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教会に行くと、どこの教会でもそうですが、受付で名前を書いたり、いつも来ている人は自分の名前のところに〇を付けたりする。(アメリカなどでは、そういう習慣はないようです。)初めて教会に来た人は、抵抗感があるに違いないと思います。
どうして名前を書くかというと、きかれると困る話です。記録のため、というのが一般的でしょうか。初めての人は、ちょっと教会を覗いただけなのに記録されるというのは、やはり抵抗感があると思います。ある教会では、保険を掛けてあるからだ、と言っています。教会に行ったことで、その途上、何かの事故があったら教会活動という名目で、保険金が出る、というのです。もちろんそういう保険に入っているからですが。なるほど。

しかし、それにしてもなぜ名前を書くかといったときに、私は、自分が名前を書いた(名前にチェックした)そのように、神が私たちのことをこのように記録してくださっている、という考え方をしたい、と思っています。
イザヤ書49:16節に、こういう言葉があります。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神などいない、神の助けなどないのだ、と言う者の前に、神が言われる言葉が、今の言葉です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」そして言うのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
私たちの罪が、それがどんな深いものであっても、取り返しのつかないものであっても、そういう神がおられるなら、私たちは、いつでも、この神、この言葉の前に立つことが出来ます。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」私たちが名前を書く時、実はその前から、神が、私たちがするように、私たちのことをちゃんと記録してくださっているのです。名前を書く時に、ああ、そうだったと、そういう神さまのことを思い出せたらいいと思うのです。思い出してほしいのです。

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by rev_ushioda | 2015-08-20 09:27 | Comments(0)

「子どもお楽しみ会」

昨年から、教会では、小さい子どもたちの「夏期お楽しみ会」を開いている。多くの教会は「夏期学校」として開くものであるが、私たちの教会は子どもの年齢、人数、奉仕者の手当ての状況から、夏期学校としてのプログラムより、教会生活奨励日という意味付けとしている。
去年は、子どもの成長を考え、また、ちょうど神学生がいたから実現できたのだが、それまでは娘の行っている教会に参加させてもらっていた。その神学生は今年はいないので私たち夫婦でするしかない …幸い、お手伝いしてくださる方があり、また娘夫婦に応援を頼みこんで、何とか形にできた。その娘夫婦による、ギター賛美と振り付けは、さすがになかなか高度なもので(毎年行われる超教派の本格的キャンプでの奉仕経験により、みがきがかけられている)、子どもたちはノリノリであった。私たちは、といえば、昔とった杵柄、リーダーさがしや、サラスポンダ、チェッチェッコレ、オユポイヤイヤ…(汗)
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(歌詞)
全てに感謝しよう我が主に/賛美と喜びもて
声高らかにほめうたおう/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ

次は今回と関係ない画像だが、歌は同じ。(画像をクリックしてください)
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by rev_ushioda | 2015-08-18 23:14 | Comments(0)

「修道院訪問」

今日、7人で藤沢修道院に行き、「十字架の道行き」の祈り体験をした。初めての体験であるが、手には「十字架の道行き」 (山下神父著)がある。それにしたがって、蝉の声が聞こえる木立ちの中に設けられたステーションを、祈りつつ、順にたどって行く。プロテスタントの私たちにはない、祈りの道行きだ。マリアに対する理解の違いは、申し訳ないが修正しながら、また、聖書にはない内容をもったステーションもいくつかあったがそれほど違和感なく、そのほかの記述に信仰的な立場の違いはほとんど感じられず、かえって霊的な洞察の深さに感動。歩を進めるうちに十字架の意味が体に伝わってくる。これがカトリックの信仰かと、それだけでわかるはずもないが、敬意の湧き出るのを感じた。

道行き最後は軽い坂になっていて、木立の中から、開けた明るいところに出ると、そこが復活の場面。またそこは聖堂の正面となっていて、待っていてくださったシスターに聖堂内に招き入れられた。エアコンが効いた聖堂に入り、一同、その質素さと意匠に感動。とにかく修道院の聖堂は始めてという人も多い。復活の場面の後、ということで、「主よ、おいでください/クンバヤー・マイ・ロード、クンバヤー/主よ、おいでください/おお主よ、クンバヤー」と再臨を待つ意味でこの歌を歌い、祈って、プログラムを終えた。

