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「教会の暦に生きる」

年末になると、いろいろなカレンダーが届きます。クリスマスはもとよりですが、復活祭と書かれているものも見られるようになりました。しかし、よく見ると、細かい字でいろいろ書かれているものがあります。「六曜」(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)が書かれたカレンダーは、どの家にも一つや二つは、あるのではないでしょうか。「友引」に葬式・法事を行うと、誰かが死ぬとの迷信があり、友引の日は火葬場を休業する地域は多いのです。建築関係者の大凶日とされる「三隣亡」と書かれているものもありました。大工さんは、その日の仕事は避けるようです。

すると、カレンダーというのは、ただ日を追うためのものでなく、日の巡りに意味を与えようとするものだと分かってきます。教会(キリスト教)のカレンダーでは、日曜日は「主の日」という1週ごとの節目から始まって、1年に「降誕日」「復活日」「聖霊降臨日」という節目を与えて、イエス・キリストの恵みと愛と支配のもとで生きよう、と意味を与えています。

今日という日を、上に書いた「六曜」とか、あるいはほかの迷信的な意味づけで生きていくのか、それとも、キリスト教のカレンダーで人生に意味を与えて生きるのか、大事なことになります。言い方を変えれば、何に支配を受けるのか、です。繰り返しますが、世には、迷信をはじめ、他の思想が組み込まれたカレンダーが、溢れかえっているのです。この世のカレンダーに支配され、縛られて、人間としての自由や意味を失うのではなく、今日というどの日も良い日にしていくのがキリスト者の持っているカレンダーなのです。このような節目のつけ方から、キリスト者は、離れてはいけないのです。

「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」(ガラテヤの信徒への手紙4章10節)


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by rev_ushioda | 2016-12-30 11:56 | Comments(0)

「淡々と」

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
難しい話は分からないと言う。しかし、礼拝が大事なことだけは分かっている。周りがどんなに騒ごうとも、「この道に生きることは自分で決めたのだから、決めた事はやめてはならないでしょう」と言う。日曜日が来れば、「今日は日曜日、さあ礼拝に行きましょう」と、礼拝への道に立つ。大事なことは大事なんだと、文字通り理屈抜きで、問題があろうとなかろうと、今も、これからも、キリスト者を生きていく。

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
教会の暦がアドベントになれば、礼拝堂の4本のローソクに1本、1本、火がともるのを見つめてクリスマスを待ち、受難節になれば1円、5円、10円の節約献金をして主の受難をしのびつつイースターを待ち、ペンテコステには、礼拝堂に子どもたちがまくバラの花を見て、聖霊が私にもくだったと言って喜ぶ。

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
今日は雨/雪だから礼拝に行く人がきっと少ないだろう、寂しい人がいるといけないからと言って、いつもより少し早く家を出て、礼拝への祈りの道を作る。風邪でお休みされた方のためにお手紙書きましょうと、牧師に住所を尋ねる。初めて礼拝に来られた方のそばに歩み寄り、よくいらっしゃいましたと多くを語らずに控えめなひと声をかける。

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
誰にも気づかれないところで、今日も良い日だと言って、次の礼拝に向けて祈りの道を作っている。

その人を、この世の悪、この世の艱難であっても、押しつぶすことは出来ない。その人は、すでに世に勝っているからだ。

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by rev_ushioda | 2016-11-27 22:37 | Comments(0)

