「後援会ツアー」

今年は勝沼に「ブドウ狩りとワイナリー・美術館の旅」で、秋の味覚を存分に楽しめる旅であった。
参加者は今年は6人と少ないながら、車中、楽しく会話をつづけ、道路も休日の割には驚くほどすいていたこともあって、あっという間に甲府盆地に。一面のブドウ畑の中を車を走らせ、目的地「ツチと実」という、名前だけ見てもこだわりのある農園に到着。季節外れの31度という気温であったが、甲府盆地に広がるブドウ園はさわやかであった。
この農園は時間制限なく巨峰食べ放題ということで、また、魚のつかみ取り、塩焼きを楽しめ、バーベキューもでき、ピザを焼くこともでき、一日、ゆったり過ごす家族連れが多かった。ところで、さあ、たべるぞ、という最初の勢いはすぐにへし折られ、ひと房を食べるだけで精一杯ということに気づくのに、それほど時間は必要なかった。家でひと房なんて食べたことがない私たちは、元を取ることもできなかったが、しかし、ブドウの味覚を十分楽しむことができた。ちなみに、私自身はブドウ狩りは初めてで、ブドウの木の幹が意外に太いことに驚き(写真)、棚の低さに身をかがめながら歩くことに閉口し、ひとふさ丸ごと食べる醍醐味に感激し、ブドウ園を後にした。
山梨県立美術館はミレーの絵を収集、展示しているところで知られている、ということに私は知らなかったが、光と闇を描き出す絵の素晴らしさよりも、巨額の県費でこれだけのミレーの絵をそろえた山梨県の度量の大きさに感動した(見方が違うか…)
美術館の前にある店の、ほうとうが、これがまたおいしかったこと。山梨県は、ほうとうでしょ。そして、そのあとマンズワインの工場により、ワインの試飲を楽しみ、ほんのりと顔を赤らめて、帰路についた。
昨年は横須賀の軍港めぐりであったが、今回は、まさに味覚の旅。一貫性がないと言えばその通りで、この容量の深さが、私たち、後援会の良さでもあると、ワインで気持ち良くなった頭で考えていた。

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by rev_ushioda | 2018-09-25 23:23 | Comments(0)

「教会の教育」

信仰の場である教会で、教育というのはふさわしくない、と思う人がいるかもしれません。しかし、教会の歴史を振り返れば、最初から信仰と教育は一つだったのです。たとえば、洗礼を受ける前には必ず洗礼準備期間があります。また、洗礼を受けてからは、

・キリスト者として日々変化する現実とどのように向き合ったらよいか
・歴史的には信仰をどのように捉えて来たのか
・教会と自分をどのようにとらえたらよいか
・聖書をどのように読んだらよいか
・伝道をどうしたらよいか
・そもそも人生の終わり(葬儀)をどう迎えるか

そのようなたくさんの問題や課題に出会います。そこで教会は、身の丈に合ったさまざまな教育方法を編み出してきました。もし、そのような教育の機会を自分に与えないと、いずれ、自分の思いに合わせた聖書の読み方、自分の好みに合う信仰理解になり、自分に都合のいい信仰生活になって行くのは避けられません。この世との境目もあいまいになり、この世の課題を担うことも、使命を持って出て行くこともなく、ただ自分がいい気分になることを信仰だと勘違いするようになって行くのです。
そうこうするうちに、今年から「道徳」が教科として学校で教えられるようになりました。その意味は、国が人の心に介入し、点数をつけ、国が願うような人間を作り始めた(教育し始めた)ということです。そうであれば、教会は、信仰教育をもって対抗しなければなりません。

今、来年度の教会の活動計画を考えながら、一番必要なことは何かを考えた時、キリスト者の出発点である「教会籍」とは何か、ということから考えて行きたいと思っています。意志をもって洗礼を受け、持つことになった神の国の国籍(教会籍)は、この世の国籍を越えるものであるに違いないと信じます。そうであれば、教会員籍と礼拝/教会員籍と教会運営/教会員籍と伝道/教会員籍と会堂維持/教会員籍と葬儀など、良い理解を持ちたいと思います。


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by rev_ushioda | 2018-09-21 17:46 | Comments(0)

「結果オーライか」

母の特養入所のことでずっと心にかかっていたのは、もし母が、こんな所に入れられた、子どもに見捨てられた、とさびしい思いを持ったらどうしよう、ということであった。今週、3日間、外泊で帰宅させるつもりでいた。それで今日、そのことを確認した。
「そろそろ、少し、家にかえろうか、ね。」
「う~ん・・・」(あれ?喜ぶんじゃなかったの?)
「車が高いんじゃないの?」(うん?そこなの?)
「まあね、片道5000円」
「帰んなくていいよ。」
そんな会話だった。どうやら、優しいスタッフがいる施設の生活がすっかり気に入ったようだ。今まで悩んできたことがうそのような展開となった。
これでよかったんだ。何か、ここまで引きずっていた荷物が解かれたような気がした。家には介護ベッドを自費で置いたままにしている。いらなくなりそうだ。

― 自宅介護の、あの模索しながらの3年間が、急に、何か急に遠い日々に感じた。

― 家に戻らないんだ、と思ったら、何か、さびしい気になった。おそらく息子にしかわからない、何という不思議な感覚だろう。

ところで、9月18日、百歳のお祝いがあった。
受け取っているこの書面は、何と、内閣総理大臣からだ。コメントを控えよう。母は、誰から贈られたにしても、本当にうれしそうだった。


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by rev_ushioda | 2018-09-18 23:08 | Comments(0)

地域で活躍されている在宅緩和(終末期)医療の医師、小澤竹俊先生(キリスト者)がおられます。最近では2017年にNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」で全国に紹介されました。私たちの教会関係者も何人か、御家族の最期にあたり、この先生にお世話になっています。今年8月には、心を聴く市民ネットワークの講演会でお招きしたばかりです。さて、先週、小澤先生の携帯電話から電話を受けました。「余命1週間で、洗礼を希望されている方がいます。会っていただけますか」という内容で、その方のご自宅に駆けつけると、そこにおられた小澤先生から「罪の赦しを求めています」とのこと。御家族、そして細い声でお話しされるご本人のお話の内容からすると、子どもの時、おそらく幼稚園でキリスト教に触れ、以後80余年、教会には行っていなかったのですが、小澤先生とのやり取りの中で、心の蓋が開いたのでしょう。罪の赦しと洗礼を求めていることを確認しました。それまではお元気にされてきたのですが、6月に癌が分かり、急激に悪化され、限られた時間の中ですので、小会のメール稟議により、3日後の洗礼式となりました。昔、覚えた讃美歌に「いつくしみ深き」があります、とか、三浦綾子の『塩狩峠』の主人公に感銘を覚えているとか聞かせて戴きながら、お勧めの後に、以下、この方のために用意した質問で誓約していただきました。・あなたは、イエス・キリストをあなたのために送られた神がおられることを信じますか。・あなたには、罪がありますか。・あなたは、あなたの罪をゆるすためにイエス・キリストが十字架で死んだことを信じますか。すべてに「はい」と答えられたのを見て、長老1名、教会員2名の立会いの下、洗礼を執行しました。初めてお会いした方にもかかわらず、陪席した仲間たちに深い感動を与える時になりました。帰り際、御家族から、この後、葬儀をお願いします、と。緩和医療の医師と、教会との連携がうまく運んだ事例となりました。痛みを抑えるお薬の投与を受けながら、数日間だけのキリスト者としての旅路が、平安の道に変えられたに違いありません。
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by rev_ushioda | 2018-09-02 22:26 | Comments(0)