タグ:電話メッセージ ( 109 ) タグの人気記事

「びっくりした話」

今、教会として使っている家は、普通の住宅を増改築したものです。ところで、その増改築工事を検討していた時、工務店がコンピューターグラフィックスで改築のイメージを作ってくれたのですが、見て、びっくりしてしまいました。家をものすごい高い壁で囲ってある。しかもその壁は黄金色で輝き、その上に重量鉄骨の十字架が大きくそびえているのです。なるほど、いかにも「宗教」という感じでした。ああ、これが一般の人の教会のイメージなのかと思いました。私は、逆に今まであったブロック塀を取り払い、手すりを設置する程度で簡素で開放的なエントランスを考えていましたから、その違いに唖然としてしまいました。
教会とは、いったい何なのでしょうか。
泉区の社会福祉協議会に登録しているボランティア団体「NPO法人 心を聴く市民ネットワーク」があります。そこでしている「気持ちの聴き方」という講座に、泉教会は牧師を講師として17年間、派遣しています。また「チャイルドライン」という子どもの電話相談窓口の受け手の研修にも、泉教会は5年間にわたり牧師を講師として派遣しました。その他、病院の看護婦研修、幼稚園の教師研修、ヘルパー研修、作業所のスタッフ研修、行政書士さんの研修、地域の公立小学校PTAの講演会などにも、牧師を派遣してきました。
牧師をそこに派遣するということは、教会がそのようにしてこの世に生きるという証しなのです。壁で囲って、この世と断絶するのではなく、また、その壁を黄金色に塗ってなにやら有難く見せるのではなく、教会は、そういうインチキ臭い壁や囲いを取り払って、町に出て行くのです。それは、人の叫びや嘆きを聞かれたイエス・キリストが、もうすでに町に出て行かれているからです。イエス・キリストは、もう、すでにあなたのそばに立っていてくださいます。だから、私たちは囲いをするのではなく、それをかなぐり捨てて、イエス・キリストが立っているあなたのそばに、立ちたいのです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2014-04-01 21:29 | Comments(0)

「Zライトに思う」

「心に翼を」。電車の中で、そういうポスターを見たことがあります。それはある航空会社のポスターでしたが、何か私たちの心をくすぐるキャッチフレーズではないでしょうか。だれも皆、心に翼をもって自由に生きたい、そのように思っているのです。しかし現実は、生活や職場での問題が心の重たい荷物になっているし、人間関係も窮屈にしか感じられない。心の不安がなくなることはありません。何か失速して、墜落しそうです。 私たちは、なぜ、心が自由になれないのでしょうか。
私は、ある時「Zライト」というスタンドを見ていました。アームが折れ曲がってくれるので、机の上で明かりを照らす位置を自由自在に変えられ、便利な照明器具です。ところが、これを外して、付け変えようとしたところ、バネによってアームが跳上り、不自然な動きをして非常にやっかいなものに変わってしまったのです。なるほど、机に固定された時に、初めて、自由自在な動きができるのですね。そう言えば、家のドアが自由な動きをするのも、蝶番(ちょうつがい)に固定されているからです。
ひょっとしたら、私たちは、何にも縛られないことが自由なのだと、勘違いしていなかったでしょうか。けれど、何にも束縛されないでいることが自由なのではないようです。ただ一つ、大事なものに固定され、結ばれた時、私たちは初めて自由を持つのではないでしょうか。飛ぶことができるのです。
人間は、人生の設計者、創造の源である方から離れて、自分の知恵で生きることが自由なのだと考えたのです。その結果、机からはずされたZライトのように不自然な、調和のとれない動きしか、できなくなってしまったのです。
聖書は言います。「神に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。そうなのです。神に望みをおくのです。そこを軸にしてみるのです。そこから、人間らしい歩みが始まります。あなたにも、自由な自分を発見してほしいのです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2014-02-06 20:08 | Comments(0)

