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「美濃国13日」

これは、お世話になった「美濃国街道指南書」(笑) 岐阜県内の旧道ガイドである。
現在の地図に重ねて、赤線で旧道が記されているので、周辺の交通事情が分かり、大変便利であった。しかし実際は、さらに詳細な地図も持たなければならなかったが。このようなガイドブックが、現代にしてたくさん出版されているのだ。ハイキングブーム、また20年近く前から五街道敷設400年ということでの旧道ブームもあって、出版が相次ぐ。地元市町村も歴史の保存、観光客誘致なども相まって案内板の設置など良くしてくれるから、ガイドブックなしでも結構、歩けるが、肝心なところで道を間違えるから、やはりガイドブックは必要である。

このガイドブックを見ながら、思うのは、美濃に入るとき、小学校1年生になった孫が同行したこと。今回、5年生になったその孫が再び同行し、今回は美濃を抜けるところだった。美濃国通過に足かけ5年(実際は13日)かかったということである。

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by rev_ushioda | 2017-09-08 12:22 | Comments(0)

今回、ついに信濃国に入ったことが最大のトピックだ。西から来て馬籠手前で、下の写真のように美濃、信濃国境を通過した。
…ところが、それは12年前までの事。12年前の市町村合併によって県境が北に移されたため、現在の岐阜、長野県境は、まだ先になってしまった。
しかし、ここは旧街道だ。それまでの長い歴史は、今、ここが美濃と信濃の国境だと物語っている。そこを通過、私たちはついに信濃国は馬籠宿に到着した。(到着したが、30分後にバスが出るということで、馬籠の観光は次回にお預けと相成った。)
それにしても島崎藤村は『夜明け前』で、「あの山の向こうが中津川だよ。美濃はよい国だねえ」と言った「よい国」に、「市町村合併」によって今は属することになったのだ。馬籠に至る街道に点在する集落の、長年の希望がかなえられた思いが伝わってくるような気がした。


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今回は、孫を連れて前回の終点、深萱立場までは駅からかなり離れているため、そこまではタクシーで行って、そこからの出発となった。まずは「十三峠」という山中の道を行き、大井、中津川、落合、馬籠に至る4つの宿場をめぐるのが今回のコース。山間の道、山中、水田地帯、再び山中の道に入り馬籠に至るという、変化に富んだコースだ。それにしても御嶽から馬籠を歩いてみると、それより西の道とは打って変わり、「旧中山道」イチニチジュウヤマミチである。
距離は、時間としては一日目が3時間、8.7キロ。二日目が5時間、9.8キロ。三日目が4時間、8.4キロであった。お天気は晴れ。気温は30数度だったと思う。さすがに日影のない道路は暑いが、今回の「武器」は、写真の菅笠(三度笠)。これが抜群の威力を発揮した。
2日目、時間ばかりかかって距離は伸びてないのは、孫が疲れていたこと、暑かったこと、昼食の時間が含まれたことなどの理由だ。3日目は孫は元気だったが、1日目と同じ距離なのに時間がかかってるのは、かなりのきつい上りだから、である。

ちなみに、後日談をここに挿入すると、帰宅した日から1週間、ずっと曇りや雨。腕の日焼けを見ながら、汗だくになり、三日間でペットボトルを10本も飲んだほどの道行きは夢だったのか、と思うほどの落差を経験した。

1日目
深萱立場から大井宿(現在の恵那)8.7キロ。まずタクシーで前回の終点に向かった。
深萱立場より西の大湫宿(前回通過)から、大井宿まで、この山中の道を「十三峠」と言う。しかし山中の道は、実はさらにずっと西の御嶽宿から続いていて、御嶽から大井宿は、31.2キロの山中の道で、途中は現在、旅館、ホテルはない。細久手でかろうじて江戸時代から続く宿が一軒だけあり、そこに泊まらないわけにはいかなかったわけである。この区間は幕府が命じて新設した道。世は移り、明治になって街道の用を終えたあとは、街道は世間の動きから取り残されたので、かえってそれが功を奏し、宿場、一里塚など、ほぼそのまま残されている。そういうわけで、30キロも、山中に道を開いてしまう幕府の権力を思いながら歩くことになった。
深萱立場からは、しかし山中ではありながら山間の畑の中を行くことが多く、比較的今までと比べて楽であった。早くも色付いた畑を舞うトンボの群れの中を進んだ。

