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「犠牲の上に」

灰谷健次郎という児童文学者の作品に『兎の眼』という小説があります。足立先生という小学校の先生が、ハンガーストライキをしている、そこに訪ねてきた子どもたちとの会話が書かれています。「先生、しんどいか」「うん、苦しい」と言いながら、先生は、昔、貧しくてお腹を空かせて、生まれて初めてドロボーした夜のことを話し出します。
子どもたちは先生がドロボーしたと聞いて驚きますが、先生は続けます。「先生はお兄ちゃんと二人でドロボーに入った。怖かったなぁ。先生はドロボーが恐ろしゅうて恐ろしゅうてかなわんかった。だから、四、五回でやめてしもた。」
でも先生のお兄ちゃんはドロボーが平気で、何回も何回もドロボーしたのです。兄弟が七人もいたから、ツバメが餌を運ぶように何回も何回もドロボーした。おまわりさんに何回も捕まりながら、何回もドロボーした。やがて少年院に送られ、そこでお兄ちゃんは死んだのです。ところが、死んだとき、文庫本の『シートン動物記』がボロボロになってポケットに入っていたというのです。そこで、先生は気づいたのです。ドロボーして平気な人間はいない。先生は一生、後悔するような勘違いをしていた。先生はお兄ちゃんの命を食べていたのだ。お兄ちゃんの命を食べて大きくなったんだ、と。

これは児童文学(小説)ですが、この場面で何を言っているかというと、犠牲、ということです。お兄ちゃんが他の兄弟たちの犠牲になって、先生は、そのお兄ちゃんの「命を食べていた」という話をしている。先生は、お兄ちゃんは好きでドロボーしていたのだろうと思っていたのですが、一生、後悔するような勘違いをしていたんだ、と。
人間は、他の人の犠牲を食べて生きているという、命の理解の仕方をこの本は書くのですが、十字架にかけられたイエス・キリストは言われます。「わたしが命のパンである。」一生、後悔するような勘違いをしないようにしたいのです。

「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節)

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by rev_ushioda | 2015-03-02 12:16 | Comments(0)

「転倒の傷」

ある時、私は年がいもなく、子どもが乗って遊ぶキックボードに乗っていて転倒し、アスファルトの路面に頭を打ちつけて目の上を切り、数センチ縫うことになってしまいました。すぐ病院に行って手当をしたためか、傷の直りは思ったより早く、1週間くらいですっかり癒りました。けれども、気付けば両方の手や肘には何の傷もありませんでした。倒れる体を支えるはずの腕は、その時、まったく動いていなかったのです! 気持ちは二十歳でいたのに、何か厳しい現実を突き付けられたような感じがしました。「お前の体は、もう若くない」という宣告を受けたような感じは、どうにも情けないです。体よりも心に傷を負ったような感じです。
事故についてはいろいろ励ましてくれる人もいたのですが、私は、事故を起こしたというよりも、とっさに反応できない反応の鈍い、そういう年齢になったのかという自分に失望していたのです。
表には現れない、その人にしか分からない、いえ、場合によっては自分でも気付かないかも知れないような感情のところで、人は傷を持ち、癒やしを必要としているのかも知れません。その感情を抑えているから、どこかで無理が来るのです。カウンセリングにおいでになる皆さん、多くの場合は、傷がある気持ちを言葉にして言えなかったということです。感じていることを感じてよいのだと自分に許可を与えることができなかった… その時は、言えるような状況でもなかった。もしそうしていたら、ずいぶん違った結果になっていたのです。
旧約聖書のヨブという人は、理論や知恵を持ち出す友人たちの前で、その理論とか知恵の枠組みで考えることを拒否して、思い切り、神に向かって叫びます。そして、悲しみや怒りに奪われそうになる心を、人間を、取り戻していくのです。思い切り叫ぶことができる対象として、神、人間の造り主である方と向き合える人は、幸いです。

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by rev_ushioda | 2014-07-12 20:20 | Comments(0)