「穴から見えるもの」

突然の「突」という漢字は、「穴」と「犬」の2文字から出来ていて、穴から犬が飛び出してくる、つまり、思いがけないところから予期しないものが飛び出してくるという意味だそうです。ですから、「突然」という意味は、時間的な「急に」ということではないのです。そうではなくて、自分たちの常識や予測を覆すように、思わないところに穴があいていて、予期しないものが飛び出してくる。その結果、自分たちの生き方やありようを動かす、そういう出来事を、突然というのです。
聖書の中には、不思議に、この「穴」というのがよく出てきます。ヨセフという人は、兄弟たちのねたみをかって「穴」に投げ込まれました。生き延びはしましたが、次に外国に売り飛ばされる運命が待っていました。エジプトに売られたヨセフに、災難は続きます。主人の誤解でまたまた穴、牢獄に投げ込まれてしまいます。穴から穴に投げ込まれます。そして、紆余曲折の後、エジプトの王宮の責任者になって、飢餓で苦しむ父や兄弟を助けることになるというドラマチックなそのあたりの消息が、旧約聖書に書いてあります。
穴、それは思いがけない災いの場として、聖書によく出てくるのです。しかし、そこで、私たちの予想を突き破るようにして、思わぬ展開を見せる。
穴があくまでは、私たちは自分の頑張りや自分の正しさで毎日が成り立っていると自負しています。そこに突然、穴があいてしまう。計画にも張合いにも穴があいてしまって、どうなっているのだ、と思う。そんな時、穴があくまではわからなかったことが開けてくる、と言うのです。だから、聖書によると、何とかして穴を早くふさいで元のようにしようとあせるのではなく、この穴から何が見えるだろうかと、覗いてみるほどの気持ちになった方が、「突然」という出来事の意味がわかる、というのです。人生のブラックホールは、もう一つのドラマの始まりのようです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2014-01-11 22:56 | Comments(0)

「キツネの襟巻」

群馬県に「わたらせ渓谷鉄道」があります。かつての足尾銅山に行く鉄道ですが、その沿線に「富弘美術館」があって、ある時、そこに行く機会がありました。そこには不慮の事故で車椅子の生活になった星野富弘さんという人が、口で描いた絵と詩が展示されています。その星野さんが入院中のことです。病院の廊下で、キツネの襟巻(えりまき)をしている人とすれ違ったのです。「からだの中をすっかり空にされ、皮だけになったキツネは、その人の首からずりおちないように、まるくなって自分のしっぽをかんでいた」。
その時のことは、星野さんにとって大事な経験でした。小学生向けの本の中で、次のように本に書いています。「(襟巻のキツネの目はガラスの目玉ですが)その目が悲しそうに見えたのは、そのガラスの目玉の中に、自分の心がうつっていたからかもしれません。わたしは、忍耐ということばがすきでした。わたしのところへくる手紙のなかにも、ずいぶんそのことばが見られました。でも、えりまきにされてしまったキツネを見たとき、たえれば、たえるほど、自分のからだに歯がくいこむような毎日をおくっている自分を見たような気がしたのです。そして思いました。いまのわたしにとって、忍耐などということばはいらないのではないか…」「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ/私のように動けないものが動けないでいるのに/忍耐など必要だろうか/そう気付いた時/私の体をギリギリに縛りつけていた忍耐という棘のはえた縄が/“フッ”と解けたような気がした」。
私たちは自分らしく生きることができないで、自分を愛するのは自分しかいないのにその自分を鞭打って頑張れ、頑張れと言っていないでしょうか。星野さんは「たえれば、たえるほど、キツネの襟巻のように自分のからだに歯がくいこむような毎日をおくっている自分だった」と言っています。皆さんに、星野さんも勇気付けられたキリストの言葉を贈りましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-12-28 10:04 | Comments(0)

「ただ受け取ればいい」

さっそくですが、私が経験した一つのエピソードからお話しましょう。私には結構そそっかしいところがあって、ある時、出先から家に帰ろうとしたら、お金が足らない…のですね。何と、20円が足らないのです。それでも、降りる駅まで誰か迎えにきてくれればそこで精算できるだろうと思い、家に電話をかけました。娘が出たので、「こういう訳でね、悪いけど、駅に20円持って来てよ」。 ところがそのように話していると、すっと横から出た手に、20円が乗っているではありませんか。見ず知らずの男性が、20円を差し出して、受け取れと、言っている。こちらは電話しているし、大の大人が見ず知らずの人から20円をもらうなんて予期していませんでしたから、とっさのことで戸惑っていると、その人は20円を渡して行ってしまったのです。 後から考えてみると、聖書には実はこういうことが書かれているのかな、と思います。私たちが、(自覚しているかいないかは別にして)神の国の門を通れなくなっているその時、その私たちの前に、すっと差し出された手があったということなのです。そしてその手には、非常に高価な値、十字架の傷跡、つまり、私たちのためのキリストの命が、載っていたのです。そして、聖書は、すべての人がこの命を受けている、と言っています。 私たちは、受けたものによって、改めて事の重大さに気付くことがありますが、私たちのためには実に「キリストの命」が差し出されているのです。それだけ、それほど、私たちの人生は重たく量られている、ということなのです。 私たちのために、その手を十字架にまで差し出してくださったキリストに、次に、あなたも、その人生を向けてみませんか。

  にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ

[PR]
by rev_ushioda | 2013-12-07 20:10 | Comments(0)

