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子どもが教会にたくさん来ていた頃の話ですが、教会でバス遠足をしました。バスの中で子どもたちは大はしゃぎで、そのうちに遊び感覚だったと思いますが、こういうやり取りが始まったのです。

「あなたの生きる目的は何ですか?」

「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

何とこれは、当時、教会で子どもたちに教えていた信仰問答の言葉でした。意味はわからないかも知れません。しかし、教会の言葉がこのようにすぐに口に出て来るということの素晴らしさを感じた一瞬でした。
私たちの日々の生活は、時間的にもこの世のことで一杯いっぱいだし、気持ちも、いつの間にかこの世の煩いに巻き込まれ、自分を失うことがしばしばではないでしょうか。チクショー、バカバカしいと思って投げやりになることもあれば、人への不平や批判、怒りに明け暮れるようになることもある。そのような時、自分を見失わないための言葉があるでしょうか。
もちろん、聖書の言葉です。聖書の言葉でも、礼拝の度に繰り返している同じ言葉となれば「十戒」や「主の祈り」です。さらに教会が産み出した言葉があります。上のような「信仰問答」や、また「讃美歌」もそうです。そして、もう一つ、教会で交わす私たちの言葉があります。私は、自分の言った言葉をいつも思い出せるわけではありませんが、よく人から言われるのは、「あの時、先生、こう言いました。」牧師としての言葉を覚えていてくださる。(忘れてほしい言葉のほうが多いかもしれませんが…)
聖書の言葉を暗記することは、得手不得手があるでしょう。しかし、毎週礼拝で口にする言葉や、歌う讃美歌、人との会話は意外と覚えていきます。途方にくれたり、困難な日は、必ずやってきます。その時に思い出し口ずさむ言葉を、私たちは教会の生活の中でしっかりと身に着けたいと思います。



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by rev_ushioda | 2017-07-09 17:55 | Comments(0)

「弔問」

N家を弔問した。亡くなったNさんは教会員のお父さまである関係から、つかず離れずの距離感はあったが、ずいぶん長いおつきあいをさせて戴いた。昔、ご長男が交通事故で亡くなった時は、私が葬儀の司式をさせても戴いた。昨日、葬儀に参列できなかったので、今日の弔問となった。
お話の中で、最後に口にしたいと言われた物は何であったかという話になった。
「魚が大好きだったから、そう言うのかなと思ったら、最後に口にした(のどを通った)牛乳にひたひたに浸したパンだと言ったんですよ。」
点滴で栄養を摂る中で、最後のあの感覚、食べ物がのどを通る感覚をもう一度、と言われたという。好きな食べ物ではなかったのだ。食べ物がのどを通る感覚をもう一度。しかしその願いは果たされなかった。・・私はそこで言葉に詰まってしまった。

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by rev_ushioda | 2017-02-16 19:55 | Comments(0)

「自分だけの感動」

以前、私は国境に立つ、ということを書いた。私の家の前の道は、相模と武蔵の国を分ける国境線なのだ。それを知った時、それに気づいたとき、感動し、そして自分自身の牧師としてのアイデンティに目覚めたのだった。
ところでこの話には、話の続きがある。今までその話を何度もしてきたが、関心を持つ人は少ないのだ。そうか、感動というのは自分だけのものなのかと思った。人には分からない、しかし自分を動かす感動がある。人にわからなくてもいい。自分が動かされていればいい。
その感動は、実は、自分もあるとき突然気がついたのだった。国境の話は、たぶん何度も聞いてきたが、あるとき、急に気づいたのだ。今までは気づかなかったのに、ある時に気づいたのだ。そして、気づきは意味を引き出した。
そのように、心が動くときがある。無理やり動かそうとしても動くものではない。しかし、パッと視界が広がる時がある。それでいい。気づいたら、その気づきに伴って、もう誰にも動かされない自分がいるのだ。
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by rev_ushioda | 2016-12-08 19:52 | Comments(0)

