「弔問」

N家を弔問した。亡くなったNさんは教会員のお父さまである関係から、つかず離れずの距離感はあったが、ずいぶん長いおつきあいをさせて戴いた。昔、ご長男が交通事故で亡くなった時は、私が葬儀の司式をさせても戴いた。昨日、葬儀に参列できなかったので、今日の弔問となった。
お話の中で、最後に口にしたいと言われた物は何であったかという話になった。
「魚が大好きだったから、そう言うのかなと思ったら、最後に口にした(のどを通った)牛乳にひたひたに浸したパンだと言ったんですよ。」
点滴で栄養を摂る中で、最後のあの感覚、食べ物がのどを通る感覚をもう一度、と言われたという。好きな食べ物ではなかったのだ。食べ物がのどを通る感覚をもう一度。しかしその願いは果たされなかった。・・私はそこで言葉に詰まってしまった。

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# by rev_ushioda | 2017-02-16 19:55 | Comments(0)

礼拝のプログラムを見て気づくのは、神との対話は、このようにするのか、ということです。

まず、「招詞」は私たちを礼拝に招いてくださる神の言葉ですから、これを上から下の矢印(↓)で表わすことにします。次の「賛美」は、神をほめたたえる私たちの言葉ですから、下から上の矢印(↑)で表わすことにします。
以下、「罪の告白」は↑ 「赦しの確証」は↓ 「交読(十戒)」は↓ 「賛美」は↑ 「祈り」は↑ 「沈黙」は神の言葉を待つ私たちの姿勢ですから↑ 「聖書朗読」は↓ 「説教」は↓ 「賛美」は↑ 「信仰告白」は↑ 「奉献」は↑ 「主の祈り」は↑ 次の「報告」は礼拝が終わってから行うのではなく礼拝の中に入れているのは、神が私たちの中でこのようにしてくださった(してくださる)という意味ですから↓ 「共同の祈り」は↑ 「賛美」は↑ 「派遣の言葉・祝福」は↓ というようになります。
これが礼拝、すなわち神との対話なのです。相互に行き来していることが分かるでしょう。何よりもまず、神の行動、神の招きから、始まるのです。人間のほうから自分の都合によって一方的に語り出すのではありません。まず、神の行動、神の招きから始まり、それに応答するところから対話が始まっているのです。以下、矢印の向きは行ったり来たりします。これが大事です。私たちは、礼拝で、このように神と対話しているのです。

このように神との対話を学ぶ者は、次に、人との会話がどのようなものであればよいか、おのずと分かるのです。まず、相手の言葉に聞いていただろうか。また、相互の言葉との「遣り取り」を大事にしていただろうか。相手の言葉を聞こうともしないで、一方的に、自分のことを話しまくり、相手の時間を奪っていたのではないか。あるいは、大声で言えば、暴力的な方法を使えば相手に通じると勘違いしていたのではないか等々。私たちは、毎週、礼拝に集う度、話し方の基本を神との対話、礼拝から学び取っています。礼拝をまもる私たちお互いの会話が祝福され、豊かな広がりを持ったものになりますように。

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# by rev_ushioda | 2017-01-23 09:56 | Comments(0)

「デイサービスの日」

母を起こすのは、毎日、ヘルパーさんにお願いしている。
しかしデイサービスの日はそれでは遅い時間になるので、家の者が支度をすることになって、朝、普段よりも早くから起こす準備に取りかかる。食事、身支度と、2時間はかかるかな… ようやくお迎えの時間が来て、さあ、行こうか、という時になって、うんちが出たい、となる。それ、間に合わないぞと、ここからが大変。それだけでなく、痛いところがあるので、お湯だ、薬だと、お迎えの方を待たせて、大騒ぎ。

ふ~

デイサービスにだすのはやめようか、いつも思いながら、夫婦でその一日を使うためには、避けられない戦闘モードである。

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# by rev_ushioda | 2017-01-19 09:45 | Comments(0)

