「ペンテコステ」

泉教会のジンクス。特別な時は、人が少ない。
さて、今年のペンテコステは? 例年、この日に記念写真を撮ることにしているが、二人先に帰られてはいるが、やはりというべきか。ところで、この面々の中に、去年まではおられなかった方々が映っている。教会というところは面白い出会いの連続であり、物語を作り続ける場だと思う。
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今日の説教は「 ペンテコステ、不思議な業としるしの初め」 (使徒言行録10:41-47) 以下、要約。
今は教会となったこの家と出会ったとき、宗教法人として借りました。しかも不特定の人が出入りすると聞けば、たいてい断られるのです。ましてや、数週間後の会議の決定待ち。普通の家族が借りたいと言っていた、まさにその時、3日早く私と出会ったというだけで、大家さんは待ってくれた。この世の非常識は、神の常識。ここから、物語が始まったのです。
教会は、不思議な業としるしを行っていたというのです。それは何かというと、一つになってすべての物を共有にし、分け合っていた。毎日ひたすら心を一つにして祈り、家ごとに主を記念し、喜びと真心をもって一緒に食事をした。それによって「民衆全体から好意を寄せられた」恐れが生じたというのも、尊敬と好感が寄せられたということです。入りたいけど入れない、そんな感じでしょうか。私たちは、そんなことは何も不思議な業ではない、常識ではないかと思う。しかし、それはこの世からすれば非常識ではなかったか。
「恐れが生じた」、そこから新しい物語が生まれていったというのです。ペンテコステとして今日、私たちが祝うのは、爆発的な人数増加ではない。そうではなく、世界中から来た人たち(5、9-11節)が日々仲間に加わり、共同の業にいそしむこと、それを祝うのです。ペンテコステは、同じもの一色に塗りつぶされていく世界の常識から、あらゆる違いがありつつ、それを超えて共同の業に生きる神の常識に動き始めた瞬間でありました。
カンバーランド長老教会の総会(GA)が開催されるのは、まさに今年のペンテコステに際して、象徴的なことです。いつもこの世の常識に支配されそうになる時(それは私たちにとって決して無縁ではない!)しかし、私たちは神の霊に動かされて、あらゆる違いを超えていく者になる。「非常識」な者になるのです。それが、教会だからです。私たちはこの世の常識との狭間で、しばしば、よく分からないことに直面する。しかし、そここそ大事なところ。躊躇せず、世界中から来た人たちが共同の業にいそしむ「不思議な業としるし」を選び取りたい。
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by rev_ushioda | 2008-05-11 18:20 | Comments(0)

「毎週どきどき」

私は、毎週火曜日はNPO法人で講座を担当している。午前が心を聴く市民ネットワークの公開勉強会、午後は同ネットワークの役員研修かチャイルドラインのリスナー研修に加え、今期は、夕方5時から、地域の知的しょうがい者の作業施設のスタッフ研修が入った。さすがに・・・疲れて、夜9時にはベッドに・・・。しかし、講座を進めるに当たっての「不安」はない。
ところが、毎週の礼拝説教のこととなると、「不安」なのである。不安という意味は、今度の日曜日までに本当に語る言葉が用意できるのだろうか、と思うのである。毎週毎週、そのように思うが、不思議に30年間、語れなかった日はなかった。だから大丈夫だと思うのだが・・・

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by rev_ushioda | 2008-02-21 22:49 | Comments(2)

結婚式説教
(ヨハネの手紙一 4:7-11から)
f0086426_17145756.jpg1.愛するとは
結婚式に際して、今、読みました聖書の個所に基づいて、ひとこと、お勧めします。聖書の言葉は、こうでした。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
ここに、「愛する」とはどういうことか、書かれていると思います。これは結婚に際して大事なことなので、しっかり聞いて戴きたいのですが、一言で申し上げると、相手のために自分を変える、ということです。神さまが、その子を私たちのために犠牲にした、と言うのです。そこで、自分を変えたのです。「ここに愛があります」。
自分の考えはこうだ、と言って、「自分の考え」を持つのは良いのですが、だから自分のやり方を変えない。変わるのはあなただ、と言う・・それは、愛ではないのです。
愛するとは、自分を変えることです。もっと具体的には、相手のために自分の計画を変更する、ことです。
誤解のないように言っておく必要があります。自分の考えは大事です。それを、なくすことではありません。かえって相手のために自分で意思し、決断し、その上で計画・行動を変更するのです。それが、愛するということです。

