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「説教批評」

牧師会では説教の研さんが行われる。今回は私の説教の当番であった。「潮田先生らしい」という感想が何人かから述べられた。以前からそういう評価が与えられることが気になっていた。
実は、牧師会での説教は、直前になされた説教となっている。使徒言行録を講解しているのでこの日はどこになるかと思っていたが、いよいよ近づいてきて、ここか!と思った。困ったなあという意味である。使徒言行録19章11~20節、開かないでもいいが、こういう個所だと困ったなあ、と率直に言って、そう思ったのである。その前の説教(成瀬教会から招かれておこなった説教)にしてしまおうか、という誘惑があった。そういう誘惑と戦いながら(笑)、準備した。そして、先の評価である。
私は思った。困ったなあというところをうまくすり抜けてしまったんだな、と。そしていつものように、自分で納得できる、分かる説教になった。牧師会では、「牧会的」「教会形成的」と言われ、おおむね良い評価であったかもしれない。しかし、私にしてみれば、それは、すり抜けた、というのが当たっている。そこのところを、ズバリ、おひとりA先生が指摘されたのであった。カウンセリングだと思った、と。実のところ、今日になって、説教をその場で聞いていた一人の姉妹から、ご主人とちょっとしたすれ違いがあり、怒らせてしまった重い心をもって説教を聴いていたが、説教を聴いて「泣きそうになった(慰めを受けた)」と。カウンセリングだと思った、という評価は、まさに的中であった。良くも悪くも、説教とは何か。いつになっても突きつけられてくるテーマである。



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by rev_ushioda | 2017-10-04 17:03 | Comments(0)

「代わって祈ります」

「今、ちょっといいですか」見知らぬ女性からの電話でした。「大丈夫です」と言った瞬間、電話口で泣き始めました。泣きながら、今、離婚の調停を進めているところだということ、事はうまく進まず、夫に投じた、なけなしのお金も戻らない、弁護士にも誠意を感じられず、自分の体調も良くない。キリスト教学校に行った者なので、お祈りはしてきたが、一向に埒が明かず、もうどうにもならない。切羽詰った電話でした。
この方がどなたか、どういう事情か、詳細をお聞きするわけにもいかず、お聞きしたところで、どうにかなるものでもなく、ただ「よく、お電話くださいました」と言うしかない内容です。「よくお電話くださいました。あなたがどうにもならない時のために、この電話がつながったのです。私が、あなたに代わって祈ります。いつでもお電話ください。」そう言って電話を切りました。
これをここに書いたのは、これは牧師の仕事ではなく教会の仕事だと思うからです。この方は、教会に電話をくださいました。牧師に電話してきたのではありません。教会に電話したということは、教会はこの方のためにあったのです。私たちは自分のために教会があると思っているかも知れない。しかし、教会は、少なくともこの方のためにあったのです。私は、皆さんを代表して電話に出たにすぎません。だから、皆さんが言うのです。 - 「よくお電話くださいました。あなたがどうにもならない時のために、この電話がつながったのです。私が、あなたに代わって祈ります。いつでもお電話ください。」
皆さんの祈りは、他の誰かのための祈りなのです。皆さんが聖書を読むとき、それは他の誰かのために聖書を読むのです。皆さんが礼拝に出るのは、他の誰かのために礼拝に出るのです。20年を超える教会に今いるのは、そういう信仰の成熟、献身を期待されているのだということを覚えたいと思います。自分の気分で教会を私物化せず、まだ知らぬその誰かのために、今、共に出発したいと思います。

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by rev_ushioda | 2017-09-30 00:21 | Comments(0)

「サムエル ナイト」

教会で子どものお泊り会「サムエルナイト」が行われた。去年からこの名前で始めた土曜日から日曜日の礼拝にかけてのプログラムである。開会礼拝、湘南台文化センター、教会でおふろ、ギョウザパーティー、賛美集会、お泊り、朝の散歩、そして礼拝という内容。大人の人たちの協力をいただき、特に子どもたちと一緒に一泊してくれた山本夫妻、また、夜の賛美集会は外部からギターを弾ける伊能先生の協力をいただき、何とか終了。
子どもたちは、「教会で大事なお祝いの日は3つ、何と何か」ときくと、クリスマス、イースター、サムエルナイトと答えるほど、大好きである。(三つ目は「ペンテコステ」が正解)

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by rev_ushioda | 2017-08-13 00:31 | Comments(0)

