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「説教への反応」

 説教を聞いて、少なくとも、以下の13の反応があります。説教がどの反応を期待しているかは、すぐお分かりと思います。それが、説教の聞き方です。

1.眠気を催し、眠りこける。

2.つまらない話だ。

3.馬耳東風。自分とは関係ない。

4.ほうっておく。

5.あざ笑い、いつかまた聞こう(もう聞かない)、と言う。

6.当惑と興味と半々。

7.実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようかと言って去る。

8.言葉じりをとらえてどうにかしてやろうと思って聞く。

9.説教者をわきへ連れていき、私の理解と違うと言って、いさめる。

10.説教者を始末しようとする。

11.難しい…

12.素直に受け入れ、新しく聖書を読む生活を始める。

13.では、どうしたらよいのかと、尋ねる。

14.今日の説教は私のためであった。みことばによって心が動いた。

ちなみに、1、2、5、12番目は、あの使徒パウロへの反応です(使徒20:9、第2コリント10:10、使徒17:32、同17:11)。また、3、6番目は、洗礼者ヨハネへの反応です(マルコ6:20、ルカ7:3132)。4、13番目は、ペトロへの反応(使徒5:382:37)。7、8、9、10番目は、主イエスへの反応です(ヨハネ6:60、ルカ20:20、マルコ8:32、ルカ4:29)。1114番目は、同じ日に私の説教を聞いた、お二人の人から実際、私が聞いた言葉です。

私は、駆け出しの頃、色々な人の批判も一生懸命聞こうとした時がありましたが、しかし、批判した人はある時、私の説教の聴き手をやめる時が来ました。礼拝においでにならなくなり、私は取り残されたのです。聞き手は、気にいる説教を自由に選ぶことが出来たのです。私は悟りました。私は自分の説教を語り続けるしかないこと、また、そういう聖書の読み方をするしかないことを。以来、人の批判に対して、私は相当に頑固な人間になったと思います。感想なら喜んで聞きますし、また、牧師会のような説教の研鑽を通してなら喜んで自分を変えたいと願いますが、批判に振り回されるのはやめようと心に決めています。そして、上の121314番目の応答をこそ期待し、語り続けてきました。私の説教の聴き手である泉教会の皆さんは、そのことをよく分かって、良い礼拝をささげてくださっています。






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by rev_ushioda | 2016-06-11 12:43 | Comments(0)

「あかし言葉を」

荒井献とか、大貫隆と言えば、日本の聖書学の大家です。たまたま泉教会に出席されているお一人が昔、同じ教会だったという話になりました。さぞかし難しい話が飛び交っている教会だったでしょうという話になると、「いいえ、教会では難しいことは何もおっしゃいませんでした。教会で教えようという態度は見せず、荒井先生などは、古着の叩き売りが上手だったんですよ…」という日常を紹介してくださった。私は、この先生にしてそうだったのかと、大層感心しました。
そういえば、ある時、仲間から聞いた話ですが、礼拝にその教会の牧師の恩師が出席された。恩師であることは伏せ、一人の礼拝者として紹介。本人も、礼拝で短く「自分は何も取り得がない者です…」と挨拶されたそうです。礼拝が終わると一人の人が近づき、励まそうとしたのだと思いますが、「そんなことはない、聖書には、神は…」と、とうとうと話し始められた。牧師はあわてて、「この方は…」と説明しようとしたが、やめたという。なぜならその恩師の方は、言われるままに「そうですね。本当にそうですね。」と耳を傾けていたからだと。
教会の営みの中で何が必要なのかといえば、聖書の言葉をもって自分が教えられたことを語り合う、「あかし」の空間を作ることを私は大事にしていますが、改めて、その思い新たにいたしました。あかしとは、私はこう生きて来たけれど、聖書によって、礼拝によって、こういうことに気づき、キリスト者になった、キリスト教信仰に生きるようになったし、今後もこの信仰を大事にして行きたい、という言葉です。教会の秩序を教えたパウロは賜物の違いを述べていますから、主語が「あなたは」という指導や教えはその賜物を持った人に委ね、私たちは、もっぱら主語を「私は」にした、「あかし言葉」を教会に溢れさせたい。
信徒が信仰の大事さに気づくのは、人に実際起った神のわざに触れた時です。また、初めて来た人が、聞いて、心動かされる言葉は、神がその人に何をされたかという、あかしの言葉なのです。私に実際起ったこと、私が実際動かされたことを語る、主語が「私」である「あかし言葉」は、泉教会で大事にされ、これからも大事にしていく言葉なのです。 

