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38年前の1978年3月、私たちは東京都東久留米市にあった「日本基督神学校」を卒業しました。卒業して10年くらい経ったある年から始めたので、以後30年近く、私たちは毎年、同級会を開催してきました。集まるのは、高本律子姉、大竹海二先生、木内伸嘉先生、熊田雄二先生、池田勇人先生、そして事情により中退した橋本綾子姉と、私、潮田です。神学校時代から、夫婦で親しかったこともありカップルで参加する人も多いので賑やかになります。この同級の友たちと出会うと、思いは東久留米の「日本基督神学校」に戻って行きます。初心と言いますが、この仲間たちと出会う度、初心にいつも引き戻され、今日まで来たのだと、つくづく思います。
やがて、橋本綾子姉はお連れ合いを天に送り、3年前には池田勇人先生が召されました。今回、大竹海二先生がご自身の身体的事情、お連れ合いの要介護のこともあって、やむなく教会を辞され、息子さんのところへ行かれることになったため、定例同級会の時機を早めて3月中に開催しました。

私の手元に卒業式のときに録音したテープが保存されていて、38年経っているのにもかかわらず極めて良い音質が維持されていましたので、今回、40年の節目には2年早かったのですが、大竹先生の送別に際して、それを皆で聞くことにしました。聖書個所はテトスへの手紙1章1節から3節、「神の命令によって」と題して、小畑進先生の説教でした。あの時、東久留米の学び舎からこの言葉で送り出されて38年、この間の波乱の旅路を思いつつ、今、ここで改めてその言葉を聞くことに、一同、どんなに深い感慨を覚えたことか。

テープにはレセプションのときの「卒業生のひとこと」も録音されていたので、聞かないわけにはいかず、あの時の自分の「ひとこと」を聞きました。改めてじっくり自分の言葉を聞いてみると、今もそれほど進歩していないとか、息子の声と同じだとか、話に花が咲いたのは言うまでもありません。

大竹先生ご夫妻とのお別れもありますし、そろそろこうして毎年集まるのは無理かもしれないとの思いを持ちながら、「神ともにいまして」を歌い、手を結んで輪になり、主の祈りを祈って散会しました。

今年の東京基督教大学の卒業式で配布された理事会報告に、今年度をもって退任する者として丸山忠孝先生、大竹海二先生のお名前が並んでいました。私たちにとって、ひとつの時代が過ぎていくのでしょうか。

御手にゆだねて…

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by rev_ushioda | 2016-03-15 12:01 | Comments(0)

泉教会地図/ご案内

泉教会にいつ行くの?
 「今でしょう!」


日曜礼拝
      公開していますから、いつでも「見学」歓迎。
       毎日曜日 午前10時30分~12時   

テレホンメッセージ(着信専用 3分テープ応答)
      045-364-4041
         

地 図
      下記「教会電柱広告」手前に「おうち屋さん」という緑の看板があります。
      それを過ぎてすぐ、教会の電柱広告があるところで、右折します。
      ルートラボ に、立場やいずみ野駅からの道順もあります。
「泉教会」を検索してみて下さい。
      なお住所は、表示変更があったために、今は以下のようになっています。
           → 横浜市 泉区 和泉中央北3-43-15

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by rev_ushioda | 2016-03-11 23:15 | Comments(0)

「会議録/議事録」

会議を開いて、その記録を残すとき何というかですが、教会の会議に携わらない方々には、あまり関係のない、面白くない話になってしまうかも知れませんが、教会の考え方について大事なことを含んでいますので、書いておきたいと思います。

『広辞苑』は、「会議録」とは「会議の経過・内容を記した記録」、「議事録」とは「会議の議事の主要事項・討議の状況を記録したもの」と説明しています。ただ、会議録は議事録、議事録は会議録とも言うように書かれていて、国語的には違いがよく分かりません。『ブリタニカ国際大百科事典』 は、「議事録」とは、一般に会議の議事の主要事項ならびに討議の状況や結果を記載した文書をいうが,政治的には,国会および地方議会における本会議,各委員会の会議録をさす。」となっています。
ですから、一般的には「議事録」という表記だと思います。では、泉教会で行われる小会の会議や中会会議の場合はどのように言うかというと、これは「会議録」、委員会などの記録を「議事録」と言っています。

