「受難節を迎える」
2012年 02月 15日
元来、この期間は、求道者が洗礼を受けるための準備に用いられたようです。
4世紀の終り頃のエルサレムでは、復活祭前の7週間、毎週3時間の受洗準備が行われていたという記録があるらしいのです。その後、この期間を求道者だけでなく全教会がまもるようにしたのですが、伝統的には、祈り、断食、慈善が勧められたようです。そのような節制の意味するところは、キリストの苦しみを分かち合うということです。ですから、結婚式などの祝い事はしなかったのです。しかし大事なのは、そういう内面的なことで終わりではなく、もう一つの、慈善へと昇華させたのです。受難節は、そういう期間でした。
そうすると、この期間は、言ってみればキリスト者の「修行」の期間と言えるのかもしれません。普段、いい加減な生活をしてきた人も、この期間は襟を正して礼拝に出るようにする。寄付などしたことがなかった人も、たとえば東日本大震災を覚えて義捐金を送る。身近では、礼拝での献金を大事にする。こうして、キリストに従い、新しい出発をするのです。それが受難節の意味なのです。
「受難節」を、なぜ「レント」と言うのかというと、「日が長くなる季節(つまり春)を意味するlengtenが変化した語とされる」(岩波キリスト教辞典)からだそうです。日本でも、まさに春を迎える良い季節に、キリスト者は「キリストの受難」を思いめぐらす(かつては断食もした)ことになります。それは、実にふさわしいことだったと思います。罪にまみれた人間は、放っておいて「春」を迎えられるわけではないからです。主イエスの十字架と復活によってこそ、私たちに「御国の春」が訪れるからです。
まず、どうか、これからの7週間、必死で礼拝を求めていただきたいと思います。大事にするためには、何かを捨てなければなりません。そういう「修行」していただきたいと思うのです。そして、春を迎えましょう。
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