「半世紀の感覚」

「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」 ゴシック">48年前の遠方、である。私が初めて教会行った時に、その教会付属幼児園の教師として、その方は仕事をされていた。1年間、教会学校教師会でご一緒した。と言っても、こちらは大学生。教会に初めて行って半年目のことだ。当然、洗礼を受ける前である。信仰を知らない者に教師になってほしいと言われた、当時、T牧師の、良くも悪しくもその度胸はたいしたものである。私はと言えば、いいんですか?とは言ったものの、若気の至り。キリスト者でもないのに教会学校の教師面していた、にきびだらけの大学生であった.
その友は、今も、当時出会ったなつかしい方々の一人として記憶に留めていたのであるが、ある日、友人が自分の教会に、昔、その教会で幼児園教師をしていた人がいる。会いたいと言っている、会いますか? と言うのだ。不思議な巡り合わせと言うが、そういうわけで、48年という遠方から、その方が現れた。当時のことで話は盛り上がるが、目の前には、私よりも10歳年上の、初老のご婦人がいた(昔のままの「お姉さん」というはずは、…ないよね)。当j時、大学生だった私も、今年は牧師定年(規定上の定年)の年である。半世紀という時間の隔たりに、不思議な感覚をおぼえた。




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# by rev_ushioda | 2016-08-08 18:31 | Comments(0)

教会の子どもたちのために、初めて一泊のお泊り会が開かれます。これは、一般に夏期学校と言われていますが、初めてのことなので、今年は仮に、このような言い方にしています。
ところで、泉教会は、大きな教会のように子どもたちのための教会学校も、教師会も、ありません。小会(長老たち)が直接、子どもの育成、信仰教育に関わっています。小会では、いつも子どもたち一人一人のことを話しています。大きな教会ほど、一人の奉仕者に任せますが、それが出来ない泉教会は、小会の全員が子どものために祈り、子どもの信仰育成に関わっているのです。子どもにとって、こんなすばらしい教会はないと思っています。長老たちの目は常に子どもたちに注がれ、必要な言葉かけをしているという意味で、他の教会とは違う良さがあります。
そもそも、礼拝を大人と一緒にするというところから始まって、食事も大人と一緒にするのが私たちの教会の特徴です。子どもたちは、大人の目配せの中で成長します。規模が小さいゆえに、また、専任の奉仕者が立てられないゆえに、逆に皆が協力して、すばらしい教会を作っていると思います。足りないところよりも、むしろ良い面に溢れるようになりました。
親である皆さんは、ぜひ、「教会」に信頼して、「教会」に子どもたちの魂を預けきってください。―心配しないで。―中途半端ではなく。すでに過去20年間に皆さんが見てきた通り、子どもを「教会」に預けきるところから、子どもの信仰は芽生え、育ち、飛躍してきました。その飛躍は、今度は、あなたの子どもに起こる番です。

サムエル上2章21、26節「幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。…すくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。」



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# by rev_ushioda | 2016-08-07 22:24 | Comments(0)

