「20年前には気づかなかった」
2018年 04月 19日
しかし今日、書類を整理していて出てきたのが、「過ぎゆかぬものー私の6・26事件」と題した、『羊群』1991年6月号のコピーである。1991年といえば、ブログに書いた時より20年以上もさかのぼる。コピーをとっておいたにも関わらず、知識として知った、というただそれだけの話で、その時は何も考えなかった、ということである。
20年も経って、検索にかかった記事を見て、自分がどういう人間かということにはじめて気づいたのだ。召命感に一撃をくらい、もう堰を切ったようにしてあちらこちらでそのこと(自分は殉教者の信仰上の孫にあたること)を堰を切ったように話している。しかし、あの時は、あの時点でコピーを取っていながらも、自分に当てはめることをしなかったのだ。知識と、気づきは、このように違うものかと、唖然とする。
自分に引き寄せて考えることの難しさ、知識で止まってしまう自分の浅い
信仰を思い知らされます。
気づき、になって初めて、心に落ちる、ということでしょうか。
それにしましても、この「私にも殉教者の血が」という表現には
いつもどきりとさせられます。
思いがけず出てきた20年前のコピーが、先生をまさに気づきに
導いたのでしょうか。
不遜にもそんなふうに考えました。
これはいつかゆっくりと伺いたいと思っております。