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「仮想現実」

テレビを見ていたら、ドキュメンタリーで、いわゆる「性依存」のことを放送していました。ネットを通じて知り合った男性との関係を転々とする。いわく、だれかに必要とされていたいのかな、と。性を媒介として孤独感を解消する仮想空間を作る、一種の仮想現実です。ゲームセンターに行くと、昔から、たいていどこにでも車を運転するゲームがあります。テレビ画面上に車のコースが映し出されています。テレビの前にある車のハンドルやレバーを操作すると、画面上の車を自分が運転しているような感覚で、画面が動いていくのです。今の言葉で言うと、仮想現実というものです。
同じようなもので、画面上の人物になれる、ロールプレイ・ゲームというものがあります。こちらが考えた動きがそのまま画面上の人物に反映され、そしてドラマが展開していくというゲームです。多くの場合は、非常に暴力的なゲームであり、またある場合は、人間は何度でも復活します。
こういう、仮想現実の世界に入り込んでいくときの危険性について、今、問題になっています。以前、飛行機の機長が殺されたハイジャック事件がありましたが、犯人は、テレビ画面上で何度も飛行機を操縦したから、本物も操縦できると思い込んだようです。そして何百人もの命を危険に陥れただけでなく、実際、機長の命を奪ってしまったのです。仮想現実によって、目の前にある現実との区別がつかなくなってしまい、命に対する感覚も麻痺してしまったのです。

ところで、聖書の中に、平和がない状況にもかかわらず、手軽に平和、平和と言いふらす人々があったとあります。平和であってほしい、という願いに対して、手軽に、平和、平和と言う。いわゆる、こうした仮想現実の世界を持ち込むのは、私たちの得意とするところでしょうか。人から相談を受けたとき、保証もないのに大丈夫だよ、と言います。あるいはその人の現実ではない私の経験を持ち出して、それはこうしたらいい、とアドバイスする。現実のその人と向き合っていない、仮想現実を提供しているだけの会話を、私たちも平気でしているようです。こうしたアドバイスされた人は、いつまでたっても現実に立てないままとなります。
聖書は、私たちの現実に立った話をしようとしています。あなたも泉教会においでになってみませんか。心から歓迎いたします。

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by rev_ushioda | 2011-11-20 22:52 | Comments(0)

「立ち止まってみる」

ある日、私が駅の自動改札を通ろうとしたらピンポーンという音がして、バタンと扉が閉まったのです。あれは、経験した方は分かりますが、とても嫌な感じですね。出てきた切符を見ると、どうも私が買った切符ではない。駅員さんに尋ねると、どうも前の人の切符が機械に詰まっていたらしいということで、無事、通らせてもらったのですが、しかしあのドキッとした感じは、まだ消えません。
私は、人生の終わりの時を考えました。自分では「これで良い」と、そういう自負を持って誰も生きているわけですが、しかしその自分の目には良い人生も、別の目から見ると、結構違う評価というのがあるのかも知れない。通れると思って行く、その最後の門で、警告音と共に急に扉が閉められる。
私たちは自分なりに真面目に人生を生きており、だから人からとやかく言われたくないという自負があります。でも、一生懸命というのは、たとえば高速道路を一生懸命に走る車を考えるといいと思いますが、極端に視野が狭くなり、周りが見えなくなるのですね。同じように、真面目で一生懸命であればあるほど、自分が中心の価値観を作っているのかも知れない。立ち止まって、視野を広げる必要があります。
聖書の中に、律法に従って真面目に生きている、いわば「善良な市民」が出てきます。彼らは、罪を犯した一人の女性をキリストのところに連れてきて、こういう奴は法律をきちんと適用して死刑にすべきだと、血走って言うのです。ところが、キリストは地面に何か書き続けていました。─ 沈黙の時が流れ、そして言われるには、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」。すると、一人去り、また一人去り、こうして皆、その場を去って行きました。キリストは、沈黙の時間を大事にされた。真面目で一生懸命になっている人々を立ち止まらせる、この「無駄なような時間」が大事だったのです。

