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「無に等しい者」

聖書の中に、「神は…世の無に等しい者…を選ばれた」という言葉があります。「無に等しい者」というのは、「無価値」「役立たず」の者という意味です。しかし、「神は…世の無に等しい者…を選ばれた」というのです。
私たちは、誰も皆、人から「無価値な者」つまり「役立たず」と言われたくないし、思われたくないのです。それで無意識のうちに、職場や地域、人間関係のあるところではどこでも、自分は役立たずではない、と演出しているのです。人に少し背伸びして見せている、ということです。表で知らず知らず背伸びしているから、だから内側で疲れてしまうのです。

「ホルモン焼き」という赤ちょうちんを見たことがあるでしょう。どんなものを焼くか、ご存知ですか。ホル(捨てる)モン(物)、つまり牛や豚の内臓は捨てられていましたが、焼いて食べてみたらおいしかったので、大阪の一杯飲み屋で売ったところ、全国に広がったそうです。ゴミとしか考えられていなかったものに特別な使い道が発見されて、一度に宝に変身したのです。

話を戻しますが、「世の無に等しい者…を選ばれた」方がいると、聖書は言っているのです。私たちがたとえ「無価値」「役立たず」と人から言われ、落ちこんでしまっても、その全存在、ありのままを受け止めてくれる方がある、と言うのです。それが、聖書が私たちに紹介している、神という方なのです。神は、「世の無に等しい者」をあえて選んでしまわれる。その人に固有の、人間としての値打ちを見られる。神は、こうして、どの人も明日に向けて力強く生かすことがおできになる。まことにダイナミックな方なのです。
神さまは、一人一人に価値を見出し、生きる意味を与え、その人に一番合った役割を与えて、今日もこの世に生かしていてくださる方なのです。私は、あなたにそのような方と出会っていただきたいと思っています。あなたが私たちの教会をお訪ねくださるのを心からお待ちしています。

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by rev_ushioda | 2012-10-09 23:59 | Comments(0)

「要領が悪くても」

世の中どうも、大きいもの、力のあるもの、要領のいいもの、速いもの、そういうものばかりが得するように動いているようです。そうでないものは置いて行かれるような、寂しい気持ちにさせられてしまいます。そんなことでいいのかなあ、なんて考えていると、もう世の中、先に進んでいて、家電のお店なんかに行くと、見たこともないものがあって「何、これ」から始まるのです。
ところが聖書では、たとえば羊100匹の内1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しても、迷い出た1匹を捜しに行くのです。キリストは、迷い出た、要領の悪い、歩みの遅いその一人のために来られたのだと言う。大きいもの、力のあるもの、要領がいいものなどとは無縁に、キリスト教は、小さな一人と共に生きることを大事にしてきたのです。
私が以前いた教会に、役員をつとめた女性がいらっしゃいました。この方が亡くなってからご主人が話してくれたことによると、実はこの方は小学校3年までしか出ていませんでした。字が読めない。教会に行っても、聖書が読めない。それで、ずいぶん努力して勉強を始めたのだそうです。しかし教会の役員になったときは、さすがにご主人、叱りつけたというのです。「字も読めないお前に何ができるか(断りなさい)」と。
その通りです。字が読めないなら役に立たない。これが世の中の常識かも知れません。しかし、キリストの常識ではありませんでした。キリストはまったく違う価値を計られます。彼女は、こうして教会で見事に用いられたのです。何よりも、字が書けないことを一番よく知っているのは彼女自身でした。にもかかわらず、彼女は「私でもお役に立つなら」と、身を乗り出したのです。
教会は、決して何かできるかどうかとか、要領のよさとか、そのようなこの世の基準に支配されないところなのです。

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by rev_ushioda | 2012-09-29 10:11 | Comments(0)

