タグ:教会 ( 440 ) タグの人気記事

「何が偶像か」

イスラム教過激組織IS(イスラミック・ステート)によって、ベル遺跡が破壊されたらしいというニュースが伝わってきました。ベルとは、旧約聖書に何度も出て来る「バアル」のことです。バアル神殿が栄えていた時代があったのですが、それは今、遺跡でしか見ることが出来ません。偶像だ、ということで破壊されたのは、明らかに遺跡です。遺跡さえ偶像と言って破壊するISには、他宗教を信じる人はもとより、他の生き方を受け入れる余地など、微塵もありません。支配地域では、人間らしく生きる権利が踏みにじられているようです。
ISに限らず、「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は、人を支配する言葉、人間的原理で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、それこそが偶像であり、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。
それはまた、私たちが自分自身の経験や考え方を基準にするなら、教会にも簡単に持ち込まれるのです。うかうかすると、私たちもまたIS同様、何でもないものを、それは偶像であると口にしてしまうのです。そして、他者を破壊します。そのように言う言葉じたいが、また「言葉の偶像」(自分の言葉を信仰の言葉のように言うこと)となっていくのです。…
この世の中で普通であった、人を支配する「言葉の偶像」を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、何よりもあなたの偶像を捨てるようにと、自分自身に向かって言う言葉です。この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-10-30 06:31 | Comments(0)

「かんらん聖書研究会」

きょう、母校である関東学院大学に行った。駅から歩いて母校に向かったのは卒業以来で、42年ぶりであった。宗教センターから呼び出されたのだ。

関東学院大学に入学したとき、いわゆる「学園紛争」まっただ中であった。前年、東大安田講堂が学生によってバリケード封鎖された。翌年の関東学院大学の入試はキャンパスで実施できず他校で行ったが、そこに全共闘の学生が乱入、試験は実施できず書類選考となった。そういう中で入学しても、毎日が討論集会で授業はほとんど行われなかった、大衆団交というのもあった。学長相手に堂々と渡り合う学生リーダーには、そこまでいくと、もう感心するしかなかった。建ったばかりの事務棟の1号館はバリケード封鎖され、ヘルメット姿の学生が機動隊とにらみあっていた。

そういう紛争の嵐のまっただ中の1969年に、私は大学に入学した。きょう知ったのだが、その年、初代学長であった坂田祐先生がなくなった。そしてその年、小さな二つの動きがあった。一つは、大学の状況を憂いた教職員による聖書研究会がスタートしたこと。もう一つは、それとはまったく脈略なく、一人の学生が同じ教会に属する教員に呼びかけ、学内で祈祷会を始めたこと。翌年、私がそこに参加し、ほかにさらに一人が参加して聖書研究会がスタートした。皆で、名称を「かんらん聖書研究会」とした。

きょう母校に行ったのは、この「かんらん聖書研究会」初期のメンバーと現在のメンバー代表と一緒に写真を撮りたいという宗教センター職員の要請によるものであった。

わたしたちは大学を卒業したとき、実は、後継者を残すことに失敗した(と思っていた)。しかし、この名称で今日まで40年を越えて続いていたのである。どうして続いたのか、分からない。しかし、キリスト者として立派であった坂田初代学長がなくなった年に、はからずも聖書を読む二つの小さな芽が出て、それが共に今日まで続いているのだ。不思議なことだなあと思いつつ、帰路に着いた。
f0086426_2225454.jpg

f0086426_22115452.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-10-19 22:03 | Comments(0)

「岐路に立ち」

「一同は死刑にすべきだと決議した。」(マルコによる福音書14章64節)。

先週の国会、参議院特別委員会の様子を見たと思います。毎日新聞によると、委員長の説明では採決したというが、どの時点で何の採決が行われたのか、議場にいた議員すら分からなかった。ある人は「委員長が何を言ったか、誰が何をどうしたのかさっぱり分からない。あんな暴力的な採決が認められるなら、この国の民主主義は死ぬ」と言いました。生中継するNHKすら、「何らかの採決が行われたものとみられます。」と言って、実況したそうです。散会するまで「可決」を伝えられなかったと。
つまり、誰にも分からないのですが、ある人たち(与党側)は、裏を合わせていて、声が聞こえなくても皆、次にどうするか分かっていた。聞こえなくても合図で皆、立ち上がって、「はい、賛成の人多数、可決」ということになったのです。そのように、裏で動いていた。