別室に案内され、用意してくださっていた、よく冷えたドリンクをいただく。木立の中といえ、のどが渇いていたので、おいしかったこと。被災地に贈るために作っているという、キリスト生誕場面の人形(ナティビティ)を院長のシスターが見せてくださった。この部屋はいつもはそのための作業場だということ。修道女は20数名で皆、高齢者だという説明に、「若い人は入ってこられないのですか?」とお聞きすると、(存続のために祈っていると答えが返ってくるかと思っていたら)「必要がなくなればなくなるでしょう」と。シスターが高齢なので、今はいろいろなボランティアに支えられているという話も聞いた。逆に「教会の人数は?」と聞かれるので、「小さな教会です」と答えると、「教会は人数ではありませんね」と。修道院だからか、何か、洗練された人の言葉に私には聞こえた。

写真は、14ステーション。次は復活の場面となるが、ちょうど奥から光が射しているところが、復活の場面となる。そこがまた礼拝堂の入り口となっている。
さらに次の写真は、まったく関係ないが、聖堂にいた虫。めったに見ることができない「ナナフシ」だ。それだけ自然に囲まれているという証。
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by rev_ushioda | 2015-08-02 22:43 | Comments(0)

「十字架の道行き」

十字架の道行き 参加者募集!

日  時 8月2日(日)午後2時~3時
場  所 聖心の布教姉妹会 藤沢修道院
テキスト 「十字架の道行き」 山下神父著、ステラコーポレーション刊

カトリック教会には、主イエス・キリストの受けた裁判から十字架の死に至る歩みを、14場面に描いた絵画やレリーフなどが礼拝堂(聖堂)内の壁に掛けてあり、それぞれを「留(りゅう)」英語で「ステーション」といいます。このひとつひとつの「留」を順次たどって、主イエスの受難の道を黙想し、主イエスの苦しみを追体験し、祈りながら移動して行くのが「十字架の道行き」です。このためにたくさんの祈りが生まれ、また、さまざまな小冊子が用意されています。
修道院のような広い場所には、屋外にこの「留」が設けられているところがあって、地形をうまく利用して主イエスの十字架の道行きを再現しています。その場合、最後に復活の場面にしているようです。エルサレムでは、巡礼者は、ピラトの家があった場所から聖墳墓教会まで、本ものの受難の道「ヴィア・ドロローサ」を歩きます。これが十字架の道行きの原点です。
今回、私たちは藤沢にある「聖心(みこころ)の布教姉妹会 藤沢修道院」の庭にある道行きのコースを使わせていただいて、体験的に主イエスの十字架を想起してみたいと思っています。コースは木立の中のゆるやかな斜面にある短いもので、誰でも参加でき、次のようになっています。

第1留  死刑宣告を受ける
第2留  十字架を担う
第3留  倒れる
第4留  母マリアに会う
第5留  キレネのシモンの助けを受ける 
第6留  御顔をぬぐわれる
第7留  再び倒れる
第8留  エルサレムの婦人を慰める
第9留  三度倒れる
第10留 衣をはがされる
第11留 十字架に釘付けにされる
第12留 息を引き取る
第13留 十字架降下
第14留 墓に葬られる

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by rev_ushioda | 2015-07-30 23:15 | Comments(0)

