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「ペインクリニック=痛みの専門外来」

困って周りに相談したら、いろいろ情報を寄せていただいた中に、標題のような科目がある病院が近くにあることがわかった。
その病院のホームページには、以下のように説明されていた。「頭の中は痛みのことでいっぱいになり、心もふさぎ込み…」。 なるほど、この1週間、そのとおりに推移していると思った。本当にふさぎ込む前に ^^; さっそく受診してみよう。

以下、病院の説明文。
ペインクリニックという言葉を聞きなれない方もおられると思います。
整形外科疾患による痛みから、神経痛、頭痛など、痛みを伴う病気全般を専門に治療する科です。
また、痛みだけではなくしびれ・自律神経の異常や麻痺を伴う病気も対象になります。
痛みのメカニズムは複雑で、慢性になればなるほど、治療も難しくなります。
痛みが続くと、血管が収縮して循環が悪くなり、さらに痛みが増強するという悪循環に陥ります。
頭の中は痛みのことでいっぱいになり、心もふさぎ込み、より痛みに過敏になります。睡眠や食欲に影響およぼすことにもなります。
また痛いところを動かさなくなることによって筋肉の萎縮がおこり、日常生活にも支障をきたすことになってしまいます。
当院では、麻酔科医として多くの急性痛、慢性痛の治療に携わってきた経験を生かして、まずはお話を伺い、患者様の症状やご希望に応じて、神経ブロック、内服薬、リハビリテーション療法を組み合わせ、痛みを緩和して、本来備わっている自己回復力を引き出し、痛みのない快適な生活を過ごせるようサポートいたします。
さらに、高度な神経ブロック療法や入院が必要な場合は、横浜市大付属病院、NTT関東病院(ペインクリニック科)にご紹介しています。


27日(金)後日談

さっそく、ここの病院に行って来た。同じ痛み止めでも、神経専用のものがあるとのこと。これを服用して経過を見ましょう、ダメなら神経ブロックにしましょう、とのこと。痛みに対して閉口、気が滅入っていたから、これに対応してもらえるって、うれしく、ありがたかったなあ… 

28日(土)そのまた後日談
 
温泉は神経痛に良いと聞いていたので、連休を利用して温泉に行こうと計画していた。が、もともとのどの痛みなど不調ではあったが、今日になっていよいよ熱が出てきた… 箱根の連泊も、ついにキャンセル。中山道初ウオークも、温泉も、皆、キャンセル。明日の礼拝も、危ないことになってきた。サイアクの状況だ。

5月1日(火)
主日は、朝の礼拝、夕礼拝と、何とか切り抜けた。朝、38度越えていた熱も下がった。痛みも来なかったと思ってほっとした。が、昼食後、最後の数人がお茶を飲んでいるところで、座った瞬間、パシッ。「ウッ」 結局、心配をかけてしまった。まだ、薬の効果はなかったらしい。その痛みを止める「リリカ」という薬は、眠気を誘発するらしく、その後、今週は休暇を取っているからいいものの、月曜日、火曜日と、ひたすら眠り続けている。その後、薬の効果は… 眠っているから、さしあたって効いているのかどうか、わからない。

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# by rev_ushioda | 2012-04-26 16:23 | Comments(3)

「またまた脚に痛み」

1ヶ月前に脚の神経が痛み、病院でもらってきた痛み止めの薬を飲んだり湿布をしたりしたが、秀子さんが旅行から帰ってきたらピタッとおさまってしまった。それみたことかと言われたが、1ヶ月ぶりに、また、痛み出した。時々、脚に痛みが「走る」。
秀子さんが原因ではないことが証明された! なんて、喜んで?いられない。飲みかけの薬を持ち出し、湿布薬を貼り、十字式に連れて行けと何だかんだと大騒ぎしている理由は、来週、楽しみにしていた中山道にいよいよ出発する予定があるからである。1月は、風邪で中止した。今度こそはと思っていたら、この痛みである… それに加えて、またまた、のどが痛い。熱っぽい感じで、今日は不調な一日を過ごした  ┐(´~`)┌
明日、どうするか判断する。


一日過ぎ、以下、加筆。

脚に痛みが走る。観念して、1月に続いて再び、中山道、近江八幡に連泊で予約したホテルをキャンセルした。007.gif

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# by rev_ushioda | 2012-04-24 21:19 | Comments(0)

「応答の質」

マルコによる福音書1章35~39節
(女性会役員会説教)