「アジア青年交流会」

いよいよアジア青年交流会(AYG)が近づきました。アジア諸国から、カンバーランド長老教会に属するたくさんの青年たちがオリンピック記念青少年センターに集まります。そして来週の主日には、私たちの教会にも、海外から5人が、また、日本の教会から参加した3人が泉教会の礼拝に出席します。来られるのはフィリピン、香港の青年たち、および韓国からの牧師です。どうぞ、良い礼拝となりますように。また、良い交わりが出来ますように期待します。
私たち、日本にあるカンバーランド長老教会(13教会)は、海外にある同じカンバーランド長老教会の教会との交流が活発です。特に、アジアにある諸教会との交流は、香港の教会との交流から始まりました。まだ中国に返還される前でした。1984年の総会で、香港のグレース・ユー姉が、中国返還を前にしてメッセージされましたが、その時、総会会場にいた私は、そのメッセージを録音し、翻訳して中会に紹介しました(『ぷれすびてり』№36)。そこにこういう言葉があります。
 ― 
「私たちが、今日、香港に存在を与えられているゆえに見て行かなければならない役割(注:伝道)というものは、私たち、香港中会だけに与えられたものではありません。もし、教会の建物、計画、そして牧師がとりさられたならば、イエス・キリストの教会としての正しさが保たれるでしょうか。その時、総会の皆様は香港にある教会が応答的、預言者的勇気のあることを知るようになると思います。」

危機的な状況にあるけれども、伝道の門戸は大きく開かれていることを総会会場に訴える力強いメッセージでした。教会の交流というのは、仲よくする、ということに終わりません。力のある者が、ない者のために祈る、というのでもありません。上のメッセージは、危機に直面した香港の教会が「応答的、預言者的勇気のあることを(あなたが)知るようになる」と言っています。すると、祈りは目的をかなえる手段ではなく、祈りによって結ばれることそのものが目標なのだとわかります。祈り合うところに、キリストの体が、見えて来るのです。国を越え、神の国が見えて来るのです。それを確認できるようなアジア青年交流会(AYG)となればと願っています。


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by rev_ushioda | 2017-08-01 11:52 | Comments(0)

「礼拝を大事に」

「イエスは…いつものとおり安息日に会堂に入り…」(ルカ4:16)。

いつものとおり、いつもの場所で。このことは大事なことなのだ、と気づくのです。教会は、いつものとおり、いつもの場所、日曜日の礼拝を大事にします。

私たちの生活にはいろいろなことが起こります。外からの試練、内からの試練、襲って来る不安、恐れ、失意、落胆。そういうものによって、自分を情けなく思っているかも知れません。ひょっとしたら、憎しみ、怒りがあるかも知れません。湧き上がる欲望、傲慢、人への裁きに支配されるかも知れません。支配されていることさえ、気づかないかも知れません。イエス・キリストだって、誘惑を受けましたし、苦しみ悶えて祈りましたし、怒ることも、涙を涙されることもありました。そのような中で、いつもの通り、礼拝の場に立たれたのです。不安、恐れ、失意、落胆、憎しみ、怒り、湧き上がる欲望、傲慢などの克服の秘訣は、いつものとおり日曜日にはいつもの場所、礼拝堂に入ることなのです。淡々と、祈りの道に立つことこそが、すべての誘惑からの勝利の秘訣なのだ、ということです。

ティーリケという人の「主の祈り」という本を読んで、驚いてしまいました。この本は、戦争中、日曜日に礼拝堂で話された説教集なのですが、いたる所に次のような挿入文があるのです。「この説教はサイレンと空襲によって中断された」「この説教はこれを行う直前に教会堂が空襲のために廃虚となり、場所を移して行なった」…破局のただ中で、人の心はすさみ、希望をなくし、どんどん心を閉ざしてしまうのが当たり前です。しかし人々は集まり、祈りの生活を作り続けた。礼拝をまもることで、すさみ、閉じていく心を、逆に彼らは押し広げていったのです。この説教集は、原題が「世界を包む祈り」となっています。爆弾で礼拝堂が吹き飛ぶ中でさえ、いつものとおり、いつもの祈りができるとき、心の視野は、世界を包むほどに押し広げられる、と言うのです。

「いつものとおり」祈りの生活を作るとき、祈りは、私たちの貧しい心を、世界を包むほどに開くことが出来るのです。

礼拝への道がまもられますよう、祝福を祈ります。


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by rev_ushioda | 2017-07-01 17:46 | Comments(0)

「日曜日を盗むな」

日曜日は、教会では「主の日」と言います。「私の日」ではありません。「主の日」、礼拝の日です。キリスト者は、洗礼を受けた時に誰も皆、そのように教えられ、洗礼の誓約で「礼拝を大事にしますか」と訊かれて「はい」と答えました。ですから、日曜日には何を置いても礼拝に行く人を「キリスト者」と言うのです。