『十戒』は、福音によって新しくされた人間にとって「生活の指針」です。

『十戒』は、前回も書きましたが、パウロの言葉で言えば、キリストによって与えられた「自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え」(ガラテヤの信徒への手紙5:13)る、そのための指針なのです。「自由を得るために召し出された」(同上)キリストにある者たちは、この自由を生きるために、おのおのが新しい生活の指針としてこの『十戒』の言葉と向き合うのです。『十戒』は、神の前に生きる“私”に向かってくる言葉なのです。
なぜこれをくどくど言うかというと、「戒め」という言葉を見て、またその内容を見て、私たちは『十戒』をこの世で使い慣れてきた言葉だと勘違いするかも知れないからです。これは決して、私たちが慣れ親しんできた言葉、すなわち、人への指示、命令の言葉ではないのです。人への指示、命令の言葉は、この世の言葉であって、教会の言葉ではありません。つまりこれは、私たちが仲間に向かって言う言葉ではないということを、心しなければなりません。
それにしても「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は人を支配する言葉で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。それこそ、教会に持ち込まれるこの世の言葉、「言葉の偶像」(自分の言葉なのに信仰の言葉とする)でしかありません。そして、うかうかすると私たちも口にする言葉なのです。人を支配する言葉の偶像を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-07-05 22:58 | Comments(0)

私たちの教会で、『十戒』を礼拝で使うことにしました。日本中会が出版した『神の民の礼拝』によると以下の解説が書かれていますが、これは『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局)の理解と同じです。

「宗教改革者カルヴァンは赦しの確証に続けて十戒を朗唱し、それは改革派礼拝の特徴の一つとなりました。福音によって新しくされた人間は律法によって生活の指針が与えられる、という理解を反映しています。」

大事な言葉は、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」というところです。
聖書によると、神はエジプトの奴隷から解放した民に、言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20章2節)そしてこの一方的な驚くべき恵みに応答するように、新しくされた民の新しい生活のために『十戒』に生きて行きなさい、と言われたのです。

これは今、私たちに重なります。私たちは主イエス・キリストの福音によって罪の奴隷から一方的に解放され、新しくされたのです。私たちは、全く自由に生きることが出来ます。

しかしそこで、どう生きたらいいのか。奴隷の時には必要でなかった新しい指針が必要になるのです。パウロは言いました。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)自由にされた新しい人間の、新しい生活の「指針」が必要なのです。

私たちの世界は、価値観において、激しく動いています。10年前に言われていたことは、もう、古くなっています。その価値観も、10年先には古くなるのです。キリスト者がそういう価値観で神を理解し、またこの世の価値観で多様化する人間関係、特に性的少数者の問題、また政治的には戦争法案などを判断していて良いのでしょうか。しかも聖書に照らして自分の考え方を作り上げるのではなく、周りの状況、人の考え方や言葉で動いているとしたら、もはや、キリスト者の放棄です。私たちは、少なくとも神の言葉に何が言われているか知った上で、現実の状況に対して判断しなければなりません。
だから、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」に立ち戻っていくのです。私たちは、礼拝の中で、赦しの確証に続けて「新しくされた人間」として、子どもたちと共に、十戒を朗唱することにします。

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by rev_ushioda | 2015-06-29 23:24 | Comments(0)

妻は、無事、コロンビアから帰国。
無事という意味はふたつある。一つは、体調の問題。もう一つは、航空機欠航の問題があった。

第一報:宮井先生より
昨夜の閉会礼拝の時でしたが、潮田秀子姉が体調を崩し、席にうずくまってしまいました。
夕方前から顔色が優れずに心配していましたが、長旅のお疲れが極みに達したのだと思います。
そして、その時にちょうど隣りにいた方が医療従事者で、お顔を見てすぐに声をかけてくださり、別室で診察し、薬を処方してくださいました。脱水状態になりかけていると言われました。
彼女は礼拝中に夫と小さなお子さんを残して中座し、少し離れた場所にあるホテルまで戻って薬を持ってきてくださり、丁寧な説明とともに祈りをもしてくださって、主にある姉妹としての大きな愛を示してくださいました。
その場にいた日本からの参加者一同が感謝を表し、特に佐藤先生がずっと通訳として付き添ってくださったのと同時に彼女への感謝の意を丁寧に現してくださいました。
ぜひ、このことを日本中会で覚えてくださり、中会として彼女に感謝の意を届けていただければと願います。

