「Aさんへの手紙」

その後、いかがお過ごしでしょうか。
一度お目にかかったことでもあり、
日々、Bくんのことは心に留めさせて戴いています。
Bくんが、Bくんらしい、そう言える日々の生活を作ることができますように、
(御苦労も知らずにこんなことは言えないのですが…)
何のお力にもなれないので、せめて、お祈りしています。
過日、相鉄ムービルで「天国からの奇跡」という映画が上映されていました。
難病を持つ子どものために必死になるお母さん。
しかし、そこで奇跡が起こった。
奇跡とは、いかにもそれらしい宗教的なものではなく、
人々の協力、人々の好意の連鎖であった、というオチでした。
そして、それは実際あった話、実話であった、と。
Aさんの周りには、そのような、きっと力になってくれている、
たくさんの人がいてくださるのだろうなと、思いました。
そうしたら、そこに「奇跡」が起こるのだろうと。
希望をもって、歩まれますように、ぜひ祈りをつづけさせてください。

「今日は、私の残りの人生の最初の日」

有名な言葉です。

泉教会
潮田健治


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# by rev_ushioda | 2016-07-18 17:37 | Comments(0)

「終活しよう」

前回、会員籍のある教会で葬式をする、という話をしましたが、死んでからでは、どのようにしてほしいか家族にその希望を伝えられません。今、生きているうちに自分の死の備えをしたいと思います。そのことを最近では「終活」と言うようになりました。しかし、身辺整理、遺産分割のことも大事ですが、そもそも葬儀をどうするかということが、私たちキリスト者にとって一番大事な「終活」になります。葬儀はいらないとか、小さな家族葬がいいとか、自然葬がいいという方もいますが、いずれにしても、葬りは必要なのです。そして、葬儀は自分が信仰に生きた証しの時なのです。


1.何よりも大事なのは、キリスト教で葬儀をすることです。その意志と、連絡先を書いておくことです。稀に、本人の信仰ではなく、ご家族の意向で他宗教に従って葬儀をしてしまうことが起こります。牧師が、ご家族に向かってこの方はキリスト者でしたから…と、どう言っても、しょせん第三者ですから、受け付けてもらえません。信仰者の最期の締めくくりが他宗教になってしまうことほど、残念なことはありません。キリスト教で葬儀をすると、その指示を書いておくことが大事です。


2.自分の信仰を証するような一文をしたためておくことも、大事なことです。洗礼の時の証しから始まって、日々の信仰生活を証しする文は、家族に対して、場合よっては葬儀の列席者に、大きな影響を与えるに違いありません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネ12:24


3.自分が養われ、励まされてきた賛美歌を、いくつか選んでおきます。葬儀では必ず賛美歌を歌います。讃美歌、聖歌などから、愛唱賛美歌を書き出しておきましょう。


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# by rev_ushioda | 2016-07-06 13:14 | 生き方 | Comments(0)

「教会籍と葬式」

葬式とは自分の人生を終い、葬る式であり、式と言えば教会では礼拝のことですから、葬式は、葬りの礼拝、葬礼拝です。(日本中会の礼拝書は、葬式を礼拝とはっきり位置づけています)。ですから、その教会の教会員であるということは、いつもそこで礼拝しているように、自分の人生を閉じる礼拝、葬礼拝もその教会でする、ということになります。もちろん、その時になってみないと分からない事情(転居、会員籍異動、家族の意向)というものはありますが、教会は、一人の会員を受け入れる時、もとより、その人の人生の最期を引き受ける覚悟で受け入れているのです。逆に、洗礼を受けるときは、自分はこの教会で人生を終うのだ、というほどの気持ちが大事なのです。
ですから、たとえば他教会の方が自分の葬式をここでしたい、という願いを出される方があっても、教会は、簡単にその願いを引き受けることはせず、教会籍がある教会に必ず戻すのです。教会籍は、そのくらい重みのあるものです。教会籍のある教会で礼拝し、教会籍のある教会で月定献金し、教会籍のある教会で人生を終うのです。アメリカの教会を訪ねたとき、礼拝堂の隣に教会の墓地がありました。日本ではお寺がそうですが、しかし教会の場合、土地事情からいって敷地に墓地、納骨堂を持つ教会は少ないのです。しかし、その場合でも教会はどこかに墓地を所有していて、その教会の会員が、必ずその教会で人生を終うことが出来るようにしているのです。そのように、そこに籍を置き、人生を最期までそこに置いている仲間だから、互いに真剣に人生と向き合い、真剣に話が出来るのです。通りすがりの気持ちでは、その程度の質にしかならないでしょう。どうぞ、人生の終い方を賭けた教会生活をなさってください。