2.結婚は愛することの始まり
結婚とは、「結婚式」で終わるのではありません。言うまでもなく、ここからが、始まり、なのです。
どういう始まりかと言うと、愛することの始まり、自分の計画を相手のために変更することの始まりなのです。今日、ここからは、自分の計画を相手のために変更すること、自分の考え、意思をもって(感情に流されず!)変更することが、二人の最大の仕事になります。
考えてみればすぐ分かることですが、人は、多様性を持っています。今、知っているお互いが、これから先もずっとそうかというと、そういうことは無い。きっとSさんも、Kさんも、結婚生活の中で、お互いが知らない面が、当然出て来るだろうと思う。状況によって考え方が変わり、行動も変わっていきます。ここに多様性が生まれる。その多様性を、どのように受け止めていくのか。そこに、愛するということ、愛というテーマが出て来るのです。
今は、「愛すること」、相手のために計画を変更することは、好きな人のためだから、喜んでできる。したいと思っているでしょう。しかし、受け入れることができる時(好きな時)に受け入れること位は、幼児、子どもでもできる。
長い結婚生活では、やがて、どうしても受け入れることができない時が来るでしょう。意見が対立する時が来る/考え方も、話し方も、行動も、好きではなくなる時が来る。好きでなくなった時/相手のために計画を変えたくなくなった時/相手を受け入れるのに感情が反発する時/どうするか。そこで、愛というテーマが出てくる。愛が力を発揮するのです。
結婚で一番大事なのは、好きという感情ではありません。愛です。愛するということです。自分の計画を、自分のはっきりした意思で、多様性を持つ相手のために変更することです。

3.神の愛のもとから
考えてみれば、神が愛を示してくださったのです。
私たちは、神さまを、悲しませてばかりいると思う。神さまをそっちのけで、好き勝手なことをしていると思う。しかし聖書を読むと、神さまはその私たち一人一人を愛してくださった、と。十字架が、その証しだと言っている。神さまの方で行動を変更していくのです。神は、聖なる方。天の上におられればよかったのです。しかし、全然清くない人間、神さまに向かって悪態をつくような人間のためにこの世に来てくださった、当然、傷を負います。致命傷でした。すなわち、ひとり子を十字架にかけてまで、人間を受け入れてくださった。そのように意思を持ち、計画を変更してくださったのだと聖書は書いています。私たちを、神さまはキリストによって包み込んでしまったのです。だから聖書は、ここに愛がある、と言っています。
今日、二人は、愛のあかしであるキリストのもとで結婚式を挙げています。キリストのもと、ここにこそ、感情に流されない信実の愛があります。このキリストの100%の愛のもとからスタートし、ふたりでキリストを見上げていれば、この二人の結婚に、必ず信実な愛が宿ると信じます。祝福を祈ります。

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by rev_ushioda | 2008-01-12 20:06 | Comments(0)

