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「夜の祈り」

夜、寝る前のお祈りをどうしたらよいでしょうか、というメールをいただいたので、次のように返信させていただいた。

聖書の言葉
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

神さま、
今日も一日、神さまがくださる平和の道を歩くことができて、ありがとうございました。
人の心は希望を失い、疲れることがあっても、あなたは、人に「将来と希望を与える」と約束されました。
わたしは今、あなたの言葉に信頼します。平和のうちに今夜の眠りを与えてください。
そして、明日の朝、神さまがお造りになる新しい一日に向かって私の心も新しくなって立ち上がることが出来ますように。アーメン。

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by rev_ushioda | 2016-01-08 16:57 | Comments(0)

「神の言葉は動く」

私は、希望が丘教会の礼拝人数が激減し、最低を記録した年に教会に導かれました。その時のチラシには「あなたの悩みは解決できたか」と書かれていましたが、この言葉は、礼拝人数が下がり続ける教会が、自分に向かって言うような状況だったと思います。
当然、「今は教会の内側を整えるべき時だ」という声もあったのです。しかし、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙 二 4章2節、口語訳)。この言葉に励まされて、チラシを準備して出て行った、と聞きました。そこで配ったチラシの一枚が、私を捕えたのです。
教会に行って初めて聞く言葉は、高校生の私にはほとんど分かりませんでした。しかしそれでも教会に行き続けた理由は、いろいろあるにしても、やはり最終的には聖書の言葉だったと思います。私は聖書の言葉と対話していたのだと、振り返ってみて今、思うのです。確かに教会はいろいろな試みをします。しかし、そのすること(しないことも含めて)それが、人を動かすことはないのです。聖書の言葉が人を動かすのです。そうであるなら、テアトルフォンテに出て行って聖書会をしたように、あるいは家庭集会でもいいのです。聖書の言葉を読む場を、紹介する場を、多く設ければいいのです。その場があれば、聖書の言葉、神の言葉は、みずから動き出すでしょう。

「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章11節)

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by rev_ushioda | 2015-12-01 21:55 | Comments(0)

少年サムエルは、エリ先生から呼ばれたと思って、行って、言いました。「お呼びになったので参りました。」すると「わたしは呼んでいない。」そういうことが3回繰り返されました。そしてついにエリ先生は、サムエルを呼んだのは神であると悟り、戻って神の言葉に聞くようにと、サムエルに言うのです。

神が呼んでいてくださるのに、どこかほかのところに行って、あるいは誰かのところに行って、そこで「呼ばれた」と思う子どもが出て来ないでしょうか。
そこで「わたしは呼んでいない。」と親切に言ってくれるならいいのです。しかし、現実は果たしてどうかと言えば、子どもの魂を支配して無気力、無責任、怠惰に陥れようと誘惑する者がいるのです。親が、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせていないと、子どもは、どこか、とんでもない所に行って、言うのです。
「お呼びになったので参りました。」
そこに行ったばかりに神ならぬものに支配され、現代社会においては、くやしい思いに打ちのめされ、涙することになるだけでなく、人生を台なしにしてしまうことも起こるのではありませんか。その人の人生を召命する(招く)方の前にしっかり立たなければいけない時に、違う場所に立ってはいけないのです。
だから、親は、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせる責任があります。それは、毎週、親子で礼拝に一緒に行く以外にありません。親の都合で行ったり行かなかったりするうちに、子どもは、すでにいろいろな声を聞いているのです。すでに、そこに呼ばれていると思っているのです。そのように成長しているのです。

親子で神の言葉を聞くという、礼拝生活を始めましょう。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
旧約聖書 コヘレトの言葉12章1節

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by rev_ushioda | 2015-11-12 17:22 | Comments(0)

「何が偶像か」

イスラム教過激組織IS(イスラミック・ステート)によって、ベル遺跡が破壊されたらしいというニュースが伝わってきました。ベルとは、旧約聖書に何度も出て来る「バアル」のことです。バアル神殿が栄えていた時代があったのですが、それは今、遺跡でしか見ることが出来ません。偶像だ、ということで破壊されたのは、明らかに遺跡です。遺跡さえ偶像と言って破壊するISには、他宗教を信じる人はもとより、他の生き方を受け入れる余地など、微塵もありません。支配地域では、人間らしく生きる権利が踏みにじられているようです。
ISに限らず、「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「ねばならない」「いけない」「ダメだ」と、この世は、人を支配する言葉、人間的原理で溢れかえっています。自分を基準にして、相手を量っているのです。それはまさにこの世の原理なのであって、それこそが偶像であり、信仰者であっても落ち込む罠であることは、律法学者たちとファリサイ派の人々をみれば分かります。
それはまた、私たちが自分自身の経験や考え方を基準にするなら、教会にも簡単に持ち込まれるのです。うかうかすると、私たちもまたIS同様、何でもないものを、それは偶像であると口にしてしまうのです。そして、他者を破壊します。そのように言う言葉じたいが、また「言葉の偶像」(自分の言葉を信仰の言葉のように言うこと)となっていくのです。…
この世の中で普通であった、人を支配する「言葉の偶像」を捨てなければ(出エジプトしなければ!)福音に生きることは出来ません。『十戒』は、何よりもあなたの偶像を捨てるようにと、自分自身に向かって言う言葉です。この言葉を人に向かわせさえしなければ、出エジプトした“私”が福音に生きる大事な指針になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2015-10-30 06:31 | Comments(0)

