「20年前には気づかなかった」

2012年のブログに「殉教者の血が私にも」という記事を書いた。ネットの検索で知った自分の信仰上の血統について気づいたときの衝撃を書いたものだ。

しかし今日、書類を整理していて出てきたのが、「過ぎゆかぬものー私の6・26事件」と題した、『羊群』1991年6月号のコピーである。1991年といえば、ブログに書いた時より20年以上もさかのぼる。コピーをとっておいたにも関わらず、知識として知った、というただそれだけの話で、その時は何も考えなかった、ということである。
20年も経って、検索にかかった記事を見て、自分がどういう人間かということにはじめて気づいたのだ。召命感に一撃をくらい、もう堰を切ったようにしてあちらこちらでそのこと(自分は殉教者の信仰上の孫にあたること)を堰を切ったように話している。しかし、あの時は、あの時点でコピーを取っていながらも、自分に当てはめることをしなかったのだ。知識と、気づきは、このように違うものかと、唖然とする。

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Commented by ミリアム at 2018-05-09 22:32 x
知識と気づきの乖離に唖然とすることは、受洗してから何度かありました。
自分に引き寄せて考えることの難しさ、知識で止まってしまう自分の浅い
信仰を思い知らされます。

気づき、になって初めて、心に落ちる、ということでしょうか。

それにしましても、この「私にも殉教者の血が」という表現には
いつもどきりとさせられます。

思いがけず出てきた20年前のコピーが、先生をまさに気づきに
導いたのでしょうか。
不遜にもそんなふうに考えました。

これはいつかゆっくりと伺いたいと思っております。
by rev_ushioda | 2018-04-19 21:53 | Comments(1)