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礼拝のプログラムを見て気づくのは、神との対話は、このようにするのか、ということです。

まず、「招詞」は私たちを礼拝に招いてくださる神の言葉ですから、これを上から下の矢印(↓)で表わすことにします。次の「賛美」は、神をほめたたえる私たちの言葉ですから、下から上の矢印(↑)で表わすことにします。
以下、「罪の告白」は↑ 「赦しの確証」は↓ 「交読(十戒)」は↓ 「賛美」は↑ 「祈り」は↑ 「沈黙」は神の言葉を待つ私たちの姿勢ですから↑ 「聖書朗読」は↓ 「説教」は↓ 「賛美」は↑ 「信仰告白」は↑ 「奉献」は↑ 「主の祈り」は↑ 次の「報告」は礼拝が終わってから行うのではなく礼拝の中に入れているのは、神が私たちの中でこのようにしてくださった(してくださる)という意味ですから↓ 「共同の祈り」は↑ 「賛美」は↑ 「派遣の言葉・祝福」は↓ というようになります。
これが礼拝、すなわち神との対話なのです。相互に行き来していることが分かるでしょう。何よりもまず、神の行動、神の招きから、始まるのです。人間のほうから自分の都合によって一方的に語り出すのではありません。まず、神の行動、神の招きから始まり、それに応答するところから対話が始まっているのです。以下、矢印の向きは行ったり来たりします。これが大事です。私たちは、礼拝で、このように神と対話しているのです。

このように神との対話を学ぶ者は、次に、人との会話がどのようなものであればよいか、おのずと分かるのです。まず、相手の言葉に聞いていただろうか。また、相互の言葉との「遣り取り」を大事にしていただろうか。相手の言葉を聞こうともしないで、一方的に、自分のことを話しまくり、相手の時間を奪っていたのではないか。あるいは、大声で言えば、暴力的な方法を使えば相手に通じると勘違いしていたのではないか等々。私たちは、毎週、礼拝に集う度、話し方の基本を神との対話、礼拝から学び取っています。礼拝をまもる私たちお互いの会話が祝福され、豊かな広がりを持ったものになりますように。

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by rev_ushioda | 2017-01-23 09:56 | Comments(0)

「主語は、主」

私は、私が、私の、そのような「主語」を自分に置くことから離れて、「神」、「主」、「主イエス」を「主語」にして考える、これを信仰と言います。
たとえば、泉教会の事を考えてみると、主語を「私」にして言うと、このようになります。 ― 泉教会は、潮田牧師が開拓伝道によって開設した教会である。潮田牧師は、いずみ中央の駅の近くが良いと思って、そこを中心に家を探していたが、たまたま現在の家に出会ったのである。駅からは離れているし住宅地の中でもあるので、当初、難色を示したが、来てみるとしっかりした家だし、二つの駅に等距離で、町の中心に位置するということが分かり、ついに決心し、ここで教会を始めることを決心した。
これを、「神」または「主」を主語にして言い換えます。 ― 主は、潮田牧師に開拓の志を起こさせた。主は、ご自身がすでにこの町に進み出ておられることを示すために、町の真ん中に一軒の家を用意された。主は教会が地域に開かれるために町の真ん中に礼拝の場所を用意し、私たちの目を主に向かって高くあげることを学ばせたのである。
この「主」である神の物語の中に自分を置くことを、信仰と言うのです。皆さんも一度、自分の人生を「主」を主語にして文章にしてみたらいかがでしょうか。そのように考える者として、皆さんはこの世に生まれたのです。キリスト者であるなら、主語は「主」です。何事につけても、主は、主が、主の… となります。
もちろん、いいことばかりではなく、思うように行かないことも起こりますが、その時も、この言い方は何も変わりません。そういう時は「主は、いったい何を教えようとしておられるのか。主は、私たちをどこに導こうとされているのか」という、祈りの道を作るのです。そのようなキリスト者が、そしてその共同体が、世界に現われた。それが教会です。

記事とは関係ないですが、自宅から見る富士山
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by rev_ushioda | 2017-01-15 22:52 | Comments(0)

