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「十字架の道行き」

十字架の道行き 参加者募集!

日  時 8月2日(日)午後2時~3時
場  所 聖心の布教姉妹会 藤沢修道院
テキスト 「十字架の道行き」 山下神父著、ステラコーポレーション刊

カトリック教会には、主イエス・キリストの受けた裁判から十字架の死に至る歩みを、14場面に描いた絵画やレリーフなどが礼拝堂(聖堂)内の壁に掛けてあり、それぞれを「留(りゅう)」英語で「ステーション」といいます。このひとつひとつの「留」を順次たどって、主イエスの受難の道を黙想し、主イエスの苦しみを追体験し、祈りながら移動して行くのが「十字架の道行き」です。このためにたくさんの祈りが生まれ、また、さまざまな小冊子が用意されています。
修道院のような広い場所には、屋外にこの「留」が設けられているところがあって、地形をうまく利用して主イエスの十字架の道行きを再現しています。その場合、最後に復活の場面にしているようです。エルサレムでは、巡礼者は、ピラトの家があった場所から聖墳墓教会まで、本ものの受難の道「ヴィア・ドロローサ」を歩きます。これが十字架の道行きの原点です。
今回、私たちは藤沢にある「聖心(みこころ)の布教姉妹会 藤沢修道院」の庭にある道行きのコースを使わせていただいて、体験的に主イエスの十字架を想起してみたいと思っています。コースは木立の中のゆるやかな斜面にある短いもので、誰でも参加でき、次のようになっています。

第1留  死刑宣告を受ける
第2留  十字架を担う
第3留  倒れる
第4留  母マリアに会う
第5留  キレネのシモンの助けを受ける 
第6留  御顔をぬぐわれる
第7留  再び倒れる
第8留  エルサレムの婦人を慰める
第9留  三度倒れる
第10留 衣をはがされる
第11留 十字架に釘付けにされる
第12留 息を引き取る
第13留 十字架降下
第14留 墓に葬られる

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by rev_ushioda | 2015-07-30 23:15 | Comments(0)

『十戒』は、福音によって新しくされた人間にとって「生活の指針」です。

『十戒』は、前回も書きましたが、パウロの言葉で言えば、キリストによって与えられた「自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え」(ガラテヤの信徒への手紙5:13)る、そのための指針なのです。「自由を得るために召し出された」(同上)キリストにある者たちは、この自由を生きるために、おのおのが新しい生活の指針としてこの『十戒』の言葉と向き合うのです。『十戒』は、神の前に生きる“私”に向かってくる言葉なのです。
なぜこれをくどくど言うかというと、「戒め」という言葉を見て、またその内容を見て、私たちは『十戒』をこの世で使い慣れてきた言葉だと勘違いするかも知れないからです。これは決して、私たちが慣れ親しんできた言葉、すなわち、人への指示、命令の言葉ではないのです。人への指示、命令の言葉は、この世の言葉であって、教会の言葉ではありません。つまりこれは、私たちが仲間に向かって言う言葉ではないということを、心しなければなりません。
それにしても「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は人を支配する言葉で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。それこそ、教会に持ち込まれるこの世の言葉、「言葉の偶像」(自分の言葉なのに信仰の言葉とする)でしかありません。そして、うかうかすると私たちも口にする言葉なのです。人を支配する言葉の偶像を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-07-05 22:58 | Comments(0)

私たちの教会で、『十戒』を礼拝で使うことにしました。日本中会が出版した『神の民の礼拝』によると以下の解説が書かれていますが、これは『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局)の理解と同じです。

「宗教改革者カルヴァンは赦しの確証に続けて十戒を朗唱し、それは改革派礼拝の特徴の一つとなりました。福音によって新しくされた人間は律法によって生活の指針が与えられる、という理解を反映しています。」

大事な言葉は、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」というところです。
聖書によると、神はエジプトの奴隷から解放した民に、言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20章2節)そしてこの一方的な驚くべき恵みに応答するように、新しくされた民の新しい生活のために『十戒』に生きて行きなさい、と言われたのです。