それが、いつから「私の日」にしてしまったのでしょうか。仕事や試験、子育てなどが重なって、気づいてみたら「私の日」になったのではないでしょうか。気分で、行きたくないから行かない。こうして「私の日」にした人もいるのではないでしょうか。いろいろあって、「主の」ものを「私の」ものにしてしまったのです。

エデンの園で、アダムとエバが、取ってはいけないと言われた木の実を取って食べ、主のものを自分のものにした結果、どうなったか、皆さん、御存じでしょう。神と人とのコミュニケーションを破壊しました。神の前から隠れ、人間関係において責任転嫁し、子どもたちは、殺人事件を起こす。やがて人間が神のようになったと、「バベルの塔」はあらわしているのです。主のものは、私のものではないのです。それをしたら、すべてが歪み始めるのです。破綻するのです。

キリスト者にとって、日曜日は主の日です。主の日なので、私の日ではありません。私たち、日曜日は主の日として、私の手を開いて、主にお返ししようではありませんか。

子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら/わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるのかと/万軍の主はあなたたちに言われる。

…あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に/汚れたパンをささげておきながら…/あなたたちが目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても/悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる。(マラキ書1章6~8節)


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by rev_ushioda | 2017-06-01 17:50 | Comments(0)

「牧師の定年」


牧師にも定年があるのですか、と驚かれることがあります。確かに、規定では定年を謳っていますが、「教職者は、定年後も中会に所属するものとする」となっているのです。つまり、定年した教職者は、継続的な責任や任務から解かれますが、教職者であることに変わりがない、ということなのです。一般社会では、定年したらその会社とは関係なくなり、その身分も失われるのですが、そういう仕組みとは、違うのです。定年を迎えたら継続的な責任や任務には就かない、ということですから、当然、今まで働いていた教会を去ることになります。しかし教職者としての身分はそのままなので、場合によっては一時的な教会への責任や任務が与えられて、協力牧師、その他の関わり方ができるのです。例えば、ある教会の牧師が主日を前に急病になったとか、海外に出張することになった場合、招かれてみことばの説教をすることができます。牧師が不在の、無牧の教会のために、定年した教職者が牧師としての働きに就くこともできます(その場合、任期がなければ代務者と呼ばれ、任期があれば臨時牧師や臨時代行と呼ばれる)。単に小会議長をつとめるだけの場合もあります。

牧師と言っても年齢的な身体的、精神的な衰えがあり、教会との関係を維持するのが難しくなっても、教会は、なかなか言い出せないものです。しかし、定年や、短く区切った契約延長の仕組みがあれば、問題なく処理できるという意味で、定年制があるのです。だから、教職者は、定年後も教会との正規の契約関係ではなくても、余力があれば、可能な限り、教会に仕えていくのです。

『日本中会教職者定年および退職金規定』

第3条 教職者の定年は、満65歳に達した年末とする。ただし、小会は

教職者の健康その他の諸事情を勘案したうえで、教職者の定年を満70

まで延長することができる。

2 前項の延長は、2年ごととし、最後の延長は1年とする。

第4条 教職者は、定年後も中会に所属するものとする。


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by rev_ushioda | 2017-04-09 06:30 | Comments(0)

礼拝のプログラムを見て気づくのは、神との対話は、このようにするのか、ということです。

まず、「招詞」は私たちを礼拝に招いてくださる神の言葉ですから、これを上から下の矢印(↓)で表わすことにします。次の「賛美」は、神をほめたたえる私たちの言葉ですから、下から上の矢印(↑)で表わすことにします。
以下、「罪の告白」は↑ 「赦しの確証」は↓ 「交読(十戒)」は↓ 「賛美」は↑ 「祈り」は↑ 「沈黙」は神の言葉を待つ私たちの姿勢ですから↑ 「聖書朗読」は↓ 「説教」は↓ 「賛美」は↑ 「信仰告白」は↑ 「奉献」は↑ 「主の祈り」は↑ 次の「報告」は礼拝が終わってから行うのではなく礼拝の中に入れているのは、神が私たちの中でこのようにしてくださった(してくださる)という意味ですから↓ 「共同の祈り」は↑ 「賛美」は↑ 「派遣の言葉・祝福」は↓ というようになります。
これが礼拝、すなわち神との対話なのです。相互に行き来していることが分かるでしょう。何よりもまず、神の行動、神の招きから、始まるのです。人間のほうから自分の都合によって一方的に語り出すのではありません。まず、神の行動、神の招きから始まり、それに応答するところから対話が始まっているのです。以下、矢印の向きは行ったり来たりします。これが大事です。私たちは、礼拝で、このように神と対話しているのです。