「かんらん聖書研究会」

きょう、母校である関東学院大学に行った。駅から歩いて母校に向かったのは卒業以来で、42年ぶりであった。宗教センターから呼び出されたのだ。

関東学院大学に入学したとき、いわゆる「学園紛争」まっただ中であった。前年、東大安田講堂が学生によってバリケード封鎖された。翌年の関東学院大学の入試はキャンパスで実施できず他校で行ったが、そこに全共闘の学生が乱入、試験は実施できず書類選考となった。そういう中で入学しても、毎日が討論集会で授業はほとんど行われなかった、大衆団交というのもあった。学長相手に堂々と渡り合う学生リーダーには、そこまでいくと、もう感心するしかなかった。建ったばかりの事務棟の1号館はバリケード封鎖され、ヘルメット姿の学生が機動隊とにらみあっていた。

そういう紛争の嵐のまっただ中の1969年に、私は大学に入学した。きょう知ったのだが、その年、初代学長であった坂田祐先生がなくなった。そしてその年、小さな二つの動きがあった。一つは、大学の状況を憂いた教職員による聖書研究会がスタートしたこと。もう一つは、それとはまったく脈略なく、一人の学生が同じ教会に属する教員に呼びかけ、学内で祈祷会を始めたこと。翌年、私がそこに参加し、ほかにさらに一人が参加して聖書研究会がスタートした。皆で、名称を「かんらん聖書研究会」とした。

きょう母校に行ったのは、この「かんらん聖書研究会」初期のメンバーと現在のメンバー代表と一緒に写真を撮りたいという宗教センター職員の要請によるものであった。

わたしたちは大学を卒業したとき、実は、後継者を残すことに失敗した(と思っていた)。しかし、この名称で今日まで40年を越えて続いていたのである。どうして続いたのか、分からない。しかし、キリスト者として立派であった坂田初代学長がなくなった年に、はからずも聖書を読む二つの小さな芽が出て、それが共に今日まで続いているのだ。不思議なことだなあと思いつつ、帰路に着いた。
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by rev_ushioda | 2015-10-19 22:03 | Comments(0)

「岐路に立ち」

「一同は死刑にすべきだと決議した。」(マルコによる福音書14章64節)。

先週の国会、参議院特別委員会の様子を見たと思います。毎日新聞によると、委員長の説明では採決したというが、どの時点で何の採決が行われたのか、議場にいた議員すら分からなかった。ある人は「委員長が何を言ったか、誰が何をどうしたのかさっぱり分からない。あんな暴力的な採決が認められるなら、この国の民主主義は死ぬ」と言いました。生中継するNHKすら、「何らかの採決が行われたものとみられます。」と言って、実況したそうです。散会するまで「可決」を伝えられなかったと。
つまり、誰にも分からないのですが、ある人たち(与党側)は、裏を合わせていて、声が聞こえなくても皆、次にどうするか分かっていた。聞こえなくても合図で皆、立ち上がって、「はい、賛成の人多数、可決」ということになったのです。そのように、裏で動いていた。

そういう決議が行われた先週の国会を目の当たりにし、聖書を読めば、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(上掲書55節)「一同は死刑にすべきだと決議した。」(64節)とあります。(正式の死刑判決はまだ先であり、ここでは予備裁判のような場面ですが)ここで起こったことと、この日本で先週、実際起こったことと、何か重なるような思いが致します。裏があって、もう筋書き、結論は決まっている中で、表向きは形式だけの審議が行われた、ということなのです。
しかも、主イエスの逮捕は真夜中、裁判も夜中となったのですが、こういったスピードもまた、今の国会の仕方と重なります。結論が先にあると、疑問を持つ人がどんなにいても、期限までに突っ走るしかない。時間内に決めてしまわなければならない。
人間は、一度、こうだと決めていることがあると、人の話を聞くようには見せますが、しかし自分で思っていること、決めた事を、ただ通そうとするだけになる。そういうことを繰り返していくのです。こうなると、人間を大切に、人の心や平和を大事にしよう、というかけらも見ることは出来ないのです。

先週の国会で「死刑」の「判決」を受けたのは、憲法であり、民主主義であり、平和国家のブランドであり、そして平和を願う私たちでありました。

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by rev_ushioda | 2015-09-24 09:58 | Comments(0)

「あなたは誰ですか」

問 あなたは誰ですか?

答 わたしはキリスト者(クリスチャン)です。

問 キリスト者(クリスチャン)とは、何ですか。

答 キリストを主として、キリストに従う者です。

問 あなたがキリスト者であることは、何によってわかりますか?