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by rev_ushioda | 2011-10-27 09:20 | Comments(0)

「弱さを認める」

北海道のアルコール依存症の社会復帰施設で働く友人から送られてきた本は、施設で出会った人々との交流を、暖かな目線で描いています。アルコール依存になると、そこから抜け出るのがものすごく大変なのですね。その本にはアルコール依存者自身が書いた話も、載っていました。その人は、今度こそ、今度こそと本当に真剣に思いながら、しかし同じ事を繰り返して10回、20回と入院することになる。そのうちに家族、親族から見捨てられたと思う。あるいは本当に見捨てられる人も多いのですが、こうして居場所をなくして、私の知人が館長をする施設に入所してきたのです。
けれども、彼はいつもこう言っていた。「ここは宗教くさい」「世界で貧困や戦争戦争を起こしている原因は、宗教だ」「あいつが悪い」「ここのやり方が悪い」すべて悪口になる。万事そんな具合だったそうです。今は自分を見つめるのが大事な時に、いつも自分以外に目を向け、批判してきたというのです。

なぜ素直になれなかったかというところで、彼は「たぶん自分が弱い人間だと認めたくないからだと思います」と言います。回復するためには、どうしても「自分はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなった」と認めなくてはならないのですが、そのところでひっかかっている自分がいた。20回も入院を繰り返しているにもかかわらず、その弱さを認めたくない自分がいる。それで、自分を守るために周りを批判していた、と言うのです。

これは、しかし私たちの問題なのではないでしょうか。自分は弱い。しかしどこかで自分の弱さを認めるのが怖い。それで、人を批判する。批判しているうちは、自分に目を向けなくて済むからです。
この「からくり」に、私たちも早く気づいて自分の弱さと向き合うときに、私たちは本当に強くなれる。独り立ちできるはずなのです。そのために、教会という場は、きっとあなたの助けになるでしょう。

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by rev_ushioda | 2011-10-10 21:47 | Comments(0)

「出発の仕方」

あるとき、事情があって教会に2週間ほどお泊りになった親子連れがいました。そのお母さんは仕事を探していて、ある夕方、これから人と会って来ると言って出かけました。こんな時間に? と思いましたが、案の定、それはどうやら風俗関係の仕事の面接だったのです。この方の場合、軽い知的障害があってそれで離婚され、教会に一時的に転がり込むことにもなっていたのです。社会生活に適応する力が不足していたので、この時も自分がしようとすることがどういうことかは、分かっていない様子でした。だから説明もできなかった。ところが、不採用だったのです。どうして? と聞き返しますと、何か宗教を持ってるかと聞かれたので、とっさに泊まっている教会を思い出して、クリスチャンでもないのに「キリスト教です」と答えた。すると相手から、「じゃあ、あなたには無理だ。できないよ」と言われたというのです。
私は、この人が自分で判断する力がないまま、その仕事に就かなかったことを本当によかったと思いました。そして、教会から出かけて行って本当に良かった、とも思ったのです。
出かけて行って何でもできるなら、それにこしたことはありません。しかし、「それはできない」と、道を閉ざされる出発の仕方だって、大事なのではないでしょうか。何でもしよう、と思った瞬間、心にきちんとブレーキがかかるような出発の仕方があるのだと思います。パウロという人は、自分は「イエスの焼き印」を身に受けていると言いました。自分はイエスの命に生かされている、恵みに捕まえられている、という意味です。イエスの命に生かされ、恵みに捕まえられている人、「イエスの焼き印」を身に受けている人は、できないことがあるのです。しかし、これは不自由なことなのでしょうか。決してそうではないのです。
私たちは、いったいどこから出発しているのか考えたいのです。そして願わくは1週間ごと、初めにご紹介した女性のように、教会という、祈りの場所から出発してみていただきたいのです。もう一つのドラマがきっと生まれます。

