2018年 05月 12日 ( 1 )

「傍観者」

ある時、郵送で送られてきた封筒を開けたら、いくつかの教会の「訪問記」が入っていました。その中に、泉教会もありました。誰が書いたか、すぐ見当がつきました。しばらく前に、ここまで何時間かかって来たと言われて、自転車で来られた人がいたのですが、その人でした。教会をキャラバンして、こうして訪問記を書いていたのです。その教会の様子や、牧師の感想などを書いていて、悪いことは書かれていませんでしたが、しかし、外側から教会を傍観して回る姿勢に、ものすごい違和感をおぼえました。この人は傍観者であり、評論家であり、そのことをもって自分を満足させるだけ、ただ通り過ぎて行くだけの人でした。おそらく今も、どこかの教会を傍観し続けていることでしょう。
そして、思いました。もしかしたら私たちもいつの間にか、礼拝者ではなく、傍観者に、キリスト者ではなく、評論家になる要素はあるのではないかと。
傍観とは、外側から見ることです。泉教会を構成している一人という、つながりからではなく、つながりを持たない外側から、教会を見るのです。その人は、当たり前ですが「私の教会」とは決して言わず、「この教会」と言います。私たちの中に傍観的態度があると、「この教会」と言って、批判的態度になるのが常です。すると、あのキャラバンする人のように、礼拝は守らない、献金はしない(教会を支えない)、いつも他の教会と比較する、…ようになります。教会を壊すものが、もし、あるとしたら、このような「傍観的態度」だということは、言うまでもないことでしょう。教理や、牧会の内容によって教会が壊れることはきわめて稀で、多くの教会で問題が起こるのは、「この教会」と言う、傍観的な態度が原因しています。悪魔が教会を壊すためにまず最初に用いる巧妙な方法は、果たして教会員の口に「この教会」と言わせることでしょう。
自分がはたして傍観者か、そうでないかをチェックする簡単な方法、それは、泉教会を「私の教会」「私たちの教会」と言っているか、いないかです。

[PR]
by rev_ushioda | 2018-05-12 17:23 | Comments(0)