「主語は、主」

私は、私が、私の、そのような「主語」を自分に置くことから離れて、「神」、「主」、「主イエス」を「主語」にして考える、これを信仰と言います。
たとえば、泉教会の事を考えてみると、主語を「私」にして言うと、このようになります。 ― 泉教会は、潮田牧師が開拓伝道によって開設した教会である。潮田牧師は、いずみ中央の駅の近くが良いと思って、そこを中心に家を探していたが、たまたま現在の家に出会ったのである。駅からは離れているし住宅地の中でもあるので、当初、難色を示したが、来てみるとしっかりした家だし、二つの駅に等距離で、町の中心に位置するということが分かり、ついに決心し、ここで教会を始めることを決心した。
これを、「神」または「主」を主語にして言い換えます。 ― 主は、潮田牧師に開拓の志を起こさせた。主は、ご自身がすでにこの町に進み出ておられることを示すために、町の真ん中に一軒の家を用意された。主は教会が地域に開かれるために町の真ん中に礼拝の場所を用意し、私たちの目を主に向かって高くあげることを学ばせたのである。
この「主」である神の物語の中に自分を置くことを、信仰と言うのです。皆さんも一度、自分の人生を「主」を主語にして文章にしてみたらいかがでしょうか。そのように考える者として、皆さんはこの世に生まれたのです。キリスト者であるなら、主語は「主」です。何事につけても、主は、主が、主の… となります。
もちろん、いいことばかりではなく、思うように行かないことも起こりますが、その時も、この言い方は何も変わりません。そういう時は「主は、いったい何を教えようとしておられるのか。主は、私たちをどこに導こうとされているのか」という、祈りの道を作るのです。そのようなキリスト者が、そしてその共同体が、世界に現われた。それが教会です。

記事とは関係ないですが、自宅から見る富士山
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# by rev_ushioda | 2017-01-15 22:52 | Comments(0)

「信仰の冒険」

先日、ささげられた献金の袋に「十一献金」とありました。
「十一献金」とは、字の通り、十分の一献金のことです。十分の一献金とは、収入の一割は神さまのものだから神さまに「お返しする」献金です。もちろん、教会にそのような決まりがあるわけではなく、この人は、自発的にそのようにされているのですが、「十一献金」というくらい、教会ではこの言葉は昔からよく使われてきました。
それがどこから来たかを考えると、やはり旧約聖書の、あの御言葉に思い至ります。 - 「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ書3章10節)
聖書は、神を試みてはならないと言っているのですが、この個所は唯一、神を試してみよ、と言っているのです。しかし「試してみよ」と言うくらい、そんなに献げたら生活が成り立たないと、聖書の人々も考えたのです。だからこそ、神さまは「わたしを試してみよ」と、信仰は、「冒険」だと言われているのです。水泳を学ぶ者が、水に飛び込まないで泳ぐことを習得出来ないように、神のふところに飛びこまないで(信仰の冒険をしないで)、天の窓が開かれ、祝福が限りなく注がれるという体験は出来ないのです。
つまり、十分の一であろうがなかろうが(それが問題なのではありません)私たちキリスト者にとって、信じるとは「身をゆだねる冒険である」ことに、この「十一献金」は気づかせてくれるのです。神さまに任せ切れないでこの世の価値観との間を行ったり来たりせず、きれいさっぱり、主なる神さまに身を委ねましょう。そして、「身を委ねる冒険」をする者に、主は、言われます。「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」
今年、私たちキリスト者は、信仰の冒険者になろうではありませんか。

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# by rev_ushioda | 2017-01-07 10:08 | Comments(0)

今年は牧師にとって、いわゆる三が日がゆっくりできる、巡りが良い年であった
箱根駅伝で青山学院の三連覇の快挙を見て、人を動かす監督の力の偉大さに、かくありたいと思った次第。

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# by rev_ushioda | 2017-01-03 22:02 | Comments(0)