答 日曜日、わたしは属する教会で主を礼拝します。日曜日にわたしが居るところが、わたしがキリスト者であることを証明しています。

問 ほかに、あなたがキリスト者であることが分かる方法がありますか?

答 わたしがキリストのように考え、行動しようとしていること、それが、わたしがキリスト者であることを証明しています。

問 あなたはなぜ、キリスト者なのですか?

答 キリストが、わたしのために十字架で死んでくださったからです。

問 あなたはいつまでキリスト者なのですか? 

答 死ぬまで。

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by rev_ushioda | 2015-09-11 11:07 | Comments(0)

中会には、宿泊施設があります。あまり知られていないかも知れませんが、かつて「富士峰山伝道所」として使われていた建物で、西富士は朝霧高原、白糸の滝のすぐ近くに、その施設はあります。教会として使っていたために、当然ですが1階は礼拝堂、2階が3LDKの住居スペースになっていて、真正面に富士山の大展望という、絶好のロケーションです。先日、メンテナンス作業のために行ってきましたが、建付けはしっかりしており、部屋には埃もないし、壁、その他、非常に綺麗です。中会ではこの建物の貸し出しをしており、全館貸切りの別荘ステイが楽しめます。
近くに白糸の滝、体験型牧場、富士花鳥園、朝霧高原温泉、奇石博物館、本栖湖ほか、また富士山YMCAなど、行ってみたいところは多数あります。家族の交わりを深めるため、また音楽などの創造的な活動のため、家一軒、丸ごと貸切りのこの施設を、利用されてみてはいかがでしょうか。

データ 所在地:静岡県富士宮市上井出424−4 バスはありますが基本的には自家用車での利用です。ふとんはありますが、貸布団を利用すると良いかもしれません。使用料は大人1泊500円。小中学生は割引がありますので、一家で出かけても1,500円前後です。

(建物に管理人はいないが、普段はセコムによって防犯管理されている。)
→ 地図(ストリートビュー)  地図を拡大すると見えてくる、中央、赤い屋根の建物です。ストリートビューでご覧になれます。

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by rev_ushioda | 2015-08-25 21:36 | Comments(0)

教会に行くと、どこの教会でもそうですが、受付で名前を書いたり、いつも来ている人は自分の名前のところに〇を付けたりする。(アメリカなどでは、そういう習慣はないようです。)初めて教会に来た人は、抵抗感があるに違いないと思います。
どうして名前を書くかというと、きかれると困る話です。記録のため、というのが一般的でしょうか。初めての人は、ちょっと教会を覗いただけなのに記録されるというのは、やはり抵抗感があると思います。ある教会では、保険を掛けてあるからだ、と言っています。教会に行ったことで、その途上、何かの事故があったら教会活動という名目で、保険金が出る、というのです。もちろんそういう保険に入っているからですが。なるほど。

しかし、それにしてもなぜ名前を書くかといったときに、私は、自分が名前を書いた(名前にチェックした)そのように、神が私たちのことをこのように記録してくださっている、という考え方をしたい、と思っています。
イザヤ書49:16節に、こういう言葉があります。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神などいない、神の助けなどないのだ、と言う者の前に、神が言われる言葉が、今の言葉です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」そして言うのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
私たちの罪が、それがどんな深いものであっても、取り返しのつかないものであっても、そういう神がおられるなら、私たちは、いつでも、この神、この言葉の前に立つことが出来ます。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」私たちが名前を書く時、実はその前から、神が、私たちがするように、私たちのことをちゃんと記録してくださっているのです。名前を書く時に、ああ、そうだったと、そういう神さまのことを思い出せたらいいと思うのです。思い出してほしいのです。

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by rev_ushioda | 2015-08-20 09:27 | Comments(0)

「子どもお楽しみ会」

昨年から、教会では、小さい子どもたちの「夏期お楽しみ会」を開いている。多くの教会は「夏期学校」として開くものであるが、私たちの教会は子どもの年齢、人数、奉仕者の手当ての状況から、夏期学校としてのプログラムより、教会生活奨励日という意味付けとしている。
去年は、子どもの成長を考え、また、ちょうど神学生がいたから実現できたのだが、それまでは娘の行っている教会に参加させてもらっていた。その神学生は今年はいないので私たち夫婦でするしかない …幸い、お手伝いしてくださる方があり、また娘夫婦に応援を頼みこんで、何とか形にできた。その娘夫婦による、ギター賛美と振り付けは、さすがになかなか高度なもので(毎年行われる超教派の本格的キャンプでの奉仕経験により、みがきがかけられている)、子どもたちはノリノリであった。私たちは、といえば、昔とった杵柄、リーダーさがしや、サラスポンダ、チェッチェッコレ、オユポイヤイヤ…(汗)
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(歌詞)
全てに感謝しよう我が主に/賛美と喜びもて
声高らかにほめうたおう/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ

次は今回と関係ない画像だが、歌は同じ。(画像をクリックしてください)
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by rev_ushioda | 2015-08-18 23:14 | Comments(0)