「不活動会員」
2007年 05月 24日
礼拝に出ることができない、と一言で言っても、いろいろ事情がある。精神的やまいを背負うために人の中にいられない、という人。認知症のため、子どもの家庭に転居して行った人。もともと礼拝に出ていなかった他教会員を特例で教会員として迎えたために、初めから不活動会員である人。
それ以外では、自らの理由を持って離れた人もあるが、いずれにしても「会員」である。仲間である。そして、私はこのような仲間を持つことが、教会として大事な意味を持つことにもなると思っている。
昔は、不活動会員を持つことに何か後ろめたさだけがあった。しかし、少なくとも上の三つの例にあるような友たちを受け入れていくことは、誤解を恐れず言えば、教会としての使命のように感じる。
ここに述べなかった他の例も、みな、同じである。使命をどう形にするかは、悩むところであり、課題であり続けるが ―
しかし、このような悩みと課題を切り捨てず、持ち続けるところに、教会があるのではないか。