「なんでわたしが?」

12月末で規定上の定年。来年には退職金が支払われるという。
教会では契約2年延長を決めているので、そういう状況でも退職金は支払われるのか(受けとるのは2年先ではないのか)確認したところ、「大丈夫」という返事。 ? 「会計が厳しいのではないか」という質問と受け取られたようだ。
私は、2年延長を決めているので、現役のまま退職金というお金を受け取る「気分」になれない、と言ったのである。さらに言えば、退職金などずっと先のことかと思っていた。にわかに退職金を来年払うと言われても、思考と言うか、体が、ついて行かないのである。流行りの言葉では、「なんでわたしが退職金?」である。

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by rev_ushioda | 2016-11-06 23:40 | Comments(0)

「信仰街道の一里塚」

私事ですが、要介護4の母を自宅で介護して1年。四六時中、食事、排せつ、痛みなどへの対応があり、デイサービス、ショートステイ、ヘルパーや訪問看護、入浴などの日程調整や依頼、準備などに追われているうちに、だいぶ手馴れて来たとはいえ、こんなにも自分の思考や行動が狭くなるものかと驚いています。
しかし、そのように一点に集中せざるを得ないことは別に介護に限らず、たとえば仕事にしても同じことが言えます。1週間、同じことを繰り返し、意識をそこに集中しているうちに、おそらく同じように思考や行動が狭くなるのです。
私はこれではいけないと思い、「点」が「線」になるように、島崎藤村の『夜明け前』とか司馬遼太郎の『国盗り物語』、その他、今、趣味で歩いている街道に関する本の助けを借りました。実際、介護があるので街道に立つことは出来なくても、読書によって、視野が縦横に広がるのを感じました。この感覚は大事だと思いました。地上の街道には、京とか江戸とか目的地がありますから、それを、自分の信仰の目的地に重ねることが出来るのです。一緒に神の都を目指す信仰街道を旅しませんかと人に勧める口実を得ることも出来るのです。「街道」というスケールに自分を乗せることは、私にとって視野を広げるのに益することであり、楽しいことでした。
今年最初の「牧会のはなし」に、「なまけもの」という動物の絵と共に、私は次のように書きました。―この世の時間に支配されず、礼拝の時間くらいは確保するなまけものになって「ぶらさがり見る」と何が見えて来るのでしょうか。―
礼拝は、神の国に続く信仰街道の、一里塚なのです。ここに足を止め、ずっと先が見えると、苦しい今も目的地に包み込まれた今に見えてくるから不思議であり、愉快なことです。

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by rev_ushioda | 2016-09-15 12:20 | Comments(0)

「美術館で思ったこと」

某大学後援会の親睦旅行で、箱根に行った。参加者8人で小回りが利く、というわけで、小田原城、地球博物館、「えれんなごっそ」で昼食、石垣山城(車中見学)、ポーラ美術館、ラリック美術館という豪華コースとなった。
ポーラ美術館、ラリック美術館は、よく夫婦で箱根に行くが、気になりつつも、それぞれ1800円、1500円と高いので、毎回、「まあ、いいか」と横目で見るばかりだった。今回、親睦旅行の勢いで入館。いい機会だった。
ポーラ美術館は、まず、建物が山間の斜面に建てられていて、だから緑に包まれており、その透明感あふれるエントランスは、建築的にも実にすばらしい。さっそく一回り見学して出てきたら、それは第一展示室で、まだ第5展示室まであるという。その広さに驚いた。建物周辺には林の中に散策コースがある。美術作品で飽和状態になった頭を休めるのにいいと思ったが、さすがにその時間がなく、残念だった。行かれなかったところに後ろ髪をひかれるようだ。
次のラリック美術館はガラス工芸品の展示で、二つの美美術館だけで、見慣れないものを観た私のあたまは、あふれかえった。
さて、ゴッホの絵を観た後の車中で、「子どもってなぜ、すぐに絵を描けるんだろうね」という話になった。一人の人が言った。「大人は結果から考えるからで、子どもは結果を考えず、直感で描くんじゃない?」  なるほど、娘が昔、描いた絵はゴッホの絵と似ていて、結果から描いたとは思えない。今も、額に入れてとってあるが、既成概念を壊すゴッホの絵には、結果ではなく、その「直感」があるのだろうと思った。。
ところで、絵には皆、立派な額縁がつけられている。美術館は額縁ごと購入したそうだ。しかしその絵の作者は、その絵がその額縁に収められることに、果たして納得しているのだろうかという疑問がわいた。もしかしたら、絵の作者の意図に反した額に入れていないだろうか。それによって絵の価値を下げていることはないだろうか。絵を観ながら、絵そのものの値打ちが分からない者だから、そんなことばかり思っていた。