「再び休養」

母をショートに預け、今回も日曜日午後から月曜日にかけての休養の箱根一泊である。

ホテルは箱根宮の下交差点から小涌園に向かってすぐの所にあり、この道は、昔から、よく通っている。そのたびに右手の蛇骨渓谷が気になっていた。今回、ホテルの写真にある緑あふれる風情に惹かれて、ここに泊まることにした。まさにその通り、渓谷にあるホテル(旅館? 民宿?)であった。目の前に迫る対岸の緑に目を奪われた。下には渓流の音。これぞ箱根! そして、お風呂の広いこと。5部屋しかないホテルなのによく、こんな広いお風呂を作ったと感心した。なみなみとしたお湯につかり、他の人との合い湯にもならず、何ともぜいたくな時間を過ごした。露天の方に行くのに、いったん着替えなければならないのが、残念であったが、そちらは貸し切りになるので、あとから夫婦で利用すればいいだけのこと。
渓谷の片方にへばりつくように建っているので、国道から入った駐車場からはホテルが何も見えず…… (゜o゜) 実は、その下がホテルになっている。駐車場から下に降りていく階段は少し長く(下にはエレベーターが待っているが)足腰の悪い方には、いきなりちょっとつらいかなと思う。また、建物も古い造りだ。お風呂は掃除が行き届いていて清潔だが、脱衣場の造りや、ちょっとした隙間からみえる隅々…は、近代的な高級ホテルのそれに慣れている人には、ついていけないだろう。しかし、これが箱根だと思えば、いわゆる秘湯的な趣があり、ゆっくりお湯を楽しむことが出来た。あとから聞いたところ、脱衣場など、このホテルのオーナーの手作りだという(笑)。 チェックアウト後、渓谷添いの散歩道を歩き(箱根に見つけたもう一つの散歩道だ)、近所で出会ったアンティークの店に立ちよって、まるで博物館みたいだと話し、周辺の散歩も、楽しむことが出来た。
その後、早雲山からロープウエイで大涌谷に立寄ったが、噴火の影響で周辺一帯の樹木は枯れていた。いつもここには来ているので慣れていたが、改めて、ここは火山だと思った。
今回は疲れもあまり感じないで、よい休養の時となった。 以下、ホテル紹介ページ → http://onsen.surugabank.co.jp/hakone/5198.html

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# by rev_ushioda | 2016-08-01 22:09 | Comments(0)

「出て行く教会」

教会に人が来ないのなら、こちらから出て行こうと祈りの中で思いたち、テアトルフォンテで隔月開催として1年間、「古典としての聖書 おもしろ読み」と題して、初心者向けの聖書会(伝道聖書会)を続けてきました。礼拝においでにならない方でも、このような場所だと5、6人が来てくださいます。その多くは、心を聴く市民ネットワークで受講された方々ですが、家庭集会の関係者、教会のコンサートに来られた方も、おられます。信仰にはなじみのない方が多いですが、聖書を通して、そして教会員の方の証しを交えながら、いろいろ会話が弾みます。楽しい時間です。
こうしてこの1年間、隔月で開催してきましたが、9月からは毎月一回の開催とします。いつか礼拝に来てくださることを祈りつつ、泉教会の大切な伝道の働きになりました。
来年はさらに、日曜日の午後、月に一度、テアトルフォンテ会議室で礼拝しようと、計画しています。教会で朝の礼拝をし、午後、テアトルフォンテで伝道礼拝をするのです。聖書に触れて戴くためには教会という建物に来なければならないとか、また、礼拝のために教会という建物に来なくてはならないということはありません。こちらから出て行って多くの人に出会えるなら、教会が出て行くまでです。
泉教会は、伝道のために聖書をたずさえ、出て行く形を具体化しています。このようにして仲間と一緒に出て行く先も、また、泉教会なのです。私たちは今、挑戦的に、新しい伝道の形を試みています。



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# by rev_ushioda | 2016-07-31 21:40 | Comments(0)

食事なので、母を起こした。
そうしたら母が言った。「今、夢を見ていてね、大池公園でお祭があって、楽しかったなあ。」
えも言えない、うれしい気持ちになった。

最近、「もう」という言葉には、つらい気持ちになることに、ふと、気づいた。
うんちが、どうも、うまく出ないのです。
 ―「もう、おなかがうまく機能しなくなっているのね。」
寝ていることが多くなりました。
 ―「もう、これからはそういうことになるでしょう。」
もう起き上がれないだろうとよく分かっているが、しかし、それは触れたくないない気持ちがある。
もう起き上がれないにしても、「まだ」と、希望につなげる言葉がほしいのが、子どもの気持ちである。



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# by rev_ushioda | 2016-07-22 23:09 | Comments(0)