「女性のつどい」

躍動する教会! 女性会の研修会に出席して、私たちカンバーランド長老教会に対して改めて感じた思いです。歴史を振りかえってみても、現在の教会の動きを見ても、伝道のために躍動している。それがカンバーランド長老教会です。
私たちは一つの教会で礼拝をまもり、交わりをし、教会の印象を持ちますが、大事なのは、その教会がどういう共同体に属しているか、ということです。目の前の教会が高齢化だとか、建物が貧弱だとか、経済が厳しいとか、当座のマイナス印象はあるとしても、どういう共同体に属しているか、それが大事です。
カンバーランド長老教会は、国単位で教会組織を作らない、めずらしい教会です。教会はアメリカ合衆国から始まりましたが、すぐに海外に宣教師を送り、今日ではアジア地域にも宣教地域が広がり、名実ともにグローバルな教会となっています。研修会では、私たちは境目を作らない、多様さを含んだ一つの教会、グローバルな教会であると言われていました。つまり、インターナショナルではないのだと。インターナショナル、つまり、ネイション(国家)があって、その境目をつないでいるという意味で、私たちの教会は一つなのではないのです。私たちの教会は、国境を越えて一つなのです。境目を作らない、「一つの」教会なのです。
それを後押ししたのは、女性たちの組織でした。男性は組織とか枠組みとかを大事にしますが、女性的な感性はそういう枠組みを自然に超えたのかも知れないなと、私は講演を聞きながら思いました。泉教会も、女性たちのキリスト者としての感性が、生き生きと用いられる教会でありたいと思っています。
さて、「共同宣教」試論は、そのような考え方を私たちの教会にあてはめて具現化するためにはどうしたらよいかということの投げかけです。この時のために私たちの教会があったのだ、と言えるものを、見えるものとして現したいのです。パウロが「渡って来てわたしたちを助けてください」という幻を見て、すぐ、トロアスから船出したように。

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by rev_ushioda | 2016-10-06 22:01 | Comments(0)

「教会の壁を越えて」

CCC (キリスト教カウンセリングセンター)交友会からの『原稿依頼があり、以下のように書いてみた。

当時、3年間の学習が修了した時、CCCの修了証に「カウンセラー2級」と書いてありました。この「お墨付き」をいいことに、開拓伝道に出た20年前、地域との出会いを求めて傾聴講座(注1)を始め、現在は教会と別組織でNPO法人化し、教会が地域に出て行く足がかりにしています。すると、これをきっかけとして、以下のように牧師がこういうところに招かれて講演するだろうかという、おもしろい経験をさせてもらっています。事業所を対象とした第三者評価委員の講演会、成年後見人(行政書士会)の講演会、子どもの相談を受けるチャイルドラインの研修会、病院の看護師研修会、地域の公立小学校PTAの講演会等々。いつも「ただの牧師です。心理学を勉強したわけではありません」と言いながら、教会と地域との接点は1回でも多い方がいいと考えていますのでお招きに与ります。CCCでの学びと体験がこんな展開になるかと驚き、また、そのような機会を与えてくださったCCCとの出会いを感謝しています。
CCCで学習し始めた2期目、当時、そこでエンカウンターグループが用意されていました。早々に私は、これはまずいことになった、と思いました。皆さんが言っていることがまるで分からないで、一人取り残される感覚。3回目で、「気持ちがわかりません。ついていくことが出来ない」と言うと、すかさずファシリテーターの大西先生が「潮田さんの両脇の人、潮田さんの手をたたいてください。」(パチッ!)「どうですか?」「痛いです。」「“気持ち”が、言えたではないですか!」― 気持ちの言語化とその受容・共感。たったこれだけのことが、その後の私のすべてを方向づけました。
教会で出会う子どもたちは限られています。しかし、子どもの電話を受けるチャイルドライン(注2)のリスナーの研修に招かれて、牧師だったらこのように聴く、という聴き方を5年にわたり共有できたことは幸いでした。教会に来る人だけを相手にするのではなく教会の壁の外の人にいかに主イエス・キリストの慰めを届けるかを考えると、福音伝道こそ教会の働きですが、牧師はこのように話を聴くということをお伝えできることは、これも、福音の多様な現われの一つと考えています。

注1.カウンセリングの学びを生かした「気持ちの聴き方」という市民講座。内容は、「聴くこと」、共感・受容、会話記録分析、ロールプレイ。全10回。現在まで20年間で受講生400人。現在「NPO法人 心を聴く市民ネットワーク」。
注2.「いのちの電話」の子ども版。電話にかかって来る子どもの話を共感的・受容的に聞く。神奈川県では、県内公立小・中・高等学校の子どもたちに学校を通して約75万枚の案内カードを配布、月に500件の着信がある。

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by rev_ushioda | 2016-10-05 17:26 | Comments(0)