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by rev_ushioda | 2016-09-11 23:20 | Comments(0)

「半世紀の感覚」

「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」 ゴシック">48年前の遠方、である。私が初めて教会行った時に、その教会付属幼児園の教師として、その方は仕事をされていた。1年間、教会学校教師会でご一緒した。と言っても、こちらは大学生。教会に初めて行って半年目のことだ。当然、洗礼を受ける前である。信仰を知らない者に教師になってほしいと言われた、当時、T牧師の、良くも悪しくもその度胸はたいしたものである。私はと言えば、いいんですか?とは言ったものの、若気の至り。キリスト者でもないのに教会学校の教師面していた、にきびだらけの大学生であった.
その友は、今も、当時出会ったなつかしい方々の一人として記憶に留めていたのであるが、ある日、友人が自分の教会に、昔、その教会で幼児園教師をしていた人がいる。会いたいと言っている、会いますか? と言うのだ。不思議な巡り合わせと言うが、そういうわけで、48年という遠方から、その方が現れた。当時のことで話は盛り上がるが、目の前には、私よりも10歳年上の、初老のご婦人がいた(昔のままの「お姉さん」というはずは、…ないよね)。当j時、大学生だった私も、今年は牧師定年(規定上の定年)の年である。半世紀という時間の隔たりに、不思議な感覚をおぼえた。




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by rev_ushioda | 2016-08-08 18:31 | Comments(0)

「終活しよう」

前回、会員籍のある教会で葬式をする、という話をしましたが、死んでからでは、どのようにしてほしいか家族にその希望を伝えられません。今、生きているうちに自分の死の備えをしたいと思います。そのことを最近では「終活」と言うようになりました。しかし、身辺整理、遺産分割のことも大事ですが、そもそも葬儀をどうするかということが、私たちキリスト者にとって一番大事な「終活」になります。葬儀はいらないとか、小さな家族葬がいいとか、自然葬がいいという方もいますが、いずれにしても、葬りは必要なのです。そして、葬儀は自分が信仰に生きた証しの時なのです。


1.何よりも大事なのは、キリスト教で葬儀をすることです。その意志と、連絡先を書いておくことです。稀に、本人の信仰ではなく、ご家族の意向で他宗教に従って葬儀をしてしまうことが起こります。牧師が、ご家族に向かってこの方はキリスト者でしたから…と、どう言っても、しょせん第三者ですから、受け付けてもらえません。信仰者の最期の締めくくりが他宗教になってしまうことほど、残念なことはありません。キリスト教で葬儀をすると、その指示を書いておくことが大事です。


2.自分の信仰を証するような一文をしたためておくことも、大事なことです。洗礼の時の証しから始まって、日々の信仰生活を証しする文は、家族に対して、場合よっては葬儀の列席者に、大きな影響を与えるに違いありません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネ12:24


3.自分が養われ、励まされてきた賛美歌を、いくつか選んでおきます。葬儀では必ず賛美歌を歌います。讃美歌、聖歌などから、愛唱賛美歌を書き出しておきましょう。


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by rev_ushioda | 2016-07-06 13:14 | 生き方 | Comments(0)