これは今、私たちに重なります。私たちは主イエス・キリストの福音によって罪の奴隷から一方的に解放され、新しくされたのです。私たちは、全く自由に生きることが出来ます。

しかしそこで、どう生きたらいいのか。奴隷の時には必要でなかった新しい指針が必要になるのです。パウロは言いました。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)自由にされた新しい人間の、新しい生活の「指針」が必要なのです。

私たちの世界は、価値観において、激しく動いています。10年前に言われていたことは、もう、古くなっています。その価値観も、10年先には古くなるのです。キリスト者がそういう価値観で神を理解し、またこの世の価値観で多様化する人間関係、特に性的少数者の問題、また政治的には戦争法案などを判断していて良いのでしょうか。しかも聖書に照らして自分の考え方を作り上げるのではなく、周りの状況、人の考え方や言葉で動いているとしたら、もはや、キリスト者の放棄です。私たちは、少なくとも神の言葉に何が言われているか知った上で、現実の状況に対して判断しなければなりません。
だから、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」に立ち戻っていくのです。私たちは、礼拝の中で、赦しの確証に続けて「新しくされた人間」として、子どもたちと共に、十戒を朗唱することにします。

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by rev_ushioda | 2015-06-29 23:24 | Comments(0)

妻は、無事、コロンビアから帰国。
無事という意味はふたつある。一つは、体調の問題。もう一つは、航空機欠航の問題があった。

第一報:宮井先生より
昨夜の閉会礼拝の時でしたが、潮田秀子姉が体調を崩し、席にうずくまってしまいました。
夕方前から顔色が優れずに心配していましたが、長旅のお疲れが極みに達したのだと思います。
そして、その時にちょうど隣りにいた方が医療従事者で、お顔を見てすぐに声をかけてくださり、別室で診察し、薬を処方してくださいました。脱水状態になりかけていると言われました。
彼女は礼拝中に夫と小さなお子さんを残して中座し、少し離れた場所にあるホテルまで戻って薬を持ってきてくださり、丁寧な説明とともに祈りをもしてくださって、主にある姉妹としての大きな愛を示してくださいました。
その場にいた日本からの参加者一同が感謝を表し、特に佐藤先生がずっと通訳として付き添ってくださったのと同時に彼女への感謝の意を丁寧に現してくださいました。
ぜひ、このことを日本中会で覚えてくださり、中会として彼女に感謝の意を届けていただければと願います。

その方はキャサリン・カミングス姉、マイランド教会のメンバーです。ご主人が牧師で、代議員の家族として総会に出席しておられたようです。マイランド教会は以前ロバート・ラッシュ先生が牧会しておられた教会だそうです。

潮田姉はその後薬の効果もあってか回復され、今朝はご一緒に元気に朝食を召し上がりました。
今日の夕方の便で帰国されますので、それまで尚できるだけ休息をとれば、無事に飛行機に乗れることでしょう。

第二信:佐藤先生より
キャサリンさんは、危険な町を一人でホテルに行くと言われたので、こちらで現地の教会のメンバーにお願いして付き添ってホテルに行かれました。しかし、タクシー代金、持参された三種類の薬の代金の受け取りも辞退されて、私たちのホテルにつくまで、処方について細かく説明され、秀子さんの手を握りとても長く祈って下さいました。

旦那さんのマイランド教会は、
http://milancpchurchnews.blogspot.com/?m=1
このブログを見つけました。ベセル大学に近い、歴史あるカンバランドの教会です。

第三信:饒平名兄より
現在マイアミ空港にいます。ボゴタからダラスまでの飛行機がキャンセル(欠航)されたため、急遽マイアミから日本に向かうことにしました。詳細のフライトはまだ早朝のため、空港職員がいません。またご連絡します。

第四信:饒平名兄より
ようやくダラス空港につきました。東京行AA61便に乗る事が出来そうです。成田到着予定時刻は16時35分となっています。乗ることが出来れば日曜日夕方の到着となります。ご婦人たちには強行軍となってしまいましたが、良い経験と思って頂けると幸いです。