「教会の暦に生きる」

年末になると、いろいろなカレンダーが届きます。クリスマスはもとよりですが、復活祭と書かれているものも見られるようになりました。しかし、よく見ると、細かい字でいろいろ書かれているものがあります。「六曜」(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)が書かれたカレンダーは、どの家にも一つや二つは、あるのではないでしょうか。「友引」に葬式・法事を行うと、誰かが死ぬとの迷信があり、友引の日は火葬場を休業する地域は多いのです。建築関係者の大凶日とされる「三隣亡」と書かれているものもありました。大工さんは、その日の仕事は避けるようです。

すると、カレンダーというのは、ただ日を追うためのものでなく、日の巡りに意味を与えようとするものだと分かってきます。教会(キリスト教)のカレンダーでは、日曜日は「主の日」という1週ごとの節目から始まって、1年に「降誕日」「復活日」「聖霊降臨日」という節目を与えて、イエス・キリストの恵みと愛と支配のもとで生きよう、と意味を与えています。

今日という日を、上に書いた「六曜」とか、あるいはほかの迷信的な意味づけで生きていくのか、それとも、キリスト教のカレンダーで人生に意味を与えて生きるのか、大事なことになります。言い方を変えれば、何に支配を受けるのか、です。繰り返しますが、世には、迷信をはじめ、他の思想が組み込まれたカレンダーが、溢れかえっているのです。この世のカレンダーに支配され、縛られて、人間としての自由や意味を失うのではなく、今日というどの日も良い日にしていくのがキリスト者の持っているカレンダーなのです。このような節目のつけ方から、キリスト者は、離れてはいけないのです。

「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」(ガラテヤの信徒への手紙4章10節)


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# by rev_ushioda | 2016-12-30 11:56 | Comments(0)

「定年を迎える年末」

気がつけば、12月も29日。投稿なしのまま、ずっとここまで来てしまった。
例によってこのブログは1年ごと製本して日記にするのだが、これではまずいと思い、急遽、書き込みしている。

今年は、私はいつもとは違う年末を迎える。65歳になった年末は、中会では規定上の「定年」である。2年延長を申し出ているにしても、定年を迎えるという不思議な感覚。前にも書いたが、今もってまったくその「実感」がない。とはいっても「意欲」「体力」「健康」「処理能力」等々の面で言えば、定年に納得が出来ることは多くなっただろうか。加えて母の介護が加わった、この1年でもある。何をするにも、ペースは格段に落ちている。
そういう中で、ゆっくりと牧会することを教会にも受け入れてもらい、しかし、夢を見ることを遺産とするような段階に入ったと思っている。教会も、ちょうど20周年である。

ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow の「矢と歌」が思い浮かぶ。

私は 大空に向かって一本の矢を放った。
それは地に落ちたが、それがどこか 私は知らなかった
矢はあまりに速く飛んだので
私の目は方向を追うことができなかった

私は 大空に向かって一つの歌を歌った
それは地に落ちたが、それがどこか 私は知らなかった
歌の方向を追うことが出来る 鋭い視力の持ち主がどこにいるだろう

ずっと後になって
まだ折れずに樫の木に刺さるその矢を 私は見つけた
そしてあの歌が 最初から最後までそのまま
一人の友の心の中で歌い続けられているのを
私は見つけたのだ


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# by rev_ushioda | 2016-12-29 20:59 | Comments(0)

「自分だけの感動」

以前、私は国境に立つ、ということを書いた。私の家の前の道は、相模と武蔵の国を分ける国境線なのだ。それを知った時、それに気づいたとき、感動し、そして自分自身の牧師としてのアイデンティに目覚めたのだった。
ところでこの話には、話の続きがある。今までその話を何度もしてきたが、関心を持つ人は少ないのだ。そうか、感動というのは自分だけのものなのかと思った。人には分からない、しかし自分を動かす感動がある。人にわからなくてもいい。自分が動かされていればいい。
その感動は、実は、自分もあるとき突然気がついたのだった。国境の話は、たぶん何度も聞いてきたが、あるとき、急に気づいたのだ。今までは気づかなかったのに、ある時に気づいたのだ。そして、気づきは意味を引き出した。
そのように、心が動くときがある。無理やり動かそうとしても動くものではない。しかし、パッと視界が広がる時がある。それでいい。気づいたら、その気づきに伴って、もう誰にも動かされない自分がいるのだ。
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# by rev_ushioda | 2016-12-08 19:52 | Comments(0)