きょうは、星野富弘さんの詩を紹介したいと思います。

「花が上を向いて/咲いている/私は上を向いてねている/あたりまえのことだけれど/神さまの深い愛を感じる」

人間が上を向くということに深い慰めと安らぎを感じるという詩です。考えて見れば、落ちこんだとき、悲しいとき、途方に暮れたときは、人間、下を向きますね。でも、一日が終わって寝るときは、皆、上を向くわけです。下ばかり見ているから、一日の終わりには上を向かされる、と言ったらよいのでしょうか。星野富弘さんは、そこに神さまの深い愛を感じると言っています。
もう一つの詩です。

「ひとは空に向かって寝る/寂しくて空に向かい/疲れきって空に向かい/勝利して空に向かう/病気の時も/一日を終えて床につくときも/あなたがひとを無限の空に向けるのは/永遠を見つめよと/いっているのでしょうか/ひとは/空に向かって寝る」

あなた ─ この呼び掛けは、クリスチャンである星野富弘さんにとって神さまですが、「あなたがひとを無限の空に向けるのは/永遠を見つめよと/いっているのでしょうか」。─ 私たちは、永遠に向かって目を上げるようにと招かれた者だと言っています。そのとおりだと思います。私たちの思いは小さくなっているのです。神さまはもちろん、神さまの働きも、その力も、栄光も、広さも高さも深さも、見えていないのです。だから、当然の結果として人生を狭くしか見ることが出来ません。自分も小さく、つまらないものにしてしまい、生きている実感がつかめないままなのです。永遠に向かって目を上げることが出来ないとき、思いは、地に落ちるしかないでしょう。あなたの思いは永遠なる神さまに向かっているでしょうか。ぜひ、そうであってほしいと思います。
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by rev_ushioda | 2012-09-22 20:42 | Comments(0)

「キリストの関心は」

私たちの教会は、カンバーランド長老教会と言う群れに属しています。ある時、静岡県富士市と清水市の間に蒲原郡というところがあることを知り、カンバーランドとカンバラ、何か似ているなあということで、以後、私には何かと気になる地名になりました。自分に関係のある名前に、私たちは興味や関心を持ちます。
ある牧師が「聖書の中にカナガワがある」と言っていましたので、見ると、なるほどカタカナで「カナ」という川「カナ川」(ヨシュア記16:8)があるのです。そうなると、発音が似ているというだけで、不思議にそこに関心が向かっていきます。それはどこにあって、どういういう川かなど、ここでも自分と関係のある名前に興味を持つのです。そしてそのような興味や関心がある一点から、ぐっと視野が広がっていくから不思議です。それまで漠然と読んでいた聖書も、身近に感じられるに違いありません。
私は、思い立って、泉教会の会員になった人に「クリスチャン・ネーム」を差し上げることにしました。聖書の中の人物を選び、会員になった人にプレゼントするのです。そうすると、聖書の人物は自分に関係のある名前になります。自分に関係するその人物に興味が湧いてくれば、聖書は、ぐっと身近になるに違いありません。
さて、そのように私たちは自分に関係があるものに対しては興味や関心を持ちますが、ここで話が少し飛ぶことを許していただいて、キリストという方は、では何に関心を示しておられるのでしょうか。ここが今日のお話なのです。キリストは、この私たちに最大限の関心を払っていてくださるのです! 私たちが無関心の時さえ、キリストはすでにご自分とこの私たちとを関係付けて見ていてくださっているのです。聖書に、こう書いてあります。「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」。「囲いに入っていないほかの羊」(私たち一人一人)を、もう、見つけているのです。

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by rev_ushioda | 2012-08-07 17:06 | Comments(0)

