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「不安の時の祈り」

MRI検査を前にして、不安で、どう祈ったらよいでしょうか、というメールがあり、次のように返信させていただいた。

わたしの体は、髪の毛一本、毛細血管の先端、細胞の一つまで、主がお造りになったものです。あなたがわたしの体のすべての支配者であって、他の何者も手を触れることは出来ません。

わたしの感情もまた、あなたが支配してくださる。今、恐ろしい思いがありますが、それさえも私を支配することは出来ないのです。
わたしを支配しようとする、いっときの支配者よ、行け!
わたしは、わたしのすべてを知り、わたしのすべての支配者である、あなたのみ手に今、すべてを委ねます。

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by rev_ushioda | 2016-03-05 10:43 | Comments(0)

「霊的ということ」

霊的という言葉が、教会では使われます。広辞苑をひくと「精神に関するさま。神聖で清らかなさま。」とあります。」新明解国語辞典は「霊に関すること。⇔肉的」と書いてあります。何か信仰深そうな、敬虔そうな、あるいは神秘的ともいえそうなニュアンスを受けます。
そうなると、霊的の反対は、世俗、肉的ということになり、私なんか世俗的で…、という言葉が聞かれることになるのです。聖書を良く知り、良く祈る、そういう人が霊的だと理解されていて、私なんかとても、という気持ちになるかも知れません。
しかし、霊的とは、主イエスの目で物事を見つめることが出来る力を持つこと、なのです。しかも、それは与えられる(受ける)ものであって、自分の清さとか信仰の深さによるものではないのです。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章2~4節)

ですから、霊的というのは、何者かにならなければいけないとか、こちらに何か備わっていなければならないとか、何かしなければならないとか、そんなことではないのです。政治の世界に生きる人も、科学の世界に生きる人も、サラリーマン、技術者、教育者、自営業の人であっても、そして子育てに追われる人であっても、そういうどんな「世俗」に生きていたとしても、主イエスの目で世界を見つめ、人間を見つめることが出来れば、その人が、霊的な人なのです。私たちは主イエスの目で世界を見つめ、人間を見つめて、霊的に生きて行きたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-03-04 10:21 | Comments(0)

この時期、試験の話が多いが、今日、一つの合格の知らせを受け取った。
「この度、所定の手続きを経て、正教師試験に合格なさいました。第67回教団総会において 3月16日に正教師按手式が行われます…」
日本同盟基督教団理事会からとある。娘婿の牧師試験合格通知である。
思えば、結婚のとき、娘の将来が案じられ、「君は牧師にはならないよね」と訊いた。それから10年目のことになった。はからずも私の規定上の定年退職の年だ。(実際は定年延長していくのだが)
娘が牧師夫人の立場になることを、その喜び以上に苦労と涙を知ればこそ、何よりも案じていたが、すべてがみこころなのだろう。人には断定的に言える言葉も、こういう場合は、「だろう」になってしまう。「アバ、父よ」である。

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by rev_ushioda | 2016-02-26 20:05 | Comments(0)

「祝 伝道教会設立」

あさひ伝道所は、2016年1月31日、伝道教会設立式を迎えます。伝道教会設立というのは、手続き的には種別変更というもので、意味は、組織自立です。ここで自分たちの中に長老(役員)を立て、その長老が牧師を招聘し、一人前の教会になる、というものです。
伝道教会は、通常、経済的な課題を残すことが多く、その課題をクリアすべく、次の種別変更を目指します。その課題が満たされたら、そこで初めて種別が「教会」になるのです。実は、ここに設立されるあさひ伝道教会は、すでに援助金を受けず、経済的には自立していますので、ここで一気に「教会」となることも出来ましたが、丁寧にステップを踏んで行きたいという牧師の思いがあって、今回のように段階を踏みました。
ところで組織自立(伝道教会設立)とか一人前の教会になる、と言いましたが、その場合「伝道所規定」から考えると、伝道教会は20人の活動会員がいなければならないことになっています。そこで「一人前の教会」の意味は、次のようになります。
第一に、その20人に、責任を持って教会の経済的な課題を考える力があると期待されている、ということです。
第二に、その20人に、責任をもって包括的な組織である「中会」に関わる力があると期待されている、ということです。あさひ伝道教会は次の中会会議に、代議員を送ることになります。
第三に、以上のことを言い換えると、その20人に社会的な責任を果たす力があると期待されている、ということです。教会内だけにとどまらず、教会の外に向かって、「大人」としての言葉と行動を求められます。
20人いれば、いろいろ考える力がある、関わりを持つ力がある、社会的な責任を果たす力がある。まさに成人式を迎えるということです。そして何よりも、設立された小会は、ふさわしい者に洗礼を授けることを承認するという、この上なく厳粛な、しかし、この上なく喜ばしい、神の国の国境を拡げる働きに遣わされることになるのです。
あさひ伝道教会の皆さんの上に、これからの教会の歩みの上に、主イエスさまの祝福をお祈りいたします。