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by rev_ushioda | 2011-10-04 09:59 | Comments(0)

アウシュビッツといえば、誰も一度は聞いたことがあるでしょう。第二次世界大戦の時、ヒトラー率いるナチスドイツが、罪もないユダヤ人を強制収容し、600万人もの人々を虐殺した場所が、アウシュビッツです。ここで生き残った人はきわめて少数ですが、その一人に、ビクトール・フランクルという人がいます。フランクルの家族は収容所で餓死、または毒ガスで殺されますが、フランクル自身は、強制労働と極度の栄養失調によく耐えてこの収容所から奇跡的に生還したのです。この人は精神医学者でした。それで後に自分の体験を書いた本を出版しました。「強制収容所における一心理学者の体験」という本で、日本では「夜と霧」という題で知られています。そこでこう言っているのです。「助かる見込みがない状況の中では、残りの人生に何か期待できるものを探してみても、絶望しか発見できないだろう。考え方を変えてみよう。私が、残りの人生に何かを期待するのではなくて、残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。」

残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。それによって、死に向かう苦しみの中でさえ、なお生きる意味を見出すことができる。残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。それによって、苦しみと前向きに向き合って、苦しみを背負って生きることもできるようになる。そう言ったのです。

残りの人生が、私に期待している。言い換えましょう。神が、私の残りの人生に期待し、神が、私の残りの人生を必要としているということです。聖書の言葉。「起きよ。光を放て。あなたを照らす光は上り、主の栄光はあなたの上に輝く。」栄光は君に輝く。何か高校野球の歌みたいですが、本当にそうなのです。主なる神は、あなたの残りの人生に光を照らし、あなたの残りの人生を必要とされています。今、どんなに苦しくても、どんなに困難があっても、神はあなたを期待している。今日は、あなたの残りの人生の初めの日なのです。あなたに、神の平和がありますように。

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by rev_ushioda | 2011-09-18 06:26 | Comments(0)

「生まれる前から」

私たち夫婦には、2人の娘がいます。けれども、上の子が産まれる前に、私たちは2人の子を流産で失っています。そして下の子が産まれるまでにさらに1人。こうして、3人を流産で亡くしました。ですから、上の子の時も下の子の時も、大事をとって妻は10か月間、完全に寝たままの状態でした。流産を繰り返す中で、病院も、普通では産むことが出来ないけれど、どうしても子どもがほしいという人が全国から集まってくるという、鎌倉の病院を紹介されました。それでも、上の子の時はいよいよ危なくなって、出産前の4か月間は、入院ということになりました。一生懸命でした。命と向き合う日々でした。幸い産まれてからは健康で、成人式を迎えた時、親ばかですが、イルカの「なごり雪」をプレゼントしました。「今、春が来て、きみは、きれいになった・・」鎌倉に通った日々を思うと、とてもうれしかったのです。人が産まれるというのは、当たり前ではない。あの時に読んだ聖書の次の言葉を、今でも宝物のように思っています。
「あなたは私の内臓を造り、母の体内に私を組み立ててくださった。…胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書(書物)にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」
私たちは見ることがありませんでしたが、造り主である神は、私たちの胎児を見ておられたのです。まだ一日も造られないうちから、もう、知っていてくださったのです。私たち夫婦は流産の子をこの手に抱くことは出来ませんでしたが、その理由もわかりませんが、神はその子も、一人の命ある人として天に迎えてくださったのです。何という慰めになったことでしょうか。
しかしこれは、流産の子どものことだけではありません。私たち一人一人のことでもあります。神さまは私たちを、実に産まれる前から、目の瞳のように慈しんで愛していていてくださったのです。そしてこの世に生を与えてくださった。人が産まれるというのは、創造主のわざです。命を創造する方に、あなたにも出会っていただきたいのです。