その方はキャサリン・カミングス姉、マイランド教会のメンバーです。ご主人が牧師で、代議員の家族として総会に出席しておられたようです。マイランド教会は以前ロバート・ラッシュ先生が牧会しておられた教会だそうです。

潮田姉はその後薬の効果もあってか回復され、今朝はご一緒に元気に朝食を召し上がりました。
今日の夕方の便で帰国されますので、それまで尚できるだけ休息をとれば、無事に飛行機に乗れることでしょう。

第二信:佐藤先生より
キャサリンさんは、危険な町を一人でホテルに行くと言われたので、こちらで現地の教会のメンバーにお願いして付き添ってホテルに行かれました。しかし、タクシー代金、持参された三種類の薬の代金の受け取りも辞退されて、私たちのホテルにつくまで、処方について細かく説明され、秀子さんの手を握りとても長く祈って下さいました。

旦那さんのマイランド教会は、
http://milancpchurchnews.blogspot.com/?m=1
このブログを見つけました。ベセル大学に近い、歴史あるカンバランドの教会です。

第三信:饒平名兄より
現在マイアミ空港にいます。ボゴタからダラスまでの飛行機がキャンセル(欠航)されたため、急遽マイアミから日本に向かうことにしました。詳細のフライトはまだ早朝のため、空港職員がいません。またご連絡します。

第四信:饒平名兄より
ようやくダラス空港につきました。東京行AA61便に乗る事が出来そうです。成田到着予定時刻は16時35分となっています。乗ることが出来れば日曜日夕方の到着となります。ご婦人たちには強行軍となってしまいましたが、良い経験と思って頂けると幸いです。

総会開催地のカリから、コロンビア国内のボゴダまでは良かったものの、ボゴダでアメリカのダラス行の飛行機が理由もなく欠航。出国できなくなったのである。交渉の結果、フロリダのマイアミまで行く便にすべり込み、第三信は、そのマイアミからの早朝のメールであった。そこから日本への直行便も探したがそれはなく、マイアミで交渉の結果、ようやくダラスに登場できたのである。それが金曜日の夜から土曜日早朝の出来事。しかしダラスでは予定していた飛行機は直前に出発したために乗ることができず、再度交渉し、結果的には2時間遅れで成田到着であったが、饒平名兄がいなければコロンビアで路頭に迷い、を出国できなかったと思う。饒平名兄に大感謝。

すべて主に感謝。

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by rev_ushioda | 2015-06-28 23:59 | Comments(0)

私たちの教会で、『十戒』を礼拝で使うことにしました。日本中会が出版した『神の民の礼拝』によると以下の解説が書かれていますが、これは『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局)の理解と同じです。

「宗教改革者カルヴァンは赦しの確証に続けて十戒を朗唱し、それは改革派礼拝の特徴の一つとなりました。福音によって新しくされた人間は律法によって生活の指針が与えられる、という理解を反映しています。」

大事な言葉は、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」というところです。聖書によると、神はエジプトの奴隷から解放した民に、言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20章2節)そしてこの一方的な驚くべき恵みに応答するように、新しくされた民の新しい生活のために『十戒』に生きて行きなさい、と言われたのです。
これは今、私たちに重なります。私たちは主イエス・キリストの福音によって罪の奴隷から一方的に解放され、新しくされたのです。私たちは、全く自由に生きることが出来ます。
しかしそこで、どう生きたらいいのか。奴隷の時には必要でなかった新しい指針が必要になるのです。パウロは言いました。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)自由にされた新しい人間の、新しい生活の「指針」が必要なのです。

私たちの世界は、価値観において、激しく動いています。10年前に言われていたことは、もう、古くなっています。その価値観も、10年先には古くなるのです。キリスト者がそういう価値観で神を理解し、またこの世の価値観で多様化する人間関係、特に性的少数者の問題、また政治的には戦争法案などを判断していて良いのでしょうか。しかも聖書に照らして自分の考え方を作り上げるのではなく、周りの状況、人の考え方や言葉で動いているとしたら、もはや、キリスト者の放棄です。私たちは、少なくとも神の言葉に何が言われているか知った上で、現実の状況に対して判断しなければなりません。
だから、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」に立ち戻っていくのです。私たちは、礼拝の中で、赦しの確証に続けて「新しくされた人間」として、子どもたちと共に、十戒を朗唱することにします。

