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「何が偶像か」

イスラム教過激組織IS(イスラミック・ステート)によって、ベル遺跡が破壊されたらしいというニュースが伝わってきました。ベルとは、旧約聖書に何度も出て来る「バアル」のことです。バアル神殿が栄えていた時代があったのですが、それは今、遺跡でしか見ることが出来ません。偶像だ、ということで破壊されたのは、明らかに遺跡です。遺跡さえ偶像と言って破壊するISには、他宗教を信じる人はもとより、他の生き方を受け入れる余地など、微塵もありません。支配地域では、人間らしく生きる権利が踏みにじられているようです。
ISに限らず、「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は、人を支配する言葉、人間的原理で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、それこそが偶像であり、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。
それはまた、私たちが自分自身の経験や考え方を基準にするなら、教会にも簡単に持ち込まれるのです。うかうかすると、私たちもまたIS同様、何でもないものを、それは偶像であると口にしてしまうのです。そして、他者を破壊します。そのように言う言葉じたいが、また「言葉の偶像」(自分の言葉を信仰の言葉のように言うこと)となっていくのです。…
この世の中で普通であった、人を支配する「言葉の偶像」を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、何よりもあなたの偶像を捨てるようにと、自分自身に向かって言う言葉です。この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-10-30 06:31 | Comments(0)

「岐路に立ち」

「一同は死刑にすべきだと決議した。」(マルコによる福音書14章64節)。

先週の国会、参議院特別委員会の様子を見たと思います。毎日新聞によると、委員長の説明では採決したというが、どの時点で何の採決が行われたのか、議場にいた議員すら分からなかった。ある人は「委員長が何を言ったか、誰が何をどうしたのかさっぱり分からない。あんな暴力的な採決が認められるなら、この国の民主主義は死ぬ」と言いました。生中継するNHKすら、「何らかの採決が行われたものとみられます。」と言って、実況したそうです。散会するまで「可決」を伝えられなかったと。
つまり、誰にも分からないのですが、ある人たち(与党側)は、裏を合わせていて、声が聞こえなくても皆、次にどうするか分かっていた。聞こえなくても合図で皆、立ち上がって、「はい、賛成の人多数、可決」ということになったのです。そのように、裏で動いていた。

そういう決議が行われた先週の国会を目の当たりにし、聖書を読めば、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(上掲書55節)「一同は死刑にすべきだと決議した。」(64節)とあります。(正式の死刑判決はまだ先であり、ここでは予備裁判のような場面ですが)ここで起こったことと、この日本で先週、実際起こったことと、何か重なるような思いが致します。裏があって、もう筋書き、結論は決まっている中で、表向きは形式だけの審議が行われた、ということなのです。
しかも、主イエスの逮捕は真夜中、裁判も夜中となったのですが、こういったスピードもまた、今の国会の仕方と重なります。結論が先にあると、疑問を持つ人がどんなにいても、期限までに突っ走るしかない。時間内に決めてしまわなければならない。
人間は、一度、こうだと決めていることがあると、人の話を聞くようには見せますが、しかし自分で思っていること、決めた事を、ただ通そうとするだけになる。そういうことを繰り返していくのです。こうなると、人間を大切に、人の心や平和を大事にしよう、というかけらも見ることは出来ないのです。

先週の国会で「死刑」の「判決」を受けたのは、憲法であり、民主主義であり、平和国家のブランドであり、そして平和を願う私たちでありました。

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by rev_ushioda | 2015-09-24 09:58 | Comments(0)

