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通信販売会社から出ている『通販生活』という雑誌が手元にあります。欲しい生活用品を探していると、次の見出しがありました。
「安倍総理がめざしているのは、いつでも/どこへでも/自衛隊を送り出す ことです。」
―そんなことは絶対にあってはならないことだ、という記事で、元「防衛庁防衛研究所」所長の言葉でした。何気ない生活の中に、重大な危険が迫っていることを感じさせます。
安倍総理は、5月には戦争法案10本近くの審議を始めるそうです。「戦争法案」など、いつの間に準備したのでしょうか。私たちが大型連休だと言っている間に、信じられない速さで、平和と人間性を守る砦である「憲法」が瀕死の状態になっています。憲法を無視し、憲法そっちのけで、解釈次第で、戦争でも何でも出来るようにする、という状況なのです。「戦争のできる国」、すなわち「戦争に巻き込まれる国」になる日が、私たちに急速に迫っています。ここが大事ですが、法律の名のもと、人を殺し、殺される国になる日が近づいているのです。戦争なんて…と言い、選挙にも無関心でいる間に、安倍総理は「いつでも/どこへでも/自衛隊を送り出す」日を作らせているのです。
今「平和」を口にすると、平和のためにこれをするのだ、積極的平和主義だと言われてしまい、だから「戦争法案」が必要だ、と言うのです。平和という言葉がクサビにならない。私たちの中でさえ、「平和? 政治の話はどうも…」と勘違いするくらい、平和という言葉が政治利用されているのです。
その日が来たら、自衛隊員に志願する人は今より減ります。自衛官を辞める人も、出て来るでしょう。そうすると、「徴兵制」です。今の子どもたちが徴兵される日は、そう遠からずやって来ます。これを書いたのは、あの年からこうなったという日が来るからです。その時、子どもたち、孫たちから「父母よ、祖父母よ、その年に何をしたの?」ときかれた時、答を持つためです。

聖書は言います。
エレミヤ書8章11節「彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに『平和、平和』と言う。」
マタイによる福音書5章9節「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」

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by rev_ushioda | 2015-05-01 15:50 | Comments(0)

「間違い発見」

『現代聖書注解 マルコによる福音書』という本を読んでいて、原文はわからないものの、はっきりと誤訳だとわかるところを見つけた。
「それぞれの教派の本部や中級裁判所さらに地域教会のスタッフたちが…」と書かれていたところである。
このちぐはぐな翻訳を見つけた時、原文はわからないものの、「中級裁判所」というのは誤訳で、「中会」だと直感した。
著者は長老教会の神学校で教えている、とあとがきに書かれている。ならばなおさらである。長老教会では、教会会議のことを「法廷」とも呼ぶ。本部ー地域教会の間にあるのは「中級裁判所」ではなく、教会会議としての「中会」なのだ。それを一般用語としての「法廷」と理解して、「中級裁判所」と訳した。それなりの権威のある本だったので、これに気づいて、してやったりと思った。
それにしても、翻訳とは難しいものである。翻って、聖書の翻訳としての自分の説教は、大丈夫だろうか。そこに集う人の文脈にきちんと翻訳できているだろうか。それとも、このように一般用語としては間違いがない翻訳でも、意味不明の言葉になってしまっていないだろうか。そう思ったら、ひとごとではなくなった。

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by rev_ushioda | 2015-04-23 16:34 | Comments(0)

最近の新聞に、「カトリック “軍備優先”に危機感」という見出しがありました。日本のカトリック教会が、平和の理念を揺るがす政治の在り方に危機感を強め、戦後70年に際してメッセージを発表した、という内容でした。
そのメッセージは具体的に何と言っているかというと、政治は歴史を書き換えているとか、憲法9条を変えようとしているとか、沖縄の基地問題で人間が無視されているとか、そのような踏み込んだ内容だ、と紹介しています。その上で、なぜ、教会がこのような踏み込んだ発言をするかということが、記事に書かれています。要するに、「なぜ教会は平和を“祈る”だけでなく、政治について発言するのだろうか」という問いに答えようとする記事でした。
私たちカンバーランド長老教会日本中会も、そういう意味では声明などを盛んに発信していますが、好き好んでそうしているわけではありません。本当はそうしたくないのに政府に対してメッセージを発表せざるを得ないのは、日本のカトリック教会の場合、かつて、明確に反対せず、結果、戦争遂行に協力してしまったという反省があるからだと、記事は紹介しています。
ほっておけば、結果的に戦争に協力することになるのは、歴史が、はっきりと証明していることです。集団的自衛権のたどる道は、戦争です。政府はそのための国民の意識改革と、法整備を、もう何年も進めてきて、ここに来てそれが顕著です。もし、発言しないなら、戦争に協力することになってしまうのです。
N兄は軍国主義に育った少年時代、「晴れた」空を見たことがなかったと言われました。実際、晴れた日はあったでしょう。しかし、心の記憶は、いつも曇りだったのです。そして、それが今、この時代に重なると言うのです。
私の信仰上の祖父は、京都で牧師でしたが、治安維持法で検挙され、信仰のゆえに殉教しています。その悪法が今、特定秘密法に姿を変えて復活しました。だから私は、政府の考え方に反対の意思表示をするのです。それは、ただただ、信仰を護ることなのです。
今、ほっておいたら戦争を起こす協力者になるのです。かわいい孫たちは、将来、徴兵制によって兵隊にとられます。カトリック教会が声を上げたと報じられました。あなたは?