そういう決議が行われた先週の国会を目の当たりにし、聖書を読めば、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(上掲書55節)「一同は死刑にすべきだと決議した。」(64節)とあります。(正式の死刑判決はまだ先であり、ここでは予備裁判のような場面ですが)ここで起こったことと、この日本で先週、実際起こったことと、何か重なるような思いが致します。裏があって、もう筋書き、結論は決まっている中で、表向きは形式だけの審議が行われた、ということなのです。
しかも、主イエスの逮捕は真夜中、裁判も夜中となったのですが、こういったスピードもまた、今の国会の仕方と重なります。結論が先にあると、疑問を持つ人がどんなにいても、期限までに突っ走るしかない。時間内に決めてしまわなければならない。
人間は、一度、こうだと決めていることがあると、人の話を聞くようには見せますが、しかし自分で思っていること、決めた事を、ただ通そうとするだけになる。そういうことを繰り返していくのです。こうなると、人間を大切に、人の心や平和を大事にしよう、というかけらも見ることは出来ないのです。

先週の国会で「死刑」の「判決」を受けたのは、憲法であり、民主主義であり、平和国家のブランドであり、そして平和を願う私たちでありました。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-09-24 09:58 | Comments(0)

「あなたは誰ですか」

問 あなたは誰ですか?

答 わたしはキリスト者(クリスチャン)です。

問 キリスト者(クリスチャン)とは、何ですか。

答 キリストを主として、キリストに従う者です。

問 あなたがキリスト者であることは、何によってわかりますか?

答 日曜日、わたしは属する教会で主を礼拝します。日曜日にわたしが居るところが、わたしがキリスト者であることを証明しています。

問 ほかに、あなたがキリスト者であることが分かる方法がありますか?

答 わたしがキリストのように考え、行動しようとしていること、それが、わたしがキリスト者であることを証明しています。

問 あなたはなぜ、キリスト者なのですか?

答 キリストが、わたしのために十字架で死んでくださったからです。

問 あなたはいつまでキリスト者なのですか? 

答 死ぬまで。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-09-11 11:07 | Comments(0)

中会には、宿泊施設があります。あまり知られていないかも知れませんが、かつて「富士峰山伝道所」として使われていた建物で、西富士は朝霧高原、白糸の滝のすぐ近くに、その施設はあります。教会として使っていたために、当然ですが1階は礼拝堂、2階が3LDKの住居スペースになっていて、真正面に富士山の大展望という、絶好のロケーションです。先日、メンテナンス作業のために行ってきましたが、建付けはしっかりしており、部屋には埃もないし、壁、その他、非常に綺麗です。中会ではこの建物の貸し出しをしており、全館貸切りの別荘ステイが楽しめます。
近くに白糸の滝、体験型牧場、富士花鳥園、朝霧高原温泉、奇石博物館、本栖湖ほか、また富士山YMCAなど、行ってみたいところは多数あります。家族の交わりを深めるため、また音楽などの創造的な活動のため、家一軒、丸ごと貸切りのこの施設を、利用されてみてはいかがでしょうか。

データ 所在地:静岡県富士宮市上井出424−4 バスはありますが基本的には自家用車での利用です。ふとんはありますが、貸布団を利用すると良いかもしれません。使用料は大人1泊500円。小中学生は割引がありますので、一家で出かけても1,500円前後です。

(建物に管理人はいないが、普段はセコムによって防犯管理されている。)
→ 地図(ストリートビュー)  地図を拡大すると見えてくる、中央、赤い屋根の建物です。ストリートビューでご覧になれます。

f0086426_21361544.jpg

f0086426_213644100.jpg
f0086426_21365574.jpg


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-25 21:36 | Comments(0)

教会に行くと、どこの教会でもそうですが、受付で名前を書いたり、いつも来ている人は自分の名前のところに〇を付けたりする。(アメリカなどでは、そういう習慣はないようです。)初めて教会に来た人は、抵抗感があるに違いないと思います。
どうして名前を書くかというと、きかれると困る話です。記録のため、というのが一般的でしょうか。初めての人は、ちょっと教会を覗いただけなのに記録されるというのは、やはり抵抗感があると思います。ある教会では、保険を掛けてあるからだ、と言っています。教会に行ったことで、その途上、何かの事故があったら教会活動という名目で、保険金が出る、というのです。もちろんそういう保険に入っているからですが。なるほど。