「人間を取り戻す日」

テレビを見ていたら、イスラエルの映像が映っていました。サバト、安息日の映像でしたが、町の店という店はみなシャッターが閉められていて、通りには一人もいません。なるほど、これが安息日なのかと思いました。安息日について、イスラエル人が次のように説明していました。
「もし、安息日がなかったら、私は1週間に7日働くでしょう。旧約聖書では、これは奴隷という意味なのです。かつて自分たちがエジプトで奴隷であった時、休みはなかったからです。休まないということは、つまり奴隷なのです。1週間に7日働いて、もし100万円もらったとしても、私は、奴隷にすぎない。働くことを止めないからです。」
…なるほど、安息日は、聖書を読む人々にとって祈りの一日、礼拝の日、神と向き合う日です。この日は、人が奴隷をやめて、人間を取り戻す日だったのです。私たちは、「豊かな奴隷」なのかも知れない。経済力もあるし、自分で何かを選択する能力もある。休日もないわけではない。しかし、神を礼拝することがない。あらゆることをしながら、神を礼拝しない(できない)なら、それがすでに何者かに支配されている奴隷という指摘は、心に刻み込まれる言葉です。
私たちはよく「余暇」(余った暇な時間)と言って、仕事をして、余った暇な時間があったら何かしよう、教会にだって行こうと思うのですが、実は、「余暇」ということ自体、何かに支配されている言い方なのではないでしょうか。むしろ、その時間こそ、人間を取り戻し、仕事の質を決める時間なのです。
また、レクリエーションとは、リ・クリエーション。即ち「再創造」という意味です。日曜日を祈りの日、礼拝の日としていく時、そこで、再創造が起こる。新しく造られる。主イエスは言われました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。・・それを取り上げてはならない。」

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by rev_ushioda | 2015-08-28 13:20 | Comments(0)

どこで読んだか。「池の鯉が病気になったので、すくい上げて別の場所に移し手当した。元気になったので、元の池に戻した。しかしその池が汚れていたことが病気の原因だったら、どうするのか。」だから、教会はこの世とかかわるのです。信仰の仲間が、出て行った先で倒れないように、私たちは教会の外にも目を向け、そこにも神の御心が現されるようにと祈り、行動する。

私は、国会の動きを見ていて居ても立っていられず、出来ることは、と考えて意志表明のポスターを自宅前に掲げました。ところが、その日も次の日もそのポスターが続けて壊されました。二度目の時にたまたま現場を目にしました。それは下校する高校生でした。国会では総理大臣が盛んに平和のためと言っていましたが、そのことによって世の中は、高校生までもが破壊行動をするのです。どんなに「平和」を口にしたところで、いみじくも、意見が違えば暴力で封じ込めて平和だという社会が、現に今、作られようとしているのです。

過日、「日本はどこへ向かうのか?~戦争と平和の岐路に立つ今を考える~」という平和講演会が行われました。講師の高橋哲哉さんは、分かりやすく、今進められている安保法案の問題点を話された。
問題点
1.憲法改正手続きを取らずに、解釈改憲という方法を取る。これは、憲法よりも法律を上にしてしまうことで、かつて、ナチスのしたやり方と同じ。
2.集団的自衛権の行使を、時の政府が判断できること。今までは攻撃を受けているかいないかという客観性があったが、今度の法律によれば、政府が攻撃を受けたと判断すれば、という、判断の仕方が主観的であることの問題。
3.「戦死者」が出ない、という安倍総理大臣の言葉は大きな嘘。安倍総理は安保条約は以前から「血の同盟」と言ってきた。また「(靖国神社で)英霊を顕彰することを国家が放棄したら誰が血を流すか」とも言っている。
4.思想的背景は、隣国侵略を唱えた吉田松陰である。明治政府以来、国家がしてきた隣国侵略の歴史はこの人の思想と一致しているが、その思想を「誠実」として学校教科書「道徳」として教えようとしている。

聖書は言います。「彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに『平和、平和』と言う。…彼らの舌は人を殺す矢/その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても/その心の中では、陥れようとたくらんでいる。」(エレミヤ書8章11節、9章7節)
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「アベ政治を許さない」の文字を書いたのは、俳人の金子兜太(とうた)さん(95)だ。
いわく、「許さない、と書きつつも、米国に夏までに成立すると約束し、法案成立へとひた走る日本の首相の言動をみると、気の毒にも思える…でっち小僧が旦那になだめられたり引っぱたかれたり、時々菓子をもらったりして、いいようにされている姿を想像してしまう。」

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by rev_ushioda | 2015-07-17 10:33 | Comments(2)

