私は今年になって5か月間、神経痛に悩まされました。ある日、鼠蹊(そけい)部に電気が走るような痛みを感じました。机の前に座っていてもパシッと来ます。歩いていてもパシッときます。そういうときはどこにいても、うずくまってしまうのです。
一日に数回の頻度ですが、一度そういうことがあると、不思議なもので今度はいつ来るかと痛みのないときも不安になり、そうなると、いつも身構えているような状態になります。これを、「予期不安」と言うのだそうです。たった一日に数度の痛みなのに、その痛みにいつも支配される状態となりました。ペイン・クリニックに行き、「リリカ」という痛み止め薬を処方されました。整形外科に行き、レントゲン、MRIを撮りましたが、異常なし。やはり「リリカ」を処方されました。病院をあきらめ整体のようなところにも通いましたが、まったく効果なし。
ついに、後回しにしてきた「鍼灸」治療に行きました。今も定期的に通っているのですが、何とそれから3か月、初めて行った日以来、痛みは1回も来ていません。普通に歩けるという、当たり前のことですが、その喜びを今、味わっています。
ところで、痛みは私の場合、2種類ありました。電気が走るような一瞬の痛みと、鈍痛のような、説明がうまくつきませんが足が上がらない痛みと。説明が難しかったですが、聞く人も「その後、“腰”はどうですか」と言われる。(“内腿”の痛みと言ったのになあ…)と思いながら、そこで思ったのは、痛みは、人に通じないということでした。本人さえ、痛み方が変化するのですから、ましてや、人には分からないだろうということです。そして思いました。私も、人の痛みを分かっていなかったのだ、と!
痛みを分かろうとするのなど、できっこないのです。「分かる、分かる、私もね…」など、言わない方がいいです。痛みは、本人にしか、わからないのですから。
では、何もできないのでしょうか。私が路上で痛みが走ってうずくまっていたら、通りがかりの女性が「どうしましたか? 救急車を呼びましょうか?」と声をかけてくださいました。「大丈夫です、持病ですから」と答え、先に行って戴きましたが、ありがたいなあ、と思いました。声をかける。それだけですが、その女性が治すわけでも何でもないのですが、その声があっただけで、路上に座り込んだ私には、確かに、ありがたさを感じました。
星野富弘さんが次の詩を書いています。「花がきれいですねえ/誰かがそういって/うしろを過ぎて行った/気がつくと目の前に/花が咲いていた/私は何を見ていたのだろう/この華やかな/春の前で/いったい何を/考えていたのだろう」 誰かの声がかかる。ハッとして我に返るのです。人が必要とする助けの一つは、確かにここにあるのではないでしょうか。痛みなどそんな簡単に分からない。分からなくていい。私たちはただ、誰かのそばにいて、声をかける者となれば(なることが出来れば!)、それでいい。
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