「バックギア」

私は、車の運転をしますが、車のギアはうまくできているものだと思います。同じ力のエンジンなのに、坂道を力強く登る低速運転にも、高速道路を突っ走る高速運転にも、そして、車をバックさせることもできるのですから。
ところで、車のギアがいつもバックギアに入っていたとしたら、それでは車の機能は発揮できません。そればかりか、エンジンをふかせばふかすほど後戻りしてしまいます。ニュートラルに入れ、さらに次のギアへと入れ替えていくときに、車は前進し、車はその本来の役割を果たすことになります。
なぜ、こんなお話をするかと言うと、私たち人間は、意外とバックギアに入ったままの状態、ということがあるのではないでしょうか。相談に来られる方の中には、時々、この人はもう結論を持っているのではないか、と思う人がいます。私がどうお話しても、「ええ、でも…」とバックギアを入れる。「でも…(私はこう思う)」。それなら初めからそうすればどうか、と思うのですが、実は自分の考えや思いと同じ言葉を言ってほしくて、おいでになるようです。しかし、それでは、前進しようがありません。
心の中にあるこのような後向きのパターンを、「心理ゲーム」と言いますが、このゲームを始めると、どんな話題においても、また、そこでどんな話を聞かされても、必ず同じ思い、同じ感情に戻っていってしまうのです。つまり、バックギアに入ってしまっているので、いつも「他人のせいでこうなった」とか、その反対に「自分はだめ人間だ」というように、同じことを繰り返します。
知らずに入っているバックギアを引き抜いてニュートラルに、そして、それぞれに合ったギアに入れていくとき、快適な、自由な人生の走りができるはずなのです。
聖書はこう言います。「この自由を得させるため、キリストは、(十字架によって)私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)

「くびき」とは、牛が荷物をひくために首に掛ける木のこと。
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by rev_ushioda | 2014-07-05 20:11 | Comments(0)

「朽ちないもの一つ」

娘が幼稚園の時、一緒に遊園地に行ったことがあります。ボートがあったので、乗せてあげようと順番を待ち、いよいよ私たちの番になりました。しかしその時、娘が急に逃げ出してしまったのです。順番を待ちながら、娘はあの、ゆらゆら揺れる様子を見ていて、急に不安になり、逃げ出したのでした。
私は思います。足元が揺れる、気持ちがどうしても踏ん張れないということは、実は、誰にもあるのではないでしょうか。
実際、精神的に落ちこんだり、ましてや病気になったりした時は、人はボートに乗っているような感じになるものです。踏ん張れなくなるのです。足元が揺れてしまうのです。周りの人は、「頑張りなさい」「しっかりしなさい」「そのくらいできるでしょ!」と言いますが、どうしてもそれができない時があるのです。もし、一緒に舟に乗ってみてくれたら分かるはずなのに、そのように声をかける人は、見れば、陸に立っているのです。そういう人に限って陸にいて、自分の足はしっかり大地に立って、ボートに乗って揺れている私に向かって、頑張れ、頑張れ、と声をかけている。
しかし聖書は、「キリストは神の身分でありながら、・・自分を無にして・・人間と同じ者になられた」と言っています。キリストは神の身分を離れ、つまり、先の話ですと陸地からボートに移って「本当にずいぶん揺れているね、これでは不安だね」と言ってくださっている、と言うのです。そしてここが大事ですが、私たちが今、直面しているそのところ、まさに私たちの現場から、神は救いのドラマを始めてくださるのです。
聖書にはこう書かれています。「神はその独り子・キリストを送ってくださった。それほど、あなたを愛してくださったのです。あなたが滅びないで、永遠の命を得るために」。─ ですから、あなたの舟にキリストをお迎えするなら、そこから、新しいドラマが始まるのです。「神は・・それほど、あなたを愛してくださった」からです。

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by rev_ushioda | 2014-06-27 10:42 | Comments(0)