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by rev_ushioda | 2015-06-25 21:37 | Comments(0)

「妻がコロンビアへ」

昨日、夕方6時45分の成田発で妻がコロンビアに発った。ほかに4人の人と一緒である。コロンビアのカリという町で行われるカンバーランド長老教会の総会出席のため、現地ではアメリカから佐藤先生が加わり、6人が同じコテージに宿泊、総会会場の大学のキャンパスまでバスで送迎されると聞いた。
カリ(世界地図にマークしたところ)に到着は、金曜日朝7時頃。カリとの時差は14時間なので、日本時間では今夜9時ころである。
妻はブラジルにも行ったことがあるが(ブラジルの東北部、地図でBA バイア州がマッタ教会があるところ)、それよりは多少移動時間が短いが、1日では行かない国である。それにしても、木曜日夕方6時45分に発って、26時間使って、到着は現地で金曜日朝7時だ。時差ボケにもなるだろう。

コロンビアは外務省が政治的、社会的に危険な国ということで警告を出している国である。さすがに旅行案内書は、本屋を探しても、ない。加えて黄熱病予防接種が求められる国である。現地の情報に基づいて予防接種はしていかなかった。教会の総会なので現地ではすべて団体行動となり、まさか誘拐はないだろう。しかし蚊のテロ攻撃を受ける可能性はある。写真を見ると(地図の下の写真)、これが宿泊ホテルにあるゴルフ場であるらしい。蚊は、いないわけはなさそうだ…

気を付けて、良い旅をと、祈って送り出した。

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by rev_ushioda | 2015-06-19 12:52 | Comments(0)

「コロンビアに送る」

カンバーランド長老教会の総会(GA)が今年も開催されます。2008年には日本で開催されたことがありますが、その時は、カンバーランド長老教会200年の歴史で初めて、アメリカ合衆国以外で開催された総会でした。今年はアメリカ合衆国以外という意味では、二回目です。そして、開催地は南米のコロンビアです。
 カンバーランド長老教会は、積極的に海外に宣教師を送り出してきた教会で、一つの国の中に留まるのではなく、日本をはじめ、中国(香港)、コロンビア、韓国に教会を形成し、さらにラオス、カンボジア、フィリピン、モンゴルその他の国に宣教師を送り出し、働きを拡げています。今回の総会にも世界中からの出席者がいて、会話が弾むに違いありません。
この総会に、日本中会から代議員として饒平名長老が宮井牧師と共に出席します。また、平行して女性会の総会も開かれますので、日本中会女性会から、秀子姉ほか2名が送り出されます。たまたま泉教会から2名がコロンビアに出かけることになりました。
かつて(1984年)、私も総会に出席したことがあります。そこで香港の代議員が、中国返還前の緊迫した状況と教会の決意を話されました。そのスピーチを録音し、全文を日本中会に紹介したことがありましたが、そこから香港中会との交流が始まり、今はアジア宣教委員会になって、つい最近もラオス、カンボジアに日本中会から4人を問安使として派遣しました。総会は、教会が世界に開かれる大事なチャンスなのです。
泉教会はこの数年、礼拝人数が減少して寂しい思いをしていますが、しかし今年、開催地がコロンビアというこの総会に関わることができる教会であったことを心からうれしく思っています。建物の壁、人数の壁、感情の壁、そのほかあらゆる壁は主イエス・キリストによって突き破られることの象徴が、この「総会」、つまり教会会議の仕組みにあると言ってよいと思います。
コロンビアに出かける皆さんの旅が守られ、良い出会いを経験し、また教会の向き合う課題を話し合い、良い実りを携えて帰国できるよう、心から祈り、送り出したいと思います。

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by rev_ushioda | 2015-06-14 16:25 | Comments(0)