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「うんちも土産になる」

富士宮市に「奇石(めずらしい石)博物館」があります。
何の変哲もない、ただの石ですが、紫外線を当てると、その石は色とりどりの美しい光を放っていました。なるほど私たちも、ただの人、何の取り柄もないと思っている人にも紫外線ならぬ「神さまの視線、眼差し」が当てられると、このように輝き出すのだ! 私はそんなふうに思って、一人、感動してその輝く石を見ていました。
「これは何だと思いますか」と言って、係の人が取り出したものがあります。「これは、うんちです」。ナルホド、その人の手にはそれらしい格好をしたモノが乗っていました。ただし、それは何と恐竜の「うんちの化石」という説明でした。アメリカでは、先住民たちがその「うんちの化石」をペンダントにして、お土産として売っているそうです。うんちも、お土産になるのです! 汚いもの、不必要なものと見られるものも、このように発見され、拾われ、磨きをかけられ、値がつけられて、買う人は大切に持って帰る。不思議なことだと思いました。
聖書には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して」くださったのだという言葉があります。「私たちが神を愛したのではない」。神を愛せないで自分中心に生きる、神さまからすれば、きっと、うんちのように醜かったであろう私たちでしたが、しかし神は御子イエス・キリストをお与えになったほど、それほど愛してくださった、と言うのです。神がしてくださったことを考えると、恐竜のうんちと自分がダブって見えてくるのです。そのままでは埋もれていた私たちも、私たちと向き合ってくださる方、神さまに発見されて、手にとられて、こうして値打ちが出てくるのです。私たちには、神さまが「その独り子をお与えになったほど」の、かけがえのない値打ちがあるのです。

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by rev_ushioda | 2009-02-21 18:16 | Comments(0)

「自分を支えるもの」

皆さん、日光に行ったことがあるかと思いますが、日光に「江戸村」という江戸時代の町並みを再現した、楽しい観光スポットがあります。そこに「忍者屋敷」があって、中に入ると、そこはすべてが斜めになっている。表は普通の家なのに、中は柱も部屋も何から何まで全部が傾いている、という造りなのです。
入った瞬間、どうしたわけか頭の中がグラグラっとして、私は、もう立っていられなくなってしまったのです。そこで正面に見えた出口目掛けて、まっしぐらにそこを突き抜け、そのまま外に出て、ベンチで横になって、気分が戻るのを待ちました。さすが忍者屋敷だなあ、と思っていると、家族は平気な顔で一巡りして出て来たのには、驚いてしまいました。
私は、その経験から、“私たちは周りのものによっていかに動かされやすいか”ということを、考えるのです。娘が小さかった時、波に揺れるボートに乗せようとしたら泣いて逃げ出してしまったことがありましたが、そのように私たちの心というものは、周りの波風によってはもちろんですが、たとえそれが揺れていなかったとしても、いつも、周りによって支配されていているのです。心は、攻撃されても傷つきますが、たとえば、人は何もしてないのに(あの忍者屋敷のように)何もしない、ただ“個性が強い人”がそこにいるというだけで、不安になったり、恐れたり、傷ついたりすることがあるのです。起こるべくして起こる出来事によっても、人は恐れる。そうではないでしょうか。人間は、そんなに強くないのです。けれどもその反対に、もし「あなたを愛している」と日頃から言ってもらっているなら、その人は、どんな状況でも自分を支えることができるのです。聖書は、神は私たちを愛している、というメッセージで溢れています。あなたは愛されている。このメッセージによって、傷ついたあなたも、これからはきっと自分を支えることができます。

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by rev_ushioda | 2009-02-10 21:42 | Comments(0)