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by rev_ushioda | 2015-03-20 10:54 | Comments(0)

「ちょこっと休暇」

ちょこっと休暇を再び…。日曜日、夕礼拝が終わってから箱根に出発、月曜日3時までに帰宅するプチ休暇のこと。
中山道には、娘一家が家の近くから引っ越すし、母の年齢が97歳になることを考えると、しばらく出ることは出来なくなった。岐阜止まりのままだ。
この、「ちょこっと休暇」の行先の基準は、到着が夜中12時まで可/朝食付で7000円台/チェックアウトが、できれば11時/口コミ評価が高いホテル、この検索で当たったところなら、どこでもいい。今回、強羅にある、ホテル マロウドに泊まった。直前予約なので、ヒットするホテルは毎回違う、というスリル感が、また、いいものだ。新しいホテルとの出会いがある。
今回も、初めて利用するホテルだったが、口コミ通り、大満足であった。一番よかったのは、レストランでのスタッフの会話。その人の自然体かもしれないが、お客さんを喜ばせる短い会話のコツを心得ていると、思った。そのほか、アンケート用紙が置かれており、意見を聞いて、その対応をきちんととっている感じがあった。人への対応がきちんとできることなどホテルの基本だと思うが、当たり前のことが当たり前にできないのが、また人間である。そこをソツなくこなしているのを見ると、ほっとするものを感じ、プチ休暇に行った甲斐がある、というものである。
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by rev_ushioda | 2015-03-16 20:58 | Comments(0)

「外見によらず」

この写真は、たまたま通りがかりに立ち寄った、通り沿いにあったラーメン屋さん(左の建物)。
中に入ると何やら色紙が壁一面に。「6杯完食」とか、書いてある。なるほど、完食したらタダになるあれか、と思ってみていたら、「1万円ゲット!」とある。30分以内に6杯完食でお祝い金がでるらしい。1時間以内10杯完食で5万円ともあった。スープも完飲だから、この人、5万円ゲットしたはいいけれど、生きて帰れなかったんじゃないかと…(笑)そして、何と、タイだったかどこだったかの国から来たというテレビ番組の一団が(と、うろ覚えで記憶しているが)、大型バスで乗り付けた写真が貼ってある。
田舎の普通の店なのに、このように話題を振りまいている店もある。6杯完食で1万円、広告費と考えれば安いものなのだろう。茅橋ラーメンという店だったかな、食べログなどにも紹介されている有名な店のようだ。要は、店構え云々よりも、頭の使いどころか。外見、立地がネックになっている、わが泉教会のことを、いろいろ思いめぐらせた。
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by rev_ushioda | 2015-03-14 20:56 | Comments(0)

「最後の七言」

時は受難節。しかし、十字架上の「最後の七言」ではない。

We’ve never done it that way before.
「私たちは今までそんなふうにやったことはありません。」
これは、話し合いを否定的に打ち切る常套句で、「最後の七言」と言われるものです。この道具を使うと、人の前向きな思考、やる気、成長したいと思う気持ちを落ち込ませるのに非常に有効です。
私たちは、常にこの効果的な道具を使いたい気持ちがあります。なぜなら、それによって同じところに留まり続けることが出来ます。何も試す必要はなく、危険な冒険をしないで済みます。安全地帯にいたいなら、この「七言」を使えばいいのです。We’ve never done it that way before.「私たちは今までそんなふうにやったことはありません。」

しかし、私たちは、そのように召された者だったでしょうか。
アブラハムには、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」
漁師ペトロとアンデレ兄弟には、「わたしについて来なさい。人間を獲る漁師にしよう。」

私たちは、今まで、そんなふうに神に信頼して立ち上がったことはありません。しかし私たちは、神が招かれるならば、今までそんなふうにやったことがなくても立ち上がって行く者になるのです。私たちは、人がやったことをしようとしているのではなく、神が招くこと、神がなさることをしようとしているのです。私たちは、人の言葉、人の経験に制限されるのではありません。神の言葉をこそ心に記憶して、それに向けて出発するのです。

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by rev_ushioda | 2015-03-07 09:11 | Comments(0)