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by rev_ushioda | 2016-01-28 22:31 | Comments(0)

「夜の祈り」

夜、寝る前のお祈りをどうしたらよいでしょうか、というメールをいただいたので、次のように返信させていただいた。

聖書の言葉
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

神さま、
今日も一日、神さまがくださる平和の道を歩くことができて、ありがとうございました。
人の心は希望を失い、疲れることがあっても、あなたは、人に「将来と希望を与える」と約束されました。
わたしは今、あなたの言葉に信頼します。平和のうちに今夜の眠りを与えてください。
そして、明日の朝、神さまがお造りになる新しい一日に向かって私の心も新しくなって立ち上がることが出来ますように。アーメン。

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by rev_ushioda | 2016-01-08 16:57 | Comments(0)

「神の言葉は動く」

私は、希望が丘教会の礼拝人数が激減し、最低を記録した年に教会に導かれました。その時のチラシには「あなたの悩みは解決できたか」と書かれていましたが、この言葉は、礼拝人数が下がり続ける教会が、自分に向かって言うような状況だったと思います。
当然、「今は教会の内側を整えるべき時だ」という声もあったのです。しかし、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙 二 4章2節、口語訳)。この言葉に励まされて、チラシを準備して出て行った、と聞きました。そこで配ったチラシの一枚が、私を捕えたのです。
教会に行って初めて聞く言葉は、高校生の私にはほとんど分かりませんでした。しかしそれでも教会に行き続けた理由は、いろいろあるにしても、やはり最終的には聖書の言葉だったと思います。私は聖書の言葉と対話していたのだと、振り返ってみて今、思うのです。確かに教会はいろいろな試みをします。しかし、そのすること(しないことも含めて)それが、人を動かすことはないのです。聖書の言葉が人を動かすのです。そうであるなら、テアトルフォンテに出て行って聖書会をしたように、あるいは家庭集会でもいいのです。聖書の言葉を読む場を、紹介する場を、多く設ければいいのです。その場があれば、聖書の言葉、神の言葉は、みずから動き出すでしょう。

「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章11節)

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by rev_ushioda | 2015-12-01 21:55 | Comments(0)

少年サムエルは、エリ先生から呼ばれたと思って、行って、言いました。「お呼びになったので参りました。」すると「わたしは呼んでいない。」そういうことが3回繰り返されました。そしてついにエリ先生は、サムエルを呼んだのは神であると悟り、戻って神の言葉に聞くようにと、サムエルに言うのです。

神が呼んでいてくださるのに、どこかほかのところに行って、あるいは誰かのところに行って、そこで「呼ばれた」と思う子どもが出て来ないでしょうか。
そこで「わたしは呼んでいない。」と親切に言ってくれるならいいのです。しかし、現実は果たしてどうかと言えば、子どもの魂を支配して無気力、無責任、怠惰に陥れようと誘惑する者がいるのです。親が、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせていないと、子どもは、どこか、とんでもない所に行って、言うのです。
「お呼びになったので参りました。」
そこに行ったばかりに神ならぬものに支配され、現代社会においては、くやしい思いに打ちのめされ、涙することになるだけでなく、人生を台なしにしてしまうことも起こるのではありませんか。その人の人生を召命する(招く)方の前にしっかり立たなければいけない時に、違う場所に立ってはいけないのです。
だから、親は、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせる責任があります。それは、毎週、親子で礼拝に一緒に行く以外にありません。親の都合で行ったり行かなかったりするうちに、子どもは、すでにいろいろな声を聞いているのです。すでに、そこに呼ばれていると思っているのです。そのように成長しているのです。

親子で神の言葉を聞くという、礼拝生活を始めましょう。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
旧約聖書 コヘレトの言葉12章1節

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by rev_ushioda | 2015-11-12 17:22 | Comments(0)

「何が偶像か」

イスラム教過激組織IS(イスラミック・ステート)によって、ベル遺跡が破壊されたらしいというニュースが伝わってきました。ベルとは、旧約聖書に何度も出て来る「バアル」のことです。バアル神殿が栄えていた時代があったのですが、それは今、遺跡でしか見ることが出来ません。偶像だ、ということで破壊されたのは、明らかに遺跡です。遺跡さえ偶像と言って破壊するISには、他宗教を信じる人はもとより、他の生き方を受け入れる余地など、微塵もありません。支配地域では、人間らしく生きる権利が踏みにじられているようです。
ISに限らず、「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は、人を支配する言葉、人間的原理で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、それこそが偶像であり、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。
それはまた、私たちが自分自身の経験や考え方を基準にするなら、教会にも簡単に持ち込まれるのです。うかうかすると、私たちもまたIS同様、何でもないものを、それは偶像であると口にしてしまうのです。そして、他者を破壊します。そのように言う言葉じたいが、また「言葉の偶像」(自分の言葉を信仰の言葉のように言うこと)となっていくのです。…
この世の中で普通であった、人を支配する「言葉の偶像」を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、何よりもあなたの偶像を捨てるようにと、自分自身に向かって言う言葉です。この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-10-30 06:31 | Comments(0)