「信仰の冒険」

先日、ささげられた献金の袋に「十一献金」とありました。
「十一献金」とは、字の通り、十分の一献金のことです。十分の一献金とは、収入の一割は神さまのものだから神さまに「お返しする」献金です。もちろん、教会にそのような決まりがあるわけではなく、この人は、自発的にそのようにされているのですが、「十一献金」というくらい、教会ではこの言葉は昔からよく使われてきました。
それがどこから来たかを考えると、やはり旧約聖書の、あの御言葉に思い至ります。 - 「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ書3章10節)
聖書は、神を試みてはならないと言っているのですが、この個所は唯一、神を試してみよ、と言っているのです。しかし「試してみよ」と言うくらい、そんなに献げたら生活が成り立たないと、聖書の人々も考えたのです。だからこそ、神さまは「わたしを試してみよ」と、信仰は、「冒険」だと言われているのです。水泳を学ぶ者が、水に飛び込まないで泳ぐことを習得出来ないように、神のふところに飛びこまないで(信仰の冒険をしないで)、天の窓が開かれ、祝福が限りなく注がれるという体験は出来ないのです。
つまり、十分の一であろうがなかろうが(それが問題なのではありません)私たちキリスト者にとって、信じるとは「身をゆだねる冒険である」ことに、この「十一献金」は気づかせてくれるのです。神さまに任せ切れないでこの世の価値観との間を行ったり来たりせず、きれいさっぱり、主なる神さまに身を委ねましょう。そして、「身を委ねる冒険」をする者に、主は、言われます。「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」
今年、私たちキリスト者は、信仰の冒険者になろうではありませんか。

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by rev_ushioda | 2017-01-07 10:08 | Comments(0)

「教会の暦に生きる」

年末になると、いろいろなカレンダーが届きます。クリスマスはもとよりですが、復活祭と書かれているものも見られるようになりました。しかし、よく見ると、細かい字でいろいろ書かれているものがあります。「六曜」(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)が書かれたカレンダーは、どの家にも一つや二つは、あるのではないでしょうか。「友引」に葬式・法事を行うと、誰かが死ぬとの迷信があり、友引の日は火葬場を休業する地域は多いのです。建築関係者の大凶日とされる「三隣亡」と書かれているものもありました。大工さんは、その日の仕事は避けるようです。

すると、カレンダーというのは、ただ日を追うためのものでなく、日の巡りに意味を与えようとするものだと分かってきます。教会(キリスト教)のカレンダーでは、日曜日は「主の日」という1週ごとの節目から始まって、1年に「降誕日」「復活日」「聖霊降臨日」という節目を与えて、イエス・キリストの恵みと愛と支配のもとで生きよう、と意味を与えています。

今日という日を、上に書いた「六曜」とか、あるいはほかの迷信的な意味づけで生きていくのか、それとも、キリスト教のカレンダーで人生に意味を与えて生きるのか、大事なことになります。言い方を変えれば、何に支配を受けるのか、です。繰り返しますが、世には、迷信をはじめ、他の思想が組み込まれたカレンダーが、溢れかえっているのです。この世のカレンダーに支配され、縛られて、人間としての自由や意味を失うのではなく、今日というどの日も良い日にしていくのがキリスト者の持っているカレンダーなのです。このような節目のつけ方から、キリスト者は、離れてはいけないのです。

「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」(ガラテヤの信徒への手紙4章10節)


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by rev_ushioda | 2016-12-30 11:56 | Comments(0)

「淡々と」

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
難しい話は分からないと言う。しかし、礼拝が大事なことだけは分かっている。周りがどんなに騒ごうとも、「この道に生きることは自分で決めたのだから、決めた事はやめてはならないでしょう」と言う。日曜日が来れば、「今日は日曜日、さあ礼拝に行きましょう」と、礼拝への道に立つ。大事なことは大事なんだと、文字通り理屈抜きで、問題があろうとなかろうと、今も、これからも、キリスト者を生きていく。

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
教会の暦がアドベントになれば、礼拝堂の4本のローソクに1本、1本、火がともるのを見つめてクリスマスを待ち、受難節になれば1円、5円、10円の節約献金をして主の受難をしのびつつイースターを待ち、ペンテコステには、礼拝堂に子どもたちがまくバラの花を見て、聖霊が私にもくだったと言って喜ぶ。

