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「息をする」

ある時、チェロを弾く方のお話を聞かせてもらったことがあります。チェロというのは、バイオリンを大きくしたような楽器です。この人はアマチュアですが、チェロを愛して、演奏会にも度々出ます。演奏していただき、その後、いろいろお話を聞かせてもらったのですが、特に心に残るお話がありました。それは、良く整備されたチェロをピアノの下に置くと、ピアノを弾いた時にチェロが鳴り出す、というのです。私は、「ああ、それは空気の振動が伝わるために起こる現象(共振)だ」と思って聞いていたら、その人は「チェロは息をしている」と、言うのです。その時、私は、そうか、この人は空気の振動くらい、わかった上で話をしている、と思いました。ピアノによって鳴り出すとき、チェロは息をしている。生きていると、この人は本気で言っていたのです。チェロを愛するとは、そういうことなんだなあと、思ったのです。

さて、神によって、あるいは聖書によって生きるというのは、非常に宗教的なこと、特別な人のすることだと多くの人が思っているのですが、神を信じるというのは、別に宗教的なことなんかではありません。神を信じて生きるというのは、私たちが息をするようなことなのです。
ピアノの下に置いたチェロが、ピアノを弾いた時に鳴るように、私たちも上から響く神の呼び掛け、と言ったら良いのですが、聖書の言葉を読んで、ああ、そうだなあ、そうだったのか、と思う。今まで間題の中をぐるぐる回っていたのに、ふと、生きることができると思う。それは、息をすることなのです。息をするというのは、人間の心にとって大事なことなのです。聖書が語りかけて来る言葉、その言葉に向かって、その言葉に引っ張リ出されるようにして、ピアノの下のチェロが鳴るように、私たちも「息をし始める」ということが起こる。その時、あなたはもっと自由になります。

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by rev_ushioda | 2013-06-08 17:02 | Comments(0)

「先進抗」

以前、私は青森県の竜飛岬に行ったことがあります。当時、ちょうど青函トンネルの工事が進行中で、岬の先端に、そういうところの地形とは不釣合にちょっとした町ができていました。陸から海に向かって目を転じると、そこは津軽海峡です。海峡だからでしょうか、何か海が大きな川のように動いている、という印象を持ちました。ああ、この海の下をトンネルでつなぐのか、すごいなあ、という感じでした。
それからしばらくして、新聞に「先進坑が開通」という記事が載りました。北海道側からの試験トンネルと本州側からの試験トンネルとが海の下で繋がったというものでした。万歳をしている写真がありました。それは本トンネルではありませんが、試験トンネルがつながった以上、本トンネルは保証されたというほどの喜びだったのです。

私は、いつもそのことを思い起こします。あの津軽海峡のような海しか見ない時には、まさかその下でトンネルが掘られているなんて信じられないわけです。同じように、現実しか見ていない目には、キリストが死を突き抜けて行かれたという聖書の記事は、何のことだかわからないのです。しかし、たとえあの津軽海峡のような、渡るに困難な現実が横たわっていようが、そこに希望が見えなかろうが、キリストは私たちの中で死の壁を破って復活されたのです。先進坑を繋げられたのです。私たちが通っていく本トンネルはこれからですから、苦しみや、問題は多いでしょう。しかし、もうキリストはトンネルを貫通させているのです。もう勝負はついている。キリストは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。このキリストと出会い、このキリストを信じていく者は、いかなる困難の中でも恐れに支配されず、不平不に魂を売り渡さず、正々堂々、歩んで行くことができるのです。泉教会で、あなたの目をキリストという先進坑に向けてみませんか。

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by rev_ushioda | 2013-06-02 08:57 | Comments(0)

「神のコメント」

私たちの教会は、以前、文化センターのギャラリーを借りて、美術展を開催したことがあります。彫刻、絵画、手工芸品、書、その他、自分で美術、芸術だと思うものは、何でも出してよい、ジャンルにこだわらない美術展でした。
一つ一つの作品には、コメントをつけていただきました。不思議だなあと思うのは、作品にコメントがつけられると、そこに置かれた作品が、その作品を越えて、作った人の「物語」に変わる、ということです。前回、私は50年前の工作を出しました。50年前です、中学1年生の夏休みの宿題に作ったものですが、楽しく作り、自分でも良くできたと思いました。しかし学校の先生は「家の人に手伝ってもらったのか」と言いました。くやしかった思いや物語が、この作品にはあるのです。そのように、どんな作品にも、楽しい思い出、懐かしい思い出、ひょっとしたら私のようにくやしい思い出がある。つまり、物語があるのです。その美術展の空間、場所に、たくさんの、かけがえのない、固有の物語が集まったと思いました。