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by rev_ushioda | 2016-06-03 10:53 | Comments(0)

「聖書に読まれる」

私たちは聖書を読みますが、聖書を読んでいると、やがて、聖書に読まれ(・・・)ている自分に気づくのです。
聖書を読むとき、私たちは少なくとも注解書1冊くらいは傍に置き、分からなければ調べるという、いきおい、勉強の体制をとると思います。分かろうとするのは大事なことですが、しかし、分かるというのは、聖書の言葉を自分の理解できる器に入れることです。果たして、このちっぽけな頭や心という器に聖書の言葉が入る(分かる)でしょうか。分かった瞬間、あなたは分かってない、と言われるのではないでしょうか。
大事なのは、聖書に読まれることです。聖書に私たちが読まれる時、同じ聖書の個所でも、前と違ったメッセージになります。私は、説教において私たちが聖書に読まれることを、大事にしたいと思っています。同じ個所でも、前に読んだ(説教した)同じことは多分、語っていません。説教においてこの個所はこういうメッセージだろうと聴き手が期待、予期した内容とも、違う言葉になっていると思います。すなわち聖書は生ける神の、生ける言葉ですから、神は、1年前、10年前と同じことを語っているはずはないのです。神は今、ここにいる人に向かって、その聖書個所から、今、ここで語る言葉をもっているのです。私は、その言葉に読み込まれた人間として、その言葉を語ろうとしています。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテア4:9)とパウロが言う通りです。パウロは、神を知っている、聖書を知っている自分ではなく、神に知られている、聖書に読み込まれている自分に気づいたのです。その時、聖書は、パウロに新しいメッセージを放って来たのです。
私は皆さんにも、聖書を知っているのではなく、聖書に知られている、聖書に読み込まれている自分を発見してほしいと思っています。それが私の説教です。そういう意味で、私だけでなく誰の説教を聞いてもですが、期待が外れたことは、たくさんあると思います。神は、(誤解を恐れずにいえば)私たちの化石化した聖書の理解や期待を、はずしているのです。その挑戦を真っ先に受けているのは、もちろん説教者であることは言うまでもありません。説教は、そこから生み出されているのです。

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by rev_ushioda | 2016-05-29 23:46 | Comments(0)

「異なる言葉を」

先週はペンテコステでした。この世界に新しい共同体が生まれ出たことを祝う日でした。そのきっかけは聖霊によって「ほかの国々の言葉で語り出した」ことにあります。「ほかの国々の言葉」の直訳は「ほかの舌」「異なる言葉」です。教会は、今までと同じ言葉を話すのではなく、異なる言葉を話すようになったのです。それは、神が何をしてくださったか、という証、伝道の言葉でした。キリスト者は、今までと同じ言葉を語るために洗礼を受けたのではありません。神を証しする言葉、伝道の言葉を語る者として、この世に新しく生まれたのです。
泉教会は、ここに集う者、皆で出来る様々なユニークな伝道ツール、方策を考え、生みだしました。それらをもって神が語ってくださると信じて伝道しています。私たち教会員は、依然としてこの世と同じ関心を持ち、この世と同じ言葉を語っていくのではなく、差しあたって教会の持っている伝道ツールを手に取り、それを紹介するという、新しい言葉を語り始めて行きたいのです。
教会員の皆さんは、以下、どのくらい活用しているか、チェックを入れてみましょう。半分以上、チェックが入るでしょうか。
 
□「聖書おもしろ読み」(於テアトルフォンテ)を人に紹介する。
□「気持ちの聴き方」(牧師の外部講座)を関心ありそうな人に紹介する。
□「賛美の会」を関心ありそうな人に紹介する。
□「電話メッセージ」(週報折込みの紙)を読んで欲しい人に手渡す。
□「ライフライン」(第2週の放送で泉教会の広告が出る)を観るよう、紹介する。
□カード(聖書おもしろ読み、電話メッセージ、礼拝等の案内)を常時携帯し、機会があれば人に手渡し、紹介する。
□泉教会の口コミを投稿する(方法は、受付にある赤いカードのアドレスに直接、またはホームページから、アクセスする)
□初めて礼拝に来た人に、用意されている当日の説教原稿を差し上げる。
□「元旦礼拝」「イースター」「泉区民クリスマス」「コンサート」などの特別な機会に人を誘う。