1年半ぶりに、街道に立つことができた。昨年9月に母が急に動けなくなり、過呼吸で救急車だとか、要介護4の認定を受け、介護用品だ、ヘルパーさんだ、訪問看護、訪問入浴だ、医師の往診だと、とにかく数か月間大騒ぎし、その後も1年余り、公私ともにまったく動けなくなってしまった。しかし、ようやくショートステイを上手く使えるようになったので、ここで再び、街道人となることができた次第である。

さて、今回は、いよいよ濃尾平野を離れるコースである。伏見宿、御嵩宿、細久手宿、大湫宿という、ここで街道はまさに難所「十三峠」の道、山中に入っていくのである。江戸時代に山の中に新設されたという道なので、明治に入って平地に鉄道が敷かれると取り残された地域であるため、当時のままの街道風景が今に残る。宿泊場所はどこにもないが、幸い、江戸時代からの旅籠一軒、今も営業しているので、そこに泊まることにした。街道がようやくJRに接近するのが大湫宿の先、深萱立場なので、今回の目的地はそこまで、となった。
山道、坂道の難所続きなので、数か所に「救急の場合は119番」と書かれている看板を見た。そして、「熊の出没情報あり」の看板も数か所に。イノシシに注意という看板は前回も見たが、ついに、熊である。今回初めて、持参した熊鈴を鳴らしながら山中の道を歩くことになった。
電車に乗るために街道をはずれ駅に向かう途中、出会ったのは中央高速道路と国道19号であった。琵琶湖から御嵩まで、ずっと国道21号に並行する旧道を歩いてきたが、難所の山道を抜けると、ついに木曽路を通る19号に出会った。これから19号線とのお付き合いとなる。
次の地図はおおまかな位置確認のために添付。旧中山道は書き込まれていない。街道は、依然、東に向かってほぼ直線である。


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11月28日(月) 太田~伏見~御嵩

前回宿泊した「ルートイン可児」に車を停め、本来なら前回の終点、太田の渡しに戻って起点となるはずである。しかし、そこから1時間くらい先に進んだところに今回宿泊のホテルが位置するため、もはや太田には戻らず、ホテルから直接、街道に入ることにした(太田からは国道をひたすら歩くことが分かっていたので、短絡させても国道なら、まあ、よしとした)。
そういうわけで、御嵩までのコースは特に見るべきところもなく、2時間半ほどで目的地に到着。そういえば、途中、こんな田舎に? と思うところに、中国人が経営している中華料理店(横浜という名前がついていた)のラーメンがあって、おいしかった。
「ルートイン」は、大きなお風呂がついているので、湯船でゆっくり休むことができた。

