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「大賞作品」

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これは、K兄の作品である。
作品は「風が吹いて’06」。
作品ではわかりにくいが、女性の髪が風に吹かれている。
氏は、創型会という会に所属して(同人)、永年にわたり創作活動を続け、今年、見事に創型会賞に輝いた。(第55回記念創型展、於上野、東京都美術館)
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by rev_ushioda | 2006-05-22 21:35 | Comments(1)

「説教準備スタイル」

30年近く、説教準備は手書きだった。
一年間、ワープロを使ってみたことがあったが、自分の原稿でないような気がしてやめた。

ところが最近、原稿作りがパソコンになった。
理由がある。

1.音声認識ソフトを入手したこと。
普通にしゃべると、即、文字変換してくれる。誤入力は避けられないので、補助入力で使用している。それでも60~70%は正確に入力するから、まったく楽だ。作業効率は、倍に向上した。

2.手書き文字ソフトを入手したこと。
入力した文字が明朝体では、自分の原稿でないようだったから、以前は、やめたのだった。今は、手書き文字ソフトがあって、自分の手書き文字を、パソコンに入れている。音声認識文字は、全部、自分の手書き文字として画面上に表示され、プリントも自分の手書き文字だ。

この両方を使うことで、紙の上に自分で書いているような感覚で、かつ、しゃべるスピードに近く、文字になる。今、土曜日の夜、牧師の部屋に行くと、準備中の説教が、「聞こえる」。
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by rev_ushioda | 2006-05-01 00:45 | Comments(0)

今日は、市川グレース伝道所開設式。

泉教会から、工藤夫妻、野村さん、池永姉、井上姉、仁科姉、宮入姉、加奈姉、岩城姉、潮田夫妻、以上11人が出席。(今日の礼拝は20人という寂しさであったが、その半分以上が、市川に行くことになった。これは、うれしいことであった)

気づけば、泉教会の開拓は9年前である。今日、こうして新しい開拓伝道が開始されると、私たちは9年間、何をしてきたかな…と振り返るのは、自然な感情か…

行き帰りの1時間ほどの電車の中で、信仰のこと、仲間のこと、いろいろ話が行き交っていた。こういう交わりもいいものだと、半分疲れた頭で聞いていた。

そういえば、泉教会を通って行った人というテーマで、文集『ぱんくず』を作ろう、と加奈さんに頼んだ。快諾してもらい、さっそく宇佐美の井上明子さんのところに取材に行くことになった。そうだ、そのうち市川の木曜聖書会に飛び込みもいい。そして、高座教会の大井先生、国立のぞみ教会の唐澤先生、かおりも?だろうか。
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by rev_ushioda | 2006-05-01 00:24 | Comments(0)

きのうのイースターは、さがみ野教会に招かれて、出かけた。
泉教会がイースターにもかかわらず牧師を送り出したのは、やはり、私の前任教会30周年を祝う思いがある。
さがみ野教会は、今、国際礼拝をしている。今回、合同ということでもあり、彼らの賛美があった。正面には賛美の文字が投射されている。何よりも、この8年で知らない人が増えた。きのうは、人数も多かった。そういうわけで、19年、牧会した群れという感覚がわかない…
しかし、礼拝が終ると、当時からの会員の方々となつかしい挨拶を交わすことができ、うれしかった。
教会は、人である。人は、動く。離れて行き、加わって来る。しかし、それが教会である。多くの人が通って行ったさがみ野教会は、今日も、教会のつとめを果たしている。

「公同の教会を信ず」。

心から告白した。
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by rev_ushioda | 2006-04-17 15:03 | Comments(0)

「うれしい一日」

4月。
増田先生一家が市川開拓へ、伊佐山鷲君が沖縄の中学校に転校、娘は結婚で相手先の教会へと送り出し、泉教会の礼拝を、色々な意味で心配していた。
そして今日。
朝10時からの中学生分級と、礼拝後の小学生分級は、加奈姉(以後、工藤兄、仁科姉を加えた3人でローテーション)。礼拝の中の子どもメッセージは、仁科姉(以後、工藤兄、秀子姉、牧師を加えた4人+あと1人?でローテーション)。礼拝の2曲のピアノ伴奏は、由佳姉(以後、毎週担当)。そして今日の礼拝に、新来者2人(共にネットワークの関係者)。

うれしい一日だった。

教会は不思議なところだ。人は確実に備えられる。いや、時が熟したということか。
神さまのことだ。私たちは心配無用なのだ。
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by rev_ushioda | 2006-04-09 20:02 | Comments(0)