元旦礼拝説教

教会の暦では今日、1月1日は、主イエスがその名を「イエス」と名付けられた日になっています。新しい年の出発に当たって、イエスというお名前から、私たちの歩みが始まる。私は、このことは非常に意義深いことだと思うのです。
私は、泉教会の会員になった方々に、いわゆる「洗礼名」を差し上げています。これは教会が決めたことではなく、私が個人的にしていることですが、その名前の、もとの「持ち主」の信仰にあやかって、どうか信じる生活をこれからも豊かに進めていってほしい、という願いを込めています。その人物の信仰に「似る」ことを願ってのことです。その名前から始めてほしい。その人物を通して、神さまから与えられた自分の務めを見出して、担っていってほしい。今朝は、全員がイエスという名前の前に立っているわけです。イエスという名前から出発したいわけです。
昨年1年を振返ってみても、色々なことがありました。Sさんを天に送りました。病気になった人もいます。離婚された方々が、います。もちろん、うれしいこと、結婚された方もいます。新しい年もまた、いろいろなことが起こるであろう、その1年の初めに、イエスの名を覚えるということ(イエスの名を心の中に深く刻みつけてこの年を歩むということ)は、この1年、たとえ、どのようなところを通ろうとも必ず、大きな恵みであるに違いないと思います。
平塚敬一先生が、お嬢さんのことを話されています。「次女は6歳のとき、重い脳の病気にかかり、命を失いかけたが奇跡的に助かった。しばらく入院生活が続いた日々、病室で本を読むことに夢中になった。そして、ある日『アンネの日記』を読み、自分の誕生日がアンネと同じであることに気付き、驚きと共に深い感動を覚えたと、言ったことがある。私たちはアンネの誕生日が6月12日であることを知って次女を計画的に生んだのではないが、彼女に素敵なプレゼントができたように思っている」
人は、ほんのちょっとした出来事との出会いで、自分の存在を誇りに思うようなことがある。そして想像の夢を膨らませ、その実現に向かって突き進むことができるようになるのです。ある日ある時、ちょっとした光り輝く一瞬によって、生きる支えが与えられるようなことがあります。それは他の誰とも違う、自分独自の感動であり、他人には説明できないものです。そうであれば、アンネではなくイエスというお名前と自分とを重ねたならば ― その意味が罪の赦しであり、救いの出来事である主イエスのお名前と私たちを重ねたならば ― その光は、どれほど輝くことだろうか。大変な感動となるに違いない。
「“イエス”とは、私が新年に最初に口にする言葉。これからずっと、その名が私の口の中で笑い、私の最後の日にも、“イエス”は私の最後の言葉となる」 (J.S.バッハ)。
1年の初めにイエスのお名前を聞くことによって、私たちは、イエスの名による、笑いのドラマを作ることができるのです。イエスの名が、人間らしい喜びの中に、私たちをつれ戻してくれるのです。

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by rev_ushioda | 2008-01-01 01:00 | Comments(2)

「本の出版」

日曜日ごとにしてきた4ヶ月分の説教「わたしは信じます―使徒信条―」をまとめ、ついに本にすることができた。ブログからの製本作業なので、完全自動編集で制約も多いが、反面、1冊から簡単に注文できる。制約はあるが、何度も校正することで、その制約を乗り越えられたかなと、思っている。ただし、本来の校正に時間が足りず、発注後に、小さな校正ミスを何個所も! 発見してしまった。
問題は、内容である。説教だから確かに原稿はあるが、原稿と、語られた説教は、ずいぶん違う。見本としての1冊を手にしてみて、10周年記念として完成できたうれしさと、しかしそれとは反対に、内容の貧しさへの後悔と、交錯している。しかし、本にすると約束してきたこと。とにかく出版しなければならない。今、事前申し込み25冊に対して、40冊を注文したところである。実費1800円、売価2000円。(2000円つけて、もらってもらうのでは、ない。念のために)

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by rev_ushioda | 2007-10-02 23:51 | Comments(3)

「葬礼拝 説教」

ヨハネによる福音書14章1~6節

以前、私は青森県の竜飛岬に行ったことがあります。当時、ちょうど青函トンネルの工事が進行中で、岬の先端に、そういうところの地形(岬の地形)とは不釣合に、工事をする人たちのちょっとした町ができていました。陸から海に向かって目を転じると、そこは津軽海峡です。海峡だからでしょうか、何か海が大きな川のように動いている、動く海に、恐ろしさを感じました。そして、ああ、この海の下をトンネルでつなぐのか、すごいなあ、という感じでした。
それからしばらくして、新聞に「先進坑が開通」という記事が載りました。北海道側からの試験トンネルと本州側からの試験トンネルとが海の下で繋がったというものでした。万歳をしている写真がありました。それは本トンネルではありませんが、試験トンネルがつながった以上、本トンネルは保証されたというほどの喜びだったのです。