総会開催地のカリから、コロンビア国内のボゴダまでは良かったものの、ボゴダでアメリカのダラス行の飛行機が理由もなく欠航。出国できなくなったのである。交渉の結果、フロリダのマイアミまで行く便にすべり込み、第三信は、そのマイアミからの早朝のメールであった。そこから日本への直行便も探したがそれはなく、マイアミで交渉の結果、ようやくダラスに登場できたのである。それが金曜日の夜から土曜日早朝の出来事。しかしダラスでは予定していた飛行機は直前に出発したために乗ることができず、再度交渉し、結果的には2時間遅れで成田到着であったが、饒平名兄がいなければコロンビアで路頭に迷い、を出国できなかったと思う。饒平名兄に大感謝。

すべて主に感謝。

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by rev_ushioda | 2015-06-28 23:59 | Comments(0)

私たちの教会で、『十戒』を礼拝で使うことにしました。日本中会が出版した『神の民の礼拝』によると以下の解説が書かれていますが、これは『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局)の理解と同じです。

「宗教改革者カルヴァンは赦しの確証に続けて十戒を朗唱し、それは改革派礼拝の特徴の一つとなりました。福音によって新しくされた人間は律法によって生活の指針が与えられる、という理解を反映しています。」

大事な言葉は、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」というところです。聖書によると、神はエジプトの奴隷から解放した民に、言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20章2節)そしてこの一方的な驚くべき恵みに応答するように、新しくされた民の新しい生活のために『十戒』に生きて行きなさい、と言われたのです。
これは今、私たちに重なります。私たちは主イエス・キリストの福音によって罪の奴隷から一方的に解放され、新しくされたのです。私たちは、全く自由に生きることが出来ます。
しかしそこで、どう生きたらいいのか。奴隷の時には必要でなかった新しい指針が必要になるのです。パウロは言いました。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)自由にされた新しい人間の、新しい生活の「指針」が必要なのです。

私たちの世界は、価値観において、激しく動いています。10年前に言われていたことは、もう、古くなっています。その価値観も、10年先には古くなるのです。キリスト者がそういう価値観で神を理解し、またこの世の価値観で多様化する人間関係、特に性的少数者の問題、また政治的には戦争法案などを判断していて良いのでしょうか。しかも聖書に照らして自分の考え方を作り上げるのではなく、周りの状況、人の考え方や言葉で動いているとしたら、もはや、キリスト者の放棄です。私たちは、少なくとも神の言葉に何が言われているか知った上で、現実の状況に対して判断しなければなりません。
だから、「福音によって新しくされた人間は…生活の指針」に立ち戻っていくのです。私たちは、礼拝の中で、赦しの確証に続けて「新しくされた人間」として、子どもたちと共に、十戒を朗唱することにします。

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by rev_ushioda | 2015-06-25 21:37 | Comments(0)

「妻がコロンビアへ」

昨日、夕方6時45分の成田発で妻がコロンビアに発った。ほかに4人の人と一緒である。コロンビアのカリという町で行われるカンバーランド長老教会の総会出席のため、現地ではアメリカから佐藤先生が加わり、6人が同じコテージに宿泊、総会会場の大学のキャンパスまでバスで送迎されると聞いた。
カリ(世界地図にマークしたところ)に到着は、金曜日朝7時頃。カリとの時差は14時間なので、日本時間では今夜9時ころである。
妻はブラジルにも行ったことがあるが(ブラジルの東北部、地図でBA バイア州がマッタ教会があるところ)、それよりは多少移動時間が短いが、1日では行かない国である。それにしても、木曜日夕方6時45分に発って、26時間使って、到着は現地で金曜日朝7時だ。時差ボケにもなるだろう。

コロンビアは外務省が政治的、社会的に危険な国ということで警告を出している国である。さすがに旅行案内書は、本屋を探しても、ない。加えて黄熱病予防接種が求められる国である。現地の情報に基づいて予防接種はしていかなかった。教会の総会なので現地ではすべて団体行動となり、まさか誘拐はないだろう。しかし蚊のテロ攻撃を受ける可能性はある。写真を見ると(地図の下の写真)、これが宿泊ホテルにあるゴルフ場であるらしい。蚊は、いないわけはなさそうだ…