途中、休憩した場所に、再び、ガイドブックを忘れて取りに戻ったというハプニングがあった。(今来たばかりの道なのに、一人、山中を歩くと、クマが出ないかとか、急に不安になった。たとえ孫であても、旅は道連れとはよく言ったものだと思う)

2日目
大井宿(恵那駅前)から中津川宿まで9.8キロ。
とにかく暑く、田舎道で木陰も少なく、菅笠が役立つ日だった。そのためか孫の体力がもたずに、中津川宿(中津川駅)でリタイア。
大井から中津川は、全般に農村部の田舎道といった感じで、中津川に入ると一面、田畑の田園地帯になった。山間部を抜けてきたので、久しぶりに見る田園である。途中には休憩をとる店もなく、中津川に入ってようやく1軒の食堂を見つけた時はほっとした。
途中、甚平坂というのがあって、ここは浅田次郎の『一路』を読んで、山の上から見下ろすと、坂の下からも大名行列がの上ってくるという、鉢合わせの場面である。小説と重ねながら歩くと、初めての道も何やら懐かしい気がするから不思議だ。中津川に入れば、そこから島崎藤村の『夜明け前』が彷彿とすることになる。

3日目
中津川宿から馬籠宿まで8.4キロ。
中津川を出てしばらくすると、とんでもない急坂に出会った。とにかくすごいので、「きのう、無理してこないでよかったね、正解だった」などと孫を持ち上げて話したのであった。坂の上に立場があり、そこの田園風景といい、さらに、そこからは下り坂になるのだが、遥か向かいの山々を見渡す景色が、また何とも気持ちよかった。
落合宿をあっという間に過ぎると、そこからは馬籠に至る、上り坂が始まる。落合の石畳は苔むして、なかなかの風情だった。と、そんな具合に、昨日、体力を温存した分、思いのほか軽快に上ることができた。木陰で道いっぱいに新聞紙を拡げて休んでいたら、郵便配達のバイクが来て、あわてて道をあけたら、あちらが「申し訳ありません」だって。
さて、馬籠宿が見えた。島崎藤村の『夜明け前』には、こう記されている。「美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山道をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。」 私たちもついに馬籠宿を見つけた! ただし、この有名な宿場に入るのは、次回の楽しみに残すことになって、30分後のバスに飛び乗り、往路4時間「よじ登って」来た私たちは、30分で中津川駅前の人となった。

次回、馬籠宿内を楽しみながら、馬籠峠を抜け(ここが現在の県境)、次は妻籠宿。いよいよ「木曽路」に入る。楽しみだ。旧道を歩く旅は、水平の線と、歴史という垂直の線とが交わる現場だ。非日常体験に癒されるだけでなく、水平の線から入って行って、その現場の垂直の線、歴史の息遣いを体感できるのがいい。スポットでそこに行っても、感じられないものがある。伊達に菅笠かぶっているわけではないのデス。読者の皆さんもどうですか、挑戦しませんか?


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by rev_ushioda | 2017-08-31 12:34 | Comments(0)

1年半ぶりに、街道に立つことができた。昨年9月に母が急に動けなくなり、過呼吸で救急車だとか、要介護4の認定を受け、介護用品だ、ヘルパーさんだ、訪問看護、訪問入浴だ、医師の往診だと、とにかく数か月間大騒ぎし、その後も1年余り、公私ともにまったく動けなくなってしまった。しかし、ようやくショートステイを上手く使えるようになったので、ここで再び、街道人となることができた次第である。