「共同宣教試論」

私たち泉教会は、いよいよ20年目の1年間を歩み出します。前任地であるさがみ野教会は、今年、40周年の節目を迎えています。しかし、どちらも共に「教勢の伸び」は思わしくない。そこで私は思うのです。教会は、年数が経てば「盛栄」「発展」していくところなのだろうかと。ビジネス文書にはよくそのように書かれています。その通り、伸びるに越したことはないのですが、実際、盛栄、発展することなく、いつまでも小さな教会ということも、あるのではないでしょうか。
しかし、ここが大事で、小さな教会だからといって、保身的に内固めするのではない。教会の使命は、小さかろうが、大きかろうが、伝道以外ではないのです。小さな教会は小さな教会なりの機動力を生かし、伝道するために、ここに置かれているのです。この視点が抜け落ちると、どうしたら教会を維持できるかといった、せこい話に終始し、炭酸の抜けたコーラのような得体の知れないモノにしかならない。
牧師を招聘する力がないなら「兼牧」(一人の牧師が小さい教会の働きも併せ持つこと)という考え方があります。何とも教会を馬鹿にした言い方だと思います。教会はそんな片手間で出来るような所ではない。
他方、「共同宣教」という言葉があります。力がないなら、地域の教会が共同で宣教を担ったらいいのではないかという考え方です。共同宣教は、限られた人材、限られた経済力で、では、伝道をどうしたらよいかという、前向きの議論の中で生まれてくる言葉である、というところが大事です。力がある教会が、力のない教会を支援する(兼牧する)というような考え方では決してありません。私たちは今、伝道する教会として、そのような伝道する教会の新しい仕組み、枠組みをもって動き始める時を迎えていると思います。

教会が一人の牧師を招こうとして、しかし経済的な能力を持たないなら、方法は少なくとも3つあります。
一つは、他の教会の牧師に、臨時代行を依頼する。つまり、牧会のために一定の時間を割いて来てもらう、いわゆる「兼牧」です。しかし、これは間に合わせ的な形態であって、しかも受ける側は負い目を感じ、この状態を何とかしなければ、というあせりは、どうしても内向きの考え方になります。

一つは、牧師が教会以外で何か仕事を持ち、そこである程度の収入を得ながら教会の働きをする「自給」です。仕事とは、たとえば学校の聖書科で教えるとか、教会の関連事業(英会話教室、塾、幼稚園、介護事業など)での働き、あるいは地域で証しになるような働き(学童保育、NPO、その他)になるでしょうか。

一つは、これは複雑で簡単ではありませんが、いくつかの教会と協力関係を結び、開拓伝道を起こしつつ、地域の複数教会の協力体制で互いの必要をカバーするという方法。開拓伝道に派遣された牧師は、メインとなる教会(牧師を招こうとしている教会)からの謝儀、他の協力教会からの支援、そして塾で教えるなど自給収入で生計を支える。メインとなる教会は専任の牧師ではないものの、協力関係を結んだ牧師により礼拝をまもり、牧会と、小会指導を受けます。この方法の要は、単に受けるだけでなく、他の教会と共に新たな開拓のために牧師を送り出し、「共同宣教」を実現するという視点を持つことにあります。この方法は未知の領域で課題は多いですが、内向きの矢印が外に向かう点で、見える形は「兼牧」と同じようでも意味はまったく違います。

今、泉教会はどの選択が出来るか、小会はその方向性を出すことを当面の優先的課題としています。弱さは他の教会よりも多く持っている教会ですが、だからといってただ受けるだけでなく、私たちも宣教に関わる喜び、期待、を共有する方法を選んで行きたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-10-02 17:31 | Comments(0)