私は今日、Sさんの葬儀に際して、そのことを思い起こしています。葬儀というのは、人間の死に際して行う営みです。人は、最期には皆、死にます。一生を考えてみても、現実には悩みとか、苦しみとか、涙することもあるわけです。Sさんのように、確実に悪くなっていく、病気がある。人の現実で一番厳しいのが、死です。死ぬということ。もうそれは絶望であり、恐怖でしかありません。それは、津軽海峡の大きな 潮の流れ のように、越えることができるなら越えてみろ、とでも言うかのように、こちらをにらんでいる。それは、生きてきたことを確実に終わらせるものなのです。そこをどう渡っていけるのか、途方に暮れてしまう。
Sさんは自分の病気のことについては弱音を吐かなかった。だからといって、自分が死んでいくことが分かっていながら、恐くないわけがないのです。
しかし、イエス・キリストは人間の死を突き破って復活されたと、聖書は言っているのです。Sさんは、そのことを信じていました。復活の先に天国があるということ。そして自分と天国とが確実につながっているということを、信じたのです。洗礼の証しをご覧いただけば、わかります。
あの津軽海峡のような海しか見ない時には、まさかその下でトンネルが掘られているなんて、信じられないわけです。同じように、人間の現実しか見ていない目には、その現実の中をキリストが突き抜けて行かれた、復活されたという聖書の記事は、何のことだかわからないのです。
しかし、たとえあの津軽海峡のような、渡るに困難な現実がそこに横たわっていようが、だから、どうしても希望が見えなかろうが、キリストが、私たちの中で死の壁を破って復活されたと信じる人は、その現実に押しつぶされないのです。先の喜びが、その人の困難な現実を、包み込んでいるからです。
もう、キリストは、トンネルを貫通させているのです。もう勝負はついているのです。キリストは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。このキリストと出会い、このキリストを信じていく者は、いかなる困難の中でも恐れや絶望に支配されず、不安や悲しみに魂を売り渡さず、正々堂々、歩んで行くことができるのです。
Sさんは、もう一度言います。天国の信仰の持ち主でした。死を予感した時から・・・( 具体的には洗礼を受けたときから)死を突き抜けている道があることを見ていたのです。病気で体は衰えて行くとしても、だからといってそれで終わりではないという、天国の信仰を持っていたのです。
ひょっとしたら、体が弱っていくことだけではなく、どうしょうもない心の弱さということも、知っていたのではないだろうか、とも、私は思う。罪を犯さない人間は、いないからです。人を悲しませない人間はいないのです。やってはいけないとわかっていても、体が動いてしまうということも、人間にはある。決意しても、その心は弱いというのが、人間です。そういうことを、Sさんは一番良く分かっていたかもしれないと、ふと、思うのです。人間には、どうしょうもない人間の弱さがある。
しかし、だからその中をキリストが突き抜けて行かれたのだ、と聖書が言っています。体の病気であろうが、心の弱さであろうが、人間の一切の弱さをキリストはご自分の体に引き受けて下さったのです。そして、天国への道筋をつけてくださったのです。それを見ることができる人は、幸いです。その道に、進み出ることができる人は、幸いです。

先ほどの聖書に、次のように書かれていました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

キリストが、行って、場所を用意して、戻って来て・・・と、道を作ってくださると言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われましたが、十字架と、十字架の死のことです。自ら死に向かって行く、と言うのです。そこにまでキリストは下って行って、私は道である、と言われて、そこから、今度はどこに行くのか。天です。天に向かって、「父の家」に向かって、人を引き上げるのです。用意した居場所に引き上げるのです。その道をつけるのです。キリストは、私たちのために、私たちの居場所のために、行ったり、来たり、しているのだということ。困難や、人間のさまざまな限界、そしていよいよ死に直面して、その恐ろしさを感じている人のために、行ったり、来たりして、居場所と、通路を作ってくださっているのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。そう言われたのです。
人間の努力、頑張りは、すばらしいものです。あなどってはいけないものです。しかし、困難に直面すると人間は、強そうで、弱い。いえ、困難などなくても、勝手に自滅するような人間です。まして死の力は、私たちの希望を奪うのに十分です。その力に支配された時、その死の力、絶望の力を打ち破って、突き抜けて、キリストは上り、また下って来られる。私たちの居場所を確保し、そこに入らせるために! ・・こんな希望が、あったでしょうか? あるでしょうか? だから、私たちは救われるのです。
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。Sさんは、確実にそこを通って行った。自分で信じたとおりに。そのキリストの道、「命」の道は、今度は、私たちに開かれているのです。私たちも、その道を歩み始めましょう。そうすれば、今日は、私たちの残りの人生の最初の日です。
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by rev_ushioda | 2007-06-12 19:26 | Comments(0)