「頑張れないとき」

娘が幼稚園の時、一緒に遊園地に行ったことがあります。ボートがあったので、乗せてあげようと順番を待ち、いよいよ私たちの番になりました。しかしその時、娘が急に逃げ出してしまったのです。順番を待ちながら、娘はあの、ゆらゆら揺れる様子を見ていて、急に不安になり、逃げ出したのでした。
私は思います。足元が揺れる、気持ちがどうしても踏ん張れないということは、実は、誰にもあるのではないでしょうか。
実際、精神的に落ちこんだり、ましてや病気になったりした時は、人はボートに乗っているような感じになるものです。踏ん張れなくなるのです。足元が揺れてしまうのです。周りの人は、「頑張りなさい」「しっかりしなさい」「そのくらいできるでしょ!」と言いますが、どうしてもそれができない時があるのです。もし、一緒に舟に乗ってみてくれたら分かるはずなのに、そのように声をかける人は、見れば、陸に立っているのです。そういう人に限って陸にいて、自分の足はしっかり大地に立って、ボートに乗って揺れている私に向かって、頑張れ、頑張れ、と声をかけている。
しかし聖書は、「キリストは神の身分でありながら、・・自分を無にして・・人間と同じ者になられた」と言っています。キリストは神の身分を離れ、つまり、先の話ですと陸地からボートに移って「本当にずいぶん揺れているね、これでは不安だね」と言ってくださっている、と言うのです。そしてここが大事ですが、私たちが今、直面しているそのところ、まさに私たちの現場から、神は救いのドラマを始めてくださるのです。
聖書にはこう書かれています。「神はその独り子・キリストを送ってくださった。それほど、あなたを愛してくださったのです。あなたが滅びないで、永遠の命を得るために」。─ ですから、あなたの舟にキリストをお迎えするなら、そこから、新しいドラマが始まるのです。「神は・・それほど、あなたを愛してくださった」からです。

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by rev_ushioda | 2014-06-19 16:22 | Comments(0)

「ミスを隠さず」

病院での医療ミスがときどき問題になっていますが、良識ある医師、看護婦さんたちはいろいろ気を遣って、さぞかし大変だろうと察します。
さて、アメリカのある病院では、ミスを一切隠さず公表するそうですが、初めからそうではなかったそうです。かつて、自分たちの医療ミスに気付いた時、黙っていればそのままで済ます(?)ことができたそうですが、ひょっとしたら、いつか外に漏れて莫大な賠償金を払うことにもなるかも知れない。悩んだ末、今、率直に公表しようということになりました。そして公表した結果、意外にも思ったよりはるかに低い額で、和解が成立したのです。それからこの病院では「人はミスを犯すもの」という前提に立って、ミスがあったら医師の責任は一切病院が負って、公表する。その上でミスを繰り返さないために徹底的に対策を練ることにしました。こうして100とか200もの対策が生まれ、賠償費用もはるかに低い額になったそうです。
私たちは、自分の弱さ、失敗に気付くと、一生懸命に隠そうとする、のではないでしょうか。意識していないところで、無意識的に、弱い自分を隠しているのではないでしょうか。そしていつも強く、完璧な、役に立つ自分であることを、人に見せようとしているのですが、そのために、弱さを隠そうとする、ものすごい負のエネルギーが、体の中で働いているのです。自分でない自分を演じるのですから、やがて体調が崩れ、バランスが崩れ、破綻します。
弱さを隠さず、開けっ広げになれたら、どんなにいいでしょうか。聖書は言います「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」(ヨハネ一 1:9)。造り主(神)に対しての的外れ、「罪」を今、隠さずに言い表すことができたら、私たちはどんなに平安になれるでしょうか。あなたもぜひ、教会においでになってみてください。

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by rev_ushioda | 2014-06-15 06:54 | Comments(0)