このように神との対話を学ぶ者は、次に、人との会話がどのようなものであればよいか、おのずと分かるのです。まず、相手の言葉に聞いていただろうか。また、相互の言葉との「遣り取り」を大事にしていただろうか。相手の言葉を聞こうともしないで、一方的に、自分のことを話しまくり、相手の時間を奪っていたのではないか。あるいは、大声で言えば、暴力的な方法を使えば相手に通じると勘違いしていたのではないか等々。私たちは、毎週、礼拝に集う度、話し方の基本を神との対話、礼拝から学び取っています。礼拝をまもる私たちお互いの会話が祝福され、豊かな広がりを持ったものになりますように。

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by rev_ushioda | 2017-01-23 09:56 | Comments(0)

「主語は、主」

私は、私が、私の、そのような「主語」を自分に置くことから離れて、「神」、「主」、「主イエス」を「主語」にして考える、これを信仰と言います。
たとえば、泉教会の事を考えてみると、主語を「私」にして言うと、このようになります。 ― 泉教会は、潮田牧師が開拓伝道によって開設した教会である。潮田牧師は、いずみ中央の駅の近くが良いと思って、そこを中心に家を探していたが、たまたま現在の家に出会ったのである。駅からは離れているし住宅地の中でもあるので、当初、難色を示したが、来てみるとしっかりした家だし、二つの駅に等距離で、町の中心に位置するということが分かり、ついに決心し、ここで教会を始めることを決心した。
これを、「神」または「主」を主語にして言い換えます。 ― 主は、潮田牧師に開拓の志を起こさせた。主は、ご自身がすでにこの町に進み出ておられることを示すために、町の真ん中に一軒の家を用意された。主は教会が地域に開かれるために町の真ん中に礼拝の場所を用意し、私たちの目を主に向かって高くあげることを学ばせたのである。
この「主」である神の物語の中に自分を置くことを、信仰と言うのです。皆さんも一度、自分の人生を「主」を主語にして文章にしてみたらいかがでしょうか。そのように考える者として、皆さんはこの世に生まれたのです。キリスト者であるなら、主語は「主」です。何事につけても、主は、主が、主の… となります。
もちろん、いいことばかりではなく、思うように行かないことも起こりますが、その時も、この言い方は何も変わりません。そういう時は「主は、いったい何を教えようとしておられるのか。主は、私たちをどこに導こうとされているのか」という、祈りの道を作るのです。そのようなキリスト者が、そしてその共同体が、世界に現われた。それが教会です。

記事とは関係ないですが、自宅から見る富士山
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by rev_ushioda | 2017-01-15 22:52 | Comments(0)

「信仰の冒険」

先日、ささげられた献金の袋に「十一献金」とありました。
「十一献金」とは、字の通り、十分の一献金のことです。十分の一献金とは、収入の一割は神さまのものだから神さまに「お返しする」献金です。もちろん、教会にそのような決まりがあるわけではなく、この人は、自発的にそのようにされているのですが、「十一献金」というくらい、教会ではこの言葉は昔からよく使われてきました。
それがどこから来たかを考えると、やはり旧約聖書の、あの御言葉に思い至ります。 - 「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ書3章10節)
聖書は、神を試みてはならないと言っているのですが、この個所は唯一、神を試してみよ、と言っているのです。しかし「試してみよ」と言うくらい、そんなに献げたら生活が成り立たないと、聖書の人々も考えたのです。だからこそ、神さまは「わたしを試してみよ」と、信仰は、「冒険」だと言われているのです。水泳を学ぶ者が、水に飛び込まないで泳ぐことを習得出来ないように、神のふところに飛びこまないで(信仰の冒険をしないで)、天の窓が開かれ、祝福が限りなく注がれるという体験は出来ないのです。
つまり、十分の一であろうがなかろうが(それが問題なのではありません)私たちキリスト者にとって、信じるとは「身をゆだねる冒険である」ことに、この「十一献金」は気づかせてくれるのです。神さまに任せ切れないでこの世の価値観との間を行ったり来たりせず、きれいさっぱり、主なる神さまに身を委ねましょう。そして、「身を委ねる冒険」をする者に、主は、言われます。「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」
今年、私たちキリスト者は、信仰の冒険者になろうではありませんか。

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by rev_ushioda | 2017-01-07 10:08 | Comments(0)