泉教会を含む長老主義教会は、『教会憲法』をもっていて、そこで明らかにしているのは、会議をもって教会を形成する、という考え方です。つまり、誰か特別な人間の力が教会を作るのではない、という意味です。こうして、小会、中会、大会、総会という会議をもって一つのカンバーランド長老教会を形成するのだ、と言い表しているのです。
そういう理由で、小会が会議を開いたら、その記録は「会議」の記録という意味付けが大事なのです。何の議事録かと言えば、カンバーランド長老教会を構成する一つの「小会会議」の記録だと。それで「小会会議録」(同様に中会会議録等)という表現を、正式な表記とするのです。
ですから、委員会の場合は、こちらは一般的な表現「議事録」というように区別しています。教会の考え方が歴史的にはいわゆる民主代議政治になりましたから、『ブリタニカ国際大百科事典』が、「政治的には…会議録」と言っていますが、これは教会の考え方からきていると思われます。

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by rev_ushioda | 2016-03-09 18:38 | Comments(0)

「不安の時の祈り」

MRI検査を前にして、不安で、どう祈ったらよいでしょうか、というメールがあり、次のように返信させていただいた。

わたしの体は、髪の毛一本、毛細血管の先端、細胞の一つまで、主がお造りになったものです。あなたがわたしの体のすべての支配者であって、他の何者も手を触れることは出来ません。

わたしの感情もまた、あなたが支配してくださる。今、恐ろしい思いがありますが、それさえも私を支配することは出来ないのです。
わたしを支配しようとする、いっときの支配者よ、行け!
わたしは、わたしのすべてを知り、わたしのすべての支配者である、あなたのみ手に今、すべてを委ねます。

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by rev_ushioda | 2016-03-05 10:43 | Comments(0)

「霊的ということ」

霊的という言葉が、教会では使われます。広辞苑をひくと「精神に関するさま。神聖で清らかなさま。」とあります。」新明解国語辞典は「霊に関すること。⇔肉的」と書いてあります。何か信仰深そうな、敬虔そうな、あるいは神秘的ともいえそうなニュアンスを受けます。
そうなると、霊的の反対は、世俗、肉的ということになり、私なんか世俗的で…、という言葉が聞かれることになるのです。聖書を良く知り、良く祈る、そういう人が霊的だと理解されていて、私なんかとても、という気持ちになるかも知れません。
しかし、霊的とは、主イエスの目で物事を見つめることが出来る力を持つこと、なのです。しかも、それは与えられる(受ける)ものであって、自分の清さとか信仰の深さによるものではないのです。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章2~4節)

ですから、霊的というのは、何者かにならなければいけないとか、こちらに何か備わっていなければならないとか、何かしなければならないとか、そんなことではないのです。政治の世界に生きる人も、科学の世界に生きる人も、サラリーマン、技術者、教育者、自営業の人であっても、そして子育てに追われる人であっても、そういうどんな「世俗」に生きていたとしても、主イエスの目で世界を見つめ、人間を見つめることが出来れば、その人が、霊的な人なのです。私たちは主イエスの目で世界を見つめ、人間を見つめて、霊的に生きて行きたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-03-04 10:21 | Comments(0)

この時期、試験の話が多いが、今日、一つの合格の知らせを受け取った。
「この度、所定の手続きを経て、正教師試験に合格なさいました。第67回教団総会において 3月16日に正教師按手式が行われます…」
日本同盟基督教団理事会からとある。娘婿の牧師試験合格通知である。
思えば、結婚のとき、娘の将来が案じられ、「君は牧師にはならないよね」と訊いた。それから10年目のことになった。はからずも私の規定上の定年退職の年だ。(実際は定年延長していくのだが)
娘が牧師夫人の立場になることを、その喜び以上に苦労と涙を知ればこそ、何よりも案じていたが、すべてがみこころなのだろう。人には断定的に言える言葉も、こういう場合は、「だろう」になってしまう。「アバ、父よ」である。

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by rev_ushioda | 2016-02-26 20:05 | Comments(0)

「祝 伝道教会設立」

あさひ伝道所は、2016年1月31日、伝道教会設立式を迎えます。伝道教会設立というのは、手続き的には種別変更というもので、意味は、組織自立です。ここで自分たちの中に長老(役員)を立て、その長老が牧師を招聘し、一人前の教会になる、というものです。
伝道教会は、通常、経済的な課題を残すことが多く、その課題をクリアすべく、次の種別変更を目指します。その課題が満たされたら、そこで初めて種別が「教会」になるのです。実は、ここに設立されるあさひ伝道教会は、すでに援助金を受けず、経済的には自立していますので、ここで一気に「教会」となることも出来ましたが、丁寧にステップを踏んで行きたいという牧師の思いがあって、今回のように段階を踏みました。
ところで組織自立(伝道教会設立)とか一人前の教会になる、と言いましたが、その場合「伝道所規定」から考えると、伝道教会は20人の活動会員がいなければならないことになっています。そこで「一人前の教会」の意味は、次のようになります。
第一に、その20人に、責任を持って教会の経済的な課題を考える力があると期待されている、ということです。
第二に、その20人に、責任をもって包括的な組織である「中会」に関わる力があると期待されている、ということです。あさひ伝道教会は次の中会会議に、代議員を送ることになります。
第三に、以上のことを言い換えると、その20人に社会的な責任を果たす力があると期待されている、ということです。教会内だけにとどまらず、教会の外に向かって、「大人」としての言葉と行動を求められます。
20人いれば、いろいろ考える力がある、関わりを持つ力がある、社会的な責任を果たす力がある。まさに成人式を迎えるということです。そして何よりも、設立された小会は、ふさわしい者に洗礼を授けることを承認するという、この上なく厳粛な、しかし、この上なく喜ばしい、神の国の国境を拡げる働きに遣わされることになるのです。
あさひ伝道教会の皆さんの上に、これからの教会の歩みの上に、主イエスさまの祝福をお祈りいたします。