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by rev_ushioda | 2011-09-05 17:40 | Comments(0)

「あなた危篤ですよ」

私は、牧師として病院に行く機会が多いのですが、ある時、こういうことがありました。一人のご婦人が心臓を悪くされて、救急車で運ばれて入院されたのです。ところが、この方の家は古い団地でした。団地というのは何かあるとすぐ人のうわさになりますが、まして救急車となれば、窓という窓から見下ろされるわけです。このご婦人は、とにかくそれが嫌だった。具合は悪かったのですが、ようやく近くにいる息子さんのアパートまでたどりつき、そこから電話して救急車を呼んだのです。
病院に着くと、ドクターは言いました「あなた、危篤ですよ」。
何と、危篤であったにもかかわらず、このご婦人は、恥ずかしいとか、嫌だとか、そういうことを言っていたのです。
いかがでしょうか。実は、これは私たちにも当てはまることだと思うのです。私たちの感覚や、考えること、行動は、結構、当てにならないのではないかと思うのです。狭い知識や限られた経験の範囲で、いいとか悪いとか、言っている。専門家からすれば危篤なのに、私たちの方では結構、流暢に時間をもてあそぶことがあるわけです。
聖書の人間の見方は、決して楽観的ではありません。それは、私たちも薄々、気付いていることなのです。不安な気持ちになることがあり、言い知れない恐れを感じることもあります。その割に自己中心で、人をねたみ、嫉妬を持ち、敵意や怒りを抱きます。危篤の兆候が明らかであるにもかかわらず、専門家のところに行きません。主イエス・キリストはこう言っています「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
自分は丈夫だ、正しい、また先ほどのご婦人のように恥ずかしいとか見栄を張るのはもう止めて、適切な治療をして人間を回復してくれるキリストのもとに、一日も早くあなたの荷を降ろしていただきたいのです。

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by rev_ushioda | 2011-08-21 23:58 | Comments(0)

「雀の母さん」

テレビCMに金子みすずの詩が流れました。
子供が/子雀/つかまへた。その子の/かあさん/笑ってた。雀のかあさん/それみてた。お屋根で/鳴かずに/それ見てた。
前半には、私たちが目にする日常的な光景がうたわれています。ほほえましさを感じます。しかし、後半に移って雀のお母さんの視線が入ってきた時、その日常的な風景が一変します。雀のお母さんは、人間の手にある我が子を、かたずを飲んで見ている。たとえ子どもが子雀をかわいがっていたとしても、お母さん雀は自分の手に届かないところにいる我が子を、心配そうに見守っているのです。その視線を感じているか、いないかで、私たちの生活の意味が、生活の仕方が変わってくる。私は、この詩をそのように読みました。(CMは、おそらく間違った理解の仕方をしていると、私は思います)
自分たちがいつも見ている視線ではなく、そこに飛び込んでくる第三者の視線でモノを見るということは大事なのではないでしょうか。自分たちが普通に、まったく問題なく営んでいると思っている生活であり、これからも順調に進むと見えた光景も、そこに飛び込んでくる第三者の視線で見て初めて、ああ、そういうことだったのかと本当の意味がわかるのです。
キリストの出来事、またその言葉は、まさに私たちの生活に飛び込んできた出来事であり、言葉であり、視線でした。順調に、うまく人生を作ろうとしていた私たちのそばに、キリストの言葉、その生き方、そして人々との出会いが、置かれたのです。弟子たちを見ると、彼らなりにうまく作ろうとしていた人生があった。しかし、それがキリストとの出会いでひっくり返されていくのです。一度ひっくり返されて、そしてここが大事なのですが、確かなものになっていく。意味を持っていく。私たちは、他の視線を何も感じないで、何もひっくり返されないで、自分なりの人生や考え方をさらに固くしようとしているのではなかったでしょうか。そういう私たちに注がれるキリストの視線に、今、気付きたいと思います。

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by rev_ushioda | 2011-07-17 16:39 | Comments(0)