さて、今回は、いよいよ濃尾平野を離れるコースである。伏見宿、御嵩宿、細久手宿、大湫宿という、ここで街道はまさに難所「十三峠」の道、山中に入っていくのである。江戸時代に山の中に新設されたという道なので、明治に入って平地に鉄道が敷かれると取り残された地域であるため、当時のままの街道風景が今に残る。宿泊場所はどこにもないが、幸い、江戸時代からの旅籠一軒、今も営業しているので、そこに泊まることにした。街道がようやくJRに接近するのが大湫宿の先、深萱立場なので、今回の目的地はそこまで、となった。
山道、坂道の難所続きなので、数か所に「救急の場合は119番」と書かれている看板を見た。そして、「熊の出没情報あり」の看板も数か所に。イノシシに注意という看板は前回も見たが、ついに、熊である。今回初めて、持参した熊鈴を鳴らしながら山中の道を歩くことになった。
電車に乗るために街道をはずれ駅に向かう途中、出会ったのは中央高速道路と国道19号であった。琵琶湖から御嵩まで、ずっと国道21号に並行する旧道を歩いてきたが、難所の山道を抜けると、ついに木曽路を通る19号に出会った。これから19号線とのお付き合いとなる。
次の地図はおおまかな位置確認のために添付。旧中山道は書き込まれていない。街道は、依然、東に向かってほぼ直線である。


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11月28日(月) 太田~伏見~御嵩

前回宿泊した「ルートイン可児」に車を停め、本来なら前回の終点、太田の渡しに戻って起点となるはずである。しかし、そこから1時間くらい先に進んだところに今回宿泊のホテルが位置するため、もはや太田には戻らず、ホテルから直接、街道に入ることにした(太田からは国道をひたすら歩くことが分かっていたので、短絡させても国道なら、まあ、よしとした)。
そういうわけで、御嵩までのコースは特に見るべきところもなく、2時間半ほどで目的地に到着。そういえば、途中、こんな田舎に? と思うところに、中国人が経営している中華料理店(横浜という名前がついていた)のラーメンがあって、おいしかった。
「ルートイン」は、大きなお風呂がついているので、湯船でゆっくり休むことができた。

YOUTUBE「西から御嵩宿を越える」 https://youtu.be/XHp7V9jjsGo

29日(火) 御嵩~細久手

この日から一泊二日は相当の山道を覚悟して出発。しかも途中、江戸時代から続く「旅籠」に泊まるので、初めてリュックを背負っての道行きとなった。この区間、幕府によって何もない山中に開かれた街道なので、ここから大井宿(恵那)まで、何もない山の中である。
案の定、厳しいのぼりが続く。いよいよ木曽路近し、という実感。途中、隠れキリシタンの遺物が発掘されたという記念碑があり、それも今は先人の遺産ということで、町おこしに一役買っているらしい。皮肉なものである。
山中の景色のいい場所には、相当こだわりのある喫茶店があった。ケーキしか出さない。店内でおにぎり食べていいかと訊いたら、断られた。お天気がよかったから外で食べれたが、雨でも、同じことを言うのだろうか。しかし、ここのケーキは、おいしかったこと。中山道とは別の車道を通って、次々、お客が来る。とにかく、ずっと上りだったから、一息入れる場所があって、私たちは大いに助かった。
店を出た途端、今度は、急な下り坂が長く続き、そして、次はまた長い上り坂となった。
山の中なので、一里塚は何のじゃまにもならないため、どれもみな壊されずに昔のまま、保存されている。また、馬頭観音があちこちにおかれ、旅人をいやす清水があれば名前がつけられ、茶屋の跡があちこちにあり、かつて、旅人の山中の道行きを助けていたことが分かる。途中の鴨の巣一里塚で電話をするように宿から言われていたので、電話。昔の人も、ここから宿泊の確認電話をしたのだ(笑)
宿泊は、江戸時代からの旅籠「大黒屋」である。明治になってから70余年閉じられていたのが、昭和26年、炭鉱の工夫たちのために再開されたのだとか。そのうち指定文化財になり、だからであろうか手をつけられずにいた壁紙など、あちこちがボロボロである。尾張藩の殿様の定宿だということで、意匠の凝った建物であるが、時間の流れには勝てないなと思った。ふとんも、昔ながらの綿入れふとんで、あの重さは久しぶりの感覚だった。いずれにしても、ここに泊まらなければ野宿となったわけで、ありがたい旅籠であった。ご主人も丁寧に対応してくれて、うれしかった。

