃く残す妻籠宿は、さすがに町並み保存の旗手だけに、どこを歩いても、江戸時代さながらである。妻籠宿や東海道の関宿を抜いていると感じた。
三留野宿を経由して野尻宿を目指すも、あまりの暑さのため、途中にある無人駅、十二兼駅でリタイア。電車が何と2時間半も来ないため、時間的には今までだったら先を目指せないわけでもなかったが、暑さのため、断念。自販機もない無人駅で、延々、電車を待った。
途中の木曽川沿いの道(国道19号線、写真)は炎天下、厳しい道行きとなったが、実はこの場所、街道時代は押し迫る山と川の間にかけられた「桟(かけはし)」があり、中山道の最大の難所であった。いかにも、という感じの場所である。今は、コンクリートで固められ、足元は何も恐れはないが、江戸の人々は、こういう場所を通過するために本当に怖かっただろうと思う。今日の我々には、日蔭のない厳しい難所であった。

「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」(『夜明け前』)

3日目(8月1日)野尻宿
十二兼(じゅうにかね)駅から、野尻宿。
あいかわらずの田舎道を上ったり下ったりの道行き。途中、家の庭先と思うような場所を、街道は通っていた。その1軒のおばあちゃんに声をかけたら、暑いでしょうと、ペットボトル1本の良く冷えた水をいただいた。
今回は計24キロ。通常より10キロおさえた形だ。全国的に「危険な暑さ」と天気予報士が言っているなか、安全を優先し、道行きの楽しみは次回に譲った。


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by rev_ushioda | 2018-08-03 13:33 | Comments(0)

「え、ヘルペス?」

歩くと足の裏が痛いので、病院にいったところ、「長く歩きましたか」「いいえ、最近はほとんど歩いていません。」「う~ん… ヘルペスかな… ほら水泡があるでしょ。でもこんなところにできるかなあ。とりあえず、お薬を出します。連休があけたら、また来てください。」
というわけでヘルペスの薬の処方。

これであきらめがついた。

というのは、順序からいうと、まず、今週は中山道に行きたかった。しかし、女性会の印刷が重なり、「え、何でこの週に?」まあ、仕方ないね、ということで、年数回しか取れないチャンスを、今回は主のために…お渡しした。岐阜のホテルをキャンセル。
その代り、B&Bでいいから近くに一泊してゆっくりしようか、と次に予約しておいたのだ。ところが、土曜日にショートに預けた母が、熱がある、酸素濃度もどうこうということで、翌日には戻って来た。ショートに行っている間に中山道を考え、次に近くの一泊と、予定変更してきたが、母が帰ってきたことで、それもキャンセル。

ところが、自分のヘルペス騒ぎとなったわけで、すべてのキャンセルが自分のためだったという「落ち」である。どこにも行かなくてよかった。行ったとしても、足をひきずっていたことだろう。

以下の写真は、私の記録です。見なかったことにしてください… m(__)m

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by rev_ushioda | 2018-05-02 17:18 | Comments(0)

「美濃国13日」

これは、お世話になった「美濃国街道指南書」(笑) 岐阜県内の旧道ガイドである。
現在の地図に重ねて、赤線で旧道が記されているので、周辺の交通事情が分かり、大変便利であった。しかし実際は、さらに詳細な地図も持たなければならなかったが。このようなガイドブックが、現代にしてたくさん出版されているのだ。ハイキングブーム、また20年近く前から五街道敷設400年ということでの旧道ブームもあって、出版が相次ぐ。地元市町村も歴史の保存、観光客誘致なども相まって案内板の設置など良くしてくれるから、ガイドブックなしでも結構、歩けるが、肝心なところで道を間違えるから、やはりガイドブックは必要である。

このガイドブックを見ながら、思うのは、美濃に入るとき、小学校1年生になった孫が同行したこと。今回、5年生になったその孫が再び同行し、今回は美濃を抜けるところだった。美濃国通過に足かけ5年(実際は13日)かかったということである。

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by rev_ushioda | 2017-09-08 12:22 | Comments(0)

今回、ついに信濃国に入ったことが最大のトピックだ。西から来て馬籠手前で、下の写真のように美濃、信濃国境を通過した。
…ところが、それは12年前までの事。12年前の市町村合併によって県境が北に移されたため、現在の岐阜、長野県境は、まだ先になってしまった。
しかし、ここは旧街道だ。それまでの長い歴史は、今、ここが美濃と信濃の国境だと物語っている。そこを通過、私たちはついに信濃国は馬籠宿に到着した。(到着したが、30分後にバスが出るということで、馬籠の観光は次回にお預けと相成った。)
それにしても島崎藤村は『夜明け前』で、「あの山の向こうが中津川だよ。美濃はよい国だねえ」と言った「よい国」に、「市町村合併」によって今は属することになったのだ。馬籠に至る街道に点在する集落の、長年の希望がかなえられた思いが伝わってくるような気がした。