「前夜礼拝 説教」

聖書
「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」マルコによる福音書15章21節

お葬式を準備しているとき、おつれあいのNさんとお話をしていて、思わず皆で大笑いしたことがあります。Sさんが入退院を繰り返しているうちに、家に帰ればすることもなく、食べたり飲んだりすることができるようなお店に、良く行くようになった。たまたま隣の席の二人の女性が、「英語を勉強したい」と話していた。それを聞いて、「教会で英語を教えている」と誘った。「だけど、教会だから礼拝に来なければいけないんだよ」。不思議に、そのうちの一人が日曜日の礼拝に来るようになったのです。皆、異口同音に「若い女の子が変なおじさんに誘われてメールアドレスを教えたり、ひょこひょこ出かけたりするものではない」と注意した。
それはともかく、礼拝に来てくれるのは大歓迎。皆、自分が大好きな、大事にしている場所に友達にも来て欲しいと思っているのに、なかなか来てくれないわけです。Sさんは、しかし、そういうふうに、いとも簡単に声をかけることができる不思議な人でした。しかしSさん自身は、その女性が教会に来る時は、なぜかそういう日はたまたま休んでいて、フラフラと遊びに行っているのです。いつも、すれ違ってしまうわけです。誘った相手が来ているのに、誘った本人が教会にいない・・・彼の名誉のため言いますが、別の日には、ちゃんと来ているのですが。そうこうするうちに、今度は、顔を覚えていないと言う。これは、弁護の仕様がありません。誘った人を覚えてなくて、しかもふらふらして、でも、誘われた人は来る。私たちは、ちゃんと毎週日曜日に教会に行っていても、誘った人は来ないのに、です。とにかく誘われた人が来て見たら、誘った人がいない。これもまた、Sさんらしいかと思うのです。

2005年3月27日、彼は洗礼を受けた。洗礼の準備の時に私は、彼に聞きました。洗礼の時には、誓約をしていただきます。その誓約の言葉に、次のような言葉があります。「あなたはイエス・キリストをあなたの主であると心から信じますか」。私は聞きました、これは、どういうことだと思いますか?私の質問に対して、彼は、こう答えた。「病院にいると、皆、死ぬ話をしている。しかし自分には行くところがあると思うと、死ぬことが怖いとは思わない」。
衝撃的でした。私が期待していた答えとは違ったのです。イエス・キリストを主であると信じるということをどう思うか、という質問に、普通、答える答え方というものがある。キリストは私にとって、云々。しかし、彼は全然違う答えをしたのです。「自分には行くところがあるから死ぬことが怖いとは思わない」と。私が知りたいのは、キリストをどう思うか、でした。うまくかみあっていない。自分のことしか、話していないのです。
しかし私は、そうだ、本当にそうなのだと思った。洗礼は、入院中に、外泊のときに受けられた。5年も病と、いえ、長く生きられないという思いもチラチラしていたはずです。そういう中でのことだったのです。イエス・キリストを主、救い主と信じるとは、結局、死を突き抜けることだ。死が終わりではない。そこからの始まりだ。そこから、キリストの命に引きだされることなのだ。私はそのように思い、これが、洗礼を受けるSさんの姿勢なのだと思いました。期待したとおりのことは言ってくれない。しかし、他の誰も口にしない言葉で、彼は、彼らしくキリスト教の洗礼を受けたのです。
「自分には、行くところがあるから、死ぬことが恐いとは思わない」。Sさんは、このことを病院で、人の言葉を聞きながら思ったのです。 「病院に入院すると、神さまを知らない人たちの健康への不安、生活への不安、死の恐怖、様々な不安があった。しかし、自分自身には心の平安、天国への希望、みんなに祈られているという安心を思い、自分自身でも気づかなかった神様の存在を知ることができ、洗礼を受けることにした」 これが、彼の洗礼の時の言葉です。Sさんが人生最後の2年間を生きる方向を決めた、決定的な瞬間でした。その後も、特別に何か生活の仕方が変わったわけではない。Sさんらしい2年間の生活をされました。しかし、キリスト者として天国を信じきった、イエス・キリストを信頼しきった、そういう意味で、死に対して平安に生きた2年間であったと思います。

