11月25~27日に今年最後の中山道行きの予定だったが、母の容体が良くないため、キャンセル。代わりに半日のドライブにして、宮ケ瀬に行った。夕日をうけてもみじが映えていた。反対方向を撮ると、次の写真。山間の夕方は早いが、向こうの山は明るく照らし出されている。

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by rev_ushioda | 2017-11-27 21:33 | Comments(0)

「活動会員」

洗礼を受けると、その教会の「教会員」と呼ばれます。

教会員は、第一に、洗礼を受けたときのペースで、これからも礼拝出席を続ける人です。
第二に、月定・会堂献金によって、教会の働きを支える人です。額は自分で決めていただきますが、定期的にしてくださることが大事です。
第三に、年2回の教会員総会に出席する人です。泉教会の場合、教会員総会は長老を選ぶことが中心で、他に活動や会計の説明ですから、礼拝後の30分です。

ところで、洗礼を受けると、なぜ「教会員」になるのでしょうか。それは、一人ひとりにはキリストに従う者としての役割、機能があるからです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一 12章 27節)と書かれている通りです。キリストの体の部分としての役割を果たすため、私たちは、教会の一員という、有機的なかたちを大事にするのです。たとえば、教会員総会で長老を選びます。その時に選ばれるのも、選ぶのも、教会員なのです。誰でも長老になることが出来て、また誰でも選ぶことが出来るのではありません。こうして選ばれた長老は、教会の牧師を招くこと、礼拝を招集すること、会員を受け入れることをはじめ、教会の活動全体に仕えるのですが、その「選ぶ」という一番大事なところ、キリスト者の信仰が立ちもし、倒れもする一番大事なところで、教会員が、かかわるのです。キリストの体の部分であるというのは、そういうことです。
洗礼を受けただけでいいではないか、と言う人もいるかも知れません。しかし、それは「群集」であることと、ほとんど変わりません。好きな時にあっち、こっちと動いてしまうのです。キリストへの責任を果たせる立場にいないのです。ですから、最初に挙げた3つのことが3ヶ月以上ない教会員は「不活動会員」とされ、当然のことですが、教会の責任を果たせる立場(選挙権・被選挙権)を失います。キリストに従う(キリスト者である)というのは、教会に生きる、ということなのです。教会に生きるとは、礼拝を守り、主が再び来られる時まで、教会を次の世代に手渡していくことです。群集であっては、その責任が果たせないのです。



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by rev_ushioda | 2017-11-10 10:34 | Comments(0)

「妻、古稀の祝い」

60歳で還暦を迎えた後、70歳で古稀、77歳で喜寿。これから次々と節目を越えていくことになるが、ひと足早く、妻が古稀を迎えることになった。
「人生七十古来稀」なるほど、古来稀な人がわが伴侶かと思うが、さて、どのように祝ったらいいのか。考えたあげく、古来稀な仕方が分からず、結局、旅行ということになった。しかし、今までとは違う、70年に一度の部屋を取ろうということで、今までの4倍くらいの値段の「露天つき和洋室」というところに、行ってきた。じゃらんで探してみても、部屋に露天風呂がついているだけでは面白みがなく、あきらめかけていたところ、ベランダがあり、庭があり、開放感があって露天、かつ庭に面して室内風呂もあるという、ここに決めた。(和洋室というのはベッドがないと体中痛くなるので、洋室は欠かせないため) 場所は湯河原。ゆっくりすごせそうだ… 客室露天っていいなあ、でも、お風呂から出たら、妻は、もうベッドで眠っていた… やはり、古来稀な人である。
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by rev_ushioda | 2017-11-07 10:36 | Comments(0)