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今回は、孫を連れて前回の終点、深萱立場までは駅からかなり離れているため、そこまではタクシーで行って、そこからの出発となった。まずは「十三峠」という山中の道を行き、大井、中津川、落合、馬籠に至る4つの宿場をめぐるのが今回のコース。山間の道、山中、水田地帯、再び山中の道に入り馬籠に至るという、変化に富んだコースだ。それにしても御嶽から馬籠を歩いてみると、それより西の道とは打って変わり、「旧中山道」イチニチジュウヤマミチである。
距離は、時間としては一日目が3時間、8.7キロ。二日目が5時間、9.8キロ。三日目が4時間、8.4キロであった。お天気は晴れ。気温は30数度だったと思う。さすがに日影のない道路は暑いが、今回の「武器」は、写真の菅笠(三度笠)。これが抜群の威力を発揮した。
2日目、時間ばかりかかって距離は伸びてないのは、孫が疲れていたこと、暑かったこと、昼食の時間が含まれたことなどの理由だ。3日目は孫は元気だったが、1日目と同じ距離なのに時間がかかってるのは、かなりのきつい上りだから、である。

ちなみに、後日談をここに挿入すると、帰宅した日から1週間、ずっと曇りや雨。腕の日焼けを見ながら、汗だくになり、三日間でペットボトルを10本も飲んだほどの道行きは夢だったのか、と思うほどの落差を経験した。

1日目
深萱立場から大井宿(現在の恵那)8.7キロ。まずタクシーで前回の終点に向かった。
深萱立場より西の大湫宿(前回通過)から、大井宿まで、この山中の道を「十三峠」と言う。しかし山中の道は、実はさらにずっと西の御嶽宿から続いていて、御嶽から大井宿は、31.2キロの山中の道で、途中は現在、旅館、ホテルはない。細久手でかろうじて江戸時代から続く宿が一軒だけあり、そこに泊まらないわけにはいかなかったわけである。この区間は幕府が命じて新設した道。世は移り、明治になって街道の用を終えたあとは、街道は世間の動きから取り残されたので、かえってそれが功を奏し、宿場、一里塚など、ほぼそのまま残されている。そういうわけで、30キロも、山中に道を開いてしまう幕府の権力を思いながら歩くことになった。
深萱立場からは、しかし山中ではありながら山間の畑の中を行くことが多く、比較的今までと比べて楽であった。早くも色付いた畑を舞うトンボの群れの中を進んだ。

途中、休憩した場所に、再び、ガイドブックを忘れて取りに戻ったというハプニングがあった。(今来たばかりの道なのに、一人、山中を歩くと、クマが出ないかとか、急に不安になった。たとえ孫であても、旅は道連れとはよく言ったものだと思う)

2日目
大井宿(恵那駅前)から中津川宿まで9.8キロ。
とにかく暑く、田舎道で木陰も少なく、菅笠が役立つ日だった。そのためか孫の体力がもたずに、中津川宿(中津川駅)でリタイア。
大井から中津川は、全般に農村部の田舎道といった感じで、中津川に入ると一面、田畑の田園地帯になった。山間部を抜けてきたので、久しぶりに見る田園である。途中には休憩をとる店もなく、中津川に入ってようやく1軒の食堂を見つけた時はほっとした。
途中、甚平坂というのがあって、ここは浅田次郎の『一路』を読んで、山の上から見下ろすと、坂の下からも大名行列がの上ってくるという、鉢合わせの場面である。小説と重ねながら歩くと、初めての道も何やら懐かしい気がするから不思議だ。中津川に入れば、そこから島崎藤村の『夜明け前』が彷彿とすることになる。

3日目
中津川宿から馬籠宿まで8.4キロ。
中津川を出てしばらくすると、とんでもない急坂に出会った。とにかくすごいので、「きのう、無理してこないでよかったね、正解だった」などと孫を持ち上げて話したのであった。坂の上に立場があり、そこの田園風景といい、さらに、そこからは下り坂になるのだが、遥か向かいの山々を見渡す景色が、また何とも気持ちよかった。
落合宿をあっという間に過ぎると、そこからは馬籠に至る、上り坂が始まる。落合の石畳は苔むして、なかなかの風情だった。と、そんな具合に、昨日、体力を温存した分、思いのほか軽快に上ることができた。木陰で道いっぱいに新聞紙を拡げて休んでいたら、郵便配達のバイクが来て、あわてて道をあけたら、あちらが「申し訳ありません」だって。
さて、馬籠宿が見えた。島崎藤村の『夜明け前』には、こう記されている。「美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山道をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。」 私たちもついに馬籠宿を見つけた! ただし、この有名な宿場に入るのは、次回の楽しみに残すことになって、30分後のバスに飛び乗り、往路4時間「よじ登って」来た私たちは、30分で中津川駅前の人となった。

次回、馬籠宿内を楽しみながら、馬籠峠を抜け(ここが現在の県境)、次は妻籠宿。いよいよ「木曽路」に入る。楽しみだ。旧道を歩く旅は、水平の線と、歴史という垂直の線とが交わる現場だ。非日常体験に癒されるだけでなく、水平の線から入って行って、その現場の垂直の線、歴史の息遣いを体感できるのがいい。スポットでそこに行っても、感じられないものがある。伊達に菅笠かぶっているわけではないのデス。読者の皆さんもどうですか、挑戦しませんか?