彼は、今申し上げたように、必ずしもキリスト教信仰をきちんと整理できる人ではない。しかし、病院でハッとした。死を恐いと思わない自分を見いだしたのです。それには、思い当たる節があったのです。今までは何とも思わなかったのに、今、ここで改めて思ったのは、彼は、(行ったり行かなかったり…でしたが)教会に行ったことがあったのです。教会で幾度となく聞いて来たのは、永遠の命、神の国のこと、救いの希望でした。今、それを思い出したということであったと、私は思います。だからこそ、イエス・キリストが主であると聞いて、結論として即座に、死は恐くないと言えたのです。
この結論を引き出すまで、ずいぶん時間がかかったのです。初めは、つれあいが教会に行くからということで引っ張られていたと思います。嫌々とまでは言いたくありませんが、初めは、教会に行ったのは、少なくとも自分の意志ではありませんでした。

私は誰かが洗礼を受けると、聖書の人物の名前をクリスチャンネームとして差し上げています。Sさんの場合は、今日お読みした聖書の言葉から「シモン」でした。そうだ、Sさんはまるでシモンのように、半ば強制的に教会に行くようになったのです。このシモンという人は、田舎から都に出たら、ちょうどキリストが自分の十字架を背負って、刑場に行くところでした。見物していたら、突然、目の前で力尽きたキリストの十字架を替わって背負えと命令されてしまった人でした。何ということだ、とんだ とばっちりだと思ったに違いありません。
しかし、彼の子どもたちのことが、ここに書いてあります。どうやらこの二人の名前は、聖書を読んだ人々、教会の人たちは、良く知っていたようです。教会の仲間であったのです。それで、あのアレクサンドロとルフォスのお父さんという人は、シモンと言ったのだよ、主イエスさまの十字架をかついだ人だよ、…と書いたのです。

シモンの二人の子どもたちが教会の仲間であったということは、どういうことでしょうか。つまり、シモンは子どもたちにキリストを話したのです。しかも、とんでもない奴に会った、とずっと言い続けていたならば、子どもたちは、お父さんがひどい目にあったという教会に、果たして行ったでしょうか。そうではなかったのです。あの時はとばっちりだと思ったことを、後からイエス・キリストという方が良く分かって、彼自身がこのキリストの弟子になったことを意味しています。それで子どもたちも、教会に行くようになったのです。
私は、Sさんは、このシモンのように、ずいぶん長い間、無理に十字架をかついで来た人ではなかったか、と思います。しかし、結果として、そのことがきっかけになって、彼の人生を動かした、変えたのだと思います。少し無理して教会に行っていた。しかし、その時に断片的にでも聞いたキリストの言葉が、彼の人生の最期にあたって、残り2年間に、非常に輝く言葉になった。彼を平安に導く言葉になった。現実の病気の苦しみを超えて、彼の人生を支えるほどの言葉になったのです。
しかも、それは本当にSさんらしい、ひょうひょうとした生き方でありました。キリストに出会ったから、こうならなければならない、というものは、おそらくまったくありませんでした。Sさんらしく日曜日の礼拝を大事にし、Sさんらしく日曜日の礼拝を休み(!)、Sさんらしく人を誘い、Sさんらしく天国を仰ぎ見ながら、Sさんらしく旅立って行きました。

神さまは、Sさんを人生の最後で輝かせてくださった。あの時、無理にでも十字架をかついで本当によかった、と思います。このような、死を突き破る平安に導かれるのであるならば、私たちもまた、人生の途上において、Sさんの葬儀において出会った、イエス・キリストという方との出会いを、大事にして行きたいと思います。シモンの子どもがそうであったように、この葬儀を通して、皆ともにイエス・キリストがいます天国を仰ぎ望む者になれたらと思う。そういう残りの人生に生きることができたらと思います。皆、確実に、死を迎えるのだから。
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by rev_ushioda | 2007-06-12 06:53 | Comments(0)

「説教を本にする」

6月から、「使徒信条」の説教をする、と案内している。
そして、それを本にすると言ったが(←先のブログ製本に味を占めて)、だからと言って、今すでに、説教の内容(原稿)があるわけではない。説教は、いつもそうであるが、産み出されていくもので、初めからあるものではない。本にすると言ったが、しかしその内容(原稿)は、説教が産み出されるまでは、何もないのである。だから、ないものを本にすると言うのは、これは、かなりの冒険である。
説教は、実のところ毎週毎週、いつも未知の言葉を産み出す、冒険なのだ。この冒険に踏み出してこそ、説教が説教になる。
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by rev_ushioda | 2007-05-22 17:15 | Comments(0)

