「特養 審査通過」

ロクさんは、あと少しで百歳です。健康に問題はありません。

ところで、特養のことはずっと悩んでいましたが、申し込んでから審査に1年はかかるというので手続きしました。その時になってからでは遅いから。
でも、何と1ヶ月も経たないのに審査が通り、今、施設の空き待ちになっています。空きが出れば、生活の中心は施設に移ります。外泊は月に6日だけだそうです。
サンルームで庭を見ながら日なたぼっこを楽しんでいるロクさんに、今後の生活の変化をどのように伝えたらいいか、6日だけの外泊をどのように使ったらいいか、大いに悩むところです。
ショートに行けば熱が出るとかで、夜中でも家に戻すよう電話が入るから、ショートサービスが使えなくなった以上、仕方ないとはいえ、頭は冴えているロクさんにはきついかも、ね。月に6日だけの外泊をうまく使って、何となく施設利用が増えたかな、という感じで移行出来ればいいけど・・

(ラインの家族通信から)



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by rev_ushioda | 2018-05-27 07:17 | Comments(0)

「特養申込み」

母は今、とても元気である。・・・と言っても、眠っていることがほとんどで、全面的な介護の日々であるが、サンルームで外を眺め、気持ちがいい、と繰り返していた。

2週間ほど前、ショート先から、熱が出たといって帰された。

去年11月には、夜中に、反応がないといってきたので、さすがに朝まで様子をみてほしいと対応、しばらくショートは控えていたが、もう大丈夫と思って再開した途端、一日で、熱が出たというのだ。帰宅翌日には何でもなかったかのように普通に朝食を食べているのに。

いずれにしても、たとえば電話が夜中などであった場合にはとても対応できないと思い、前回に続き、再び、ショートステイ利用はすべてキャンセルした。それは、今後もショートは利用できないことを意味する。しかしそうなると私たちの生活への影響が大きすぎることになる。考えたすえ、ここで、ついに特養の申し込みを、決心した。それでも迷いながら申込用紙を投函した。

しかし、入所が決まれば、家には月に限られた日数しか戻れないことを意味する。今は元気な母に、特養を選択したことは、まだ伝えられない。申し込みはしたが、承認は、1年も2年も先になればいい、という思いが混在している。特養を選択したことは正解で、頑張らないことが大事だと言ってくれる人がいる。分かっているのだ・・・私も、人にはそのように言ってきたはずだ。しかし、気持ちが落ちないのである。介護の本当の苦労は、割り切ることができない、このところにあると思う。

6月26日、100歳。


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by rev_ushioda | 2018-05-14 17:19 | Comments(0)

「傍観者」

ある時、郵送で送られてきた封筒を開けたら、いくつかの教会の「訪問記」が入っていました。その中に、泉教会もありました。誰が書いたか、すぐ見当がつきました。しばらく前に、ここまで何時間かかって来たと言われて、自転車で来られた人がいたのですが、その人でした。教会をキャラバンして、こうして訪問記を書いていたのです。その教会の様子や、牧師の感想などを書いていて、悪いことは書かれていませんでしたが、しかし、外側から教会を傍観して回る姿勢に、ものすごい違和感をおぼえました。この人は傍観者であり、評論家であり、そのことをもって自分を満足させるだけ、ただ通り過ぎて行くだけの人でした。おそらく今も、どこかの教会を傍観し続けていることでしょう。
そして、思いました。もしかしたら私たちもいつの間にか、礼拝者ではなく、傍観者に、キリスト者ではなく、評論家になる要素はあるのではないかと。
傍観とは、外側から見ることです。泉教会を構成している一人という、つながりからではなく、つながりを持たない外側から、教会を見るのです。その人は、当たり前ですが「私の教会」とは決して言わず、「この教会」と言います。私たちの中に傍観的態度があると、「この教会」と言って、批判的態度になるのが常です。すると、あのキャラバンする人のように、礼拝は守らない、献金はしない(教会を支えない)、いつも他の教会と比較する、…ようになります。教会を壊すものが、もし、あるとしたら、このような「傍観的態度」だということは、言うまでもないことでしょう。教理や、牧会の内容によって教会が壊れることはきわめて稀で、多くの教会で問題が起こるのは、「この教会」と言う、傍観的な態度が原因しています。悪魔が教会を壊すためにまず最初に用いる巧妙な方法は、果たして教会員の口に「この教会」と言わせることでしょう。
自分がはたして傍観者か、そうでないかをチェックする簡単な方法、それは、泉教会を「私の教会」「私たちの教会」と言っているか、いないかです。