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by rev_ushioda | 2017-08-31 12:34 | Comments(0)

1年半ぶりに、街道に立つことができた。昨年9月に母が急に動けなくなり、過呼吸で救急車だとか、要介護4の認定を受け、介護用品だ、ヘルパーさんだ、訪問看護、訪問入浴だ、医師の往診だと、とにかく数か月間大騒ぎし、その後も1年余り、公私ともにまったく動けなくなってしまった。しかし、ようやくショートステイを上手く使えるようになったので、ここで再び、街道人となることができた次第である。

さて、今回は、いよいよ濃尾平野を離れるコースである。伏見宿、御嵩宿、細久手宿、大湫宿という、ここで街道はまさに難所「十三峠」の道、山中に入っていくのである。江戸時代に山の中に新設されたという道なので、明治に入って平地に鉄道が敷かれると取り残された地域であるため、当時のままの街道風景が今に残る。宿泊場所はどこにもないが、幸い、江戸時代からの旅籠一軒、今も営業しているので、そこに泊まることにした。街道がようやくJRに接近するのが大湫宿の先、深萱立場なので、今回の目的地はそこまで、となった。
山道、坂道の難所続きなので、数か所に「救急の場合は119番」と書かれている看板を見た。そして、「熊の出没情報あり」の看板も数か所に。イノシシに注意という看板は前回も見たが、ついに、熊である。今回初めて、持参した熊鈴を鳴らしながら山中の道を歩くことになった。
電車に乗るために街道をはずれ駅に向かう途中、出会ったのは中央高速道路と国道19号であった。琵琶湖から御嵩まで、ずっと国道21号に並行する旧道を歩いてきたが、難所の山道を抜けると、ついに木曽路を通る19号に出会った。これから19号線とのお付き合いとなる。
次の地図はおおまかな位置確認のために添付。旧中山道は書き込まれていない。街道は、依然、東に向かってほぼ直線である。


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11月28日(月) 太田~伏見~御嵩

前回宿泊した「ルートイン可児」に車を停め、本来なら前回の終点、太田の渡しに戻って起点となるはずである。しかし、そこから1時間くらい先に進んだところに今回宿泊のホテルが位置するため、もはや太田には戻らず、ホテルから直接、街道に入ることにした(太田からは国道をひたすら歩くことが分かっていたので、短絡させても国道なら、まあ、よしとした)。
そういうわけで、御嵩までのコースは特に見るべきところもなく、2時間半ほどで目的地に到着。そういえば、途中、こんな田舎に? と思うところに、中国人が経営している中華料理店(横浜という名前がついていた)のラーメンがあって、おいしかった。
「ルートイン」は、大きなお風呂がついているので、湯船でゆっくり休むことができた。

YOUTUBE「西から御嵩宿を越える」 https://youtu.be/XHp7V9jjsGo

29日(火) 御嵩~細久手

この日から一泊二日は相当の山道を覚悟して出発。しかも途中、江戸時代から続く「旅籠」に泊まるので、初めてリュックを背負っての道行きとなった。この区間、幕府によって何もない山中に開かれた街道なので、ここから大井宿(恵那)まで、何もない山の中である。
案の定、厳しいのぼりが続く。いよいよ木曽路近し、という実感。途中、隠れキリシタンの遺物が発掘されたという記念碑があり、それも今は先人の遺産ということで、町おこしに一役買っているらしい。皮肉なものである。
山中の景色のいい場所には、相当こだわりのある喫茶店があった。ケーキしか出さない。店内でおにぎり食べていいかと訊いたら、断られた。お天気がよかったから外で食べれたが、雨でも、同じことを言うのだろうか。しかし、ここのケーキは、おいしかったこと。中山道とは別の車道を通って、次々、お客が来る。とにかく、ずっと上りだったから、一息入れる場所があって、私たちは大いに助かった。
店を出た途端、今度は、急な下り坂が長く続き、そして、次はまた長い上り坂となった。
山の中なので、一里塚は何のじゃまにもならないため、どれもみな壊されずに昔のまま、保存されている。また、馬頭観音があちこちにおかれ、旅人をいやす清水があれば名前がつけられ、茶屋の跡があちこちにあり、かつて、旅人の山中の道行きを助けていたことが分かる。途中の鴨の巣一里塚で電話をするように宿から言われていたので、電話。昔の人も、ここから宿泊の確認電話をしたのだ(笑)
宿泊は、江戸時代からの旅籠「大黒屋」である。明治になってから70余年閉じられていたのが、昭和26年、炭鉱の工夫たちのために再開されたのだとか。そのうち指定文化財になり、だからであろうか手をつけられずにいた壁紙など、あちこちがボロボロである。尾張藩の殿様の定宿だということで、意匠の凝った建物であるが、時間の流れには勝てないなと思った。ふとんも、昔ながらの綿入れふとんで、あの重さは久しぶりの感覚だった。いずれにしても、ここに泊まらなければ野宿となったわけで、ありがたい旅籠であった。ご主人も丁寧に対応してくれて、うれしかった。