「赤とんぼ」

皆さんは、「赤とんぼ」という童謡はお好きでしょうか。かつて、NHKが行ったアンケート「明日へ残す心の歌百選」(回答数66万通)で一位に選ばれたのが、「赤とんぼ」、2位が「♪うさぎ追いし、かの山」で始まる「ふるさと」だったそうです。
この代表的な日本の童謡や唱歌ですが、これらの歌の誕生の過程には賛美歌、そしてクリスチャンが深くかかわっていたということは余り知られていません。 「赤とんぼ」を作詞したのは三木露風という人ですが、彼は両親の不和から、祖父に育てられています。それでこの「赤とんぼ」の1節から3節までは、自分の母親と「姐(ねえ)や」との思い出が歌われています。辛い青春時代でしたがやがて、彼はトラピスト修道院の国語教師として数年間を過ごすことになるのです。その修道院の生活を通して、実際、彼は今まで引きずってきた悲しみをいやされる経験をしたようで、大正11年、33歳でキリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになっています。そして、この「赤とんぼ」が作られたのは洗礼の前の年、洗礼を真剣に考えていた時のことだったのです。最後の4節に「とまっているよ竿の先」とあります。赤とんぼが止まっているのは竿の先ですが、この言葉の中に、彼は彼自身、今ようやく羽を休める場所となった竿、つまり、キリストの十字架を表現したのでしょうか。
この詩に曲をつけたのは、よく知られた山田耕作。彼の父親は何と牧師だったのです。お姉さんも宣教師と結婚しています。山田耕作は母親の背中で賛美歌を聞きながら育てられたわけで、その曲に賛美歌の影響が濃いのは確かのようです。
また、「ふるさと」をはじめ「もみじ」「春の小川」などを作曲した岡野貞一という人は、キリスト教会で40年間オルガニストをつとめたクリスチャンでした。このような人たちの聖書やキリスト教への思いによって、今、私たちが日本の心の歌として口ずさむ童謡、唱歌が生み出されていったのです。キリスト教は、私たちの感性の中に自然と馴染んでいるに、違いありません。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-10-25 11:09 | Comments(0)

「初めに戻らなければ」

昔、新聞配達のアルバイトをしていた時のことです。自転車を止めてポストに向かって歩き始めた直後、嫌な予感がして後ろを振り返ったら、その目の前で自転車が新聞の重みで勝手に動き出して、倒れてしまいました。運悪く、そこにドブがあり、悪いことは重なるものです。ドブには水がたまっていて、かなりの新聞がそのドブの中に放り出されてしまいました。これは困ったと思いました。
そしてそのあと、私のしたことを皆さん、想像できますか。そのあとの一軒一軒をまわって、「すみません、こういう訳です」と言って、謝っのです! 店の方では、「潮田の奴、いやに帰りが遅い」という訳で、心配して先輩が見に来たら、私がそんなことしているのですね。「何やってるんだ、こういうことのために、店には余分があるんだ。すぐに戻らなければだめじゃないか!」と、叱られ、呆れられてしまったのでした。ただ真面目に一生懸命やればいいのではない。自分が結び付くところ、戻らなければならない所に戻らなければ、真面目にやっても空しくなってしまうことがあるのです。
聖書の初めに何が書かれているか、ご存知でしょうか。「初めに、神は天地を創造された」これが、聖書の1行目です。「初めに、神は天地を創造された」─ 「初めに」というのは聖書では「大事なこと」という意味で、「本当に大事なこととして、神は天地を創造された」。逆に言えば、天地、そこに生きる人間は、これを造られた創造者(神)と結びついている。これが大事なことだ、というのが聖書の冒頭の言葉なのです。しかし、先ほどの私の失敗のように、人は自分が結び付くところ、戻らなければならないところに戻らないで、ただ一生懸命やろうとしています。結局、何をやっても空しくなっていくのではありませんか。あなたも、あなたの原点である造り主、神に、戻って行ってほしいと、心から思います。


にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-10-13 22:47 | Comments(0)

「障がい美人」

昔、NHKの番組で、富永房枝さんという方のことを取り上げていました。先天性脳性麻痺で、上半身に著しい障碍を負っている方です。
ある日、道を歩いていると右手を盲導犬に引かれ、左手で子どもをだっこしている人に出会って、ふと、「かっこいい」と思ったそうです。それから彼女の生き方が変わったのだそうです。
それまで、夢を見ればいつも自由に動く肢体を持った自分の姿があった。そうであったらよかったのに、という思いが夢になったのでした。どうして、自分はこんな不幸なんだろうと、運命を呪うような日々だった。けれど、その盲導犬に引かれ、子どもをだっこしている人を見て「かっこいい」と思ってからは、「障碍美人」になろう、と思えるようになった。障碍を着ていこう・・・と思えるようになった。夢を見ても、障碍を持ったままの自分の姿が出てくるようになった。これからは、このままの自分を受け入れて生きていこうという気持ちでした。
私たちは、どうでしょうか。身体的には麻痺した体ではない。障碍を持っていないかもしれません。しかし自分の能力、性格などで不満(障碍)を感じています。あの人のようにできないとか、自分もそうあったら…、と夢を見ます。自分が自分を受け入れていないのではないでしょうか。
その人は盲導犬に引かれていたといいますが、聖書は、盲導犬ならぬ「良い羊飼い」イエス様に導かれている、私たちの姿を描き出しています。私たちは誰も、ああであったらよかった、こうだから自分はだめなんだと言っている、自分で自分を受け入れることができない、心に「障碍」があるようです。しかし、右手を「良い羊飼い」イエス様に導かれ「左手で子どもをだっこ」できるような「かっこいい」生き方があるのです。私たちは「障碍美人」になりたいと思う。
そういう生き方を目指す、みんなのキリスト教・泉教会に、あなたもおいでください。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-09-09 22:26 | Comments(0)