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by rev_ushioda | 2016-05-20 10:44 | Comments(0)

「教会を信ず」

「わたしは…きよい公同の教会…を信じます。」これは、「使徒信条」の言葉です。このような簡潔に信仰を体系化した言葉は、洗礼準備のために必要だったと言われています。
しかしまた、このような信仰を表明する背景には、現実にはそうではない状況があったこともまた、想像するに難くありません。聖書を読んでも、生まれたばかりの教会には、不道徳、無秩序など、この世に起こるのとまったく同じ世俗の問題があり、それに加えて異端の侵入など、すでに様々な問題があったことが分かります。そういう事柄への対処、信仰訓練、教育のためにパウロは手紙を書き、それが新約聖書になったのです。そして、大事だと思うのは、パウロはそのような教会を「神の教会」と言い続けます(コリントの信徒への手紙1:2ほか)。教会を信じたのです。混乱ばかり引き起こす人を、それでもキリスト者だからと言ってその人を信じたのではなく、「神の教会」であると言って、教会を信じた。ここが大事なのです。
どこかに行ったら、問題のない教会に出会えるでしょうか。そんなことはありません。教会には物理的な意味で社会との境界線はありませんから、社会がそのまま教会の現実になります。教会に人がいるかぎり、人は罪のゆえに問題を引き起こします。社会の問題は、そのまま教会の問題になります。そして、社会の問題がそのまま教会の問題になっている教会こそ、キリストの教会、世に生きる「神の教会」だったのです。
問題が起こるから問題なのではありません。問題を仲間と共にただしく解決できない時、それが問題なのです。問題を引受け、共に担い、そこにキリストのおられたことを見出すまでは確かに辛い経験もするでしょう。しかし、パウロが「神の教会」と信じた教会も、同様の苦闘を経て、そこで信仰を証ししたことに、私たちの目を向けたいと思います。パウロが生きた教会以上の教会を、私たちは作ろうとしていません。「神の教会」は、問題のただ中にこそありましたし、これからもそうなのです。皆さんの目に「神の教会」が見えているでしょうか。もちろん、見えていると思います。

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by rev_ushioda | 2016-05-18 23:57 | Comments(0)

「聖書の自由読み」

こんな話を聞いたことがあります。戦争が終わって、軍人さんが村に帰ってきた、物資が不足している中で、リヤカーがほしい。そうだ、あの人は軍隊で戦闘機を作っていたそうだから、設計は得意だろう。リヤカーを設計してもらって、自分たちで作ろうということになった。出来上がったのですが、ところがどうも具合が悪いのです。村のガタガタ道を走ると、揺れが大きすぎるのです。理由は、ガタガタ道を走るようなリヤカーは、車軸に「遊び」という、いわゆるガタ、余裕を設けなければならないわけです。ところが航空機の設計屋さんだから、そういう「遊び」のことは考えなかったのです。その結果、ガタガタ道に対応できず、乗り心地が悪くなってしまい、使い物にならなくなったというわけです。どんな良いものも、これでは意味を失います。
私は、教会の「設計」にも同じことが言えると思います。人の心は、改めて言うまでもなく、けっこうガタガタ道なのです。そこで聖書の読み方にも、いい意味で「遊び」が必要で、それをなくしまうと、生きにくくなり、人の居場所を奪います。人は教会に集まらなくなります。聖書を読む人がいなくなっては、いくら聖書があっても何の役にも立たない、本末転倒でしょう。
よほど破壊的な読み方でない限り、間違ってはいてもその人の読み方に感心し、「ナルホド、あなたはそう読むか。」と当座は間違いも包含し、読み方の幅の広さを楽しむのが良い。聖書の自由読みを楽しみながら、仲間と出会い、そしてここが大事ですが、聖書の自由読みを楽しむ者が、ついには下に記した聖書の言葉に出会うことが出来、その言葉自身に教えられ、導かれていくのです。私の40年にわたる牧会姿勢は、何の前提も持たず、何によっても支配されず、「遊びという設計」を最大限発揮してみると、そこで聖書から聞こえてくる言葉に教えられ人が変容するということでした。教会はこの世の悪魔的な動きに対しては「教理」を働かせて命をかけて戦いますが、個人個人に対してはまったく違う出会い方が求められています。私は聖書の言葉じたいが人に働くことに信頼していますので、思い違いをした聖書の読み方をする人に出会っても、何も驚きません。あわてて否定もしません。そういうわけですから、泉教会に生きる私たちは、人が聖書に出会う機会を「設計」し、そのような「後方支援」をこそ大事にすればよい(これが疎かであっては何をかいわんやですが)。あとは、聖書の言葉がその人の内にあって働く働きに委ねるのです。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」ヘブライ人への手紙4章12節