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by rev_ushioda | 2016-01-28 22:31 | Comments(0)

「夜の祈り」

夜、寝る前のお祈りをどうしたらよいでしょうか、というメールをいただいたので、次のように返信させていただいた。

聖書の言葉
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

神さま、
今日も一日、神さまがくださる平和の道を歩くことができて、ありがとうございました。
人の心は希望を失い、疲れることがあっても、あなたは、人に「将来と希望を与える」と約束されました。
わたしは今、あなたの言葉に信頼します。平和のうちに今夜の眠りを与えてください。
そして、明日の朝、神さまがお造りになる新しい一日に向かって私の心も新しくなって立ち上がることが出来ますように。アーメン。

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by rev_ushioda | 2016-01-08 16:57 | Comments(0)

「神の言葉は動く」

私は、希望が丘教会の礼拝人数が激減し、最低を記録した年に教会に導かれました。その時のチラシには「あなたの悩みは解決できたか」と書かれていましたが、この言葉は、礼拝人数が下がり続ける教会が、自分に向かって言うような状況だったと思います。
当然、「今は教会の内側を整えるべき時だ」という声もあったのです。しかし、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙 二 4章2節、口語訳)。この言葉に励まされて、チラシを準備して出て行った、と聞きました。そこで配ったチラシの一枚が、私を捕えたのです。
教会に行って初めて聞く言葉は、高校生の私にはほとんど分かりませんでした。しかしそれでも教会に行き続けた理由は、いろいろあるにしても、やはり最終的には聖書の言葉だったと思います。私は聖書の言葉と対話していたのだと、振り返ってみて今、思うのです。確かに教会はいろいろな試みをします。しかし、そのすること(しないことも含めて)それが、人を動かすことはないのです。聖書の言葉が人を動かすのです。そうであるなら、テアトルフォンテに出て行って聖書会をしたように、あるいは家庭集会でもいいのです。聖書の言葉を読む場を、紹介する場を、多く設ければいいのです。その場があれば、聖書の言葉、神の言葉は、みずから動き出すでしょう。

「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章11節)

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by rev_ushioda | 2015-12-01 21:55 | Comments(0)

少年サムエルは、エリ先生から呼ばれたと思って、行って、言いました。「お呼びになったので参りました。」すると「わたしは呼んでいない。」そういうことが3回繰り返されました。そしてついにエリ先生は、サムエルを呼んだのは神であると悟り、戻って神の言葉に聞くようにと、サムエルに言うのです。

神が呼んでいてくださるのに、どこかほかのところに行って、あるいは誰かのところに行って、そこで「呼ばれた」と思う子どもが出て来ないでしょうか。
そこで「わたしは呼んでいない。」と親切に言ってくれるならいいのです。しかし、現実は果たしてどうかと言えば、子どもの魂を支配して無気力、無責任、怠惰に陥れようと誘惑する者がいるのです。親が、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせていないと、子どもは、どこか、とんでもない所に行って、言うのです。
「お呼びになったので参りました。」
そこに行ったばかりに神ならぬものに支配され、現代社会においては、くやしい思いに打ちのめされ、涙することになるだけでなく、人生を台なしにしてしまうことも起こるのではありませんか。その人の人生を召命する(招く)方の前にしっかり立たなければいけない時に、違う場所に立ってはいけないのです。
だから、親は、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせる責任があります。それは、毎週、親子で礼拝に一緒に行く以外にありません。親の都合で行ったり行かなかったりするうちに、子どもは、すでにいろいろな声を聞いているのです。すでに、そこに呼ばれていると思っているのです。そのように成長しているのです。

親子で神の言葉を聞くという、礼拝生活を始めましょう。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
旧約聖書 コヘレトの言葉12章1節

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by rev_ushioda | 2015-11-12 17:22 | Comments(0)