「道を歩くキリスト」

横浜を歩いていると、至る所、道の上で段ボール紙を敷いて寝ている人たちを目にします。歩行者が何人いようが、その視線を一向に気にせず、まったく自分の世界をそこに作っているのです。その様子を見ながら思うのですが、そう言えば、道は、私たちの「生活の場所」だったのだということです。私たちはそこに寝ることはないにしても、誰もそこを通る。社会には地位、階級があっても、道にはそういうものはない。誰からも差別されることはないから、誰もそこにいられる。ですから、どんなに人がいたとしても、そこに“自分の世界"を作ることができるのだろうと思うのです。
聖書を開くと、キリストはその「道」を歩いたと書いてある。どこかに行くのに道を通るのは当たり前ではないかと言っていたのでは、聖書を読んだことにはならないのです。キリストは、道を歩かれる。そして、そこにいる、そこにしかいることができない、一人一人と出会うのです。一人一人の生活の中に入っていかれるのです。「それではだめだ、こっちにおいで」とは言わない。「あなたがそこにしかいられないのだったら、では、その所で、あなたが見つめている世界を一緒に見ようじゃないか」まず、そうおっしゃって、出ていく。そこから始めるのです。それが、キリストが道に出るという意味です。
私たちは、逆に自分の価値観の中に人を引き込もうとしてきたのではないでしょうか。「それではだめだ」「こうするんだ」とか言って。こうして人は反発し、警戒し、またあきらめ、決して本心を言わないようになった。そういう生育歴を持つ多くの子どもたちが、思いを閉じ込めているうちにエネルギーがたまってきて、突発的な暴力になったり、心が病んでしまうのです。
その人がいる同じ場所、同じ道から世界を見る。そういう目、そして感性を、私たちは大事にし、養いたいと思うのです。泉教会は、そういう教会です。あなたがそこから見える世界を一緒に見ながら、一緒に歩いていきたい。キリストがそうなさったように。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-09-06 22:51 | Comments(0)

「人の評価によらず」

大震災などが起こると、両親を亡くす子どもたちがたくさん出て来ます。その子どもたちは、突然、地震に見舞われ、目の前で親を亡くしたのです。そのショックは測り知れないものがありますが、彼らはその後も、周りから「しっかりしなさい」「いつまでも泣いていたら、死んだお父さん、お母さんが悲しむよ」と言われ続けてきました。私たちも、きっとそう言うと思います。しかし、彼らは励まされれば励まされるほど、「親のことは話してはいけないのだ」と、感情を押し殺していくのです。その結果、震災から数年経った頃、いつまでも悲しんでいる自分は「悪い子」「だめな子」、そのように表現するようになりました。彼らは、励まされて、どんどん苦しくなっていったのです。傷が深くなっていったのです。
「しっかり!」「頑張って!」…私たちの励ましの言葉って、一体何だったのでしょうか。何と相手の気持ちを考えてなかったことでしょうか。
聖書を見ると、「私はあなたを罪に定めない」という、キリストの言葉が出てきます。人々が、法という自分たちの枠組で、一人の、罪を犯した女性を追い詰めていったのです。この場合は励ましではなく、反対の裁きですが、励ましであろうが裁きであろうが、そういう自分の「枠」を相手に押しつけるという点では、同じことです。その時に、「私はあなたを…定めない」とキリストは言われたのです。「何かに定めるという枠であなたを見ない」と。人々がそれなりの自分の正当性、自分の枠で見ていた時に、キリストはそういう枠組では見ない、と言われたのです。
私たちもまた、ひょっとしたら人の様々な評価で、押し潰されそうになっています。自分はだめだ、と自分を苦しめているのです。しかし、そうではないのです。「私はあなたを…定めない」と、キリストは言われている。この方の前に立ってごらんなさい。あなたは、やり直せます。あなたは、変わります。あなたは、自分を取り戻せるのです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-07-21 08:00 | Comments(0)