灰谷健次郎という、児童文学者の作品『兎の眼』。学校の先生が子どもたちのために真剣に向き合っていく物語である。その中で、足立先生という小学校の先生が、ハンガーストライキをしている、そこに訪ねてきた子どもたちと、会話をする。

「先生、しんどいか」「うん、苦しい」子どもたちはどうしていいのかわからない、じっと足立先生の顔を見た。
「いま、空を見とったら流れ星が行きよった」「あの晩も流れ星が多かった」 「あの晩いうて」 「先生が生まれて初めてドロボーした晩や」 「先生がドロボーしたの」
「今みたいに腹がへって死にそうな時に、先生はドロボーした。一日に親指くらいのじゃがいもが五つ、ご飯はそれだけやねん。先生はお兄ちゃんと二人でドロボーに入った。こっそり倉庫に忍んで大豆やトーモロコシを盗んだ。怖かったなぁ。先生はドロボーが恐ろしゅうて恐ろしゅうてかなわんかった。だから、四、五回でやめてしもた。先生のお兄ちゃんはドロボーが平気やった。何回も何回もドロボーしたんやな。兄弟が七人もいたから、ツバメが餌を運ぶように何回も何回もドロボーしたんやな」
「おまわりさんに捕まらへんかったんか」 「捕まったで。何回も捕まった。けど、何回もドロボーした。先生のお兄ちゃんはとうとう少年院に送られることになってしもうた」。

「その日、先生のお兄ちゃんは死んだ」。

「先生のお兄ちゃんは、死んだとき、文庫本の『シートン動物記』がボロボロになってポケットに入っとった。何回も読んだんやろなァ・・・ ドロボーして平気な人間はおらんわいな。先生は一生、後悔するような勘違いをしとったんや。先生はお兄ちゃんの命を食べとったんや。先生はお兄ちゃんの命を食べて大きくなったんや」。

「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)と言われた、主イエスの言葉と重なる。私たちは、一生、後悔するような勘違いをしない者となろう。
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by rev_ushioda | 2007-05-18 22:25 | Comments(0)

「目指す地に」

礼拝の説教は、個人的なことは触れない。
しかし、困難と、健康が脅かされる仲間がいるとき、それを知らないような説教はできない。

以下、2007年4月22日の説教である。
(ヨハネによる福音書6:16-21 による一つの黙想)

同じ内容を伝えるにしても、ここでは、だいぶ簡潔に伝えている。
すると、伝えたいことが強調されている、ということです。
ここで、聖書は何を伝えたいのかと言うと、
湖の上を渡る主イエスを迎えるならば、目ざす地に着くということです。

湖が荒れ始めたのです。
この「荒れる」という言葉は、起き上がって来た、という意味です。
波が起き上がって、行く手を阻むのです。

私は、西丹沢を歩いたことがある。
雨の中、ひと山越えたところに妻を待たせ、一人で歩き始めた。
1時間くらい歩いたところにあった看板に「熊に注意」。
どのようにしたらいいのか途方に暮れた。
熊と鉢合わせし、大怪我をした、死んだ、というニュースが頭をよぎる。
生きた心地がしないとは、こういうことか。
妻はこの先にいるから、戻るわけにもいかない。
音を出せばいいことは知っているのに、
音を出せば熊に気づかれると思い、反対に、そっと歩くのです。
こうして、おそるおそる歩いて行くと、行く手で「ガサッ」。
「出たっ」・・・様子をうかがうこと数分、それは雨垂れの音だった。
雨だれの音さえ恐ろしい。

湖が荒れる。波が起き上がって行く手を阻まれるとは、そういうものです。

その時に「私だ」と呼びかける声があった、そこに、神がおられるという意味です。
その主イエスを迎えようとしたら、風はまだ止まないにもかかわらず、目的地に着いたのです。
風があっても、その風は、一瞬にして無力になったのです。

主イエスを我が神として迎える者になろう。
あなたは、確かに目指す地に着くのです。
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by rev_ushioda | 2007-04-23 09:25 | Comments(0)