『十戒』は、福音によって新しくされた人間にとって「生活の指針」です。

『十戒』は、前回も書きましたが、パウロの言葉で言えば、キリストによって与えられた「自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え」(ガラテヤの信徒への手紙5:13)る、そのための指針なのです。「自由を得るために召し出された」(同上)キリストにある者たちは、この自由を生きるために、おのおのが新しい生活の指針としてこの『十戒』の言葉と向き合うのです。『十戒』は、神の前に生きる“私”に向かってくる言葉なのです。
なぜこれをくどくど言うかというと、「戒め」という言葉を見て、またその内容を見て、私たちは『十戒』をこの世で使い慣れてきた言葉だと勘違いするかも知れないからです。これは決して、私たちが慣れ親しんできた言葉、すなわち、人への指示、命令の言葉ではないのです。人への指示、命令の言葉は、この世の言葉であって、教会の言葉ではありません。つまりこれは、私たちが仲間に向かって言う言葉ではないということを、心しなければなりません。
それにしても「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は人を支配する言葉で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。それこそ、教会に持ち込まれるこの世の言葉、「言葉の偶像」(自分の言葉なのに信仰の言葉とする)でしかありません。そして、うかうかすると私たちも口にする言葉なのです。人を支配する言葉の偶像を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-07-05 22:58 | Comments(0)

キリスト者の「終活」

よく聞く言葉で「婚活」「就活」があります。ところで、総務省統計局のデータによれば、高齢者の人口に対する割合は増加し続けて、20年後には日本の人口の約3の1を占めるようになるということです。私自身も含めて、これは教会にとって大きな課題と言えます。そこで今、高齢者の間では、子どもへ大きな負担はかけられないといって、迷惑をかけずに人生を終わるための準備が流行っています。自分の葬儀や墓を準備したり、様々な生前整理、そういったことを“終活”と言うそうです。
確かに自分の人生の閉じ方は大事ですが、しかし、ただ迷惑をかけないようにするだけの、自分の始末の仕方だけのいわゆる「終活」であったとしたら、私たちキリスト者の考えることとしては、いかにも寂しいではありませんか。
「終活」というなら、私たちは、神さまからこの手に託された信仰の遺産、特に礼拝の遺産を次の世代に残すことを真剣に考えたいと思うのです。旧約聖書を読めば、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と書いてあります。代が替わっても、同じ礼拝が続いたのです。私が手にしたこの礼拝の生活というバトンを、次の走者に手渡すことなしに、自分だけ“さっさと”この世を去ってはいけないと思うのです。特にバトンを渡すのは、家族です。それは子どもでしょうか、孫でしょうか。まず、それが考えられます。しかし、場合によっては配偶者であってもいいし、逆に、親であってもいいのです。いずれにしても、私が去った後の礼拝の椅子に、必ず誰かに座ってもらうことを私たちのこの後の「終活」、祈りの道作りとしたいのです。
私たちは世の中の人と同じになって、子どもたちには迷惑をかけたくないと自分の始末のことだけを考えていてはいけません。子どもや孫に信仰、特に礼拝生活というすぐれた遺産を残すことをこそ、真剣に、具体的に考えていきたいのです。

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by rev_ushioda | 2015-06-04 22:56 | Comments(0)

記者会見にて。

政治家は嫌われちゃいけない。民主主義である以上。僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険。みんなから好かれる、敵のいない政治家が本来、政治をやらなければいけない。敵を作る政治家は本当にワンポイントリリーフで、いらなくなれば交代。権力は使い捨てが一番。それが健全な民主主義だ。ぼくみたいな敵をつくる政治家がずっと長くやるなんて世の中にとって害悪。

大阪維新の会の橋下徹代表の考え方にはとてもついて行くことができなかった、というよりも、独裁的危険性を抱き続けてきた。そこから飛び出した発言。「権力は使い捨てが一番」。

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by rev_ushioda | 2015-05-18 22:06 | Comments(0)

「今を共に生きる」

和泉短大の後援会総会が開催され、引き続いて講演会があった。講演は、『キリスト教保育の原点』と題して、和泉短大准教授、宗教部長である片山知子先生のお話であった。

キリスト教保育で大切にしていることは、将来のために乳幼児期があるのではなく、子どもが「今」、現在の生活において喜びを持って存分に生きる中で将来への希望を培っていくという考え方である。