YOUTUBE「西から細久手宿を越える」 https://youtu.be/YQvP-imCojw

30日(水) 細久手~大湫(深萱の立場)

大湫で下山しようと思っていたが、旅籠の御主人の勧めもあり、時間は倍になるが(計4時間越え)、その先「十三峠」に入って、途中の深萱立場で下山することにした。
細久手から先は、昨日とは打って変わって、気持ちの良い林の中の舗装路が続いた。軽井沢だね、と言いながらコースを楽しむことができた。途中、周りにゴルフ場が開発されたところがある。子どもが捨てて行ったのかなあ、スーパーボールがあるよ、と思っていたが、次々と見つけるに及んで、ゴルフボールと気づき、こんなのが飛んできて当たったらどうするのと急に怖くなったとき、目の前をゆっくりとカートが通過していった ^^;
さて、琵琶峠越えである。500メートルに及ぶ石畳が当時のまま残っている。この石畳は昭和45年に「発見」されたものである。権力の道も通行が途絶えれば100年近くも地中に埋もれてしまったわけで、そういうところに道を通した、ということでもある。山中にバイオトイレというのがあった。太陽光発電でドアを開けるとパッと電気がつく。すごくきれいな室内で、特殊な装置で排泄物を処理して自然に還元するということで、ハイテクトイレには驚いた。

大湫宿は、細久手同様、山間に取り残された宿だと聞いていたが、細久手は特に見るべきところはないのに反して、見どころもあり、駐車場もあり、トイレも充実して、街並み保存にかなり力を入れているのが分かる。ここに宿泊施設を作ればいいのにと思いながら、先を急ぐので、通過。
その先はいよいよ「十三峠」である。まず寺坂を上って、あとは下って、上って… の繰り返しである。清水があれば名がつく。観音像があちらこちらに。そして、句碑が、またあちらこちらに、という具合。中山道の中でもここが、最大の難所だったのではないだろうか。

そういうわけでようやく武並駅から電車に乗ったとき、ほっとしたのか、妻は今回、山道でとてもお世話になったノルディックポールをホームに置き忘れてきたという、落ちがついた。

次回は、いよいよ信濃の国、木曽11宿の第一番目の馬篭宿に至る!

YOUTUBE「西から大湫宿を越える」 https://youtu.be/PiSHNq78Cp8

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by rev_ushioda | 2016-12-02 11:17 | Comments(0)

「軽井沢とキリスト教」

昨年、某短大後援会の主催で、軽井沢の教会巡りツアーに参加した。その時にはブログに書かなかったのだが、最近、後援会便りに「ひと言」を書くようにと依頼が飛び込んできたので、以下、急ぎ書いたの拙文。これでも、800字の制限をはるかに超えている…



旧中山道で碓氷峠を上り、軽井沢宿に入ると、最初に出会うのが「軽井沢ショー記念礼拝堂」です。明治に入って軽井沢宿は急にさびれていきましたが、明治19年、ここを通過したアレキサンダー・クロフト・ショー宣教師は、祖国スコットランドの風景を思い出し、この地にヨーロッパ式建築を広め、寒冷地農業を教え、教会堂を建て、キリスト教の伝道に乗り出したのです。「軽井沢高原教会」は大正時代、内村鑑三、北原白秋、島崎藤村らが集う場でした。
私は今回、軽井沢のいくつかの教会を巡りながら、江戸時代に政治の道として使われた中山道の一宿に、明治初期からキリスト教の伝道がされていたことに感慨を持ちました。しかも、その伝道は地域に近代文化を花開かせたものであったのです。
政治の道は権力の道、武力の道ですが、軽井沢は権力と共に廃れて行ったのではなく、キリスト教によって文化の花を開かせたのです。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(旧約聖書「ミカ書」4章3節)

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by rev_ushioda | 2016-01-05 17:44 | Comments(0)

