「自分の性格かも」

信仰、信仰と言うのですが、それは本当にキリスト教会が継承してきた信仰なのか、ということは考えてみる必要がありそうです。もしかしたら、ただ自分の願いや関心、自分の信条を聖書に読み込んで、気にいる言葉拾いをしているだけ、ということはないだろうか、ということを考えてみたいのです。

私自身、成育歴からして「マジメ」タイプの人間だと自他ともに認めていると思います。すると、自分の中に聖書の読み方がマジメになる、というカラクリがあることに、ある時、気づきました。聖書にある「きよさ」が妙にひっかかり、するとそのようなことを強調する神学もまた世にはあるもので、いつの間にかそういう教会に心魅かれたことが、若い時にありました。自分の性格や考え方に合う個所ばかりが気になり、自分に合うように聖書を読み込んでいる自分がいたのです。

同じように、厳しい人は、明けても暮れても聖書の厳しい教理ばかりに目が行ってしまうでしょうし -すると目の前の弱さを持った人を受け入れることが出来ない― 逆に優しい人は、明けても暮れても聖書の優しい個所ばかりを拾い出す -すると人間の罪に気づくことが出来ない- というようになると思います。そういう意味で、聖書を読むことは難しいのです。

以前も紹介しましたが、「カモレレロ」という文字を、日本人なら知っているカタカナで読んで、意味が分からないと言うのです。日本人ではない人は、(特殊フォントであるにはあるのですが)これをHELLO(こんにちは)と読んで意味が通じるのです。

聖書も同じです。今のカタカナのように私たちは自分が経験してきたことがあり、そしてそこで作られた性格や判断の仕方があって、結果、聖書をそのまま読むことが出来なくなっているのです。難しい、と言って離れるにしても、反対に、関心をもって深く読むにしても、私たちは自分の性格がそこで大きく動いて、その性格をもって聖書の言葉と向き合ってしまわないでしょうか。私は「気持ちの聴き方」という講座をしていますが、この講座によって自分の心の動き方に気づき、自分の性格や信条を聖書に読み込むのではなく、聖書が語るように聖書から聴くことが出来ればと願っています。


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by rev_ushioda | 2018-02-05 17:27 | Comments(0)