「信仰街道の一里塚」

私事ですが、要介護4の母を自宅で介護して1年。四六時中、食事、排せつ、痛みなどへの対応があり、デイサービス、ショートステイ、ヘルパーや訪問看護、入浴などの日程調整や依頼、準備などに追われているうちに、だいぶ手馴れて来たとはいえ、こんなにも自分の思考や行動が狭くなるものかと驚いています。
しかし、そのように一点に集中せざるを得ないことは別に介護に限らず、たとえば仕事にしても同じことが言えます。1週間、同じことを繰り返し、意識をそこに集中しているうちに、おそらく同じように思考や行動が狭くなるのです。
私はこれではいけないと思い、「点」が「線」になるように、島崎藤村の『夜明け前』とか司馬遼太郎の『国盗り物語』、その他、今、趣味で歩いている街道に関する本の助けを借りました。実際、介護があるので街道に立つことは出来なくても、読書によって、視野が縦横に広がるのを感じました。この感覚は大事だと思いました。地上の街道には、京とか江戸とか目的地がありますから、それを、自分の信仰の目的地に重ねることが出来るのです。一緒に神の都を目指す信仰街道を旅しませんかと人に勧める口実を得ることも出来るのです。「街道」というスケールに自分を乗せることは、私にとって視野を広げるのに益することであり、楽しいことでした。
今年最初の「牧会のはなし」に、「なまけもの」という動物の絵と共に、私は次のように書きました。―この世の時間に支配されず、礼拝の時間くらいは確保するなまけものになって「ぶらさがり見る」と何が見えて来るのでしょうか。―
礼拝は、神の国に続く信仰街道の、一里塚なのです。ここに足を止め、ずっと先が見えると、苦しい今も目的地に包み込まれた今に見えてくるから不思議であり、愉快なことです。

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by rev_ushioda | 2016-09-15 12:20 | Comments(0)

サムエルナイト

教会で一泊する子ども行事は、今回、初めてだった。名づけて「サムエルナイト」。サムエルのように、神の声を聞き分ける子どもになろう、神の言葉をもって悪と戦う騎士になろう、という意味をかけ合わせた命名である。
礼拝の後、さっそく宮沢親水公園に行ったが、和泉川に沿った広大な公園である。本流のそばに写真のような支流があって、きれいな水が流れている。そこでザリガニがたくさん採れる。エサで岩の下からおびき出すのだが、その加減が子どもは分からない。じっと忍耐するのが、小さな子どもにはなかなか出来ない。夢中になったのは、大人だったかも。

ところで、

広場でボール蹴りをしていて、蹴ったつもりが、ひっくり返った。教会に戻って、今度は階段から踏み外した。かくして今回、二度、倒れた。65歳の年齢を強く意識せざるをえなかった。そもそも、そういうことを感じ始めていたので「一泊」というのも「気遅れ」していて、私の提案ではなかった。共に動いてくれる人があってこそ、出来上がるというものだ。それこそ音楽プログラムは無理ということで、早々に他教会の人に応援を求めたのが功を奏し、大盛り上がりとなった。出来ないことが多くなる。その分、人に頼むことが多くなる。それが、良い結果を生む。ということだろう。
階段から落ちた痛みは、当初の打撲痛から、4日経ってみると今度は筋肉痛のような形でその痛みが増してきた。母の介護もあるし、体の弱いところをかばっている結果、筋肉痛になっているのかもしれない。立ったり座ったりがきつい。整形を受診。骨に異常なしということで安心。やはり落ちたときに体をかばった動きをしたための筋肉痛のようだ。
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by rev_ushioda | 2016-08-16 17:18 | キリスト教 | Comments(0)

教会の子どもたちのために、初めて一泊のお泊り会が開かれます。これは、一般に夏期学校と言われていますが、初めてのことなので、今年は仮に、このような言い方にしています。
ところで、泉教会は、大きな教会のように子どもたちのための教会学校も、教師会も、ありません。小会(長老たち)が直接、子どもの育成、信仰教育に関わっています。小会では、いつも子どもたち一人一人のことを話しています。大きな教会ほど、一人の奉仕者に任せますが、それが出来ない泉教会は、小会の全員が子どものために祈り、子どもの信仰育成に関わっているのです。子どもにとって、こんなすばらしい教会はないと思っています。長老たちの目は常に子どもたちに注がれ、必要な言葉かけをしているという意味で、他の教会とは違う良さがあります。
そもそも、礼拝を大人と一緒にするというところから始まって、食事も大人と一緒にするのが私たちの教会の特徴です。子どもたちは、大人の目配せの中で成長します。規模が小さいゆえに、また、専任の奉仕者が立てられないゆえに、逆に皆が協力して、すばらしい教会を作っていると思います。足りないところよりも、むしろ良い面に溢れるようになりました。
親である皆さんは、ぜひ、「教会」に信頼して、「教会」に子どもたちの魂を預けきってください。―心配しないで。―中途半端ではなく。すでに過去20年間に皆さんが見てきた通り、子どもを「教会」に預けきるところから、子どもの信仰は芽生え、育ち、飛躍してきました。その飛躍は、今度は、あなたの子どもに起こる番です。