しかし、それにしてもなぜ名前を書くかといったときに、私は、自分が名前を書いた(名前にチェックした)そのように、神が私たちのことをこのように記録してくださっている、という考え方をしたい、と思っています。
イザヤ書49:16節に、こういう言葉があります。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神などいない、神の助けなどないのだ、と言う者の前に、神が言われる言葉が、今の言葉です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」そして言うのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
私たちの罪が、それがどんな深いものであっても、取り返しのつかないものであっても、そういう神がおられるなら、私たちは、いつでも、この神、この言葉の前に立つことが出来ます。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」私たちが名前を書く時、実はその前から、神が、私たちがするように、私たちのことをちゃんと記録してくださっているのです。名前を書く時に、ああ、そうだったと、そういう神さまのことを思い出せたらいいと思うのです。思い出してほしいのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-20 09:27 | Comments(0)

「子どもお楽しみ会」

昨年から、教会では、小さい子どもたちの「夏期お楽しみ会」を開いている。多くの教会は「夏期学校」として開くものであるが、私たちの教会は子どもの年齢、人数、奉仕者の手当ての状況から、夏期学校としてのプログラムより、教会生活奨励日という意味付けとしている。
去年は、子どもの成長を考え、また、ちょうど神学生がいたから実現できたのだが、それまでは娘の行っている教会に参加させてもらっていた。その神学生は今年はいないので私たち夫婦でするしかない …幸い、お手伝いしてくださる方があり、また娘夫婦に応援を頼みこんで、何とか形にできた。その娘夫婦による、ギター賛美と振り付けは、さすがになかなか高度なもので(毎年行われる超教派の本格的キャンプでの奉仕経験により、みがきがかけられている)、子どもたちはノリノリであった。私たちは、といえば、昔とった杵柄、リーダーさがしや、サラスポンダ、チェッチェッコレ、オユポイヤイヤ…(汗)
f0086426_23141188.jpg

f0086426_2342857.jpg

(歌詞)
全てに感謝しよう我が主に/賛美と喜びもて
声高らかにほめうたおう/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ

次は今回と関係ない画像だが、歌は同じ。(画像をクリックしてください)
f0086426_1213489.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-18 23:14 | Comments(0)

「修道院訪問」

今日、7人で藤沢修道院に行き、「十字架の道行き」の祈り体験をした。初めての体験であるが、手には「十字架の道行き」 (山下神父著)がある。それにしたがって、蝉の声が聞こえる木立ちの中に設けられたステーションを、祈りつつ、順にたどって行く。プロテスタントの私たちにはない、祈りの道行きだ。マリアに対する理解の違いは、申し訳ないが修正しながら、また、聖書にはない内容をもったステーションもいくつかあったがそれほど違和感なく、そのほかの記述に信仰的な立場の違いはほとんど感じられず、かえって霊的な洞察の深さに感動。歩を進めるうちに十字架の意味が体に伝わってくる。これがカトリックの信仰かと、それだけでわかるはずもないが、敬意の湧き出るのを感じた。

道行き最後は軽い坂になっていて、木立の中から、開けた明るいところに出ると、そこが復活の場面。またそこは聖堂の正面となっていて、待っていてくださったシスターに聖堂内に招き入れられた。エアコンが効いた聖堂に入り、一同、その質素さと意匠に感動。とにかく修道院の聖堂は始めてという人も多い。復活の場面の後、ということで、「主よ、おいでください/クンバヤー・マイ・ロード、クンバヤー/主よ、おいでください/おお主よ、クンバヤー」と再臨を待つ意味でこの歌を歌い、祈って、プログラムを終えた。

