「眼鏡がない」

20年来の愛用の眼鏡を、去年12月に無くしてしまった。大騒ぎして探したが、見つからなかった。(T_T)
とほほ…

間に合わせに百均の眼鏡を使ってみたら、6、7個のうち、一つが今までとほぼ同じ感じで使うことができたので、眼鏡なんて100円でいいんだよとかうそぶいていたら、数日前に、それも、また無くしてしまった。またまた、大騒ぎして探したが、見つからなかった。(++)
とほほ…

たまらず、眼鏡屋さんに行って、1万円の眼鏡をゲット。

翌日、

それがどうしても見つからない。(-"-)
とほほ… 再び眼鏡屋さんに行ったら、1,000円値引いてくれた。(2個目だから?お見舞い?)

数週間後の後日談。
何と、それがまたまた、見つからない… (-"-) (+o+)

何? 認知の始まり?? いつ頃から?と訊かれる日のために、メモっておこう。^^;
今、65歳1か月。

後日談の後日談。
100円の眼鏡と、二つ目に作った眼鏡は、何とかみつかった。前者はコートの内ポケットに、後者は玄関先の泥除けの隙間に落ちていた。

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by rev_ushioda | 2016-02-09 14:28 | Comments(0)

「介護の日々」

つらい言葉三つ。いや、四つ。

97歳になって体が急速に衰え、「要介護4」になったわたしの母に、時々来るひ孫が言って帰る。
「早く、良くなってね。」
良くなる、なんていうことはない。何ともいえず、つらくなる。

最近、体が痛いと毎日のように言う。
往診に来た、かかりつけの医師にかすれ声で母が言った。
「先生、ずいぶん前ですが、先生に言ったこと、覚えてますか?」
「痛い、痛いと言うようになったら、そのまま・・・ という話です。」
「よろしくお願いします。」
・・と。

今日、呼び出しベルが鳴ったので、妹が行ってみると、母いわく、
「鍋の火をつけっぱなしで部屋に来ちゃった、消してもらおうと思って。」
「と思ったけど、夢だったみたい(笑)」
それを聞いて、ぐぐっと、来た。涙が溢れた。

おむつを替えていると、時々、母が言う。
「いつまで、こうしていなければいけないんだろうかね。」
一瞬、言葉が詰まる。
お前、牧師じゃないか、カウンセリングもしているのに・・ 聞こえてくる声に、母の前では、無力な自分しかいない。― 「ずいぶんお世話になったんだから、今、しっかりお礼させてよ。」


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by rev_ushioda | 2015-12-28 23:29 | Comments(1)

「介護で初めてのこと」

9月以降、介護を必要とするようになった母のことは、事業所(ケアマネージャー)への相談から始まって、役所への介護申請、1か月でさらに介護度が進行したので、再申請をした。その間、介護機器の契約、搬入、不要になったものの撤去、ヘルパー契約、訪問入浴契約、訪問看護契約、かかりつけの医師との連絡、往診、さらには日常的な下の世話、今日は誰が来る日だなど、私自身はフレンドシップあさひの運営委員をしていたが、実際はこんなに大変なのだと初めてのように介護の大変さを認識している。そういうわけで、なかなか自分のペースが確保できないまま、推移している状況である。
先週からヘルパーに入っていただき、きのうは、初めての訪問入浴であった。介護度だけでなく、認知度も若干進んでいるような感じで、母自身もたぶん何が起こっているか、認識するのが難しくなりつつある。入浴の感想を聞いたが、「頭が…」 言葉が続かない。1か月半ぶりのお風呂だったので、気持ちよかっただろうと家族は思ってはいたが、何か、気になることがあったのだろう。言葉もまた、急に衰えているようだ。

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by rev_ushioda | 2015-10-21 06:31 | Comments(0)