YOUTUBE「西から細久手宿を越える」 https://youtu.be/YQvP-imCojw

30日(水) 細久手~大湫(深萱の立場)

大湫で下山しようと思っていたが、旅籠の御主人の勧めもあり、時間は倍になるが(計4時間越え)、その先「十三峠」に入って、途中の深萱立場で下山することにした。
細久手から先は、昨日とは打って変わって、気持ちの良い林の中の舗装路が続いた。軽井沢だね、と言いながらコースを楽しむことができた。途中、周りにゴルフ場が開発されたところがある。子どもが捨てて行ったのかなあ、スーパーボールがあるよ、と思っていたが、次々と見つけるに及んで、ゴルフボールと気づき、こんなのが飛んできて当たったらどうするのと急に怖くなったとき、目の前をゆっくりとカートが通過していった ^^;
さて、琵琶峠越えである。500メートルに及ぶ石畳が当時のまま残っている。この石畳は昭和45年に「発見」されたものである。権力の道も通行が途絶えれば100年近くも地中に埋もれてしまったわけで、そういうところに道を通した、ということでもある。山中にバイオトイレというのがあった。太陽光発電でドアを開けるとパッと電気がつく。すごくきれいな室内で、特殊な装置で排泄物を処理して自然に還元するということで、ハイテクトイレには驚いた。

大湫宿は、細久手同様、山間に取り残された宿だと聞いていたが、細久手は特に見るべきところはないのに反して、見どころもあり、駐車場もあり、トイレも充実して、街並み保存にかなり力を入れているのが分かる。ここに宿泊施設を作ればいいのにと思いながら、先を急ぐので、通過。
その先はいよいよ「十三峠」である。まず寺坂を上って、あとは下って、上って… の繰り返しである。清水があれば名がつく。観音像があちらこちらに。そして、句碑が、またあちらこちらに、という具合。中山道の中でもここが、最大の難所だったのではないだろうか。

そういうわけでようやく武並駅から電車に乗ったとき、ほっとしたのか、妻は今回、山道でとてもお世話になったノルディックポールをホームに置き忘れてきたという、落ちがついた。

次回は、いよいよ信濃の国、木曽11宿の第一番目の馬篭宿に至る!

YOUTUBE「西から大湫宿を越える」 https://youtu.be/PiSHNq78Cp8

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by rev_ushioda | 2016-12-02 11:17 | Comments(0)

「軽井沢とキリスト教」

昨年、某短大後援会の主催で、軽井沢の教会巡りツアーに参加した。その時にはブログに書かなかったのだが、最近、後援会便りに「ひと言」を書くようにと依頼が飛び込んできたので、以下、急ぎ書いたの拙文。これでも、800字の制限をはるかに超えている…



旧中山道で碓氷峠を上り、軽井沢宿に入ると、最初に出会うのが「軽井沢ショー記念礼拝堂」です。明治に入って軽井沢宿は急にさびれていきましたが、明治19年、ここを通過したアレキサンダー・クロフト・ショー宣教師は、祖国スコットランドの風景を思い出し、この地にヨーロッパ式建築を広め、寒冷地農業を教え、教会堂を建て、キリスト教の伝道に乗り出したのです。「軽井沢高原教会」は大正時代、内村鑑三、北原白秋、島崎藤村らが集う場でした。
私は今回、軽井沢のいくつかの教会を巡りながら、江戸時代に政治の道として使われた中山道の一宿に、明治初期からキリスト教の伝道がされていたことに感慨を持ちました。しかも、その伝道は地域に近代文化を花開かせたものであったのです。
政治の道は権力の道、武力の道ですが、軽井沢は権力と共に廃れて行ったのではなく、キリスト教によって文化の花を開かせたのです。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(旧約聖書「ミカ書」4章3節)

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by rev_ushioda | 2016-01-05 17:44 | Comments(0)