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
今日は雨/雪だから礼拝に行く人がきっと少ないだろう、寂しい人がいるといけないからと言って、いつもより少し早く家を出て、礼拝への祈りの道を作る。風邪でお休みされた方のためにお手紙書きましょうと、牧師に住所を尋ねる。初めて礼拝に来られた方のそばに歩み寄り、よくいらっしゃいましたと多くを語らずに控えめなひと声をかける。

素直な信仰を、淡々と生きている人がいる。
誰にも気づかれないところで、今日も良い日だと言って、次の礼拝に向けて祈りの道を作っている。

その人を、この世の悪、この世の艱難であっても、押しつぶすことは出来ない。その人は、すでに世に勝っているからだ。

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by rev_ushioda | 2016-11-27 22:37 | Comments(0)

「女性のつどい」

躍動する教会! 女性会の研修会に出席して、私たちカンバーランド長老教会に対して改めて感じた思いです。歴史を振りかえってみても、現在の教会の動きを見ても、伝道のために躍動している。それがカンバーランド長老教会です。
私たちは一つの教会で礼拝をまもり、交わりをし、教会の印象を持ちますが、大事なのは、その教会がどういう共同体に属しているか、ということです。目の前の教会が高齢化だとか、建物が貧弱だとか、経済が厳しいとか、当座のマイナス印象はあるとしても、どういう共同体に属しているか、それが大事です。
カンバーランド長老教会は、国単位で教会組織を作らない、めずらしい教会です。教会はアメリカ合衆国から始まりましたが、すぐに海外に宣教師を送り、今日ではアジア地域にも宣教地域が広がり、名実ともにグローバルな教会となっています。研修会では、私たちは境目を作らない、多様さを含んだ一つの教会、グローバルな教会であると言われていました。つまり、インターナショナルではないのだと。インターナショナル、つまり、ネイション(国家)があって、その境目をつないでいるという意味で、私たちの教会は一つなのではないのです。私たちの教会は、国境を越えて一つなのです。境目を作らない、「一つの」教会なのです。
それを後押ししたのは、女性たちの組織でした。男性は組織とか枠組みとかを大事にしますが、女性的な感性はそういう枠組みを自然に超えたのかも知れないなと、私は講演を聞きながら思いました。泉教会も、女性たちのキリスト者としての感性が、生き生きと用いられる教会でありたいと思っています。
さて、「共同宣教」試論は、そのような考え方を私たちの教会にあてはめて具現化するためにはどうしたらよいかということの投げかけです。この時のために私たちの教会があったのだ、と言えるものを、見えるものとして現したいのです。パウロが「渡って来てわたしたちを助けてください」という幻を見て、すぐ、トロアスから船出したように。

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by rev_ushioda | 2016-10-06 22:01 | Comments(0)

「教会の壁を越えて」

CCC (キリスト教カウンセリングセンター)交友会からの『原稿依頼があり、以下のように書いてみた。

当時、3年間の学習が修了した時、CCCの修了証に「カウンセラー2級」と書いてありました。この「お墨付き」をいいことに、開拓伝道に出た20年前、地域との出会いを求めて傾聴講座(注1)を始め、現在は教会と別組織でNPO法人化し、教会が地域に出て行く足がかりにしています。すると、これをきっかけとして、以下のように牧師がこういうところに招かれて講演するだろうかという、おもしろい経験をさせてもらっています。事業所を対象とした第三者評価委員の講演会、成年後見人(行政書士会)の講演会、子どもの相談を受けるチャイルドラインの研修会、病院の看護師研修会、地域の公立小学校PTAの講演会等々。いつも「ただの牧師です。心理学を勉強したわけではありません」と言いながら、教会と地域との接点は1回でも多い方がいいと考えていますのでお招きに与ります。CCCでの学びと体験がこんな展開になるかと驚き、また、そのような機会を与えてくださったCCCとの出会いを感謝しています。
CCCで学習し始めた2期目、当時、そこでエンカウンターグループが用意されていました。早々に私は、これはまずいことになった、と思いました。皆さんが言っていることがまるで分からないで、一人取り残される感覚。3回目で、「気持ちがわかりません。ついていくことが出来ない」と言うと、すかさずファシリテーターの大西先生が「潮田さんの両脇の人、潮田さんの手をたたいてください。」(パチッ!)「どうですか?」「痛いです。」「“気持ち”が、言えたではないですか!」― 気持ちの言語化とその受容・共感。たったこれだけのことが、その後の私のすべてを方向づけました。
教会で出会う子どもたちは限られています。しかし、子どもの電話を受けるチャイルドライン(注2)のリスナーの研修に招かれて、牧師だったらこのように聴く、という聴き方を5年にわたり共有できたことは幸いでした。教会に来る人だけを相手にするのではなく教会の壁の外の人にいかに主イエス・キリストの慰めを届けるかを考えると、福音伝道こそ教会の働きですが、牧師はこのように話を聴くということをお伝えできることは、これも、福音の多様な現われの一つと考えています。