「気付いたら」

礼拝の平均30人を、と祈ってきた。
2月の統計をとっていて、気付いた。平均30.5人であった。
平均30人の目標のために何かしなければ、と思ってはいたが、だから、何かしたわけではない…そういうものかと改めて思った。
9年前、開拓を始めたとき、公開勉強会も始めた。
公開勉強会から礼拝に出る人が起こされればと期待していた。
しかし、そこからは礼拝に結びつく人はいなかった。
気付いたら、礼拝に人がいた。
まったく別のルートで来られた方々であった。
頑張っているところからは、人は来ない、あの時、学んだことだった。
2月の平均30.5人。
しかし、4月からは増田先生ご一家、鷲君、そして娘がいなくなる。
だから、頑張らないようにしよう。
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by rev_ushioda | 2006-03-16 21:03 | Comments(1)

「会議」

定期中会会議があった。
4時開会。9時に終るという観測もあった。主事さんは11時だと言っていた。結局、終ったのは12時だった。深夜である。議長として、どっと疲れてしまった。そんな非常識な時間に終わらせてしまった、という疲れである。代議員の皆さん、特に女性代議員に申し訳ない、という「罪責感」が残った。
他の議長だったらもっとうまくやっただろうと、ふともらすと、誰であっても同じだと言われた。でも、そんな時間まで終らせられなかったという疲れが、残っている。ただでさえ、議長席に座っているだけで、何もしなくても、疲れる。
会議がない時は、14教会の代表者。宗教法人の代表役員でもある。
そういえば、30歳の頃、初めて選出された時、十二指腸潰瘍になった。
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by rev_ushioda | 2006-03-06 21:12 | Comments(0)

「子どもたちの居場所」

昨年、泉教会に中学校の生活指導の先生が訪ねて来た。
教会に出入りしている中学生のことで、話に来られたのだ。
そうこうするうち、修学旅行のお土産までいただいた。
また、小学校のPTAのお母さんたちが来られた。放課後、遊ぶ場所に「教会」と答えた子どもがいたので、広報紙の取材だった。
「居場所」が問われている時代だ。
夫婦の問題で、あるいは生活力がなく、あるいは叱る(子どもと向き合う)ことができない親のために家に居場所がないのだ。
中学生は、オール(夜、家に帰らず友だちと遊び歩く)をする。補導される。それをまた繰り返す。
教会に真夜中、電話がかかってくる。「泊めてくれ」と。教会は宿泊所ではない、ダメだと叱る。
教会は礼拝をするところだ、日曜日来なさい、と言った。次の日曜日、男の子と一緒に来た。何を考えているのか、男の子にしては何とも覇気がない。そういう男の子と一緒に来たのだ。そして次の日曜日は、その子の友だちも来た。こちらもまた、男の子を連れて。
礼拝中もいちゃいちゃしているが、最後まで礼拝に出ていた。どう接したらいいのか、とまどう。しかし、教会に来る。
教会で厳しく怒られて、涙を流しながらも、また来る。家が真正面から向き合わないのなら、
教会がそうするしかない。キリストも、そうされただろう。
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by rev_ushioda | 2006-02-05 23:14 | Comments(0)

「0.1秒遅れで」

23日、泉区民クリスマスが行われる。
泉教会、ホーリネス教会、心を聴く市民ネットワーク有志が賛美歌を2曲歌うことになっている。
練習を重ねているが、ベースの私には、どうしても出せない音がある。
困った(>_<)
歌える人の音を頼りに0.1秒遅れて歌うしかない。
それとも、音を出さないほうが、人のためになるのか。
重大な選択の時が来た。
そう言えば、初めて教会に行ったとき(高校生のとき)、しばらくして、言われた
「潮田君は作曲して歌っているね」

(>_<)
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by rev_ushioda | 2005-12-21 23:25 | Comments(0)

「一人芝居」

教会設立の2週間後の10月8日、教会設立記念行事として一人芝居「マリー・マグダレーン」を上演した。
350人のホールに、280人が来てくれた。1階席は、満席だった。
泉教会は、この節目を内側だけの祝いとせず、地域を巻き込んで、今、教会になった。

しかし、ここで書きたいことは、そういうことではない。
数日前、横浜著作権協会というところから音楽は使いますか、という電話が入った。
「使いません」。一年前に観ていたから、すぐに答えた。
一応、確認したほうがよいと思って出演者に電話した。「使います」という答え。実際、公演中、ホールは大きな効果音で響き渡っていたのだった。
それにしても、なぜ、あの大きな音が聞こえなかったのだろう。
それほどに劇の内容に引き込まれたのだと思った。
印象を何人かの人に聞いた。良かったと言う人もいたけれど、「衝撃的だった」という声を多く聞いた。
今まで多くのことを企画してきたが、そんな言葉は、あまり聞かない。確かに、衝撃的だった。十字架の場面も、復活の場面も。

「どんな絶望の淵に立たされても、どんな残酷の中にあっても、人間の尊厳を奪われても、復活のゆえに、私たちには希望があり、耐えることができ、誇りがあるのです」
音楽ではなく、この言葉が響いている。
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by rev_ushioda | 2005-10-12 23:35 | Comments(0)