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by rev_ushioda | 2016-05-01 21:09 | Comments(0)

「復活の朝と茶色の朝」

イースターの朝、主イエスは「おはよう」と言われ、希望の朝を指し示されました。では、主イエスが声を響かせている「この世の朝」は、いったいどういうものでしょうか。
「だれかがドアをたたいている。こんな朝早くなんて初めてだ。…外は茶色。」 遂にその朝がやって来た、ゾクゾクっとするところで、その本は終わっています。そこまでたった29ページの『茶色の朝』という小さな本です。この本には、どこにでもありそうな街の淡々とした日常が、制度や法律によって少しずつ茶色に染まっていくという話が書かれています。茶色に染まるというのは、他の色は認めないという法律によって国民が支配されていくことです。
最初の頃、茶色じゃない猫をすべて始末するという「ペット特別措置法」が出された時、主人公の「俺」は違和感を感じ、胸を痛めながらも、何もしなかったのです。「茶色に守られた安心、それも悪くない」と思ったのです。しかし、そのうち気づくと犬、新聞、ラジオ、本… 次々と茶色以外のものは認められなくなり、とうとう昔、茶色ではない犬を飼っていたという理由で友人が逮捕されてしまう。どうして最初の頃に感じた違和感にきちんと向き合って抵抗しなかったのか、と後悔するのですが、すでに遅かった。ついに自分も、その朝を迎えたのです。

この本は、1998年、フランスの統一地方選挙で、排他主義的極右政党が躍進するに至り、危機感を抱いた著者が、出版したものです。そして2002年の大統領選挙で、なんと決戦投票にこの極右政党の党首が最終候補に残るに至り、危機感を持った人々が読んだのがこの本だったのです。
よその国の出来事ではありません。本の中だけの話でもありません。私たちの国で、たとえば「国旗国歌法」で信教の自由の侵害が起こっています。「秘密法」で、知る権利が奪われています。「戦争法」で他国と一緒に戦争が出来る国になりました。さらに、政府は改憲によって緊急事態条項を導入、基本的人権に制限をかけようとしています。…今、日本で、この本の通りの事実が着実に起こっているのです。
「だれかがドアをたたいている。こんな朝早くなんて初めてだ。…外は茶色。」キリスト者としての信仰の自由、そして私たちの持っている人間性が奪われる、その「茶色の朝」が来た時では遅いのです。主イエスが「おはよう」と言われ、新しい希望の朝を創造されたのは、どのような状況であったかをよく知っておきたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-04-01 12:04 | Comments(0)

38年前の1978年3月、私たちは東京都東久留米市にあった「日本基督神学校」を卒業しました。卒業して10年くらい経ったある年から始めたので、以後30年近く、私たちは毎年、同級会を開催してきました。集まるのは、高本律子姉、大竹海二先生、木内伸嘉先生、熊田雄二先生、池田勇人先生、そして事情により中退した橋本綾子姉と、私、潮田です。神学校時代から、夫婦で親しかったこともありカップルで参加する人も多いので賑やかになります。この同級の友たちと出会うと、思いは東久留米の「日本基督神学校」に戻って行きます。初心と言いますが、この仲間たちと出会う度、初心にいつも引き戻され、今日まで来たのだと、つくづく思います。
やがて、橋本綾子姉はお連れ合いを天に送り、3年前には池田勇人先生が召されました。今回、大竹海二先生がご自身の身体的事情、お連れ合いの要介護のこともあって、やむなく教会を辞され、息子さんのところへ行かれることになったため、定例同級会の時機を早めて3月中に開催しました。