「私物化しない」

作家の三浦綾子さんは、文学という方法で、日本人にわかりやすくキリスト教、そしてクリスチャンの生き方を紹介した人です。─ さて、その三浦綾子さんのひとつのエピソードが、私には印象深く記憶に残っています。それは、家を新築した時のことでした。秘書がお祈りしてくれた。その祈った言葉が、夫婦を「あっ」と言わせたそうです。その方は「この家が、私物化されませんように」と、こう祈ったそうです。
私物化とは、私のものにしてしまうことです。だいたい、家とか住宅というものは本来「私物」です。「もっともプライベートな場所」であると思います。その家が私物化されませんように、というお祈りに、さすがの三浦綾子さんもびっくりさせられたそうです。しかし、そこで考えみると、やはりその通りだ、とも言っているのです。家も、どのような所有物も、命さえも、神のみこころにかなった使い方がある、そのような気持ち、心構えというものが大事なのだと。
私も思うのです。自分のものを自分でどう使おうと勝手ではないか、と私たちは言うのですが、本当にそうでしょうか。私物があるのは大事です。しかし、それを「私物化する」ことが問題なのです。その結果、自分を破壊し、周りが迷惑することがたくさんあるのです。自分の会社でどう仕事をしようが勝手であると言った結果、放射能漏れを起したり、東日本大震災のあとは、原子力そのものが問題になっています。資源を人間の都合の良いように使い始めた私物化の結果、原発事故が起り、住民は故郷を追われ、帰れる当てもないという状況なのです。資源は正しく管理すべきもので、人間が都合よく使い始めてはならないのです。
私物、自分のものを、しかし私物化しない。三浦綾子さんが言うように、それを与えてくださった、本来の持ち主である神のみこころにかなった、生き方や使い方をすることが大事なのです。

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by rev_ushioda | 2012-07-30 22:24 | Comments(0)

「べてるの家」

ある時の新聞の社説に、北海道浦河町にある「べてるの家」が紹介されていました。聖書で「神の家」という意味がある「べてるの家」は、日赤病院精神科と連携して、キリスト教会が運営する作業所やグループホームです。100人を越す元精神科の入院患者が昆布の産地直送事業を行い、年商1億円。地元の大企業になりました。年に一度の総会の時に、町ではもう有名になったと言われる、幻覚妄想大会が行われます。「今年のグランプリは…」と、ユーモアたっぷりにその年の際立った妄想や幻覚を表彰していくのです。「あなたは昨年のクリスマスイブの夜に、2階から宇宙船に飛び乗ろうとして転落、両足首を骨折。病院まではってたどり着きました。もし再びUFOにお乗りの際は、主治医である私も誘っていただき、一緒に宇宙のかなたに飛び立とうではありませんか」。
幻覚妄想のない、人格のたとえば1割を相手にするのではなく、幻覚妄想がある9割と、丸ごと付き合ってしまおうというものです。ユーモアを交えて、マイナスを個性として受け止め、隠すことなく、地域の人々も含めてみんなと共有し合って、笑い、いきいきと生きている人の姿が、ここにはあります。
キリストは人々の中で、人をそのまま、あるがままに受入れ、人を、その人に一番ふさわしく生かしていきました。そのように、今、教会は浦河の町に溶け込んでいるのです。
賛美歌に、キリストの招きの言葉が歌われています。「ここに私はいます、ホームレスの眠る街。ここに私はいます、凍える子の涙にも。あなたは?」
キリストはホームレスと共に、凍える子どもの涙と共に、そして、幻覚妄想に生きざるを得ない人々の中に、今、共にいてくださるのです。その時、私たちはいったいどこに立とうとしているのでしょうか。あなたも日曜日、泉教会でイエス・キリストに向かって心を高く上げてみませんか。

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by rev_ushioda | 2012-06-15 10:35 | Comments(0)

「何を聞いているか(2)」

アメリカで、心理学を学ぶ学生が、ある実験をしたのです。路上に財布を落しておいて、どのくらいの人が届け出るだろうか・・それを調べた。普通の日は、一定の割合でちゃんと届け出があったそうです。