気を付けて、良い旅をと、祈って送り出した。

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by rev_ushioda | 2015-06-19 12:52 | Comments(0)

「コロンビアに送る」

カンバーランド長老教会の総会(GA)が今年も開催されます。2008年には日本で開催されたことがありますが、その時は、カンバーランド長老教会200年の歴史で初めて、アメリカ合衆国以外で開催された総会でした。今年はアメリカ合衆国以外という意味では、二回目です。そして、開催地は南米のコロンビアです。
 カンバーランド長老教会は、積極的に海外に宣教師を送り出してきた教会で、一つの国の中に留まるのではなく、日本をはじめ、中国(香港)、コロンビア、韓国に教会を形成し、さらにラオス、カンボジア、フィリピン、モンゴルその他の国に宣教師を送り出し、働きを拡げています。今回の総会にも世界中からの出席者がいて、会話が弾むに違いありません。
この総会に、日本中会から代議員として饒平名長老が宮井牧師と共に出席します。また、平行して女性会の総会も開かれますので、日本中会女性会から、秀子姉ほか2名が送り出されます。たまたま泉教会から2名がコロンビアに出かけることになりました。
かつて(1984年)、私も総会に出席したことがあります。そこで香港の代議員が、中国返還前の緊迫した状況と教会の決意を話されました。そのスピーチを録音し、全文を日本中会に紹介したことがありましたが、そこから香港中会との交流が始まり、今はアジア宣教委員会になって、つい最近もラオス、カンボジアに日本中会から4人を問安使として派遣しました。総会は、教会が世界に開かれる大事なチャンスなのです。
泉教会はこの数年、礼拝人数が減少して寂しい思いをしていますが、しかし今年、開催地がコロンビアというこの総会に関わることができる教会であったことを心からうれしく思っています。建物の壁、人数の壁、感情の壁、そのほかあらゆる壁は主イエス・キリストによって突き破られることの象徴が、この「総会」、つまり教会会議の仕組みにあると言ってよいと思います。
コロンビアに出かける皆さんの旅が守られ、良い出会いを経験し、また教会の向き合う課題を話し合い、良い実りを携えて帰国できるよう、心から祈り、送り出したいと思います。

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by rev_ushioda | 2015-06-14 16:25 | Comments(0)

キリスト者の「終活」

よく聞く言葉で「婚活」「就活」があります。ところで、総務省統計局のデータによれば、高齢者の人口に対する割合は増加し続けて、20年後には日本の人口の約3の1を占めるようになるということです。私自身も含めて、これは教会にとって大きな課題と言えます。そこで今、高齢者の間では、子どもへ大きな負担はかけられないといって、迷惑をかけずに人生を終わるための準備が流行っています。自分の葬儀や墓を準備したり、様々な生前整理、そういったことを“終活”と言うそうです。
確かに自分の人生の閉じ方は大事ですが、しかし、ただ迷惑をかけないようにするだけの、自分の始末の仕方だけのいわゆる「終活」であったとしたら、私たちキリスト者の考えることとしては、いかにも寂しいではありませんか。
「終活」というなら、私たちは、神さまからこの手に託された信仰の遺産、特に礼拝の遺産を次の世代に残すことを真剣に考えたいと思うのです。旧約聖書を読めば、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と書いてあります。代が替わっても、同じ礼拝が続いたのです。私が手にしたこの礼拝の生活というバトンを、次の走者に手渡すことなしに、自分だけ“さっさと”この世を去ってはいけないと思うのです。特にバトンを渡すのは、家族です。それは子どもでしょうか、孫でしょうか。まず、それが考えられます。しかし、場合によっては配偶者であってもいいし、逆に、親であってもいいのです。いずれにしても、私が去った後の礼拝の椅子に、必ず誰かに座ってもらうことを私たちのこの後の「終活」、祈りの道作りとしたいのです。
私たちは世の中の人と同じになって、子どもたちには迷惑をかけたくないと自分の始末のことだけを考えていてはいけません。子どもや孫に信仰、特に礼拝生活というすぐれた遺産を残すことをこそ、真剣に、具体的に考えていきたいのです。