YOUTUBE「西から御嵩宿を越える」 https://youtu.be/XHp7V9jjsGo

29日(火) 御嵩~細久手

この日から一泊二日は相当の山道を覚悟して出発。しかも途中、江戸時代から続く「旅籠」に泊まるので、初めてリュックを背負っての道行きとなった。この区間、幕府によって何もない山中に開かれた街道なので、ここから大井宿(恵那)まで、何もない山の中である。
案の定、厳しいのぼりが続く。いよいよ木曽路近し、という実感。途中、隠れキリシタンの遺物が発掘されたという記念碑があり、それも今は先人の遺産ということで、町おこしに一役買っているらしい。皮肉なものである。
山中の景色のいい場所には、相当こだわりのある喫茶店があった。ケーキしか出さない。店内でおにぎり食べていいかと訊いたら、断られた。お天気がよかったから外で食べれたが、雨でも、同じことを言うのだろうか。しかし、ここのケーキは、おいしかったこと。中山道とは別の車道を通って、次々、お客が来る。とにかく、ずっと上りだったから、一息入れる場所があって、私たちは大いに助かった。
店を出た途端、今度は、急な下り坂が長く続き、そして、次はまた長い上り坂となった。
山の中なので、一里塚は何のじゃまにもならないため、どれもみな壊されずに昔のまま、保存されている。また、馬頭観音があちこちにおかれ、旅人をいやす清水があれば名前がつけられ、茶屋の跡があちこちにあり、かつて、旅人の山中の道行きを助けていたことが分かる。途中の鴨の巣一里塚で電話をするように宿から言われていたので、電話。昔の人も、ここから宿泊の確認電話をしたのだ(笑)
宿泊は、江戸時代からの旅籠「大黒屋」である。明治になってから70余年閉じられていたのが、昭和26年、炭鉱の工夫たちのために再開されたのだとか。そのうち指定文化財になり、だからであろうか手をつけられずにいた壁紙など、あちこちがボロボロである。尾張藩の殿様の定宿だということで、意匠の凝った建物であるが、時間の流れには勝てないなと思った。ふとんも、昔ながらの綿入れふとんで、あの重さは久しぶりの感覚だった。いずれにしても、ここに泊まらなければ野宿となったわけで、ありがたい旅籠であった。ご主人も丁寧に対応してくれて、うれしかった。

YOUTUBE「西から細久手宿を越える」 https://youtu.be/YQvP-imCojw

30日(水) 細久手~大湫(深萱の立場)

大湫で下山しようと思っていたが、旅籠の御主人の勧めもあり、時間は倍になるが(計4時間越え)、その先「十三峠」に入って、途中の深萱立場で下山することにした。
細久手から先は、昨日とは打って変わって、気持ちの良い林の中の舗装路が続いた。軽井沢だね、と言いながらコースを楽しむことができた。途中、周りにゴルフ場が開発されたところがある。子どもが捨てて行ったのかなあ、スーパーボールがあるよ、と思っていたが、次々と見つけるに及んで、ゴルフボールと気づき、こんなのが飛んできて当たったらどうするのと急に怖くなったとき、目の前をゆっくりとカートが通過していった ^^;
さて、琵琶峠越えである。500メートルに及ぶ石畳が当時のまま残っている。この石畳は昭和45年に「発見」されたものである。権力の道も通行が途絶えれば100年近くも地中に埋もれてしまったわけで、そういうところに道を通した、ということでもある。山中にバイオトイレというのがあった。太陽光発電でドアを開けるとパッと電気がつく。すごくきれいな室内で、特殊な装置で排泄物を処理して自然に還元するということで、ハイテクトイレには驚いた。

大湫宿は、細久手同様、山間に取り残された宿だと聞いていたが、細久手は特に見るべきところはないのに反して、見どころもあり、駐車場もあり、トイレも充実して、街並み保存にかなり力を入れているのが分かる。ここに宿泊施設を作ればいいのにと思いながら、先を急ぐので、通過。
その先はいよいよ「十三峠」である。まず寺坂を上って、あとは下って、上って… の繰り返しである。清水があれば名がつく。観音像があちらこちらに。そして、句碑が、またあちらこちらに、という具合。中山道の中でもここが、最大の難所だったのではないだろうか。

そういうわけでようやく武並駅から電車に乗ったとき、ほっとしたのか、妻は今回、山道でとてもお世話になったノルディックポールをホームに置き忘れてきたという、落ちがついた。

次回は、いよいよ信濃の国、木曽11宿の第一番目の馬篭宿に至る!

YOUTUBE「西から大湫宿を越える」 https://youtu.be/PiSHNq78Cp8

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# by rev_ushioda | 2016-12-02 11:17 | Comments(0)