「召天者を記念する」
2012年 04月 14日
私たちの教会ではイースターのあと、すなわちキリストの復活を覚える復活節という期間に、「召天者記念礼拝」をすることにしています。この時、私たちは「亡くなった方を記念したいなら、どなたでも」としています。未信者であっても、記念を共にする、という意味です。
上の聖書の言葉によると、キリストは、「捕らわれていた霊たち」「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」のところに行かれた、と書かれていて、4章6節で「死んだ者にも福音が告げ知らされた」と言い換えています。
「捕らわれていた」という言葉には、ここで「獄」という用語が使われていることから、捕らわれていたというのは、裁きということを意味しているのかも知れません。創世記6章によると、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔」され、洪水で滅ぼすこと(裁き)を決断されたのです。神は、ノアとその家族を大きな船、箱舟によって救われましたが、神が従うようにと待っているのに、従わない。そういう人々も、いたのです。彼らは、洪水で死んでしまいました。しかしキリストが宣教されたのは、そういう「死んだ者」のところであったと言うのです。
そうであれば、信じないまま死んでしまった家族はどうなるのかという問いに、答えがあるように思います。
主イエスは、「死んで葬られ、よみにくだり」と使徒信条は告白します。主イエスが私たちの死を死んでくださったこと、主イエスがよみにくだられたこと、そのことによって、死は、もう、望みのないものではなくなったのです。主イエスは、宣教のためにそこにもお立ちになるからです。こうして、私たちの死そのものの意味が変わってしまったのです。福音を聞くことがなく死んだ者を、私たちは、このキリスト・イエスに委ねることができるのです。
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