ある新聞に1枚のカラー写真が載っていました。想像していただきたいのですが、みずみずしい緑色をした、草の新芽の写真です。しかしそこは森の中でしょうか。まだ冷たそうな水の流れの中に、その新芽は出ているのです。その新芽は、その流れの中で流されまいと懸命に頑張っているように見えます。オオウバユリと書かれています。どうしてこんな川の中に芽を出したのかな、と思う写真です。説明がありました。
「雪解けの季節。溢れた水が、森に幾筋もの沢の流れを作る。こんな時に、たまたま流れの筋道に芽を出してしまった草は、ちょっと苦労を強いられることになる。この日も、芽を出して間もないオオウバユリが急な流れに翻弄されていた。揺さぶられ傾きながらも、根を踏ん張ってひたすらこらえている。見ていて気が気ではない。ついつい、流れの向きを変えてやろうかなどという、人間の思いが脳裏をよぎる。いけない、いけない。ほんとにせっかちだ。不都合な事態を力づくでねじ曲げてでも、好転を図ろうという方向に、すぐ考えを走らせてしまう。オオウバユリはおそらくそんなことは願いもしない。ただひたすらあるがままで耐えようとしているに違いない。彼女(?)は、茎の太さから、もう何年かここに根を張って過ごしてきたと見られる。必ずこらえきって、水が引いた後、さらに深く根を伸ばして育っていくことだろう。」
そしてこう言っています。「堤防を作ってあげようとか、流れの向きを変えようとか、これはとりもなおさず、わが身のいかに、じたばたしていることかの証である」
このオオウバユリは、流れの中に根づいてしまったことを運命のいたずらと思ったかも知れない。しかし、そのことで「彼女」はさらに深く根を伸ばして育つことにもなるわけです。私たちは、すぐにでも良い方に、と思う。でもそのままの状況であっても、そこから起こること、始まるドラマもまた、あるのです。キリストは「神の業がこの人に現われるため」と言われて、将来の私たちの姿に注目していることに気付いておきたいと思います。
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by rev_ushioda | 2009-01-27 21:50 | Comments(0)

「恵みのコックを開け」

先日、会議室にあった石油ストーブをつけようと思いました。ところが、スイッチを入れて、しばらく経つとカチッといって消えてしまうのです。皆で、変だなあと言いながら、何度か繰り返しましたが、やはり点火しません。念のため、傍にあった石油タンクを確認しましたが、タンクに石油は十分あります。何度も繰り返すうち、あっと気付きました。タンクの出口にある、コックが開かれていなかった。それが原因でした。
私は思うのです。意外と、そういう思いがけないところのコックが開かれていなかったりするのです。たとえば、何か問題を持っている、とします。相談できる場所がないわけではないのです。しかし、どうせ、どこに行っても同じだ。今度もダメだろう。こう言って、もし何もしないなら、社会資源という豊富な宝を使わないなら、コックを開かないなら・・自分に流れ込むものがない、ということになるのです。どんなに豊かな宝があっても、自分で堰止めていたのでは、何にもなりません。
ある家族がありました。弟がしたい放題のことをしているのに、兄は、決まったことをきちんとそつなくこなし、じっと耐えていました。ある日、例のごとくしたい放題のことをして、あげくの果てボロボロになって帰ってきた弟を優しく迎え入れる親を見た兄は、ついに切れてしまった。「なぜ、あんな奴に優しくするんだ、自分にはそうしてくれなかったじゃないか」と。親は言いました「あなたにも、同じようにしてきた」。そうだったのです。兄は、ただ一人コックを閉め、親との交わりを楽しむことを知らず、それをせず、じっと耐えていた。その結果、弟をうらやましく思い、ねたみ、怒りを爆発させたのです。
神さまの豊かな愛と富の前で、しかし、私たちはコックを閉めている。この話はそういうことを考えさせてくれます。自分で勝手に、恵みのタンクである神さまとのパイプを切っている。そうであるなら、豊かに人生を燃焼させることは、期待できないのです。日曜日朝10時30分からの泉教会の礼拝に、あなたもぜひおいでください。
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by rev_ushioda | 2009-01-20 20:27 | Comments(0)

「人の一生は」

徳川家康は「人の一生は重い荷物を背負って、遠い道を行くようなものだ」と言いました。私たちは、こういう言葉に共感します。天下を統一して成功を収めたような家康でさえも、やはり重い荷物から解放されなかったのだ。それなら、私が苦しいのも当然なのだ」と。問題や課題が次から次と際限なく拡がっていくと、重たい気持ちになって押し潰されそうになる。そういう自分の気持ちを、家康の言葉を持ってきて、何とか納得させようとするわけです。「人の一生は重い荷物を背負って、遠い道を行くようなものだ」と。そして、もっと頑張るのです。
ところがまた、こういう言葉もあるのです。「いのちが大切だと思っていたころ/生きるのが苦しかった」。事故で半身付随になった星野富弘さんでしたが、それでも「いのちがあってよかった」と人から言われ、自分でも「いのちが大切だと思って生きよう、しっかりしなければいけない」、そのように自分を励ませば励ますほど、苦しくなっていく自分がいたのです。ある日、病院できつねの襟巻をした人に出会いました。きつねは落ちまいとして歯をくいしばり、必死で自分のしっぽを噛んでいるように見えたのです。ああ、あれは自分の姿だ。頑張って、頑張って、苦しくなっていた。目からうろこが落ちました。そして聖書の言葉が響いてきたのでした。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
星野さんは書きました「いのちが大切だと思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものがあると知った日/生きているのが嬉しかった」。
天下を統一した家康は「人の一生は重い荷物を背負い遠い道を行くようなもの」と言い、半身付随で車椅子生活の星野富弘さんは「生きているのが嬉しい」と言うのです。あなたは、どちらでしょうか。