今年の女性の集いは、泉教会が会場担当ということで、会場を準備しました。ただ、泉教会のこの場所では広さに不都合がありますので、駅の近くのテアトルフォンテ(泉区民文化センター)を会場に借りました。なかなか立派な施設です。
私たちは、そこを何度も使っています。伝道教会設立式に際しては、「マリー・マグダレーン」という、一人芝居を上演いたしました。プロであった方をお招きしての、設立公演でした。その後、「塩狩峠」の朗読劇を上演、続いてラニー・ラッカーのゴスペルコンサートを行いました。もっと以前には、アドイッシュ展という作品展を2度、ギャラリーで開催しました。テアトルフォンテは、教会として、よく使う施設なのです。
また、NPO法人 心を聴く市民ネットワークの活動では、年間を通じて、その会議室を勉強会会場として使います。駅周辺には、ほかに社会福祉協議会の施設がありますが、そこも頻繁に使っています。
私たちは、教会としての場所を、ここ(泉教会)に、固定していないのです。確かに、何かをする場合、狭すぎてこの場所に集められない、ということもありますが、それだけではありません。私たちは教会の活動の場所を、自由に周辺施設を借りて、行っているのです。今回の女性の集いも、場所がないなら、お金のかからない大きな教会を借りたらいいだろうという話もあるかと思います。しかし、お金はかかるかもしれないけれど、テアトルフォンテもまた、私たちにしてみたら、普通に、教会の場所なのです。
教会とは何か、と考えます。皆さんは、泉教会においでになるとき、地図をご覧になったと思いますが、それは、この建物の地図であって、教会ではない。教会、エクレーシアは、私たちである。そのことは知っていると思います。そうであれば、私たちが集まる場所もまた、この建物に固定して考えないのです。テアトルフォンテもまた、教会なのです。まあ、向こうから言わせれば、勝手なこと言ってもらっては困る、と言うのでしょうが・・・
そういうわけで、今年の女性の集いはテアトルフォンテで行なう、というようにしたわけです。できるだけ近くまで来てもらって、でも教会は狭いから近いところにある施設を借りた、というようには考えていません。そこもまた、泉教会なのです。

さて、弟子たちは「イエスの後を追い、見つけると」言ったのです。「みんなが捜しています」。

確かに、主イエスがいやしの業をされたカファルナウムでは、朝早くから、主イエスをみんなが捜していたのでしょう。しかし本当は、弟子たちが、町に戻ってくださいと言って、主イエスを捜していたのではないでしょうか。「ここが教会です。ここで、せっかくうまくいったのだから、この際、ここで成功をおさめましょう、いい教会成長プログラムを作りましょう」。そういう気持ちが起ってきても、不思議はないと思うのです。
主イエスは、しかし、「近くのほかの町や村へ行こう」と言われ、「そのために出てきた」と、すでに、別の方向を見ておられたのです。近くのほかの町や村に、教会の「場所」を見ておられた。
私たちは、主イエスが「そのために」と言われるところを見るため、そこでお仕えするために、引き出された者であると思います。女性会が、今年、歩もうとするところはどこなのか、それは何のためなのか、よくわきまえていたいと思うのです。

日本中会は、昨年、「教職志願者および伝道師規定」を改正、また新たに「他教団教職者の受入れ規定」を承認した結果、水準は落とさず、しかし教職者の受入れ枠を広げました。これは、まさに主が見ておられる「そのため」の、一つの大事な決断であったと、思います。あとは、決断するのは私たちのほうだということになります。別に、皆が教職者になろう、というのではない。中会が教会の枠を広げて考えようとしている。今度は、応答の質が求めている、ということなのです。主の召し、招き、教会というものを、私たちは固定化して考えていないか、自分の中から出てくる考えでだけ、みていないか。そういうものは、一旦、壊されなければならない。
この4月、中会は、ブラジルのマッタ教会に宮島伝道師を派遣しました。彼は、他教団の牧師でしたが、マッタで働きたいという願いを与えられ、中会に移籍を願い求めてきました。その時、中会は法的に受け入れ態勢が整っていなかったのです。まだ、どうなるか分からないまま、しかし、彼は自分の教団を離れる決断をして、昨年の11月中会会議に臨むため、来日しました。ここで否決されれば、戻るところを失います。背水の陣をしいて、来日しました。そこに、応答の質があったのだと思っています。日本中会は、11月の会議で、彼を中会の「他教団志願者」として受け入れました。伝道師待遇です。他教団では、牧師であったのに、ここではまた、教職者試験に臨まなければなりません。それでも、応答し続けたのです。

教会は、こうしてできる。

新しい決断をする時は、とても緊張します。しかし、その緊張が大事なのです。緊張というのは、「みんなが捜しています」という町に戻って行くときには、おそらく感じないのです。しかし、主に従って、たとえば「ゲラサ人の地方」に行った時など(マルコ5・1~20)、いったい、弟子たちは舟を降りたのだろうか(降りなかったのではないか)、と思うほどです。それほど緊張が強いられたと思われるのです。しかし、「そのために」と言われる主に従うことで、そこに教会が、教会の物語が、生まれていくのです。
「みんなが捜して」いるところに戻ったとしたら、決して見ることができない、神の国の物語が実現するのです。