「かんらん聖書研究会」

きょう、母校である関東学院大学に行った。駅から歩いて母校に向かったのは卒業以来で、42年ぶりであった。宗教センターから呼び出されたのだ。

関東学院大学に入学したとき、いわゆる「学園紛争」まっただ中であった。前年、東大安田講堂が学生によってバリケード封鎖された。翌年の関東学院大学の入試はキャンパスで実施できず他校で行ったが、そこに全共闘の学生が乱入、試験は実施できず書類選考となった。そういう中で入学しても、毎日が討論集会で授業はほとんど行われなかった、大衆団交というのもあった。学長相手に堂々と渡り合う学生リーダーには、そこまでいくと、もう感心するしかなかった。建ったばかりの事務棟の1号館はバリケード封鎖され、ヘルメット姿の学生が機動隊とにらみあっていた。

そういう紛争の嵐のまっただ中の1969年に、私は大学に入学した。きょう知ったのだが、その年、初代学長であった坂田祐先生がなくなった。そしてその年、小さな二つの動きがあった。一つは、大学の状況を憂いた教職員による聖書研究会がスタートしたこと。もう一つは、それとはまったく脈略なく、一人の学生が同じ教会に属する教員に呼びかけ、学内で祈祷会を始めたこと。翌年、私がそこに参加し、ほかにさらに一人が参加して聖書研究会がスタートした。皆で、名称を「かんらん聖書研究会」とした。

きょう母校に行ったのは、この「かんらん聖書研究会」初期のメンバーと現在のメンバー代表と一緒に写真を撮りたいという宗教センター職員の要請によるものであった。

わたしたちは大学を卒業したとき、実は、後継者を残すことに失敗した(と思っていた)。しかし、この名称で今日まで40年を越えて続いていたのである。どうして続いたのか、分からない。しかし、キリスト者として立派であった坂田初代学長がなくなった年に、はからずも聖書を読む二つの小さな芽が出て、それが共に今日まで続いているのだ。不思議なことだなあと思いつつ、帰路に着いた。
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by rev_ushioda | 2015-10-19 22:03 | Comments(0)

「岐路に立ち」

「一同は死刑にすべきだと決議した。」(マルコによる福音書14章64節)。

先週の国会、参議院特別委員会の様子を見たと思います。毎日新聞によると、委員長の説明では採決したというが、どの時点で何の採決が行われたのか、議場にいた議員すら分からなかった。ある人は「委員長が何を言ったか、誰が何をどうしたのかさっぱり分からない。あんな暴力的な採決が認められるなら、この国の民主主義は死ぬ」と言いました。生中継するNHKすら、「何らかの採決が行われたものとみられます。」と言って、実況したそうです。散会するまで「可決」を伝えられなかったと。
つまり、誰にも分からないのですが、ある人たち(与党側)は、裏を合わせていて、声が聞こえなくても皆、次にどうするか分かっていた。聞こえなくても合図で皆、立ち上がって、「はい、賛成の人多数、可決」ということになったのです。そのように、裏で動いていた。

そういう決議が行われた先週の国会を目の当たりにし、聖書を読めば、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(上掲書55節)「一同は死刑にすべきだと決議した。」(64節)とあります。(正式の死刑判決はまだ先であり、ここでは予備裁判のような場面ですが)ここで起こったことと、この日本で先週、実際起こったことと、何か重なるような思いが致します。裏があって、もう筋書き、結論は決まっている中で、表向きは形式だけの審議が行われた、ということなのです。
しかも、主イエスの逮捕は真夜中、裁判も夜中となったのですが、こういったスピードもまた、今の国会の仕方と重なります。結論が先にあると、疑問を持つ人がどんなにいても、期限までに突っ走るしかない。時間内に決めてしまわなければならない。
人間は、一度、こうだと決めていることがあると、人の話を聞くようには見せますが、しかし自分で思っていること、決めた事を、ただ通そうとするだけになる。そういうことを繰り返していくのです。こうなると、人間を大切に、人の心や平和を大事にしよう、というかけらも見ることは出来ないのです。

先週の国会で「死刑」の「判決」を受けたのは、憲法であり、民主主義であり、平和国家のブランドであり、そして平和を願う私たちでありました。

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by rev_ushioda | 2015-09-24 09:58 | Comments(0)