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# by rev_ushioda | 2016-07-01 15:18 | Comments(0)

「1年ぶりの休暇」

こんなに疲れていたんだ、と思った。
昨年9月から母の介護生活が続き、10か月。この辺りで、と思って母をショートに預け、日曜日午後から妻と二人で箱根に。
毎回、安いB&Bプランを探して、今回は強羅の「ホテルマロウド箱根」。夕食は高速道路SAのレストランで済ませ、現地に行ってゆっくり温泉に。もう一度入ろうかと思っていたが、9時過ぎには眠ってしまい、起きたのが朝8時。食事のあとも眠くて… チェックアウトが11時だったのでゆっくり横になっていたが、今回、やっと休養が出来て改めて、ああ、こんなに疲れていたんだ… と思った。出がけに、娘が、おいしいものでも食べてと包んでくれ、気遣ってくれた。

帰宅した翌日も、やはり眠くて眠くて、一日ソファに横になるしかなかった。
こんなに疲れていたんだ。



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# by rev_ushioda | 2016-06-20 16:50 | Comments(0)

「信仰告白に生きる」

 絵画や映画を見ると、意図して、事実に即して描こうとしていない(・・・)ことに気づきます。典型的なのがダヴィンチの『最後の晩餐』。当時、ユダヤではあのような部屋やテーブルで食事をしなかったくらい、承知の上で描いています。レンブラントは『十字架を立てる』絵の中に十字架を立てている自分を描き込んでいます。聖書に関係した絵のほとんどは黒人は黒人のイエスを、日本人は日本人のイエスを、というように自分の国の顔立ちで人物いています映画、直近の『エクソダス』ではモーセ手に杖ではなく、剣を持たせ『復活』は、ローマの司令官の目で(すなわち監督の目で)見た創作です。音楽となれば、私たちのイメージ聖書でいないだけに、まったく独創的な世界が広がっています。小説言わずもがな私たちは、すぐに、これは事実に即している、いや違うと、評論家のようになって話をするのですが、芸術の世界では、そういうことはおかまいなしに事実を正確に描こうとなく・・聖書を読んだ者実存的な受け止め方、彼らの信仰告白をその絵に、映画に、音楽に、小説に、伝えているのです。

 私たちは言葉で教会的な信仰告白を告白するのは言うまでもありませんが、しかし、私たちの、聖書を読んだ者としての実存的信仰告白はどうなのだろうと考えます。絵が描けたら、私はイエス・キリストにこのように従うのだという絵を描きたいし、映画だったらそのように舞台に立ちたいし、音だったらその音の世界に生き、小説ならその主人公として生きたいのです。そこにおいては、他の人と違う生き方があります。その告白を実存的に生きる仕方は人によって違う。そのような人の信仰告白に、だれも異をとなえることはできない、そういう告白的な生き方を、私たちは、持っているだろうか。教科書的な信仰告白をただ繰り返すだけの生き方を、主イエスはのぞんではいないでしょう。また、何かの基準(ファリサイ的基準)に、あっている、あっていないと他人の信仰をそのように見る評価的な生き方は、なおさら、主イエスは望んではいないでしょう。イエス・キリストにぶつかっていく実存的な信仰、その人の、その人らしい告白をこそ求めておられるに違いないと、私は信じています。そこにおいては皆違っていい。私たち泉教会は、その違った信仰告白が一つにされ、神の国を形成する仲間です。




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# by rev_ushioda | 2016-06-14 12:18 | Comments(0)

「説教への反応」

 説教を聞いて、少なくとも、以下の13の反応があります。説教がどの反応を期待しているかは、すぐお分かりと思います。それが、説教の聞き方です。

1.眠気を催し、眠りこける。

2.つまらない話だ。

3.馬耳東風。自分とは関係ない。

4.ほうっておく。

5.あざ笑い、いつかまた聞こう(もう聞かない)、と言う。

6.当惑と興味と半々。

7.実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようかと言って去る。

8.言葉じりをとらえてどうにかしてやろうと思って聞く。

9.説教者をわきへ連れていき、私の理解と違うと言って、いさめる。

10.説教者を始末しようとする。

11.難しい…

12.素直に受け入れ、新しく聖書を読む生活を始める。

13.では、どうしたらよいのかと、尋ねる。

14.今日の説教は私のためであった。みことばによって心が動いた。

ちなみに、1、2、5、12番目は、あの使徒パウロへの反応です(使徒20:9、第2コリント10:10、使徒17:32、同17:11)。また、3、6番目は、洗礼者ヨハネへの反応です(マルコ6:20、ルカ7:3132)。4、13番目は、ペトロへの反応(使徒5:382:37)。7、8、9、10番目は、主イエスへの反応です(ヨハネ6:60、ルカ20:20、マルコ8:32、ルカ4:29)。1114番目は、同じ日に私の説教を聞いた、お二人の人から実際、私が聞いた言葉です。