サムエル上2章21、26節「幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。…すくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。」



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by rev_ushioda | 2016-08-07 22:24 | Comments(0)

「出て行く教会」

教会に人が来ないのなら、こちらから出て行こうと祈りの中で思いたち、テアトルフォンテで隔月開催として1年間、「古典としての聖書 おもしろ読み」と題して、初心者向けの聖書会(伝道聖書会)を続けてきました。礼拝においでにならない方でも、このような場所だと5、6人が来てくださいます。その多くは、心を聴く市民ネットワークで受講された方々ですが、家庭集会の関係者、教会のコンサートに来られた方も、おられます。信仰にはなじみのない方が多いですが、聖書を通して、そして教会員の方の証しを交えながら、いろいろ会話が弾みます。楽しい時間です。
こうしてこの1年間、隔月で開催してきましたが、9月からは毎月一回の開催とします。いつか礼拝に来てくださることを祈りつつ、泉教会の大切な伝道の働きになりました。
来年はさらに、日曜日の午後、月に一度、テアトルフォンテ会議室で礼拝しようと、計画しています。教会で朝の礼拝をし、午後、テアトルフォンテで伝道礼拝をするのです。聖書に触れて戴くためには教会という建物に来なければならないとか、また、礼拝のために教会という建物に来なくてはならないということはありません。こちらから出て行って多くの人に出会えるなら、教会が出て行くまでです。
泉教会は、伝道のために聖書をたずさえ、出て行く形を具体化しています。このようにして仲間と一緒に出て行く先も、また、泉教会なのです。私たちは今、挑戦的に、新しい伝道の形を試みています。



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by rev_ushioda | 2016-07-31 21:40 | Comments(0)

世界各地で民族的、思想的、宗教的、経済的、その他さまざまな原因で対立が深刻化しています。テロは頻発し、クーデターが起こり、日常的発砲事件はアメリカで後を絶ちません。そういうアメリカで、白人警官が無抵抗のアフリカ系アメリカ人を容赦なく殺害するという事件が波紋を呼んでいます。「壁」は、私たちが思う以上に厚いのです。
そのような中、カンバーランド長老教会の総会がアメリカ南部(すなわち、かつて奴隷制を支持した地域)テネシー州ナッシュビルで開かれ、重要な決議がされました。「アフリカ系米国人の兄弟姉妹への謝罪」(仮題)です。
カンバーランド長老教会では50年にもわたって、同じカンバーランドでありながら別組織になっている(させられた)アフリカ系アメリカ人教会との「合同」を推進しようという試みがされて来ましたが、まだ、実現していません。しかし、今回、次のような謝罪がなされたのです。
…私たちは、過去、アメリカの奴隷制を糾弾することにおいて、曖昧であり、かえってアフリカ系アメリカ人の会員を分離、隔離してきた。奴隷制度が廃止された後でさえ、教会員として受け入れることを拒み、分離を推進してきた。それゆえ今、私たちは、自分たちのあらゆる残虐な行為について神の赦しを求め、悔い改めることを決意した。また、アフリカ系アメリカ人の兄弟姉妹に謝罪し、赦しを求め、私たちの罪が原因となった壊れた関係の修復に向けて、働いていくことを決意した。…
この決議の場に代議員として居合わせた饒平名長老は、帰国後、この時のことを深い感動をもって証しされました。
教会は、間違ったなら、その事実を悔い改め、謝罪し、新しい歩みを作る決意をします。「宗教とは、この世の理屈を超えた『物語』を信じる営みだ」(2016年7月17日朝日新聞「ローマ法王の挑戦」)。この世の理屈を越えた物語とは、たとえ負の事実であろうともそれに向き合い、悔い改め、謝罪し、決意の歩みをするときに、始まるものです。この世の理屈でものを言っているうちは、何も始まりません。その理屈を超えるためにこそ、私たちは礼拝者であり、キリスト者であるのです。


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by rev_ushioda | 2016-07-21 16:52 | Comments(0)