注1.カウンセリングの学びを生かした「気持ちの聴き方」という市民講座。内容は、「聴くこと」、共感・受容、会話記録分析、ロールプレイ。全10回。現在まで20年間で受講生400人。現在「NPO法人 心を聴く市民ネットワーク」。
注2.「いのちの電話」の子ども版。電話にかかって来る子どもの話を共感的・受容的に聞く。神奈川県では、県内公立小・中・高等学校の子どもたちに学校を通して約75万枚の案内カードを配布、月に500件の着信がある。

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by rev_ushioda | 2016-10-05 17:26 | Comments(0)

「共同宣教試論」

私たち泉教会は、いよいよ20年目の1年間を歩み出します。前任地であるさがみ野教会は、今年、40周年の節目を迎えています。しかし、どちらも共に「教勢の伸び」は思わしくない。そこで私は思うのです。教会は、年数が経てば「盛栄」「発展」していくところなのだろうかと。ビジネス文書にはよくそのように書かれています。その通り、伸びるに越したことはないのですが、実際、盛栄、発展することなく、いつまでも小さな教会ということも、あるのではないでしょうか。
しかし、ここが大事で、小さな教会だからといって、保身的に内固めするのではない。教会の使命は、小さかろうが、大きかろうが、伝道以外ではないのです。小さな教会は小さな教会なりの機動力を生かし、伝道するために、ここに置かれているのです。この視点が抜け落ちると、どうしたら教会を維持できるかといった、せこい話に終始し、炭酸の抜けたコーラのような得体の知れないモノにしかならない。
牧師を招聘する力がないなら「兼牧」(一人の牧師が小さい教会の働きも併せ持つこと)という考え方があります。何とも教会を馬鹿にした言い方だと思います。教会はそんな片手間で出来るような所ではない。
他方、「共同宣教」という言葉があります。力がないなら、地域の教会が共同で宣教を担ったらいいのではないかという考え方です。共同宣教は、限られた人材、限られた経済力で、では、伝道をどうしたらよいかという、前向きの議論の中で生まれてくる言葉である、というところが大事です。力がある教会が、力のない教会を支援する(兼牧する)というような考え方では決してありません。私たちは今、伝道する教会として、そのような伝道する教会の新しい仕組み、枠組みをもって動き始める時を迎えていると思います。

教会が一人の牧師を招こうとして、しかし経済的な能力を持たないなら、方法は少なくとも3つあります。
一つは、他の教会の牧師に、臨時代行を依頼する。つまり、牧会のために一定の時間を割いて来てもらう、いわゆる「兼牧」です。しかし、これは間に合わせ的な形態であって、しかも受ける側は負い目を感じ、この状態を何とかしなければ、というあせりは、どうしても内向きの考え方になります。

一つは、牧師が教会以外で何か仕事を持ち、そこである程度の収入を得ながら教会の働きをする「自給」です。仕事とは、たとえば学校の聖書科で教えるとか、教会の関連事業(英会話教室、塾、幼稚園、介護事業など)での働き、あるいは地域で証しになるような働き(学童保育、NPO、その他)になるでしょうか。

一つは、これは複雑で簡単ではありませんが、いくつかの教会と協力関係を結び、開拓伝道を起こしつつ、地域の複数教会の協力体制で互いの必要をカバーするという方法。開拓伝道に派遣された牧師は、メインとなる教会(牧師を招こうとしている教会)からの謝儀、他の協力教会からの支援、そして塾で教えるなど自給収入で生計を支える。メインとなる教会は専任の牧師ではないものの、協力関係を結んだ牧師により礼拝をまもり、牧会と、小会指導を受けます。この方法の要は、単に受けるだけでなく、他の教会と共に新たな開拓のために牧師を送り出し、「共同宣教」を実現するという視点を持つことにあります。この方法は未知の領域で課題は多いですが、内向きの矢印が外に向かう点で、見える形は「兼牧」と同じようでも意味はまったく違います。