さて、1年ぶりに街道に立った。
去年も暑かったが、今年も暑い。しかし、今年は武器がある。男の日傘だ。(^^)v
これがなかなか良くて遮熱率が100パーセントに近いのだ。周りからの熱がなければ、確かに木陰にいる感じになる。ただし、傘を持っていると、ノルディック・ポールを持つことができない。写真を思うように撮れない。いろいろ不便はあるが、とりあえず夏の街道も怖さ知らずといったところだ。

各務ヶ原は岐阜の東、濃尾平野の東のはずれにある。前回(去年)、もう少し行けば鵜沼宿で、「岐阜三川(ぎふさんせん)」 三つ目の、木曽川と出会うはずだったが、しかし時間切れでリタイアしたその場所が、今回の起点となった。位置としては、地図の START 地点。国道で言えば、濃尾平野の中山道は、ほぼ21号と重なっている。

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距離としては二日間で16.2キロ。一泊二日では仕方がない距離である。

スタートしてしばらくすると、鵜沼宿への道案内があり、そこから宿内の道になった。右手に犬山城(国宝)が見えたが、その手前に十字架が見えた。当時は禁教下だったから、ありえない光景だなあ。高札に、こう書いてあった。きりしたんを見つけ申し出たら、「ご褒美として ばてれん 銀500枚、いるまん 銀200枚、〇〇(信徒と言う意味だろうか)銀100枚」と。高札の前で、私がそれだ、と言ってやった (^O^)

宿を抜けると、今はすっかり住宅地となった急坂を登る。これが「うとう峠」だ(摺針峠、今須峠に続く、確か3つ目の峠)。住宅地を抜けると、急に山道に入る。そこにあった看板。

「イノシシ出没のおそれあり。注意」
「マムシに注意」

来た~!!! 
だいたいイノシシに、どうやって注意したらいいのよ。出会ったら? どきどきして、後ろやら山の上の方を見て、足取りがおぼつかない私を置いて、妻は平気な顔して先を歩いて行く。度胸があるのか、何なのか。そういえば、妻の干支はイノシシだった… 足がすくむ思いで命からがら国道に出た。
見れば、木曽川の流れがそこにあった。ついに木曽三川の三つ目の流れだ。これから先、木曽路をずっと共にする川と、ここで巡り合った。JR高山本線 坂祝駅があって、そこで一日目は終わり。

二日目

二日目は、この木曽川の堤防を歩く。そのまま太田宿へ。ここの渡しは、「木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」とうたわれた中山道の難所。今は太田橋を渡って対岸へ。そこは「今渡」と書いてあって、昔は、この渡し場はもっと下流、宿のある方向にあったが、川の状況が悪化、渡し場は上流に移動したので、「今渡」だ。昔、幕府は、いくつもある川を自然の要害としたために橋をかけなかったが、なるほどと思う。

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今回初めて、往路は中央高速を使った。相模原市内で一般道を走るため、帰路は、渋滞をさけて東名を使ったが、いよいよ東名から中央への分かれ目に差し掛かったというのが今回の行程であった。これで西から来て濃尾平野を突っ切ったことになる。
最後に、1891年(明治24年)10月28日に、濃尾地方で日本史上最大の内陸地殻内地震があった。そのため、濃尾平野にある江戸時代からの建物はほとんどが倒壊して、今ある建物の多くは、それ以降のものであった。

帰宅後、さっそく「楽天」で“熊鈴”と“爆竹”を購入。イノシシへ対処法を書いたサイトをコピー。

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by rev_ushioda | 2015-07-21 23:42 | Comments(0)

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中山道歩きは、今度行くとしたら岐阜県可児市をベースにすることになる。そこまで行く経路として、調べたら、図のように、いよいよ中央高速道路が経路候補として入ってきた。今まで、いったいどこで東名、中央の選択肢がわかれるのかと思って楽しみにしてきたが、距離的には、ここ(岐阜県可児市)だった。
しかし、距離は中央高速が2キロ多いだけ、ほぼどちらでも同じというのに、中央高速の方は時間が50分近くも多くかかるって、どういうことなのだろう?(後からわかったことは、高速に入るまでの一般道が、中央の方がたぶん5、6倍も長いという理由だ。)時間からいったら、次回も東名高速を使うことになるのかな。しかし東名を使うにしても豊田ジャンクション(岡崎)で東名に分かれ、東海環状自動車道に入るのは、新しいルートになる。このようにルートが徐々に変更され、知らない道を走るのも、楽しみの一つだ。