私は、駆け出しの頃、色々な人の批判も一生懸命聞こうとした時がありましたが、しかし、批判した人はある時、私の説教の聴き手をやめる時が来ました。礼拝においでにならなくなり、私は取り残されたのです。聞き手は、気にいる説教を自由に選ぶことが出来たのです。私は悟りました。私は自分の説教を語り続けるしかないこと、また、そういう聖書の読み方をするしかないことを。以来、人の批判に対して、私は相当に頑固な人間になったと思います。感想なら喜んで聞きますし、また、牧師会のような説教の研鑽を通してなら喜んで自分を変えたいと願いますが、批判に振り回されるのはやめようと心に決めています。そして、上の121314番目の応答をこそ期待し、語り続けてきました。私の説教の聴き手である泉教会の皆さんは、そのことをよく分かって、良い礼拝をささげてくださっています。






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# by rev_ushioda | 2016-06-11 12:43 | Comments(0)

「あかし言葉を」

荒井献とか、大貫隆と言えば、日本の聖書学の大家です。たまたま泉教会に出席されているお一人が昔、同じ教会だったという話になりました。さぞかし難しい話が飛び交っている教会だったでしょうという話になると、「いいえ、教会では難しいことは何もおっしゃいませんでした。教会で教えようという態度は見せず、荒井先生などは、古着の叩き売りが上手だったんですよ…」という日常を紹介してくださった。私は、この先生にしてそうだったのかと、大層感心しました。
そういえば、ある時、仲間から聞いた話ですが、礼拝にその教会の牧師の恩師が出席された。恩師であることは伏せ、一人の礼拝者として紹介。本人も、礼拝で短く「自分は何も取り得がない者です…」と挨拶されたそうです。礼拝が終わると一人の人が近づき、励まそうとしたのだと思いますが、「そんなことはない、聖書には、神は…」と、とうとうと話し始められた。牧師はあわてて、「この方は…」と説明しようとしたが、やめたという。なぜならその恩師の方は、言われるままに「そうですね。本当にそうですね。」と耳を傾けていたからだと。
教会の営みの中で何が必要なのかといえば、聖書の言葉をもって自分が教えられたことを語り合う、「あかし」の空間を作ることを私は大事にしていますが、改めて、その思い新たにいたしました。あかしとは、私はこう生きて来たけれど、聖書によって、礼拝によって、こういうことに気づき、キリスト者になった、キリスト教信仰に生きるようになったし、今後もこの信仰を大事にして行きたい、という言葉です。教会の秩序を教えたパウロは賜物の違いを述べていますから、主語が「あなたは」という指導や教えはその賜物を持った人に委ね、私たちは、もっぱら主語を「私は」にした、「あかし言葉」を教会に溢れさせたい。
信徒が信仰の大事さに気づくのは、人に実際起った神のわざに触れた時です。また、初めて来た人が、聞いて、心動かされる言葉は、神がその人に何をされたかという、あかしの言葉なのです。私に実際起ったこと、私が実際動かされたことを語る、主語が「私」である「あかし言葉」は、泉教会で大事にされ、これからも大事にしていく言葉なのです。 

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# by rev_ushioda | 2016-06-03 10:53 | Comments(0)

「聖書に読まれる」

私たちは聖書を読みますが、聖書を読んでいると、やがて、聖書に読まれ(・・・)ている自分に気づくのです。
聖書を読むとき、私たちは少なくとも注解書1冊くらいは傍に置き、分からなければ調べるという、いきおい、勉強の体制をとると思います。分かろうとするのは大事なことですが、しかし、分かるというのは、聖書の言葉を自分の理解できる器に入れることです。果たして、このちっぽけな頭や心という器に聖書の言葉が入る(分かる)でしょうか。分かった瞬間、あなたは分かってない、と言われるのではないでしょうか。
大事なのは、聖書に読まれることです。聖書に私たちが読まれる時、同じ聖書の個所でも、前と違ったメッセージになります。私は、説教において私たちが聖書に読まれることを、大事にしたいと思っています。同じ個所でも、前に読んだ(説教した)同じことは多分、語っていません。説教においてこの個所はこういうメッセージだろうと聴き手が期待、予期した内容とも、違う言葉になっていると思います。すなわち聖書は生ける神の、生ける言葉ですから、神は、1年前、10年前と同じことを語っているはずはないのです。神は今、ここにいる人に向かって、その聖書個所から、今、ここで語る言葉をもっているのです。私は、その言葉に読み込まれた人間として、その言葉を語ろうとしています。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテア4:9)とパウロが言う通りです。パウロは、神を知っている、聖書を知っている自分ではなく、神に知られている、聖書に読み込まれている自分に気づいたのです。その時、聖書は、パウロに新しいメッセージを放って来たのです。
私は皆さんにも、聖書を知っているのではなく、聖書に知られている、聖書に読み込まれている自分を発見してほしいと思っています。それが私の説教です。そういう意味で、私だけでなく誰の説教を聞いてもですが、期待が外れたことは、たくさんあると思います。神は、(誤解を恐れずにいえば)私たちの化石化した聖書の理解や期待を、はずしているのです。その挑戦を真っ先に受けているのは、もちろん説教者であることは言うまでもありません。説教は、そこから生み出されているのです。