私の手元に卒業式のときに録音したテープが保存されていて、38年経っているのにもかかわらず極めて良い音質が維持されていましたので、今回、40年の節目には2年早かったのですが、大竹先生の送別に際して、それを皆で聞くことにしました。聖書個所はテトスへの手紙1章1節から3節、「神の命令によって」と題して、小畑進先生の説教でした。あの時、東久留米の学び舎からこの言葉で送り出されて38年、この間の波乱の旅路を思いつつ、今、ここで改めてその言葉を聞くことに、一同、どんなに深い感慨を覚えたことか。

テープにはレセプションのときの「卒業生のひとこと」も録音されていたので、聞かないわけにはいかず、あの時の自分の「ひとこと」を聞きました。改めてじっくり自分の言葉を聞いてみると、今もそれほど進歩していないとか、息子の声と同じだとか、話に花が咲いたのは言うまでもありません。

大竹先生ご夫妻とのお別れもありますし、そろそろこうして毎年集まるのは無理かもしれないとの思いを持ちながら、「神ともにいまして」を歌い、手を結んで輪になり、主の祈りを祈って散会しました。

今年の東京基督教大学の卒業式で配布された理事会報告に、今年度をもって退任する者として丸山忠孝先生、大竹海二先生のお名前が並んでいました。私たちにとって、ひとつの時代が過ぎていくのでしょうか。

御手にゆだねて…

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by rev_ushioda | 2016-03-15 12:01 | Comments(0)

泉教会地図/ご案内

泉教会にいつ行くの?
 「今でしょう!」


日曜礼拝
      公開していますから、いつでも「見学」歓迎。
       毎日曜日 午前10時30分~12時   

テレホンメッセージ(着信専用 3分テープ応答)
      045-364-4041
         

地 図
      下記「教会電柱広告」手前に「おうち屋さん」という緑の看板があります。
      それを過ぎてすぐ、教会の電柱広告があるところで、右折します。
      ルートラボ に、立場やいずみ野駅からの道順もあります。
「泉教会」を検索してみて下さい。
      なお住所は、表示変更があったために、今は以下のようになっています。
           → 横浜市 泉区 和泉中央北3-43-15

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ブラウザのボタンで、もとのページに戻ってください。
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by rev_ushioda | 2016-03-11 23:15 | Comments(0)

「会議録/議事録」

会議を開いて、その記録を残すとき何というかですが、教会の会議に携わらない方々には、あまり関係のない、面白くない話になってしまうかも知れませんが、教会の考え方について大事なことを含んでいますので、書いておきたいと思います。

『広辞苑』は、「会議録」とは「会議の経過・内容を記した記録」、「議事録」とは「会議の議事の主要事項・討議の状況を記録したもの」と説明しています。ただ、会議録は議事録、議事録は会議録とも言うように書かれていて、国語的には違いがよく分かりません。『ブリタニカ国際大百科事典』 は、「議事録」とは、一般に会議の議事の主要事項ならびに討議の状況や結果を記載した文書をいうが,政治的には,国会および地方議会における本会議,各委員会の会議録をさす。」となっています。
ですから、一般的には「議事録」という表記だと思います。では、泉教会で行われる小会の会議や中会会議の場合はどのように言うかというと、これは「会議録」、委員会などの記録を「議事録」と言っています。

泉教会を含む長老主義教会は、『教会憲法』をもっていて、そこで明らかにしているのは、会議をもって教会を形成する、という考え方です。つまり、誰か特別な人間の力が教会を作るのではない、という意味です。こうして、小会、中会、大会、総会という会議をもって一つのカンバーランド長老教会を形成するのだ、と言い表しているのです。
そういう理由で、小会が会議を開いたら、その記録は「会議」の記録という意味付けが大事なのです。何の議事録かと言えば、カンバーランド長老教会を構成する一つの「小会会議」の記録だと。それで「小会会議録」(同様に中会会議録等)という表現を、正式な表記とするのです。
ですから、委員会の場合は、こちらは一般的な表現「議事録」というように区別しています。教会の考え方が歴史的にはいわゆる民主代議政治になりましたから、『ブリタニカ国際大百科事典』が、「政治的には…会議録」と言っていますが、これは教会の考え方からきていると思われます。

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by rev_ushioda | 2016-03-09 18:38 | Comments(0)