さて、神さまは、ご自分の作品である私たちに、コメントをつけられました。聖書の冒頭にこういう言葉があります。「光あれ」。また「(人の)鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。これが、私たちへのコメントです。私たちが、自分の人生に、この「光あれ」「人はこうして生きる者となった」という声を響かせるならば、私たちに光の物語、命の物語が始まるのです。つまらない人生などありません。ダメな人生などありません。意味のない人生などありません。神さまのコメントをいただいて、私たちは皆、人生という舞台において、希望の物語に生きる者になったのです。
あなたも神さまの作品です。そして先ほどの神さまのコメントが付けられているのです。それを確認しながら、希望の物語に生きていきましょう。

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by rev_ushioda | 2013-05-20 09:02 | Comments(0)

「振り回されるな」

そろそろこの辺りでも大きな地震があるのではないかと言われていますが、教会の建物は大丈夫だろうかと思って、ある時、耐震診断をしてもらいました。そしてわかったのですが、地震の時には、家の中心とは別に「剛心」(ごうしん)という、家の中央とは別の中心ができて、そこを中心にして家が回転してしまうのだそうです。家の中心と、その剛心が同じであれば問題ないのですが、家の中心と「剛心」が一定の距離以上に離れると、危険ということでした。

地震の時に「剛心」がなぜできるかと言うと、壁の中に筋交いが多く入っている所と少ない所がある場合、筋交いが多い方が地震に対して強くて動きにくいですから、その壁の方に家の中心が移ってしまう。それが地震の時の中心、「剛心」なのだそうです。家を丈夫にしようとして入れる筋交いですが、その入れ方によっては、家をつぶしてしまうことにもなるのです。

私は、その説明を聞きながら考えました。私たち人間も、自分が壊れないように一生懸命、筋交いを入れている。人の期待に応えようと頑張っているとか、見栄を張って、自分にない人生を作ってしまうとか、等。そのうちに、本当の自分らしさ、自分の中心というものを離れて、いつの間にか、別の中心で生きているのです。普段はそれで問題ないように見えますが、それは本当の自分に生きてないために、何か事が起こったとき(問題で揺さぶられると)そこに「剛心」ができて、そこを中心にして崩れてしまうのです。

聖書は「私たちは羊の群れ(のようだ)。道を誤り、それぞれ(勝手な)の方角に向かって行った」と言っています。聖書は人間を耐震診断して、不自然な筋交いを入れたために、問題があると「剛心」があなたを振り回している、と「危険」を宣言しています。造り主である神を中心にした、本来のあなたに立ち返れと招いているのです。

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by rev_ushioda | 2013-05-13 09:31 | Comments(0)

「変に宗教的にならず」

私は、ある勉強会で、欠席された方にテープを録るようにしていますが、その日は、念のため、二つのテープレコーダーで録音しました。ところが、一つの方は録音ボタンを押さないで、再生ボタンを押していましたので、当然、録音されていませんでした。ああ、二つのテープレコーダーを用意しておいてよかったと思いました。ところが、録音されていた方のテープを高速で巻き戻したところ、古いテープだったからでしょうか、途中でテープが切れてしまったではありませんか。こうして2本とも、聞くことが出来なくなってしまったのです。
仕方なく、マイクに向かって2時間分の内容をもう一度、録音し直すことにしたのですが、半分くらい録音し終わった時に確認のために一旦、テープを止めたのがいけなかったようで、次に動かしたとき、オートリバースで反対方向に動いていたのを知らず、前半の録音の上に重ねて録音してしまいました。
それでも気を取り直し、もう一度、録音し直しとなりました。こうして、ようやくできたテープを聞いて、唖然としました。何と、前に録音された音楽がうまく消えていなくて、後ろの方でシャカシャカと、音が聞こえるではありませんか。疲れが一気に出ました。大難産でした。

人生には、こういうことが起こらないでしょうか。次から次と嫌なことが起こります。事故に遭い、リストラでくびになり、よりによってそういう時に子どもが病気になる、夫婦仲が悪くなっていく、というようにです。すると私たちは、それ、方角が悪い、日が悪い、お札だ、お祓いだと、にわか宗教的になります。たまたま重なったことなのに、それもよく考えると、こちらの不注意であったにもかかわらず、宗教的になって、事柄の本質を見失ってしまうのです。
牧師が言うのもおかしいですが、変に宗教的にならない方がいいのです。キリスト教は、人に宗教的になることを勧めていません。そうでなく、逆に、事柄を冷静に見つめさせ、失敗をただし、しなければならないことに進ませていく、力と希望を持たせてくれるのです。

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by rev_ushioda | 2013-05-04 13:56 | Comments(0)