世界各地で民族的、思想的、宗教的、経済的、その他さまざまな原因で対立が深刻化しています。テロは頻発し、クーデターが起こり、日常的発砲事件はアメリカで後を絶ちません。そういうアメリカで、白人警官が無抵抗のアフリカ系アメリカ人を容赦なく殺害するという事件が波紋を呼んでいます。「壁」は、私たちが思う以上に厚いのです。
そのような中、カンバーランド長老教会の総会がアメリカ南部(すなわち、かつて奴隷制を支持した地域)テネシー州ナッシュビルで開かれ、重要な決議がされました。「アフリカ系米国人の兄弟姉妹への謝罪」(仮題)です。
カンバーランド長老教会では50年にもわたって、同じカンバーランドでありながら別組織になっている(させられた)アフリカ系アメリカ人教会との「合同」を推進しようという試みがされて来ましたが、まだ、実現していません。しかし、今回、次のような謝罪がなされたのです。
…私たちは、過去、アメリカの奴隷制を糾弾することにおいて、曖昧であり、かえってアフリカ系アメリカ人の会員を分離、隔離してきた。奴隷制度が廃止された後でさえ、教会員として受け入れることを拒み、分離を推進してきた。それゆえ今、私たちは、自分たちのあらゆる残虐な行為について神の赦しを求め、悔い改めることを決意した。また、アフリカ系アメリカ人の兄弟姉妹に謝罪し、赦しを求め、私たちの罪が原因となった壊れた関係の修復に向けて、働いていくことを決意した。…
この決議の場に代議員として居合わせた饒平名長老は、帰国後、この時のことを深い感動をもって証しされました。
教会は、間違ったなら、その事実を悔い改め、謝罪し、新しい歩みを作る決意をします。「宗教とは、この世の理屈を超えた『物語』を信じる営みだ」(2016年7月17日朝日新聞「ローマ法王の挑戦」)。この世の理屈を越えた物語とは、たとえ負の事実であろうともそれに向き合い、悔い改め、謝罪し、決意の歩みをするときに、始まるものです。この世の理屈でものを言っているうちは、何も始まりません。その理屈を超えるためにこそ、私たちは礼拝者であり、キリスト者であるのです。


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# by rev_ushioda | 2016-07-21 16:52 | Comments(0)

「Aさんへの手紙」

その後、いかがお過ごしでしょうか。
一度お目にかかったことでもあり、
日々、Bくんのことは心に留めさせて戴いています。
Bくんが、Bくんらしい、そう言える日々の生活を作ることができますように、
(御苦労も知らずにこんなことは言えないのですが…)
何のお力にもなれないので、せめて、お祈りしています。
過日、相鉄ムービルで「天国からの奇跡」という映画が上映されていました。
難病を持つ子どものために必死になるお母さん。
しかし、そこで奇跡が起こった。
奇跡とは、いかにもそれらしい宗教的なものではなく、
人々の協力、人々の好意の連鎖であった、というオチでした。
そして、それは実際あった話、実話であった、と。
Aさんの周りには、そのような、きっと力になってくれている、
たくさんの人がいてくださるのだろうなと、思いました。
そうしたら、そこに「奇跡」が起こるのだろうと。
希望をもって、歩まれますように、ぜひ祈りをつづけさせてください。

「今日は、私の残りの人生の最初の日」

有名な言葉です。

泉教会
潮田健治


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# by rev_ushioda | 2016-07-18 17:37 | Comments(0)

「終活しよう」

前回、会員籍のある教会で葬式をする、という話をしましたが、死んでからでは、どのようにしてほしいか家族にその希望を伝えられません。今、生きているうちに自分の死の備えをしたいと思います。そのことを最近では「終活」と言うようになりました。しかし、身辺整理、遺産分割のことも大事ですが、そもそも葬儀をどうするかということが、私たちキリスト者にとって一番大事な「終活」になります。葬儀はいらないとか、小さな家族葬がいいとか、自然葬がいいという方もいますが、いずれにしても、葬りは必要なのです。そして、葬儀は自分が信仰に生きた証しの時なのです。


