最近、子どもの説教でヨシュア記を取り上げました。そこでは触れませんでしたが、聖書には、次のような言葉が書かれていました。「ことごとく滅ぼし尽して主にささげよ」ヨシュア記6章17節。
この「聖絶」という考え方をどう読むかは、旧約聖書を読む者にとって悩ましい問題であり、くつかの解釈が生まれました。
解釈1.原理主義的解釈。神の民イスラエルに敵対するものは、悪の象徴であると考え、宗教的に堕落したものは滅ぼすという、(神の側に自分を置いた)自分を絶対化した短絡的、原理主義的理解の仕方。
解釈2.霊的解釈。霊的な意味で、神と悪との戦いが書かれているのであり、これをキリスト者の従順、聖化として適用する。(実際、「聖絶」というような戦闘はほとんどなかったのだと理解する)。
解釈3.自由主義的解釈。聖書の記述は、史実とは限らない。バビロン捕囚以後、歴史が「再記述」されたものである。つまり、自分たちはなぜ異民族に支配されなければならなかったかという反省及び歴史解釈によって、史実ではないことが書かれたれたものだと考える。
解釈4.民俗学的解釈。このような慣習は現代では許されないが、古来、イスラエルのみならずモアブやアッシリアのような近隣諸国にも共通して見られた「宗教儀礼」であった。(古代の戦闘は全てその民族の守護神の闘いでもあったため、闘いに敗れた民族とその所有物は、神無きもの、穢れた存在となった。それを自民族の守護神に捧げ尽くすことで神無きものが購われ、新たな所有に移される)。
ほかにもあるでしょう。しかし、では、私はどう読むかということです。はっきりしているのは、私たちはいつも相手の側に立つことが出来ない者だ、ということです。
たとえば、日本にある「桃太郎」の話も、私たちは鬼の側には立ちません。必ず桃太郎の側に立って話を聞いています。すると、あの話は、勧善懲悪となり、戦時中は鬼畜米英というように転化されて自分中心に解釈されました。しかし、福沢諭吉は言います。
「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり」(『ひびのをしえ』。
自分を最初からイスラエルの側に置いて聖書を読むことの間違いがあることを第一に指摘しておきたいと思います。古代、現代を通じて戦闘は繰り返されますが、しかし、いつでも、誰も、自分を正当化できないのです。
そういう意味では、「御子を信じない者は既に裁かれている」(ヨハネによる福音書3章18節)というように、本来、みなが滅ぼされるべき人間だと言うべきでしょう。そこに勝者はいません。神が一方的に「宝の民」(申命記7章)とされたことに「正しく応答する」以外、人間は生きられないのです。
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