と話され、したがって保育者もまた、一瞬一瞬の今の時を子どもと共に生きることが求められるというように、「今」を大事にと言う言葉が印象的であった。講演後、そこが強調される理由をお尋ねしたら、「国策」があるからと言われた。国の教育方針に対して、子どもの「今」という意味であったことに心から納得した。5月28日には小森陽一さんお講演が関内ホールで行われるが、チラシにはこのように書いてある。『教科書で始まっている戦争できる国づくり』  なるほど、子どもを育てるのは、国(その時々の政府)の言いなりのままの教育方針によってではない、というキリスト教保育の原点に触れ、大変うれしく思った。
娘の短大入学式の時に当時の平 良理事長が、入学式という場にもかかわらず政治に触れた挨拶をされ、気骨のある短大だなあと感心したことを思い出した。子どもと共に「今」を生きると言っている意味が、これから保育者に巣立っていく学生たちに、2年間の短大生活の中でどのくらい伝わるだろうか。

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by rev_ushioda | 2015-05-16 23:01 | Comments(0)

通信販売会社から出ている『通販生活』という雑誌が手元にあります。欲しい生活用品を探していると、次の見出しがありました。
「安倍総理がめざしているのは、いつでも/どこへでも/自衛隊を送り出す ことです。」
―そんなことは絶対にあってはならないことだ、という記事で、元「防衛庁防衛研究所」所長の言葉でした。何気ない生活の中に、重大な危険が迫っていることを感じさせます。
安倍総理は、5月には戦争法案10本近くの審議を始めるそうです。「戦争法案」など、いつの間に準備したのでしょうか。私たちが大型連休だと言っている間に、信じられない速さで、平和と人間性を守る砦である「憲法」が瀕死の状態になっています。憲法を無視し、憲法そっちのけで、解釈次第で、戦争でも何でも出来るようにする、という状況なのです。「戦争のできる国」、すなわち「戦争に巻き込まれる国」になる日が、私たちに急速に迫っています。ここが大事ですが、法律の名のもと、人を殺し、殺される国になる日が近づいているのです。戦争なんて…と言い、選挙にも無関心でいる間に、安倍総理は「いつでも/どこへでも/自衛隊を送り出す」日を作らせているのです。
今「平和」を口にすると、平和のためにこれをするのだ、積極的平和主義だと言われてしまい、だから「戦争法案」が必要だ、と言うのです。平和という言葉がクサビにならない。私たちの中でさえ、「平和? 政治の話はどうも…」と勘違いするくらい、平和という言葉が政治利用されているのです。
その日が来たら、自衛隊員に志願する人は今より減ります。自衛官を辞める人も、出て来るでしょう。そうすると、「徴兵制」です。今の子どもたちが徴兵される日は、そう遠からずやって来ます。これを書いたのは、あの年からこうなったという日が来るからです。その時、子どもたち、孫たちから「父母よ、祖父母よ、その年に何をしたの?」ときかれた時、答を持つためです。

聖書は言います。
エレミヤ書8章11節「彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに『平和、平和』と言う。」
マタイによる福音書5章9節「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」

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by rev_ushioda | 2015-05-01 15:50 | Comments(0)

「間違い発見」

『現代聖書注解 マルコによる福音書』という本を読んでいて、原文はわからないものの、はっきりと誤訳だとわかるところを見つけた。
「それぞれの教派の本部や中級裁判所さらに地域教会のスタッフたちが…」と書かれていたところである。
このちぐはぐな翻訳を見つけた時、原文はわからないものの、「中級裁判所」というのは誤訳で、「中会」だと直感した。
著者は長老教会の神学校で教えている、とあとがきに書かれている。ならばなおさらである。長老教会では、教会会議のことを「法廷」とも呼ぶ。本部ー地域教会の間にあるのは「中級裁判所」ではなく、教会会議としての「中会」なのだ。それを一般用語としての「法廷」と理解して、「中級裁判所」と訳した。それなりの権威のある本だったので、これに気づいて、してやったりと思った。
それにしても、翻訳とは難しいものである。翻って、聖書の翻訳としての自分の説教は、大丈夫だろうか。そこに集う人の文脈にきちんと翻訳できているだろうか。それとも、このように一般用語としては間違いがない翻訳でも、意味不明の言葉になってしまっていないだろうか。そう思ったら、ひとごとではなくなった。

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by rev_ushioda | 2015-04-23 16:34 | Comments(0)