1.何よりも大事なのは、キリスト教で葬儀をすることです。その意志と、連絡先を書いておくことです。稀に、本人の信仰ではなく、ご家族の意向で他宗教に従って葬儀をしてしまうことが起こります。牧師が、ご家族に向かってこの方はキリスト者でしたから…と、どう言っても、しょせん第三者ですから、受け付けてもらえません。信仰者の最期の締めくくりが他宗教になってしまうことほど、残念なことはありません。キリスト教で葬儀をすると、その指示を書いておくことが大事です。


2.自分の信仰を証するような一文をしたためておくことも、大事なことです。洗礼の時の証しから始まって、日々の信仰生活を証しする文は、家族に対して、場合よっては葬儀の列席者に、大きな影響を与えるに違いありません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネ12:24


3.自分が養われ、励まされてきた賛美歌を、いくつか選んでおきます。葬儀では必ず賛美歌を歌います。讃美歌、聖歌などから、愛唱賛美歌を書き出しておきましょう。


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# by rev_ushioda | 2016-07-06 13:14 | 生き方 | Comments(0)

「教会籍と葬式」

葬式とは自分の人生を終い、葬る式であり、式と言えば教会では礼拝のことですから、葬式は、葬りの礼拝、葬礼拝です。(日本中会の礼拝書は、葬式を礼拝とはっきり位置づけています)。ですから、その教会の教会員であるということは、いつもそこで礼拝しているように、自分の人生を閉じる礼拝、葬礼拝もその教会でする、ということになります。もちろん、その時になってみないと分からない事情(転居、会員籍異動、家族の意向)というものはありますが、教会は、一人の会員を受け入れる時、もとより、その人の人生の最期を引き受ける覚悟で受け入れているのです。逆に、洗礼を受けるときは、自分はこの教会で人生を終うのだ、というほどの気持ちが大事なのです。
ですから、たとえば他教会の方が自分の葬式をここでしたい、という願いを出される方があっても、教会は、簡単にその願いを引き受けることはせず、教会籍がある教会に必ず戻すのです。教会籍は、そのくらい重みのあるものです。教会籍のある教会で礼拝し、教会籍のある教会で月定献金し、教会籍のある教会で人生を終うのです。アメリカの教会を訪ねたとき、礼拝堂の隣に教会の墓地がありました。日本ではお寺がそうですが、しかし教会の場合、土地事情からいって敷地に墓地、納骨堂を持つ教会は少ないのです。しかし、その場合でも教会はどこかに墓地を所有していて、その教会の会員が、必ずその教会で人生を終うことが出来るようにしているのです。そのように、そこに籍を置き、人生を最期までそこに置いている仲間だから、互いに真剣に人生と向き合い、真剣に話が出来るのです。通りすがりの気持ちでは、その程度の質にしかならないでしょう。どうぞ、人生の終い方を賭けた教会生活をなさってください。


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# by rev_ushioda | 2016-07-01 15:18 | Comments(0)

「1年ぶりの休暇」

こんなに疲れていたんだ、と思った。
昨年9月から母の介護生活が続き、10か月。この辺りで、と思って母をショートに預け、日曜日午後から妻と二人で箱根に。
毎回、安いB&Bプランを探して、今回は強羅の「ホテルマロウド箱根」。夕食は高速道路SAのレストランで済ませ、現地に行ってゆっくり温泉に。もう一度入ろうかと思っていたが、9時過ぎには眠ってしまい、起きたのが朝8時。食事のあとも眠くて… チェックアウトが11時だったのでゆっくり横になっていたが、今回、やっと休養が出来て改めて、ああ、こんなに疲れていたんだ… と思った。出がけに、娘が、おいしいものでも食べてと包んでくれ、気遣ってくれた。

帰宅した翌日も、やはり眠くて眠くて、一日ソファに横になるしかなかった。
こんなに疲れていたんだ。



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# by rev_ushioda | 2016-06-20 16:50 | Comments(0)