次の地図は、中山道(青の線)と、中央/東名高速道路(緑の線)。う~ん、ちょっとわかりづらいか‥ 赤線は、関係ないが、群馬県境。
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by rev_ushioda | 2014-09-12 14:07 | Comments(0)

今回の中山道は去年8月以来の1年ぶり。岐阜県下「高温注意報」で、35度はあったであろう2日間の道行きとなった。まず、今回の地図を添付。美江寺宿から加納宿を通り、鵜沼宿(正確には鵜沼手前、各務原駅)まで。地図では左から右へ、真東に移動。まさに濃尾平野を突っ切っていくコースである。
目標とした鵜沼まであと一歩と及ばなかったが、暑い日に、これだけ歩くことが出来たのだから、満足である。
途中、ぶどう園があったので、宅配で送ってもらうことにした。歩きながら食べると良いということで一房余計に戴いたが、暑い日にはこれがのどの渇きにも、活力にも、非常に良い効果をもたらすことが分かった。有難かった。横浜で営業していたという人で、今はリタイアして、郷里に戻って果樹園をしているということだった。
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いやあ、暑かった。半ズボンをはいていたら、後方からの西日が当たったふくらはぎが、真っ赤に日焼けして、ひりひりしている。
それはそれとして、暑い日は日傘が効果的だということが分かった。妻の日傘は普通の日傘ではない。熱を全く通さないのだ。それに比べ私の普通の日傘は熱が通って来る。妻の持っている日傘を見て、普通ではない日傘があることに初めて気づいた。
そして今回は、ホテルが良かった。都市型ホテルにして本物の温泉。無色だったがぬめり感が最高! しかも、浴場が大きいのだ。だからこのホテルにしたのだが、大当たりでこれは良かったね~
写真は岐阜駅前。織田信長の銅像が写真左側に立っている。(金ぴかで、これを銅像とは言わないかもしれないが)今回は金華山の岐阜城にも行くことが出来た。夜だったが、360度の夜景は素晴らしかった。司馬遼太郎の『国盗り物語』を前もって読んだが、あの斉藤道三、信長も見た夜景だ。天下を盗ろうという野心が燃えた景色を堪能した。
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ドーミーイン岐阜駅前

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by rev_ushioda | 2014-08-21 22:20 | Comments(0)

「無為に延期ではない」

ついに、再び街道行きは延期となった。去年の8月に行って以来、この分だと、美江寺に立つのは、今度も8月になる。
街道に立てないからといって、無為に過ごしているわけではない。岐阜(美濃国)と言えば、斎藤道三。司馬遼太郎の長編歴史小説『国盗り物語』ということで、これを読破。さらにこの先の中津川、馬籠と言えば、島崎藤村の『夜明け前』である。現在、読書中。
ところで、もう一つ、作業を進めているのは、教会のホームページの再建だ。すでに運用はしているが、古いソフトで作ったもので実際は書き込み不能となって6、7年が経っている。今は業者委託をして再建中である。製作費4万円ほど、月々のランニングコストが5,000円。礼拝人数が減る一方では、ここは何としても新たな来会者を得たいので、この出費は、致し方ない。
さらに作業中なのが、電話メッセージの製本化である。例のブログ製本に持って行くために、現在は編集中。伝道用、また、数百円の上乗せで、わずかではあるが教会への収入も期待したい。
前回作った新型トラクトも、6000部が出たので、また新しく作り直したい。これは今、構想中。すべきことが山積しているので、街道の楽しみは、8月まで取っておくことにしよう。

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by rev_ushioda | 2014-04-25 21:22 | Comments(0)

滋賀県柏原宿をスタート、3日間で、岐阜県美江寺までの27キロ踏破。今回は夏休み中の小学校1年生の孫が一緒であった。と言っても、キックボード持参。暑さの中で、これがなかったら、早々のリタイアとなったに違いない。