今、泉教会はどの選択が出来るか、小会はその方向性を出すことを当面の優先的課題としています。弱さは他の教会よりも多く持っている教会ですが、だからといってただ受けるだけでなく、私たちも宣教に関わる喜び、期待、を共有する方法を選んで行きたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-10-02 17:31 | Comments(0)

「信仰街道の一里塚」

私事ですが、要介護4の母を自宅で介護して1年。四六時中、食事、排せつ、痛みなどへの対応があり、デイサービス、ショートステイ、ヘルパーや訪問看護、入浴などの日程調整や依頼、準備などに追われているうちに、だいぶ手馴れて来たとはいえ、こんなにも自分の思考や行動が狭くなるものかと驚いています。
しかし、そのように一点に集中せざるを得ないことは別に介護に限らず、たとえば仕事にしても同じことが言えます。1週間、同じことを繰り返し、意識をそこに集中しているうちに、おそらく同じように思考や行動が狭くなるのです。
私はこれではいけないと思い、「点」が「線」になるように、島崎藤村の『夜明け前』とか司馬遼太郎の『国盗り物語』、その他、今、趣味で歩いている街道に関する本の助けを借りました。実際、介護があるので街道に立つことは出来なくても、読書によって、視野が縦横に広がるのを感じました。この感覚は大事だと思いました。地上の街道には、京とか江戸とか目的地がありますから、それを、自分の信仰の目的地に重ねることが出来るのです。一緒に神の都を目指す信仰街道を旅しませんかと人に勧める口実を得ることも出来るのです。「街道」というスケールに自分を乗せることは、私にとって視野を広げるのに益することであり、楽しいことでした。
今年最初の「牧会のはなし」に、「なまけもの」という動物の絵と共に、私は次のように書きました。―この世の時間に支配されず、礼拝の時間くらいは確保するなまけものになって「ぶらさがり見る」と何が見えて来るのでしょうか。―
礼拝は、神の国に続く信仰街道の、一里塚なのです。ここに足を止め、ずっと先が見えると、苦しい今も目的地に包み込まれた今に見えてくるから不思議であり、愉快なことです。

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by rev_ushioda | 2016-09-15 12:20 | Comments(0)

サムエルナイト

教会で一泊する子ども行事は、今回、初めてだった。名づけて「サムエルナイト」。サムエルのように、神の声を聞き分ける子どもになろう、神の言葉をもって悪と戦う騎士になろう、という意味をかけ合わせた命名である。
礼拝の後、さっそく宮沢親水公園に行ったが、和泉川に沿った広大な公園である。本流のそばに写真のような支流があって、きれいな水が流れている。そこでザリガニがたくさん採れる。エサで岩の下からおびき出すのだが、その加減が子どもは分からない。じっと忍耐するのが、小さな子どもにはなかなか出来ない。夢中になったのは、大人だったかも。

ところで、

広場でボール蹴りをしていて、蹴ったつもりが、ひっくり返った。教会に戻って、今度は階段から踏み外した。かくして今回、二度、倒れた。65歳の年齢を強く意識せざるをえなかった。そもそも、そういうことを感じ始めていたので「一泊」というのも「気遅れ」していて、私の提案ではなかった。共に動いてくれる人があってこそ、出来上がるというものだ。それこそ音楽プログラムは無理ということで、早々に他教会の人に応援を求めたのが功を奏し、大盛り上がりとなった。出来ないことが多くなる。その分、人に頼むことが多くなる。それが、良い結果を生む。ということだろう。
階段から落ちた痛みは、当初の打撲痛から、4日経ってみると今度は筋肉痛のような形でその痛みが増してきた。母の介護もあるし、体の弱いところをかばっている結果、筋肉痛になっているのかもしれない。立ったり座ったりがきつい。整形を受診。骨に異常なしということで安心。やはり落ちたときに体をかばった動きをしたための筋肉痛のようだ。
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by rev_ushioda | 2016-08-16 17:18 | キリスト教 | Comments(0)