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by rev_ushioda | 2018-05-12 17:23 | Comments(0)

「聖書に聴くために」

来週から「気持ちの聴き方」講座の第50期クラスが始まります。ところで、この講座の理論は、カール・ロジャースの「来談者中心」という考え方です。平たく言えば、相手の中にあるもの(環境、価値観、感情の動き)をそのままに読み取ろうとするものです。聞き手は、何かの先入観やテクニックによって相手を見ようとするのでなく、また、ただ時間をかけて聞いていればいいというのでもなく、相手の中にあるものをそのままに読み取る姿勢とか態度が大事だという考えを「来談者中心」と言います。ロジャースは、聴き手が備えるべき3つの原則を上げています。第一は、無条件の肯定的配慮。相手のありのままの態度・価値観などを無条件に受け容れること。第二は、共感的理解。相手の感情を自分自身の感情として受け止めること。第三は、自己一致で、自分を偽らず、自分自身に対して誠実なことであり、あるがままの自分を受容していること。 ― 言ってしまえば、それだけのことですが、私はこの考え方や実際の訓練に出会って、自分が何であるか知ることができたように思っています。私は気づいていなかったのですが、それまで相手を無条件に肯定できない、相手の感情をそのまま受け止めることができない、自分自身さえ一致していない、そういう自分がいました。訓練の中で初めて、そういう自分に気づいたのです。なぜこの話をするかというと、そのことは、聖書を読む姿勢につながっていくからです。私たちは、自分の価値観や思い込みでしか、聖書を読むことができない。また、主イエスの「憐れみ」という、はらわたを引きちぎるほどの感情を理解できない。さらには自分自身さえ偽る、ということをするのです。そういう自分がいたら、少なくとも自分に気づこうとしなかったら、聖書の言うことは伝わってこないのです。気づくというのは、そこで、ある程度の訓練が必要なのです。その訓練が、「気持ちの聴き方」という学びと共通します。予断を持たず、聖書の言うところ、主イエスの言うところをそのままに受け止めることの何と難しいことか。しかし、だからこそ、「聴く」ことの良い訓練をしたいのです。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(フィリピの信徒への手紙第2章5節・文語訳)
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by rev_ushioda | 2018-05-04 20:15 | Comments(0)

「え、ヘルペス?」

歩くと足の裏が痛いので、病院にいったところ、「長く歩きましたか」「いいえ、最近はほとんど歩いていません。」「う~ん… ヘルペスかな… ほら水泡があるでしょ。でもこんなところにできるかなあ。とりあえず、お薬を出します。連休があけたら、また来てください。」
というわけでヘルペスの薬の処方。

これであきらめがついた。

というのは、順序からいうと、まず、今週は中山道に行きたかった。しかし、女性会の印刷が重なり、「え、何でこの週に?」まあ、仕方ないね、ということで、年数回しか取れないチャンスを、今回は主のために…お渡しした。岐阜のホテルをキャンセル。
その代り、B&Bでいいから近くに一泊してゆっくりしようか、と次に予約しておいたのだ。ところが、土曜日にショートに預けた母が、熱がある、酸素濃度もどうこうということで、翌日には戻って来た。ショートに行っている間に中山道を考え、次に近くの一泊と、予定変更してきたが、母が帰ってきたことで、それもキャンセル。

ところが、自分のヘルペス騒ぎとなったわけで、すべてのキャンセルが自分のためだったという「落ち」である。どこにも行かなくてよかった。行ったとしても、足をひきずっていたことだろう。

以下の写真は、私の記録です。見なかったことにしてください… m(__)m

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by rev_ushioda | 2018-05-02 17:18 | Comments(0)