マルコによる福音書1章35~39節
(女性会役員会説教)
今年の女性の集いは、泉教会が会場担当ということで、会場を準備しました。ただ、泉教会のこの場所では広さに不都合がありますので、駅の近くのテアトルフォンテ(泉区民文化センター)を会場に借りました。なかなか立派な施設です。
私たちは、そこを何度も使っています。伝道教会設立式に際しては、「マリー・マグダレーン」という、一人芝居を上演いたしました。プロであった方をお招きしての、設立公演でした。その後、「塩狩峠」の朗読劇を上演、続いてラニー・ラッカーのゴスペルコンサートを行いました。もっと以前には、アドイッシュ展という作品展を2度、ギャラリーで開催しました。テアトルフォンテは、教会として、よく使う施設なのです。
また、NPO法人 心を聴く市民ネットワークの活動では、年間を通じて、その会議室を勉強会会場として使います。駅周辺には、ほかに社会福祉協議会の施設がありますが、そこも頻繁に使っています。
私たちは、教会としての場所を、ここ(泉教会)に、固定していないのです。確かに、何かをする場合、狭すぎてこの場所に集められない、ということもありますが、それだけではありません。私たちは教会の活動の場所を、自由に周辺施設を借りて、行っているのです。今回の女性の集いも、場所がないなら、お金のかからない大きな教会を借りたらいいだろうという話もあるかと思います。しかし、お金はかかるかもしれないけれど、テアトルフォンテもまた、私たちにしてみたら、普通に、教会の場所なのです。
教会とは何か、と考えます。皆さんは、泉教会においでになるとき、地図をご覧になったと思いますが、それは、この建物の地図であって、教会ではない。教会、エクレーシアは、私たちである。そのことは知っていると思います。そうであれば、私たちが集まる場所もまた、この建物に固定して考えないのです。テアトルフォンテもまた、教会なのです。まあ、向こうから言わせれば、勝手なこと言ってもらっては困る、と言うのでしょうが・・・
そういうわけで、今年の女性の集いはテアトルフォンテで行なう、というようにしたわけです。できるだけ近くまで来てもらって、でも教会は狭いから近いところにある施設を借りた、というようには考えていません。そこもまた、泉教会なのです。
さて、弟子たちは「イエスの後を追い、見つけると」言ったのです。「みんなが捜しています」。
確かに、主イエスがいやしの業をされたカファルナウムでは、朝早くから、主イエスをみんなが捜していたのでしょう。しかし本当は、弟子たちが、町に戻ってくださいと言って、主イエスを捜していたのではないでしょうか。「ここが教会です。ここで、せっかくうまくいったのだから、この際、ここで成功をおさめましょう、いい教会成長プログラムを作りましょう」。そういう気持ちが起ってきても、不思議はないと思うのです。
主イエスは、しかし、「近くのほかの町や村へ行こう」と言われ、「そのために出てきた」と、すでに、別の方向を見ておられたのです。近くのほかの町や村に、教会の「場所」を見ておられた。
私たちは、主イエスが「そのために」と言われるところを見るため、そこでお仕えするために、引き出された者であると思います。女性会が、今年、歩もうとするところはどこなのか、それは何のためなのか、よくわきまえていたいと思うのです。
日本中会は、昨年、「教職志願者および伝道師規定」を改正、また新たに「他教団教職者の受入れ規定」を承認した結果、水準は落とさず、しかし教職者の受入れ枠を広げました。これは、まさに主が見ておられる「そのため」の、一つの大事な決断であったと、思います。あとは、決断するのは私たちのほうだということになります。別に、皆が教職者になろう、というのではない。中会が教会の枠を広げて考えようとしている。今度は、応答の質が求めている、ということなのです。主の召し、招き、教会というものを、私たちは固定化して考えていないか、自分の中から出てくる考えでだけ、みていないか。そういうものは、一旦、壊されなければならない。
この4月、中会は、ブラジルのマッタ教会に宮島伝道師を派遣しました。彼は、他教団の牧師でしたが、マッタで働きたいという願いを与えられ、中会に移籍を願い求めてきました。その時、中会は法的に受け入れ態勢が整っていなかったのです。まだ、どうなるか分からないまま、しかし、彼は自分の教団を離れる決断をして、昨年の11月中会会議に臨むため、来日しました。ここで否決されれば、戻るところを失います。背水の陣をしいて、来日しました。そこに、応答の質があったのだと思っています。日本中会は、11月の会議で、彼を中会の「他教団志願者」として受け入れました。伝道師待遇です。他教団では、牧師であったのに、ここではまた、教職者試験に臨まなければなりません。それでも、応答し続けたのです。
教会は、こうしてできる。
新しい決断をする時は、とても緊張します。しかし、その緊張が大事なのです。緊張というのは、「みんなが捜しています」という町に戻って行くときには、おそらく感じないのです。しかし、主に従って、たとえば「ゲラサ人の地方」に行った時など(マルコ5・1~20)、いったい、弟子たちは舟を降りたのだろうか(降りなかったのではないか)、と思うほどです。それほど緊張が強いられたと思われるのです。しかし、「そのために」と言われる主に従うことで、そこに教会が、教会の物語が、生まれていくのです。
「みんなが捜して」いるところに戻ったとしたら、決して見ることができない、神の国の物語が実現するのです。
今、1枚の神を配ります。私が初めて教会(希望ヶ丘教会)に行った時のチラシです。ガリ版での多色刷りです。1968年(昭和43年)9月に、教会は特別伝道集会を開催。その時、駅前で配布したチラシが、このチラシです。私はこれを手にして、初めて、教会の門をくぐったのです。チラシには「あなたの悩みは解決できたか」と書いてありました。私には、悩みなど何もありませんでした。しかし、私はそのチラシで導かれたのです。講師は吉崎忠雄先生でした。そして、次の年に「受洗」しました。
下のグラフは、礼拝堂が建った時から10年間の教勢です。
希望ヶ丘教会は、家庭集会が基礎にあったため、最初から人数は30人はいました。今の場所に礼拝堂を建て、最初の礼拝が行なわれてから5年後、1968年(昭和43年)に教会設立礼拝が行なわれ、めぐみ幼児園が開園した。その年に、今、申し上げましたように、高校3年生の私が初めて、教会に行ったのです。
けれども、私が教会に初めて行った年は、そこにある統計を見ると、希望が丘教会の礼拝人数が激減し、23人、翌年は最低を記録した年です。礼拝を開始して5年、教会設立礼拝や、めぐみ幼児園開園という華々しさの影に何か課題があったようです。「あなたの悩みは解決できたか」とは、教会が自分に向かって言うような状況だったと思います。当然、「今は教会の内側を整えるべき時だ」という声もあったのです。しかし、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙 二 4章2節、口語訳)。この言葉に励まされて、出て行ったと聞きました。そこで配ったチラシの1枚が、私を捕えたのです。私は、それから神学校に入学するまでの、主に大学生時代、希望が丘教会の礼拝に出席いたしました。
教会は、いったいどこにあるのか、建物の中だけにあるのだろうか。否。主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう・・・そのためにわたしは出てきた」と言われました。自分の教会、自分の町カファルナウム、そこに戻るときには、教会は出来ないのです。「御言を宣べ伝えなさい」と言われる主のあとに従う時、そこに教会が生まれ、教会が動き出すのです。私たちは、自分の領域に主を引き戻すのではなく、主の見るところに進み出ていく、応答の質が問われているのです。
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