しかし、届け出が極端に減った日があった。その日というのは、ロバート・ケネディ上院議員が暗殺された日であったそうです。
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古い話で恐縮ですが、人は毎日、いろいろな言葉を聞くわけです。ところが、どうも聞かされるその内容で、自己イメージを作るものらしい、というのです。聞かされるその内容で、人間不信のイメージを持つことも、人間信頼のイメージを持つこともある。暗殺のニュースを聞いた時、人はそれを聞いたことによって人間不信のイメージを持つようになった、というわけです。

不幸に見舞われた時、人の心は大きく動揺します。しかし、ここが大事なところなのです。私たちは、日頃何を聞いているか。日頃聞いている、その言葉で生きるしかないのです。あなたはダメだ、人間はダメだ、と言い聞かせられ、思い込まされてきた人は、何かあったその時は、危機的です。外からのダメージに加え、自分が自分に向かって「お前はダメだ」と言い始めるのですから、立ち直る力がありません。
ところが人間の「可能性」についてのイメージを持ってきた人は、不幸な出来事によって打ちのめされることはないのです。「お前は愛されている」「お前は大丈夫だ」というメッセージを自分に送ることができるのです。こうして、不幸と見える出来事さえも、きっと大きな転機へと、変えていくことができるのです。
イエス・キリストは、「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。まさに「何を聞いているか」ということなのです。私はここで、2,000年もの間、世界中の人に希望を与え続けてきた、聖書に聞く大切さをお話しているつもりです。あなたも、この言葉を聞いてみませんか。この言葉は、必ず自分を愛せるようになる言葉です。危機に強い言葉です。泉教会では、初めての人も気兼ねなく、聖書のお話を聞くことができます。

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by rev_ushioda | 2012-03-05 21:27 | Comments(0)

「何を聞いているか」

私の住んでいる地域は「谷戸」と言います。小学生の頃、地域ごとで組み分けされる時の名前でしたが、その意味もわからずに、自分の地域は「やと」なんだと受け入れていました。しかし、それは漢字の「谷戸」ではなく、ひらがなによる記憶でした。最近になって気付きました。急に思いついたというか、別に考えていたわけではないのですが、その意味が、ふと、わかったのです。「谷戸」という言葉は、水田などがある湿地帯という意味だということは知っていました。しかし、それが、自分のいる地域の名前だったのだ、と。子どもの頃は、意味も知らず、ひらがなで「やと」と言っていたのが、50年以上も経って、今になって、意味が急に浮上してきたというか、ああ、そうか。ああ、そうか。という感じです。そういえば、子どもの頃、よく水田や川で遊んだものです。私は、水田や川がない土地に行くと妙に落ち着かないのです。やはり、谷戸育ちの人間なのです。そういう生活と、谷戸という言葉が一致した瞬間でした。
意味も知らず、だから、ひらがなでしか言えないようなことがあります。しかし、意味も分からず繰り返し言っていることの意味が、ずっと後になって「ああ、そうか」とうれしく思い出されることがあるのだ、ということです。
聖書の言葉も、教会で繰り返し唱えられる「使徒信条」「主の祈り」も、きっとそうなのだろうと思います。その時はすぐに意味が分からないかも知れません。しかし、ずっと後になって、「ああ、そうか」と思える時が来る。腑に落ちる。それこそ、その時には、人生を支えるほどの意味を持つことにもなる言葉が、ここにあるのです。そう考えると、今、どういう言葉を聞いているかは、とても大事なことなのです。
ある時、遠足に行くバスの中で、子どもたちが遣り取りしていました。「あなたは何のために生きるのですか?」「神さまの栄光をあらわすためです」。教会で教えた言葉でした。意味を知るのは、ずっと後でしょう。しかし、この言葉を口ずさんで生きる子どもは、命ある日々を大事にするでしょう。たとえ何度繰り返されても、またかと思わず、あなたも、「教会の言葉」を聞き続けていただきたいのです。

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by rev_ushioda | 2012-01-28 11:26 | Comments(0)

