「希望の物語に生きる」
2009年 12月 27日
東京大学の社会科学研究所がつい最近、2005年に立ち上げたプロジェクトである。現代は「希望」というものを見失っている、そうであってよいのかと、各分野の研究者たちに呼びかけて、希望を一つの学問として研究している、というのである。本が今年4冊発行された。テレビでも報じられたことがある。インターネットで、興味深く読んだ。
現代人は、どのような場面で希望を失うのか。その研究によると、原因の一つは、能力主義だそうである。能力があるなしで、人は勝ち組と負け組に二分されてしまう。能力を持っている人間は、その能力で右肩上がりの人生を描き、その一方で、能力がないとされれば、人生は下がって行くしかない、といった価値観があるというのである。そうした価値観からすると、いったん負けを経験すると、それが「道半ば」であって、結論はまだ見えていないにもかかわらず、もう、結論としての負けと思い込んでしまう。こうして、希望を失うのだというのである。
そうした昨今の価値観に対して、そこで言うのは、必要なのは、「物語」だ、というのである。
ちょっと補足すると、うさぎと亀の物語。この物語では、亀が遅いから負けだ、とはならない。そこに物語がある。物語は、簡単に勝ち負けをつけない。負けているけれども、勝つ、それこそが物語の醍醐味である。そういう物語が、人に希望を抱かせると、「希望額」は、いうのである。
そこで思うのは、昔も現代も、人間は、自分をそこに重ねることができる「希望の物語」がない、ということである。希望があると思った瞬間、するっと手の間から抜けていくのだ。村上龍氏『希望の国のエクソダス』、その中で、中学生は言う。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」。
そして、ここが大事である。クリスマスの物語こそ、「希望の物語」なのだ。
クリスマスに、天から降られた主イエス・キリストは、低いところにいる人びとに寄り添いながら、十字架で死なれ、墓の低さにくだり、さらに陰府にまでくだられる。しかし、この物語は、それで終わりではない。死の悲しみさえも、まだ、何も決定づけないのである。イエス・キリストは、三日の後に死の闇から引き上げられ、そこにさまよう人も、一緒に引き上げていく。こうして人は、神の命、聖霊に生かされる。
クリスマスのろうそくは、死や、混沌とした闇にも負けない、命の光の象徴である。イエス・キリストが神の物語を私たちのところに持ち込んできてくださった、だから私たちは、苦しみであっても、それを終わりとしないのである。そこには、「希望の物語」がある。そこに、自分を重ねたらいいのだ。
この希望をもって、希望を指し示す共同体として、私たちは世に生まれたのである。来る新しい年、2010年の歩みを、イエス・キリストを指し示すことで、希望の物語を作る歩みとしていきたい。
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