別室に案内され、用意してくださっていた、よく冷えたドリンクをいただく。木立の中といえ、のどが渇いていたので、おいしかったこと。被災地に贈るために作っているという、キリスト生誕場面の人形(ナティビティ)を院長のシスターが見せてくださった。この部屋はいつもはそのための作業場だということ。修道女は20数名で皆、高齢者だという説明に、「若い人は入ってこられないのですか?」とお聞きすると、(存続のために祈っていると答えが返ってくるかと思っていたら)「必要がなくなればなくなるでしょう」と。シスターが高齢なので、今はいろいろなボランティアに支えられているという話も聞いた。逆に「教会の人数は?」と聞かれるので、「小さな教会です」と答えると、「教会は人数ではありませんね」と。修道院だからか、何か、洗練された人の言葉に私には聞こえた。

写真は、14ステーション。次は復活の場面となるが、ちょうど奥から光が射しているところが、復活の場面となる。そこがまた礼拝堂の入り口となっている。
さらに次の写真は、まったく関係ないが、聖堂にいた虫。めったに見ることができない「ナナフシ」だ。それだけ自然に囲まれているという証。
f0086426_22571446.jpg

f0086426_07552.jpg


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-02 22:43 | Comments(0)

「十字架の道行き」

十字架の道行き 参加者募集!

日  時 8月2日(日)午後2時~3時
場  所 聖心の布教姉妹会 藤沢修道院
テキスト 「十字架の道行き」 山下神父著、ステラコーポレーション刊

カトリック教会には、主イエス・キリストの受けた裁判から十字架の死に至る歩みを、14場面に描いた絵画やレリーフなどが礼拝堂(聖堂)内の壁に掛けてあり、それぞれを「留(りゅう)」英語で「ステーション」といいます。このひとつひとつの「留」を順次たどって、主イエスの受難の道を黙想し、主イエスの苦しみを追体験し、祈りながら移動して行くのが「十字架の道行き」です。このためにたくさんの祈りが生まれ、また、さまざまな小冊子が用意されています。
修道院のような広い場所には、屋外にこの「留」が設けられているところがあって、地形をうまく利用して主イエスの十字架の道行きを再現しています。その場合、最後に復活の場面にしているようです。エルサレムでは、巡礼者は、ピラトの家があった場所から聖墳墓教会まで、本ものの受難の道「ヴィア・ドロローサ」を歩きます。これが十字架の道行きの原点です。
今回、私たちは藤沢にある「聖心(みこころ)の布教姉妹会 藤沢修道院」の庭にある道行きのコースを使わせていただいて、体験的に主イエスの十字架を想起してみたいと思っています。コースは木立の中のゆるやかな斜面にある短いもので、誰でも参加でき、次のようになっています。

第1留  死刑宣告を受ける
第2留  十字架を担う
第3留  倒れる
第4留  母マリアに会う
第5留  キレネのシモンの助けを受ける 
第6留  御顔をぬぐわれる
第7留  再び倒れる
第8留  エルサレムの婦人を慰める
第9留  三度倒れる
第10留 衣をはがされる
第11留 十字架に釘付けにされる
第12留 息を引き取る
第13留 十字架降下
第14留 墓に葬られる

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-07-30 23:15 | Comments(0)

『十戒』は、福音によって新しくされた人間にとって「生活の指針」です。

『十戒』は、前回も書きましたが、パウロの言葉で言えば、キリストによって与えられた「自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え」(ガラテヤの信徒への手紙5:13)る、そのための指針なのです。「自由を得るために召し出された」(同上)キリストにある者たちは、この自由を生きるために、おのおのが新しい生活の指針としてこの『十戒』の言葉と向き合うのです。『十戒』は、神の前に生きる“私”に向かってくる言葉なのです。
なぜこれをくどくど言うかというと、「戒め」という言葉を見て、またその内容を見て、私たちは『十戒』をこの世で使い慣れてきた言葉だと勘違いするかも知れないからです。これは決して、私たちが慣れ親しんできた言葉、すなわち、人への指示、命令の言葉ではないのです。人への指示、命令の言葉は、この世の言葉であって、教会の言葉ではありません。つまりこれは、私たちが仲間に向かって言う言葉ではないということを、心しなければなりません。
それにしても「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は人を支配する言葉で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。それこそ、教会に持ち込まれるこの世の言葉、「言葉の偶像」(自分の言葉なのに信仰の言葉とする)でしかありません。そして、うかうかすると私たちも口にする言葉なのです。人を支配する言葉の偶像を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-07-05 22:58 | Comments(0)