「幸せなら手をたたこう」という歌がありました。歌手の坂本九(故人)が歌ったこの歌は、東京オリンピックを契機に、世界中で歌われるようになりました。
さて、この歌の作詞者は早稲田大学の木村利人さんで、クリスチャンです。大学生であった頃、日本のYMCAを代表してフィリピンの農村でワークキャンプに参加しました。その村は、しかし、戦争中、半日ゲリラがいるということで日本軍が村民を教会に押し込め、火を放って皆殺しにしたという村だったそうです。現地の人から次々、同じような話を聞かされた。いまだに激しい反日感情があったのです。そういう中でも、しかし聖書を読み合う仲間が与えられ、やがて、赦しの言葉を聞くようになっていったのです。すさまじい半日感情を持っていた村の人たちが、次第に心を開き、親切を態度で示してくれるようになったことに本当に感動したのです。
そして思ったのは、我々はキリストにあって一つ。現在の平和の幸せに感謝し、二度と戦争を起こしてはならないということでした。たまたま、村で子どもたちが歌っていたスペイン民謡が心に残り、その曲に、詞をつけた。聖書の言葉「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」(詩編47:1)がヒントになり、態度で示してくれた村の人たちに感謝をこめ、「幸せなら手をたたこう、幸せなら態度でしめそうよ」という詞になったのです。初めは「幸せなら祈りましょう、アーメン」という言葉もあったそうです。早稲田の学生たちが歌っていたこの歌を、新宿の歌声喫茶で坂本九のディレクターが聞きつけ、レコード化、東京オリンピックではソ連の体操チームが入場歌として使った。世界的な流行歌になったのです。
平和の喜びを、態度に示すことが、いよいよ大事な時代になったと思います。キリストの言葉に「平和を実現する人々は、幸いである」とあります。木村さんやフィリピンの人たちのように、私たちも共に聖書を読み、和解に導かれ、そして、共に平和のために力を合わせる世界を作りたいと思います。
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by rev_ushioda | 2012-01-15 21:35 | Comments(0)

私たちは、鏡があれば自分を見ることができます。しかしそれは外側の姿だけであって、内側の自分、本当の自分が見えてくるのは、「自分とは違う人」と出会うことだと、古屋安雄さんという方が言っています。生まれてからずっと、ほかの人との出会いによって、自分と出会ってきたように思う、と古屋さんは言うのですね。
外国で生まれた古屋さんは、こう言います。外国人との出会いによって、自分が日本人であることを知った。アジアからの学生との出会いで、日本の持っている問題を考えさせられた。それで、ひょっとしたら人間は自分とは異質のほかの人と出会った時しか、本当の自分とは出会わないのではないだろうか。そういう意味で自分とは異なる偉い先生たちと出会ったのは自分にとって幸いだったし、逆に、学者や知識人からは異質な人との出会いによってもまた、多く気づかせてもらった。たとえば戦争に出て行くとき「死ぬじゃない、生きて帰って来い」と命の尊さを教えてくれたのは学のある先生たちではなく無学の老婆だった。さらにキリスト者の自分にとっては仏教や神道など、異なる宗教を信じている人との出会いもまた貴重だった。自分が信じているキリスト教とは何かを逆に教えられたからと、そういうことを言って、古屋さんは最後にこう言うのです。
私にとってまったく異質なのは、聖書で出会う、聖なる神にほかならない。私はこの神をまず父母から、さらに学園の恩師を通して教えられて今の自分になったが、この神によって、本当の自分に日々出会わされている。なぜなら、この神の前で、自分がいかに自己中心であるか知らされるから。

ずいぶん長く引用し、紹介しました。私たちは、自分とは決定的に違う、神に出会ったとき自分を知ることになるのです。自分と出会うため、あなたにもイエスという神に出会っていただきたいのです。

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by rev_ushioda | 2011-12-29 10:14 | Comments(0)