「どこでもドア」

泉教会ではインターネットにホームページを開いていますが、ある時、ドイツから、ページを見ました、というメールが舞い込んできて、なるほどこれがインターネットかと感動しました。また、カリフォルニアからもメールが入って、何とその人のお姉さんが教会の近くにいるので教会案内を送ってほしいということでした。カリフォルニアからのメールで、すぐ近くの方を知る。その方が教会に関心があるかないかは別にして、私は、またまた感動してしまいました。机の上が、まさに世界に向かって開かれているのです。「ドラえもん」の「どこでもドア」というのがありましたが、インターネットを通じて机の上から、どこでも行けるのです。
しかし、考えてみると教会は2,000年前から、世界に開かれた「どこでもドア」を持っていたのではなかったかと思うのです。住んでいる地域を問わず、老若男女を問わず、民族、国籍を問わず、趣味、学歴を問わず、すべての人が自由に出会う場であったし、あり続けました。
私たちの泉教会に集まる方々は、皆、玄関先で初めてお会いした方々ばかりで、それまでに知り合いであったわけではありません。住んでいる地域や年齢が同じというわけでも、仕事や、趣味が同じであったわけでもありません。大人も、子どもも、います。国籍から言えば、韓国の人も、2年ほど日曜日の礼拝に来られていたこともあります。教会は「どこでもドア」なのです。どこにでも行けるという意味ではありませんが、しかし、どこの誰とも、普通に出会えるのです。教会に行ってみると、会社の部長さんが、スリッパ拭きをやっていたりするのです。アメリカのカーター元大統領は、現職の時も教会で子どもたちに聖書を教えてきたそうです。教会はどんな人も、そしてどんな人とも、普通に出会うことができる、そういう「どこでもドア」なのです。あなたとの出会いも、楽しみにしています。泉教会では、初めての人をお招きしています。日曜日、朝10時30分からの礼拝に、あなたもぜひおいでください。

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by rev_ushioda | 2014-05-27 21:50 | Comments(0)

「沈黙の値打ち」

新聞記事の見出しに目が止まりました。「息子の心、受け入れた父」という見出し、副題が「名門高校を卒業した息子が、金属バットを振り回し始めた。父の闘いが始まった」とありました。よく聞く、家庭内暴力、家庭崩壊の話でした。ここでお父さんの「闘い」とは何かというと、カウンセラーから言われた、ありのままの息子(の気持ち)を受け入れることでした。それまでは息子に「こうなってほしい」「こうすべきだ」と、子どものためと思えばこそ、親の期待や価値観、道徳的な言葉を、疑いもなく押しつけてきた。ところが今は、カウンセラーの指導に賭けて、今まで言ってきた言葉を、一切、言わないと誓ったのです。言わないことのもどかしさ、苦しさがつのる中で、それでも言わないのは、お父さんにとっては、まさに自分との「闘い」だったわけです。こうして親が自分と闘い、親の期待や価値観、道徳的な言葉を押しつけなくなった時、やがて、子どもは自分の道を歩き出し始めた・・そういう記事でした。
価値観をおしつけられ、外面的には「いい子」を演じながら、今にも爆発しそうな人がどれだけいるでしょうか。しかし、価値観をおしつけている側は、それが子どものため、人のため、と言って、それが当然という考えなのです。あなたはどうでしょうか。
ある便利屋さんが一人のご婦人のところへ呼ばれて出かけると、「たった1時間話を聞いただけで、100万円くれました」と、「人のために人となる人」(サンマーク出版)という本に書かれています。自分の話ができない。気持ちを誰にも伝えられない。自分のことを言おうとすると、いつも決まった同じ価値観を押しつけられる。そういう人にとって、話を聞いてくれるということは100万円の値うちがあった、ということです。言い換えれば、私たちは自分の価値観で100万円もの値打ちを人から奪っている。取り返しのつかない損害を、人に与えているのかも知れません。泉教会は、100万円を値積もるほどの値打ちがある、人の気持ちを大事にしたいと考える教会です。

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by rev_ushioda | 2014-05-15 20:05 | Comments(0)