「信仰告白に生きる」

 絵画や映画を見ると、意図して、事実に即して描こうとしていない(・・・)ことに気づきます。典型的なのがダヴィンチの『最後の晩餐』。当時、ユダヤではあのような部屋やテーブルで食事をしなかったくらい、承知の上で描いています。レンブラントは『十字架を立てる』絵の中に十字架を立てている自分を描き込んでいます。聖書に関係した絵のほとんどは黒人は黒人のイエスを、日本人は日本人のイエスを、というように自分の国の顔立ちで人物いています映画、直近の『エクソダス』ではモーセ手に杖ではなく、剣を持たせ『復活』は、ローマの司令官の目で(すなわち監督の目で)見た創作です。音楽となれば、私たちのイメージ聖書でいないだけに、まったく独創的な世界が広がっています。小説言わずもがな私たちは、すぐに、これは事実に即している、いや違うと、評論家のようになって話をするのですが、芸術の世界では、そういうことはおかまいなしに事実を正確に描こうとなく・・聖書を読んだ者実存的な受け止め方、彼らの信仰告白をその絵に、映画に、音楽に、小説に、伝えているのです。

 私たちは言葉で教会的な信仰告白を告白するのは言うまでもありませんが、しかし、私たちの、聖書を読んだ者としての実存的信仰告白はどうなのだろうと考えます。絵が描けたら、私はイエス・キリストにこのように従うのだという絵を描きたいし、映画だったらそのように舞台に立ちたいし、音だったらその音の世界に生き、小説ならその主人公として生きたいのです。そこにおいては、他の人と違う生き方があります。その告白を実存的に生きる仕方は人によって違う。そのような人の信仰告白に、だれも異をとなえることはできない、そういう告白的な生き方を、私たちは、持っているだろうか。教科書的な信仰告白をただ繰り返すだけの生き方を、主イエスはのぞんではいないでしょう。また、何かの基準(ファリサイ的基準)に、あっている、あっていないと他人の信仰をそのように見る評価的な生き方は、なおさら、主イエスは望んではいないでしょう。イエス・キリストにぶつかっていく実存的な信仰、その人の、その人らしい告白をこそ求めておられるに違いないと、私は信じています。そこにおいては皆違っていい。私たち泉教会は、その違った信仰告白が一つにされ、神の国を形成する仲間です。




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by rev_ushioda | 2016-06-14 12:18 | Comments(0)

事業所第三者評価の評価員さんたちの研修(企業研修)に招かれ、傾聴をテーマにお話した。以前、成年後見人さんたち(行政書士会)の研修でもお話したが、こういう機会があるたび、傾聴の研修でなければ絶対、招かれない場であることを思うと、傾聴はどんな分野でも必要性があることをつくづくと思う。必ずお願いすることは、泉教会の牧師であることは必ず紹介してください、ということ。その条件でお引き受けしている。

以下、講演レジュメ。

序.カモレレロ

1.傾聴とは、受容です

  傾聴を疎外するのは、自分の価値観(前提、思い込み)

  自分の価値観を停止して、その時向き合う相手の立場、環境、事実を受け止める
  
  ポイント
  ・うなずき/あいづち
  ・内容の繰り返し
  ・評価しない

2.傾聴とは、共感です
  
  ポイント
  ・感情の反射
  ・感情を開く質問
  ・感情の明確化

  ・反対の意味で、コミュニケーションを阻む遣り取り

3.ワークシート
  修飾語に注目を

4.傾聴には100万円の値打ちがあります

5.事例研究

結.さすがの大岡裁きも


この研修の重点を、今回、4と5に置いた。実践的な内容で貢献できればと思ったが、好評価の声があったと担当者。まずは、ほっとした次第である。慣れない場所で、慣れない講演で(笑) ちょっと疲れたかな。

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by rev_ushioda | 2016-04-23 21:34 | Comments(0)