「97歳の母のこと」

先週の水曜日、救急車を呼んだ。医師から言われたのは、過呼吸。原因は不安ということで、安定剤投与の結果、1時間で落ち着きを取り戻し、深夜1時に帰宅。
その時、医師が言われた。「これも認知です。」 「自分でできると思っていることが、体のほうではできなくなっている。そのできるということと、できないことのギャップが不安を引き起こし、過呼吸になった。」
ナルホド、自分でできる、やりたいという思いは人一倍強い母である。今年前半は、庭の草むしりなど、こなしていた。6月には、立ったまま草が刈れる鋏を通販で買った。一度はその鋏で庭の草刈りをしたのである。もうできないのだから無理をすることはないと言っていたのだが、その後、外に出ることができなくなった。家の中でも杖をついてでないと歩けなくなった。最近では、杖もだめで、シルバー用ショッピングカートという、両手をそこにゆだねられる手押しカートで、ゆっくり移動している。トイレ、お風呂も介助が必要になった。それが当たり前と言えば当たり前なのに、できる、したいという意識がある。そういうギャップが不安となり、過呼吸になったというのだ。
年齢相応に自分の手から放していくものがある。しかし、人にゆだねることができないことも認知の状態ですよ、過呼吸になるのですよと聞き、何か信仰に通じる話だと思った。握りしめていたものを、徐々に開放していく。そして、できなくなったことをうらめしく思わず、自分でやろうとせず、人に指示もせず、すべて主にゆだねていく。それが成熟した信仰者だ。
その時が来ているのに、あれをやりたいとか、あなたはこうすべきだと指示、判断するとか、何とかしようとせず、そこで過呼吸を起こさず(苛立たず)、むしろ、自分自身の次の段階の方にこそ目を向ける作業が、私たちには必要になるのだ。
「あなたたちの息子、娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)
夢は、若者の特権ではなく、老人の特権である。言ってみれば、天の国を夢見て「はしゃぎまわる」。夢見る高齢者、これが聖霊の働きなのである。そして預言、福音宣教は、次の世代によって力強くなされ、教会を通して神の支配する領域(天の国)が拡大して行く。預言は次の世代に委ね、老人には老人の、夢を語る特権と使命があるのだ。私も含め、70代、80代あたりからこの特権と使命にシフトし、信仰において過呼吸になりませんようにと祈りつつ。

母の体力の落ち方は、この数か月で大きい。この1週間で、さらに顕著になった。先日も、そして今日も、教会の仲間たちが来てくれた。とてもうれしいと、言っていた。

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by rev_ushioda | 2015-09-08 20:21 | Comments(0)

「ちょこっと休暇」

ちょこっと休暇を再び…。日曜日、夕礼拝が終わってから箱根に出発、月曜日3時までに帰宅するプチ休暇のこと。
中山道には、娘一家が家の近くから引っ越すし、母の年齢が97歳になることを考えると、しばらく出ることは出来なくなった。岐阜止まりのままだ。
この、「ちょこっと休暇」の行先の基準は、到着が夜中12時まで可/朝食付で7000円台/チェックアウトが、できれば11時/口コミ評価が高いホテル、この検索で当たったところなら、どこでもいい。今回、強羅にある、ホテル マロウドに泊まった。直前予約なので、ヒットするホテルは毎回違う、というスリル感が、また、いいものだ。新しいホテルとの出会いがある。
今回も、初めて利用するホテルだったが、口コミ通り、大満足であった。一番よかったのは、レストランでのスタッフの会話。その人の自然体かもしれないが、お客さんを喜ばせる短い会話のコツを心得ていると、思った。そのほか、アンケート用紙が置かれており、意見を聞いて、その対応をきちんととっている感じがあった。人への対応がきちんとできることなどホテルの基本だと思うが、当たり前のことが当たり前にできないのが、また人間である。そこをソツなくこなしているのを見ると、ほっとするものを感じ、プチ休暇に行った甲斐がある、というものである。
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by rev_ushioda | 2015-03-16 20:58 | Comments(0)