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# by rev_ushioda | 2016-05-29 23:46 | Comments(0)

「リトミック体験」

和泉短大の後援会総会で、総会後の講演が「リトミック」であった。
すわ、運動着を用意するのかと思ったが、高齢者向きに(認知症対策で)してくださるとのこと。(笑) 安心して参加した。
リトミックと言っても、想像していたような、ただ音楽に合わせてリズム運動をするだけでなく、いろいろあることを知ったのだが、何よりも時間の半分以上を、リトミックとは関係のない(と私には思われた)、自分が出会った先生の話に使われた。これはいったいどうなるのだろうと内心、はらはらしていたが、講師の個性もあるのだろうが、とにかく力を抜くような話であり、話し方であって、人には何よりも安心の空間を作ることが大事だという意味のことを言われたとき、なるほど、これがリトミックというものの基本的な考え方なのかと思った。
そして、残りの20分がリトミックの実際であったが、実に面白い。前段の話がなかったかのような強い印象を私に与えたのであった。簡単なリズム遊びから入って、わらべ歌の歌遊び、そして、お互いの動きにじっと注目しながらコミュニケーションを取る、不思議な沈黙の時間。ピアノを使ったリズム運動とはまったく違った世界に、思わず引き込まれて行った。これがリトミックなのかと。非常に興味をひかれ、関心をもったい時間であった。

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# by rev_ushioda | 2016-05-28 23:25 | Comments(0)

「異なる言葉を」

先週はペンテコステでした。この世界に新しい共同体が生まれ出たことを祝う日でした。そのきっかけは聖霊によって「ほかの国々の言葉で語り出した」ことにあります。「ほかの国々の言葉」の直訳は「ほかの舌」「異なる言葉」です。教会は、今までと同じ言葉を話すのではなく、異なる言葉を話すようになったのです。それは、神が何をしてくださったか、という証、伝道の言葉でした。キリスト者は、今までと同じ言葉を語るために洗礼を受けたのではありません。神を証しする言葉、伝道の言葉を語る者として、この世に新しく生まれたのです。
泉教会は、ここに集う者、皆で出来る様々なユニークな伝道ツール、方策を考え、生みだしました。それらをもって神が語ってくださると信じて伝道しています。私たち教会員は、依然としてこの世と同じ関心を持ち、この世と同じ言葉を語っていくのではなく、差しあたって教会の持っている伝道ツールを手に取り、それを紹介するという、新しい言葉を語り始めて行きたいのです。
教会員の皆さんは、以下、どのくらい活用しているか、チェックを入れてみましょう。半分以上、チェックが入るでしょうか。
 
□「聖書おもしろ読み」(於テアトルフォンテ)を人に紹介する。
□「気持ちの聴き方」(牧師の外部講座)を関心ありそうな人に紹介する。
□「賛美の会」を関心ありそうな人に紹介する。
□「電話メッセージ」(週報折込みの紙)を読んで欲しい人に手渡す。
□「ライフライン」(第2週の放送で泉教会の広告が出る)を観るよう、紹介する。
□カード(聖書おもしろ読み、電話メッセージ、礼拝等の案内)を常時携帯し、機会があれば人に手渡し、紹介する。
□泉教会の口コミを投稿する(方法は、受付にある赤いカードのアドレスに直接、またはホームページから、アクセスする)
□初めて礼拝に来た人に、用意されている当日の説教原稿を差し上げる。
□「元旦礼拝」「イースター」「泉区民クリスマス」「コンサート」などの特別な機会に人を誘う。

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# by rev_ushioda | 2016-05-20 10:44 | Comments(0)