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by rev_ushioda | 2015-06-04 22:56 | Comments(0)

「二重敬語」

最近、コンビニなどで店員から言われる言葉が変ではないかと言われます。たとえば、「一万円からお預かりいたします。」丁寧に言おうとするあまり、変な言い回しになった例です。これは、「一万円お預かりいたします」が正しいわけです。
二重敬語というものがあります。「ご覧になられる」は、「ご覧になる」という尊敬語に、もう一つの尊敬語「られる」が重なっています。「ご覧になる」が正しいのです。さらに役職名では、「○○部長様」という言い方は、二重敬語です。役職名そのものが敬称ですから、役職名に「様」はつけません。「○○部長」でいいのです。「様」をつけた表現をしたい場合は、「部長の○○様」です。
では「牧師」はというと、この言葉は会社で言う役職名ではなく、神の言葉を語り、それで信徒を養う者という、仕事をあらわす言葉で、信徒と役割が違うだけのことを指し、役職名でもないし敬称の意味もありません。呼ぶときに「○○牧師」では、敬称なしの呼び捨てになってしまいます。そこで「牧師先生」と言う人もいますが、役割に先生をつけるのも変なのです。呼ぶときは、牧師の後ろに神の言葉があることを考えれば、常識的には「○○先生」と呼びかけることになるのでしょう。(地域の人は神の言葉と無関係と思っているので、「○○さん」と呼ばれます)

さて、今度の礼拝はペンテコステ、聖霊の日です。「聖霊」とは「神の/霊」ですから、この言葉にはすでに「神」への敬語「聖」が含まれています。ですから「聖霊様」は二重敬語、「御聖霊様」は三重敬語です。「聖霊」で良いのです。どうしても「様」をつけたければ、「聖霊なる神様」となります。
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by rev_ushioda | 2015-05-21 20:56 | Comments(0)

…などというものがあるわけではありません。

しかし、たとえば「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102編19節)という聖書の言葉から、どのような内容の手紙にしろ、主を賛美することが私たちの言葉の基本であるでしょう。以下に書くのは、宛先もまたキリスト者の場合です。

書き出しは:

たとえば「主の御名を賛美します」のように一言書くと良いと思います。その後、通常の時候の挨拶が来ても良いのです。一般に、時候の挨拶を書かない場合は「前略」ですが、それに代わる言葉とすることも出来るのです。なお「主の御名を賛美します」を短くすると「ハレルヤ」で、この言葉は詩編に多く使われている賛美の言葉です。しかし理由は分かりませんが、これを書き出しに使う場合は友だち同士が多いようで、あまり公的には使いません。公的な手紙だと、上記以外に「頌主」、まれに「賛主」という人もいます。いずれにしても、まず主を賛美して書き始めます。また、「栄光在主」とする人もいます。カトリックの人は「主の平和」を好んで用います。相手への平和をまず祈るのです。新約聖書でも、パウロの手紙の多くに「恵みと平和」という言葉が現れますから、それを使うのも良いと思います。私は、少し内容が込み入った手紙の場合は、「御名があがめられますように」と書き出します。

結びは:

「主にあって」または「在主」とします。どんなにプライベートな手紙でも、主にあって語ってきました、という意味になります。最初に使っていなければ、ここで、「栄光在主」「主の平和」を置いても良いでしょう。私的な手紙で初めが「ハレルヤ」なら、結びでもカタカナでそろえて、平和の意味の「シャローム」でしょうか… また、「平安」もいいです。パウロの手紙では「(神の)恵みがあるように」ですから、私たちは「主の恵みをお祈りいたします」となるでしょうか。私は、内容にもよりますが「主のことのため共に」をよく使います。また、初めに「御名があがめられますように」と書き出したら、結びに「御国が来ますように」とすることがあります。H牧師は、「ヤーウエ・イルエ」(主の山に備えあり)。

なお、相手がキリスト者でない場合は、「祝福がありますように」「明日も良い日に」などのように、相手のために祈っていることが伝わる言葉にすると良いでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-05-14 18:08 | Comments(0)