「牧師会の帰りは」

牧師会があったので、帰路は一番近い駅、南林間から歩くことにした。携帯のナビを見ると、1時間半と出ている。ルートラボでは1時間40分。結果は2時間であった。
通ったことのない道を携帯のナビを頼りに歩くのは、何となく冒険心をくすぐり、心地よいものがある。ただし、ナビを表示し放しだと電池切れを起こし、方向音痴の私は即座に路頭に迷うのは必至である。携帯の長持ちのさせ方も覚えた。まあ、とにかく、携帯がなければ知らない道を歩くなどという、こんな「冒険」は出来なかった。牧師会の帰り道は、会場が近隣の教会なら、ちょっとした冒険ができるのだ。



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by rev_ushioda | 2014-10-07 21:18 | Comments(0)

「葬儀の司式」

…そして、今日と明日は、葬儀となった。昨日の週報、「牧会のはなし」から引用。

明日、横浜市北部斎場にて、泉教会主催で外部から依頼のあったTさんの葬儀が行われます。皆さんは会ったことのない方ですが、教会から何人かに参加していただきます。
私は、これまで何回、葬儀にお仕えしたことでしょうか。その都度、ご家族の悲しみと痛みに出会い、また、家族の死に際してのさまざまな感情に出会ってきました。その方の生きた年齢や、死の迎え方にもよるのですが、人の生涯が閉じられるその時は、人の言葉ではどうにも包むことのできない、収めることができない、その時でなければ経験しない気持ちが動きます。こんな気持ちがあったのかと、自分でも驚くような感情に出会うこともあります。死別の悲しみや寂しさや、さまざまな思いと共に、不思議な感情が湧き出てくるのです。
そういう家族に、牧師は葬儀の諸式を司式する者として、接します。いろいろお話を聞かせていただき、そして黙想のうちに、聖書からふさわしい個所を引用してお話しすることになります。今、このとき、神さまは御家族やそこに集まる方々に何を語ろうとしているのだろうか。一番ふさわしい慰めと希望の言葉を分かち合えるように祈り、短い時間に全力を傾けて準備します。そして、神さまは、その時にふさわしい言葉を与えてくださるのです。
悲しみや寂しさや、さまざまな感情が動く一番大事な場面に、牧師として居合わせ、司式者としてそこに立てるということは、何と光栄なつとめをいただいたものかと思うのです。葬儀に際して、説教がなければ、つまり決まりきった言葉を読むだけであれば、葬儀の準備をするために、もっと動き回ることができるのでしょう。しかし、説教に集中し、神の言葉をもって葬儀にお仕えできることほど、尊い仕事はないのです。慰めと平和と希望を与える神の言葉が、その家族の中に突き抜けていく。そのために、牧師は集中します。そのためには、教会では準備する人が必要ですが、共に、神の言葉が語られるふさわしい場を用意するのです。
今回の葬儀に際して、改めて、教会は神の言葉に生かされ、神の言葉にお仕えする光栄ある仲間たちであることを思うのです。
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教会から両日とも妻と、神学生、長老1名、そして前夜礼拝にはほかに2人が参列してくれた。ご家族にキリストにある慰めと希望、復活を証ができ、また、お見送りに際して喜んでいただけるよい葬儀であったと思う。

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by rev_ushioda | 2014-09-23 01:27 | Comments(0)

「また救急車」

今夜、私が2階にいると、下でドンという音。すぐ、母が台所で倒れた!の声。かかりつけの病院に対応を聞き、さらには提携の病院に対応を聞き、最終的に119番で救急車を要請して、病院に行った。途中でも、病院でも嘔吐していたが、しかし、一番心配だった心不全ではなく、あちこちの検査の結果も重篤な個所は見当たらず、原因が分からないまま、処置もせず、帰宅した。
とにかく2年前に心不全で2度入院しているので、また来たかと思ったが、今回は、心不全ではないとのことで、まずは安心。しかし、心臓が弱っているのは事実で、ニトロを頻繁に使用している。倒れてすぐ、苦しそうだったからニトロを服用させたが、それで改善する程度の一時的な発作だったのかもしれない。すでに96歳。何があってもおかしくない、かな・・