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by rev_ushioda | 2009-01-12 17:21 | Comments(0)

私が初めて教会に行った時、高校3年生でしたが、賛美歌に初めて出会いました。あとから、隣にいた人がこう言いました。「潮田君は自分で作曲して歌ってるね」。歌とは縁のないそれまでの生活でしたから、言われて当たり前でした。今でも、音符がよくわかりません。だから、人より0.1秒遅れて歌うという、特技が身につきました。礼拝では、だいぶ苦労しています。
さて賛美歌に限らず、楽譜には、その初めや終わりに、シャープとかフラットという記号が付いています。そのシャープ、フラットは、一度そこに書き込まれると、歌う人、演奏する人は、終わりまで、その記号を意識しなければなりません。初めに書き込まれた記号は、ずっとその曲を支配するのです。それを忘れたり、知らなかったりすると、勝手な歌、勝手な演奏になり、作曲者が意図した曲にならないばかりか、感動も生まれてきません。
私たちの人生にも、神さまによって書き込まれたシャープ、フラットがあります。神さまのシャープ、フラットは、ハートマークです。聖書の初めに、「神は(世界のすべてを)見て、よしとされた」という言葉があります。神は、私たちの人生に「よし」「極めてよい」というハートマークを付け、あなたはすばらしい、という演奏を始めたのです。そればかりではなく、途中、至る所にこのマークをつけました。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と。これは、聖書の言葉です。
ところが私たちは、ハートマークを“演奏”しなかったのです。自分の人生は自分で作る、と言って、神さまなしの人生を演奏しています。ハートマークが書き込まれた人生という譜面を自分勝手に演奏するものですから、何か変だな、感動もない。それだけでなく、人に迷惑を及ぼすものとさえ、なっているのです。
神さまのハートマークを探しに、あなたも教会においでになりませんか。日曜日朝10時30分に初めての方もお迎えしています。泉教会は、相鉄いずみ中央、または地下鉄立場、下車、どちらも13分です。

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by rev_ushioda | 2009-01-01 20:51 | Comments(0)

「ポストは大丈夫か」

今、私はクリスマスの案内を家々のポストに配っています。あるポストにチラシを入れた瞬間、そばに止まっていた自転車の買物かごの中から、何か飛び出してきたものがあって、びっくりしてしまいました。何と、サンタそっくりの洋服を着て、毛糸の帽子をかぶった「マルチーズ犬」だったのです。一、二度ほえたら、また、かごの中にもぐってしまいました。私はその犬の滑稽な姿に、一人、笑いをこらえるのに大変でした。
ポストに戻りますが、それにしても色々なポストがあります。ポストの上からすごい顔をした犬がいきなり顔を出した時には、それこそ腰を抜かしそうになりました。攻撃型のポストがあります。チラシを入れると、後の扉がなくてスルッと向う側に通り抜けてしまう、無関心型ポストがあります。ふたを開けようとすると、バリッとふたが取れてしまった、どうでもいいと言わんばかりの厭世型ポストがありますし、どこを探しても見つからず、帰ろうとすると柱や植え込みの影に置いてある、謙遜型ポストがある。あるマンションに行きましたら、1階にまとまって置いてあるポストの1、2個は鍵がかかっているものですが、ある所では全部に鍵がかかっていました。完全防衛、人間不信型ポスト。
人間の心のポストも同じかなあと思いながら、私はクリスマスの案内を配っています。攻撃型、無関心型、厭世型、不必要に謙遜型、完全防衛・人間不信型。
クリスマスは、キリストがそのような、色々な人に近寄られた出来事でした。心が開放されるように、広く世界が見えるようにと、キリストは飼い葉桶に生まれ、十字架の死に至るまで、呼び掛け続けられた。今年、私たちの心のポストは、クリスマスの希望のメッセージを受け止めることができるでしょうか。
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by rev_ushioda | 2008-12-11 22:18 | Comments(0)