前回は近江の国(滋賀県)のはずれまで来ていたから、初日に早々と国境を越え、近江路から美濃路(岐阜県)に入った。
今須宿を通過、その先の今須峠あたりで、それまで元気だった孫の体調が悪くなり(軽い熱中症か)、そこから1.5キロをおんぶすることになった。旧街道でもバスが走っているところはあるが、国境、峠などを通過する山間では、交通手段は何もない。しかしその先で休憩をとった後は再び歩けるようになって、気づけば「不破の関」を越えて、そこは関ヶ原であった。

歴史のお勉強:
不破の関は、673年、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、都を防御するために設けられた。これを三関と言って、三関から東は「東国」または「関東」と呼ばれたそうである。その前年、672年に古代最大の戦争「壬申の乱」が起こっている。この辺りも戦闘に巻き込まれたことが書かれてあった。
そして関が原は、1600年、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として「天下分け目」の戦いが繰り広げられたところ。いたるところに戦陣旗がたなびいていた。私たちは、徳川方、石田方そのどちらにも組することなく、事なきを得たのであった。

2日目、関ヶ原の徳川家康の最初陣地を通過し、垂井宿へ。そこで無料休憩j所が設けられており、ボランティアが煎れる100円のコーヒーをいただき、元気を回復。そのボランティアの人に折り紙を教えてもらった孫は、ご機嫌。実は、この日はそこで中止しようと思っていたが、孫も意外と元気を取り戻したことだし、また、前日の山間の道と違って道にコンビニも多く見られたので、予定通り、次の赤坂を目指すことにした。結局、この日は休憩も含めてであるが、6時間の道行きとなった。

歴史のお勉強:
「お嫁入り普請」 江戸時代末期の1861年、皇女和宮が降嫁した際、大行列一行が宿泊。赤坂宿ではそのために街道沿いにあった古家の建替えや空き地に新築を行い、54軒もの家が建て直されたそうな。その建物が現存している。街道からの見栄えをよくするために表側だけが二階建てという珍しい家もある。

3日目。岐阜県下36度の猛暑日、結局、二日目以降はずっと日傘をさしかけ、孫のキックボードを私が引っ張ることになったが、それでもこの暑さの中、これだけ長距離をよく頑張ったと思う。美江寺宿は、目的地、樽見鉄道 美江寺駅の電車の時間が迫ったため(乗り遅れると1時間半、電車が来ない!)、宿内は急ぎ足で通過。しかし、実はその時間は反対方向であって、実際は30分、駅で待つことになったが。来たのはディーゼル車、すなわち「機関車」であった。やはり無人駅で、のどかな風景が広がっていた。

孫いわく、「ホテルを出て、駅に行っただけだった。」
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出発地「柏原宿」 動画はここ

2日目の終点「赤坂宿」 動画はここ

3日目の終着点「美江寺宿(駅)」 動画はここ


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by rev_ushioda | 2013-08-08 20:39 | Comments(1)

「予告 今度の街道は」

中山道は、今度は8月5~7日に行ってきます。
今度歩くのは以下の地図にある区間になります(地図は、表示後、引いてみると全体が分かります)。今回、近江の国(滋賀県)から美濃の国(岐阜県)に入ります。ヤドは、街道からははずれますが、鉄道の便を考えて、大垣で二泊する予定です。歩行時間とそこに駅があるかどうかという関係で一日当たりの歩行時間/距離が決まりますが、今回は1日目2.5時間、2日目4時間、3日目2.5時間のウオーキングです。1時間3キロなので、3日で27キロほど。昔の人は、1日で40キロは歩いたそうですが・・・ 2日目は関ヶ原が起点なので、まず、「天下分け目」の古戦場の一部を見てこようと思います。そういえば、前回は、この余った時間で、彦根城を見学しました。

地図 柏原~美江寺

ちょうどよいビデオがあったので、今までしたことがないのですが「予告ビデオ」として、添付します。ちょうど国境から今須宿を経て、関ヶ原祝までの内容です。このビデオの道が、1日目となります。



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by rev_ushioda | 2013-08-01 22:09 | Comments(0)