今、1枚の神を配ります。私が初めて教会(希望ヶ丘教会)に行った時のチラシです。ガリ版での多色刷りです。1968年(昭和43年)9月に、教会は特別伝道集会を開催。その時、駅前で配布したチラシが、このチラシです。私はこれを手にして、初めて、教会の門をくぐったのです。チラシには「あなたの悩みは解決できたか」と書いてありました。私には、悩みなど何もありませんでした。しかし、私はそのチラシで導かれたのです。講師は吉崎忠雄先生でした。そして、次の年に「受洗」しました。
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下のグラフは、礼拝堂が建った時から10年間の教勢です。
「応答の質」_f0086426_20263977.jpg

希望ヶ丘教会は、家庭集会が基礎にあったため、最初から人数は30人はいました。今の場所に礼拝堂を建て、最初の礼拝が行なわれてから5年後、1968年(昭和43年)に教会設立礼拝が行なわれ、めぐみ幼児園が開園した。その年に、今、申し上げましたように、高校3年生の私が初めて、教会に行ったのです。
けれども、私が教会に初めて行った年は、そこにある統計を見ると、希望が丘教会の礼拝人数が激減し、23人、翌年は最低を記録した年です。礼拝を開始して5年、教会設立礼拝や、めぐみ幼児園開園という華々しさの影に何か課題があったようです。「あなたの悩みは解決できたか」とは、教会が自分に向かって言うような状況だったと思います。当然、「今は教会の内側を整えるべき時だ」という声もあったのです。しかし、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙 二 4章2節、口語訳)。この言葉に励まされて、出て行ったと聞きました。そこで配ったチラシの1枚が、私を捕えたのです。私は、それから神学校に入学するまでの、主に大学生時代、希望が丘教会の礼拝に出席いたしました。

教会は、いったいどこにあるのか、建物の中だけにあるのだろうか。否。主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう・・・そのためにわたしは出てきた」と言われました。自分の教会、自分の町カファルナウム、そこに戻るときには、教会は出来ないのです。「御言を宣べ伝えなさい」と言われる主のあとに従う時、そこに教会が生まれ、教会が動き出すのです。私たちは、自分の領域に主を引き戻すのではなく、主の見るところに進み出ていく、応答の質が問われているのです。

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# by rev_ushioda | 2012-04-16 20:20 | Comments(2)

「召天者を記念する」

「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。・・・死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」 ペトロの手紙一 3章 19節、4章 6節

私たちの教会ではイースターのあと、すなわちキリストの復活を覚える復活節という期間に、「召天者記念礼拝」をすることにしています。この時、私たちは「亡くなった方を記念したいなら、どなたでも」としています。未信者であっても、記念を共にする、という意味です。
上の聖書の言葉によると、キリストは、「捕らわれていた霊たち」「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」のところに行かれた、と書かれていて、4章6節で「死んだ者にも福音が告げ知らされた」と言い換えています。
「捕らわれていた」という言葉には、ここで「獄」という用語が使われていることから、捕らわれていたというのは、裁きということを意味しているのかも知れません。創世記6章によると、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔」され、洪水で滅ぼすこと(裁き)を決断されたのです。神は、ノアとその家族を大きな船、箱舟によって救われましたが、神が従うようにと待っているのに、従わない。そういう人々も、いたのです。彼らは、洪水で死んでしまいました。しかしキリストが宣教されたのは、そういう「死んだ者」のところであったと言うのです。
そうであれば、信じないまま死んでしまった家族はどうなるのかという問いに、答えがあるように思います。
主イエスは、「死んで葬られ、よみにくだり」と使徒信条は告白します。主イエスが私たちの死を死んでくださったこと、主イエスがよみにくだられたこと、そのことによって、死は、もう、望みのないものではなくなったのです。主イエスは、宣教のためにそこにもお立ちになるからです。こうして、私たちの死そのものの意味が変わってしまったのです。福音を聞くことがなく死んだ者を、私たちは、このキリスト・イエスに委ねることができるのです。

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# by rev_ushioda | 2012-04-14 22:19 | Comments(0)

「鳩のひな」

庭先の夏みかんの木に登って、みかんを取っていたら、そこに鳩の巣があった。いきなり目の前に現われた私を警戒して鳴いているようだが、ぎー、ぎーとかわいい声を出している。後ろに気配を感じて屋根を見ると、そこにいつからいたのか親鳥がいて、どうしていいかわからないような感じで行ったり来たりしている。「大丈夫だよ、いじめないから」。
巣の真上にも、みかんがある。熟して落ちたら巣を直撃しそうだ。その真上のみかんだけは、とりあえず取って、今年は周辺にある10個くらいは、そのままにしておこうと思う。
それにしても、そこは、わが家のまさに玄関先。天敵のカラスから卵を守るためには、人間のそばが一番良かったのだろうか。
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# by rev_ushioda | 2012-04-12 16:12 | Comments(2)

横浜で牧会する牧師のブログです。


by rev_ushioda