「人間回復」

いつだったか、新聞に「人間回復」という言葉がありました。ハンセン病の隔離が解かれた、という記事でした。ハンセン病は、らい病と言われていました。この病気は感染力はないに等しく、遺伝もしないのに、日本では患者を隔離し、怖い病気という意識が植え付けられてきました。世界では、すでに40年前にこの病気の人は自宅療養が主流になっていたにもかかわらず、日本ではずっと差別、偏見、隔離を続けてきたのです。それで患者さんたちは、自分のことで迷惑がかかるからと本名を名乗らず、決して家族に連絡をとろうとしなかった。これが現代の日本であろうかと耳を疑いました。裁判で、この隔離は誤りであったと判決が出た時、患者さんたちはまさに「人間回復」の戦いを、勝ち取ったのです。誤解と偏見で奪われていた人権が、ここに回復されたのです。
聖書に、「重い皮膚病を患っている」人のことが書かれています。彼らは、道を歩く時には誰かが接触しないように自分を「汚れた者」と言わなければなりませんでした。キリストが山から降りて来られた時、誰に最初に出会ったかと言うと、この「重い皮膚病を患っている」人であったと書かれています。山のふもとに「重い皮膚病を患っている」人がいたのは、町から離れた山際に、追いやられていたからです。隔離されていたのです。その「重い皮膚病を患っている」人を目掛けて、キリストは山から降りて行かれたのです。
そして、キリストは「手を差し伸べてその人に触れ・・」たことを聖書は書いています。ここに、人間回復が起こったということです。キリストが手を差し伸べてその人に触れた時、そのことで、私も山際に追いやられるなら、追いやられてもよい、というほどの決意がみなぎっています。キリストは、こうして、自分は清いと主張する人々から、十字架に(文字通り)“捨てられた”のでした。その犠牲によって、今も山際に追いやられているような人、差別、偏見を受ける人、場所を失っていると感じる人は、人間として生きる道に連れ出されているのです。キリストによって、あなたも人間として生きられるのです。

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by rev_ushioda | 2014-04-11 21:22 | Comments(0)

「航空灯台」

湘南を代表する灯台が一つ、老朽化のために解体され、姿を消したというニュースを聞いたことがあります。その灯台は、平塚市にあるので「平塚灯台」と言いました。この「平塚灯台」は、元々は船のためではなく、かつて、夜、東京-大阪間を飛んだ“飛行機のための灯台”の役割を担っていました。こういう灯台のことを「航空灯台」と言うそうです。なぜ、夜、飛行機が飛んだかというと、荷物を早く運ぶためでした。その役割を終えてから、今度は海の灯台として使われてきたそうです。
この平塚灯台の 一つ東京寄りの灯台は、私たちの泉教会がある、和泉町にありました。こちらの灯台は、戦争中、敵の標的にならないよう取り壊されたと聞いていますが、ここにあったという その場所に立つと、なるほどその辺りで一番高い、富士山が真正面に見える、とても見晴らしのいい所です。
私は、このような航空灯台は、空から どのように見えたのだろうかと想像します。きっと真暗闇の中に、点々と明かりの点が続いていたことでしょう。そこを辿って行くと、道に迷わずにちゃんと目的地に着いたのです。
八木重吉という人の詩に、次のようなものがあります。
「ゆきなれた路の/なつかしくて耐えられぬように/私の祈りのみちをつくりたい」
真暗闇の中で手さぐりし、失敗したり、思うようにいかず文句も出るような時、イエス・キリストは、まさに闇夜(やみよ)を飛行する私たちのために、折々にふさわしい「光」となってくださるのです。「私は道である」と言われて、そこに道をつけてくださる。この光の道に従って、私たちは「祈りのみちを作る」ということです。この「みち」では、闇夜(やみよ)でも決して迷うことはないのです。
「ゆきなれた路の/なつかしくて耐えられぬように/私の祈りのみちをつくりたい」。
さあ、あなたも、泉教会に来る「祈りのみち」を作り、そこを歩き始めませんか。

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by rev_ushioda | 2014-04-04 21:35 | Comments(0)