「夏と秋とが一緒」

天気予報を見ていて、驚いたことがあります。天気予報士の説明に驚いたというか、ナルホドと思ったのです。「太平洋高気圧に包まれた地域が、夏です。そして北側、大陸の高気圧に包まれた地域が、秋です」そういう説明でした。
日本にいれば、夏の後に秋になります。しかし、私たちが夏の日差しの中で汗を流しているときにも、その秋は、もう存在していたのです。季節の移り変わりと言いますね。私は、夏の後、季節が移って、秋が来ると思っていましたから、この地球上に夏と秋が同時にあるのだ、そして「この秋(大陸の高気圧)」が、やがて日本にやってくるのです、という説明に、驚いてしまったのです。私たちは、何と局面的、一部分しか見ていない者なのか、と思ったのです。そして自分が体験していることが、すべてかのように思っている。別の支配があることに気付いていない。存在していても、そんなものはないのだと、言ってしまう。
キリスト教は、神の国、または神の支配を伝えています。そんなものはないのだと言う時、自分に見えていないから、ないと言うのです。しかし、神の国は確かにあるのだと聖書は言っています。実際、神の国の希望、神の国のいのち、その愛、その豊かさを体験した人が、キリスト者になって、神の支配を証ししています。支配というと、良くないイメージがありますか? 私は、神の支配と言う時、希望、いのち、愛、豊かさを言っています。神の与える希望、いのち、愛、豊かさの支配が、必ず私たちの現実を覆う時が来るのだということを言っています。神の愛なんて、ないのだと言って、自分の悲惨な現実こそずっと続くのだと感じる時、いつか、その絶対と思われていた支配は転覆し、神の支配に覆われる時が来るのです。あなたは、その支配を、今、生きることができます。天気図を見てください。二つの支配があって、あの夏の支配は失せて、すでに秋が、私たちを支配しているではありませんか。この秋は、夏の間も地球上にダブって存在していたものです。そこを旅行した人がいたら、「向こうは秋だった」と言ったに違いありません。聖書は言います。「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」。

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by rev_ushioda | 2008-10-07 18:02 | Comments(0)

「無防備の神」

洞爺湖サミットが終了しましたが、その厳戒態勢には異常さを感じました。そう言えば、以前、新聞に「城構え」と書かれたコラムがありました。大使館などでテロによる爆破事件が起きると、アメリカを初め、各国の大使館は、勢い厳重な警戒体勢をとるわけです。それがまるで「城」、城塞(とりで)のようだと言うのです。たとえば丘の上にあって、そこに行くための道路を少なくするとか、爆弾を積んだトラックが突っ込んできても大丈夫なように入り口をコンクリートブロックで固め、近くのビルの屋上からは対空ミサイルが空をにらんでいる。門扉は、ぶ厚い鉄板、テレビの監視もある。来訪者は靴の底や、シャツの襟の裏まで調べられる、という具合です。昨今のようにテロが頻発する状況下では、もっともっと厳重になっているに違いありません。
しかし、この「城構え」ということは、私たちの生活の中でも深刻な問題になっているのではないでしょうか。マンションの1階に、その階段を利用する人のためのポストが並んで置いてありますが、そのポストの一つや二つに鍵がかかっているのは、よく見かけます。しかし、あるマンションに行ったら、何と、そこのポストには全部、鍵がかけられていました。その階段を使う人たちの間で何かあったのだろうと想像できました。私は、何か、とても寂しい気持ちでその場を離れました。そして思ったのです。私たちは、こうして「城構え」をしているのだということを。私たちは心を閉ざす。防衛する。「城構え」をするのです。
そのような私たちのただ中に、神の子キリストは、産着の布切れ1枚で、つまり、まったく無防備のまま、飼い葉桶に横たわったのです。そう、クリスマスの出来事でした。この神の出来事の前で、私たちはいったい、何を守ろうとしているのでしょう。何を恐れているのでしょう。どういう武器を持とうとしているのでしょうか。神がご自分を投げ出されたならば、私たちの心の窮屈な「城構え」など、もう作らなくていいのです。この神の前でなら、私たちは、もっと自由になれるのではないでしょうか。
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by rev_ushioda | 2008-07-13 17:59 | Comments(0)