母もであるが、あちらの方(かた)も、こちらの方(かた)も、みこころがなりますように、と祈りつつ今日を閉じよう。

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by rev_ushioda | 2014-09-10 23:59 | Comments(0)

「病床洗礼式」

先週の日曜日、マリアンナ医科大学・横浜西部病院で病床洗礼式を執行しました。私にとって前回は(20年以上も前になりますが)東海大病院で行った病床洗礼式です。病床で洗礼式をするというのは、つまり、もう命が限られている方への洗礼式という意味です。そう何度もあるものではありませんから、今回、私にとってもお二人目でした。
第一報は、マリアンナ横浜西部病院で緩和ケアをされているTさんのお嬢さんから、お母さまがキリスト教で葬儀をしたいと願っている、というものでした。早速お見舞いに伺ってみれば、もうご自身の葬儀準備のお話しかなさらない。「分かりました。ではキリスト教の葬儀ですから、準備のために聖書を読む時間を持ちましょう。」ということでお見舞いに伺うこと2回目で、この方は三浦綾子、曽野綾子の本を読んでおられて、信じてゆだねておられることを確信。葬儀の準備の前に洗礼のお勧めをしたところ、即座に了解され、その次にお見舞いした時、「洗礼はいつですか?」思わず「今度の日曜日にしましょう。」
という次第で、この日の洗礼式となりました。看護師さんの配慮で特別な部屋を用意していただき、洗礼式が執行されました。その様子を小会の代表者、神学生、妻と、そしてお嬢さんが見守りました。Tさんは、うれしい、うれしいと、何度、繰り返されたでしょうか。もう時は残されていないというのに、不思議な時間が流れました。
この方に、神は、最期につけるすばらしい節目の時をお与えになったと思うと、本当に感慨深い瞬間でありました。そしてここに、泉教会のもう一つの物語が起こされたのです。

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by rev_ushioda | 2014-09-08 21:26 | Comments(0)

「転倒の傷」

ある時、私は年がいもなく、子どもが乗って遊ぶキックボードに乗っていて転倒し、アスファルトの路面に頭を打ちつけて目の上を切り、数センチ縫うことになってしまいました。すぐ病院に行って手当をしたためか、傷の直りは思ったより早く、1週間くらいですっかり癒りました。けれども、気付けば両方の手や肘には何の傷もありませんでした。倒れる体を支えるはずの腕は、その時、まったく動いていなかったのです! 気持ちは二十歳でいたのに、何か厳しい現実を突き付けられたような感じがしました。「お前の体は、もう若くない」という宣告を受けたような感じは、どうにも情けないです。体よりも心に傷を負ったような感じです。
事故についてはいろいろ励ましてくれる人もいたのですが、私は、事故を起こしたというよりも、とっさに反応できない反応の鈍い、そういう年齢になったのかという自分に失望していたのです。
表には現れない、その人にしか分からない、いえ、場合によっては自分でも気付かないかも知れないような感情のところで、人は傷を持ち、癒やしを必要としているのかも知れません。その感情を抑えているから、どこかで無理が来るのです。カウンセリングにおいでになる皆さん、多くの場合は、傷がある気持ちを言葉にして言えなかったということです。感じていることを感じてよいのだと自分に許可を与えることができなかった… その時は、言えるような状況でもなかった。もしそうしていたら、ずいぶん違った結果になっていたのです。
旧約聖書のヨブという人は、理論や知恵を持ち出す友人たちの前で、その理論とか知恵の枠組みで考えることを拒否して、思い切り、神に向かって叫びます。そして、悲しみや怒りに奪われそうになる心を、人間を、取り戻していくのです。思い切り叫ぶことができる対象として、神、人間の造り主である方と向き合える人は、幸いです。

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by rev_ushioda | 2014-07-12 20:20 | Comments(0)