「畏れるべきを知らず」

いったい、大津波を人間の構造物で防げるのでしょうか。原発は安全だという人間の英知は、自然を越えることができるのでしょうか。
ある年のこと、丹沢でキャンプ中、大雨のため増水した沢に家族も、仲間も押し流されたという痛ましい遭難が起きました。キャンプ用品が手軽に揃うようになったし、車でどこにも行けるという気安さから、いわゆるキャンプ・ブームになっていますが、問題は、自然との付き合い方です。こちらは気軽な感覚になっていますが、自然は昔から何も変わっていないというところに、落とし穴があるのです。町の中にいるようにしてキャンプに行くと、自然の力に驚かされる。こわい目にも遭う。自然とは何か、感覚が麻痺しているのです。町の中であっても、コンクリートに固められた川、下水での急な増水による事故が起こっています。人間は何でも思い通りやってきたのですが、思いのままにならないものがある、ということに気付かなければなりません。つまり、そういうものを正しく畏れる、正しい関係を作るということが大事なのです。
もう一つ、人間が畏れることを知らなくなったものがある。神への畏れです。私たちはキャンプしてはいけないところ、丹沢ではあの中州でしたが、そこにキャンプしているのではないでしょうか。神なしの、神を畏れない生活をしているのです。
丹沢の中州にいた人たちは、「危ない」と何度も注意されていたと聞きます。しかし目の前の楽しさが優先していたように、実は私たちが、そうなのです。「聖書を読まなくたって大丈夫。祈らなくても、教会に行かなくても、大丈夫。関係ない」と言って、自分の生活スタイルを変えないのではないでしょうか。今の自分の生活、つまり中州に張ったテントという生活、神なしの人生を動かさず、神を畏れる人生を作ろうとしないのです。
自然と正しく付き合えばすばらしい体験ができるように、神を正しく畏れ、良い関係を持つ人生に、あなたのテントを少し移動してみませんか。

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by rev_ushioda | 2011-07-11 12:54 | Comments(0)

「線で読む聖書」

聖書は1冊に編集され、製本されていますが、実は66もの小さな本からできています。その1冊の、たとえば福音書を日曜日の礼拝で少しづつ読んでいくと、読み終わるまで2年以上かかります。一気に読めば数時間で読めてしまう本を、2年、かけるのです。
私は、このような長さで聖書を読むということは、本当に大事なことだと思っています。2年といえば、そこにはどういうことがあるでしょうか。楽しいことも、もちろんあるでしょう。しかしまた、人間関係が悪くなることも、リストラに遭うことも、あり得ます。病気をしたり、思いがけない事故に遭うことも、そして、家族の誰かが亡くなるということだって、あります。そういう2年にわたって聖書が読まれるということは、聖書は、今言ったどの例に対しても問題をごまかしたり、逃げたりしないで答えている、ということになります。
アメリカのあるクリスチャンの家庭にホームステイさせてもらった時のことです。その家庭では数か月前に息子さんを自殺で亡くされていた、ということを知りました。そういうことだったら、予定されていたこととは言え、ホームステイを断わってくれてもよかったのに、と思いましたが、彼らはそうしませんでした。お話を聞きながら気付いたことは、この辛い出来事の前にも後にも、彼らは教会の礼拝に通い続けていたということです。聖書を読む生活を続けていた。聖書は、このような思いがけない出来事にも、問題をごまかしたり、逃げたりしないで、この家庭に語りかける言葉を持っていたということでした。
すれ違いざま、ひと言ふた言、言葉をかけて終わり。責任も持たない、という時代に、聖書の言葉は2年どころではありません、生涯にわたって、あなたに責任を持つ言葉であるのです。そのことを、私は35年の牧師としての経験から、そして45年にわたって聖書を読み続けてきた経験から、確信することができます。

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by rev_ushioda | 2011-04-11 09:23 | Comments(0)