本屋さんで「相鉄線物語」という本を見つけ、パラパラと見ていたら、「沿線のキリスト教会」というページがありました。一般の本で教会を紹介する本は珍しい。うれしくなって、思わずその本を買ってしまいました。そこにはいくつかの教会が写真で紹介されており、教会の名前も、かなり詳しく書かれています。我が泉教会は、というと、その本の出版後にできた教会ですから、当然、載ってない。これは、残念でした。
この本の中で、著者は、いわゆるニュータウン、それも新興住宅地の典型である「相鉄いずみ野線」沿線こそ、心を支える宗教というものが必要である、と言います。町には、心をいやす場所がないといけないと言うのです。そして、著者自身は教会に行っているわけではないと断わりながら、ここがどうもおかしいところなのですが、心を支える宗教として、「教会」をあげているのです。モダンなニュータウンにやさしさ、ボランティア精神の豊かな人々を集めたいなら、キリスト教会とミッションスクールを誘致するのが最もふさわしいとも言います。
この著者によると、町に教会が必要な理由は「心のいやし」だと書いていますが、その通りだと思います。私たちは、心が渇いているのです。心が叫んでいるのです。そして、心が泣いているのです。組織化された学歴社会、皆同じ考え方をしなければ仲間はずれにされる社会の中で、人は「自分らしさ」をなくして生きなければならない。叫びたくても、しかし声を押し殺していなければならない。飛行機が、飛行場に降りて羽根を休めることなく飛び続けているようなものです。がんばらなければならない。立派でなければならない。
そういう社会の中で、教会は、飛行場のようなものです。イエス・キリストは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。教会は飛行場、いやしの場所なのです。本当の休みが与えられ、だから、本当の自分になって、ここから、出発できるのです。

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by rev_ushioda | 2013-02-26 00:13 | Comments(0)

「思い込み」

私たち夫婦は昔、結婚25周年のときに、それを記念して、北海道に小さな旅をしました。旭川でレンタカーを借りて、美瑛というところに行きました。「丘の町、美瑛町」とパンフレットには案内されています。初めての北海道です。車を走らせてみると、さすがに広いなあ、と感心しました。何とかの丘というのがあるというので、行くことにしました。1本の木が見えた。ああ、この近くだろうと、車を走らせても一向に、それらしい目的地にならない。一面の畑、また畑、丘を越えると、また丘のつながり。その丘の向こうに遠く雪をいただいた十勝岳の山並みが美しく見えます。その中をどんどん車を走らせるうちに、元来た道に出てしまいました。変だなあと思ううちに、はっと、気付きました。あの木が1本立っていた、あの丘が、まさに目的地だったのです。美瑛は「丘の町」。大自然の丘そのものを見せていたのに、私のイメージは、有名な場所なら駐車場があって、土産物屋でもあって、旗か何かが立っていて、というように思っていた。東京や横浜のイメージで、「丘」を探していた。考えてみれば、おかしなことです。そして、まさにその目的地の真中にいながら、私のイメージが邪魔して、そこを通り過ぎてしまったのでした。勿体無いことでした。
イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」。しかし私たちは、私の北海道での失敗のように自分のイメージする道を通ろうとするのです。そして、探したけれどそんな道はなかったと言って、キリストの道を通り過ぎて行くのです。真理にも、命にも出会わなかった、と言って。キリスト教には、道があり、真理があり、命があります。どうかあなたのイメージで探さないでください。車でさーっと通り過ぎないで、あなたも日曜日、教会に立ち止まってもらえませんか。

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by rev_ushioda | 2013-02-23 11:53 | Comments(0)

「浮き出てくる罪」

今はもう二人の子どもがいる娘がまだ小さかったある日、クレヨンでお隣のブロック塀にいたずら書きをしてしまったことがあります。タワシか何かで消させました。それで、その時は消えたと思ったのですが、しばらくして、雨が降った時にふと見ると、何と、クレヨンの跡がくっきりと浮き出ているではありませんか。晴れた日、ブロック塀が白いときは気付かなかったのですが、雨が降ると塀は黒っぽくなって、白いクレヨンの跡が浮き出てきたのです。
私たちの心は、普段あまり気にしていないことでも、一旦何か事が起こると、急にそのことを思い出して悲しくなったり、辛くなったり、人を憎んだり、ということがあるものです。・・どうしてそんなことが起こるのでしょうか。あなたが真面目であればあるほど「これは自分の心が未熟なのだ」と言って、修業とか善い行いとかでその心の汚さを吹き消そうとするかも知れません。しかし、気付けばそれらのものは、あの消したはずのブロック塀の落書きのように、泉のように心の中から湧き出て来るのです。
キリスト教は、人間の弱さとか、醜さを、なかったもののようにごまかして見ることをしません。私たちは、知らず知らず心の塀に落書きをして人間性を傷つけているような者です。そのような思いは、いつも内側から浮かんできて、私たちを支配します。
この現実に立って、しかし、なお絶望しない道を切り開くのが、キリスト教です。イエス・キリストという方は私たちの真中を歩まれただけではなく、消しても消しても浮かび出てきてしまう私たちの醜さを背負い、そのまま十字架にまで進んでいかれたのです。十字架はアクセサリーなどでは決してありません。本性においてどうしょうもなく醜い、私たちを背負う、キリストの姿を指し示しているのです。あなたがもし自分の弱さや醜さに少しでも気付いた方であるなら、その弱さや醜さのところで、キリストはあなたを平安へと招いているのです。