「東京駅はこりごり」

行けば何とかなる、とは言うけれど、東京駅はそんな言葉は通じないところだった。
「聖書事業懇談会」があって、会場 フクラシア東京ステーション(朝日生命大手町ビル)というところに行ったのだが、駅に降り立ったところからまったく行先がわからない。案内表示を見ても、自分の現在位置は標示されてはいるが、そこからどっち方向に行ったらいいかがわからない。上に出たいのだが、上に行く階段がわからない。道がいたるところ分岐して、まるで蟻の巣の中だ。新幹線とか、地下鉄の何々線とか、あっちこっちに表示があるが、肝心の出口の表示がない。表に出たいのに、出れない。やたらと飲食店ばかり。何だ、この駅は?出口がわからない駅など、初めてだ。心細いの何の…30分うろうろして、人に訊いてやっと表に出たら、高層ビル街の谷間だった。そして、目の前に目的のビルがあってホッとしたが、道に迷うとは、こんな心細いものかと思い知った。
帰りは、人の後について駅に行ったが、地下では、いったいどこからが駅だったのか… あげくの果て、何と東海道線が見つからず、たまたま目の前にあった横須賀線で帰ったものの、行きたいところに行けない東京駅は、二度と行くところではないと思った。
たとえば下の図。これで、分からない人が本当にわかるんだろうか。
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by rev_ushioda | 2015-03-06 23:51 | Comments(0)

「エクソダス 神と王」を観た。
3D映画で、あの出エジプトを描くのだから、迫力満点というのが第一印象である。
そして、聖書を題材にしているのは間違いないが、当然であろうが監督の「解釈」が加わった「映画」であると、観て、まず思ったことである。
「10の奇跡」が及ぶシーンは、神の意志は主張されていたが、むしろそれは自然現象として引き起こされた。水が血にかわるのは、ワニに食べられた人間の血で表現。血に染まった川から逃げて来たカエルの群れ。カエルの死体からぶよが大量発生し、うじが街中にあふれかえる。うじが運んできたウイルスで家畜に疫病が流行り、死ぬ。刺された人の身体には、はれものが生じる、加えて、雹やイナゴといった自然異常、暗闇などの天体異常、という具合である。
そして、あの紅海を渡る壮大な場面は、自然現象として水が引き始め、大きな竜巻のようなもので再び水が押し寄せるのである。
神からの啓示はどうなっていたかというと、一人の子どもを登場させ、子どもの言葉で神を啓示するという方法をとる。神はだれも見たものはいないのだから、子ども(の姿)であってはいけないか、というような台詞があったと記憶する。
そして、私が一番興味を持ったのは、モーセが一人の人間として、迷う人として、描き出されていたことだ。自分たちがエジプトを脱出できたのは「神の奇跡」だったのか、「偶然」だったのか。最後まで信仰のない、悩む人間として描かれていた。「出エジプト記」13章では神が民を導くのに対し、映画では、イスラエルの民を従えるモーセ自身が、悩みながら、進む道を選択しないといけない。
聖書ではモーセの手には杖があるが、映画では、剣である。それが象徴するように、最後まで人間の力を前面に押し出す。たとえばエジプト王ファラオが、「私が神だ!」と言う。他方、モーセは剣の人であったが、神に選ばれ、しかしその神と格闘しながら、神から託される役割を担うようになる。
映画の題には「神と王」とつけられている。自ら神と言うエジプト王ファラオ。他方、神を否定しながら最後まで剣と自分の判断に頼っていながら、しかし神に選ばれ、用いられていく、人間モーセ。私は、これは映画であると割り切りながらも、人間モーセに焦点を当てながら、しかし「神と王」と題をつけ、結局、人間を導くのは神の支配だとこの映画は言っていると、思った。

映画「エクソダス 神と王」 予告編
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by rev_ushioda | 2015-02-10 11:59 | Comments(0)

「ガソリン110円台」

記事に一貫性がないが、こういうこともあるんだねえ~

国際情勢は、日本人も標的にということで緊張感が走るが、そもそも私たちは国際情勢の中でしか生きられない。そういう緊張を感じることができるなら、聖書が言う「神の国はあなたがたの間にある」という緊張も、感じていきたいものだ。しかし、神の国の「国際情勢」^^;は、教会が語る言葉でしか伝えられない。
こういうサインがあったら、どうなるのだろうと、思ったりして… 今度、教会の前に出している のぼり旗に、「神の国はあなたがたの間にある」と書いたら、「それ、今だ」と、人は押し寄せるだろうか。

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by rev_ushioda | 2015-02-06 17:43 | Comments(0)

ヴァイツゼッカー氏は、その格調高い演説によって国内外に感銘を与えたドイツ連邦共和国の元大統領である。その演説のなかでも、『想起と和解』(加藤常昭訳)の一節は、広く知られた言葉だ。(元訳『荒れ野の40年』)

“過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります…われわれは理解しなければなりません。思い起こすことなくして和解は起こりえないことを。”

“思い起こすとは、ひとつの出来事を正直に、混じり気なしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにすることであります。”


彼は、自分の大統領としての制約ある立場でできることは、問いを発することであると言っている。
人は、どのような問いを受けるかによって人間性が深まっていくと言ったらよいだろう。ヴァイツゼッカー氏は、すぐれた問いを発することができた人という意味で、卓越している。1月31日になくなったが、今も、彼の言葉は光っている。

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by rev_ushioda | 2015-02-04 16:36 | Comments(0)