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by rev_ushioda | 2013-02-11 21:43 | Comments(0)

ある時、書店で「不安の力」という本を見つけました。続けて「悩む力」という本も見つけたのです。このような不安とか、悩みとか、そういうマイナスの感情は、ない方がいいと考えていると、しかしそこに「力」があると言っているのです。そういえば「弱さの力」という言葉が、2000年近くも前の聖書に書かれています。パウロという人が「わたしは弱いときにこそ強い」と言っています。
なぜ、そのような不安や、悩みや、弱さが「力」になるのでしょうか。ないほうがいいに決まっていると思うのです。しかし、五木寛之さんは、不安は人間らしさのあかしのようなものだと言っています。不安がないなら、非人間的な生き方をしているのではないか、とさえ言います。確かに、不安や悩みや弱さという受け止め方は、皆、とても人間的な感情なのです。まじめに自分と向き合うからこそ、生まれる感情です。世の中の動きが妙に速くなる時、または周りの人間が歪んだ期待を自分に示した時、その時、自分らしく生きたいという叫びが、不安や悩みや弱さになるのでしょう。ですから、それがないなら、逆に何かで自分をごまかしているのかも知れません。
さきほどのパウロという人は、何か健康上の理由があったらしく、このとげを取ってくださいと、3回も、祈ったのです。その時にこういうキリストの声を聞きます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。そして彼は「これは、思い上がることがないように私につけられたものだったのだ」と気付くに至り、そういう障碍を持つ自分を無条件に受け入れて、かえってそれを誇りとすると言いながら、こうして歴史に名を残す偉大な仕事をしていくのです。
不安や悩みや弱さは、人間の証しなのです。だからこそキリストは、その不安や悩みや弱さを持つ人間らしい感覚の持ち主を用いて、そこに本当の力を証ししてくださるのです。キリストは、あなたの不安や悩みや弱さを、きっと力に変えてくださるのです。


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by rev_ushioda | 2012-12-22 22:50 | Comments(0)

「希望のはじまり」

 「今年は2千何年」というように言いますが、この西暦というのは、どこから数えているか、ご存知ですか。そう、イエス・キリスト誕生から数えているのです。ですから、イエス・キリストの年の、今年は何年目と、世界中で言っているのです。この西暦と言うのは、学校でADと言うのだと習いましたが、ADはラテン語で「アンノドミニ」。主イエス・キリストの年の、という意味だったのですね。そして、イエス・キリスト誕生以前のことはBC。これは英語でbefore christ (キリスト以前)と言っているのです。そうなると、私たちの歴史は、キリストによって、言ってみれば「ものさし」が当てられていたのです。
それまで世界は、ローマ皇帝を起源とした暦が使われていました。しかし、ディオニシウス・エクシグースという修道士が画期的な暦を発明しました。それが、今私たちが使っているキリスト起源の暦です。彼はこう言っています「我々はもはや暦を統治者によっては数えない。なぜなら、彼らは君主ではなく暴君だからである。我々の主イエス・キリストから数え始める。これは我々の希望の始まりだからである」。こうして「AD、主イエス・キリストの年」という暦が作られたのです。もう一度これを作った人の言葉を引用すると、この暦は「希望の始まり」なのです。私たちには、そして世界中の人には「希望の始まり」を示す「ものさし」が当てられている、というわけです。
今年も、クリスマスを迎えようとしています。しかし、世界は、あらゆる意味でディオニシウス・エクシグースが言ったように「君主ではなく暴君」に支配されているように見えます。戦争やテロ、権力や言葉による暴力、搾取、傲慢、不公平、憎しみ、不安。このような時こそ、まず私たち自身の内に、「希望の始まり」であるイエス・キリストをお迎えしたいのです。聖書の言葉に、こうあります。「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」。キリスト誕生を祝うクリスマスには、あなたもぜひ教会においでください。初めての方をお迎えしています。泉教会の電話は 045-803-1749 です。

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by rev_ushioda | 2012-12-07 11:58 | Comments(0)