教会員に、大磯で奉公していたという方がおられる。奉公先は、今もある和菓子屋「新杵」という店だった。そこによく買い物に来られる人だったと、話してくれたのが、島崎藤村! 何かの話の流れで島崎藤村の話題になった時、「ああ、島崎さんね。」と。「吉田さんのところにもよく、お菓子を届けに行ったね。」とも。吉田茂である。島崎藤村を「島崎さん」と言う人がいるのに(こんなに身近にいるのに)驚いた。
また、最近来られている、元台湾宣教師の方は、山地に住む民族のために宣教された人である。あるとき、バスを待っていると、「そこでたまたま出会って、簡単なあいさつをしました」というのが、これが、蒋介石だった!山地なので、警備も街中とは違って手薄だったらしいのだが、そんな出会いがあったと話してくれた。

歴史的な人物に、そんなにも身近に接した方々がおられる。歴史は、そうしたとき、一気に現実になる。韓国の慰安婦問題が長引くのは、歴史に生きた人たちと真剣に出会う努力をしないまま決着を図ろうとする政治的な手法に問題があるのだろうと思いを巡らす。

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by rev_ushioda | 2017-07-28 09:48 | Comments(0)

忙しい時期であったが、母がショートに行っている合間を縫って無理にねじ込んだ旅行であった。

結婚40年を機に、ぜひ、行きたかった場所が、伊豆の雲見である。新婚旅行で訪れた土地である。泊まった民宿はどこか、今は思い出せないが、烏帽子山という海に突き出た山があって、その急階段で撮った写真があった。同じ場所でもう一度撮っておきたかった。男ってそういうことで感傷的になると笑われながら、41年を越えて、やっと実現した。それが下の写真。急な長い階段を上りながら、同じ場所を探したが、足元がおぼつかず、今回はついに上まで上るのをあきらめ、途中で撮った写真である。

同じ場所であるのに、しかし、あの時の若い二人はいなかった… 

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右手前の山が烏帽子山。下に見える集落が雲見。
階段のいかに急なことかは、この写真を見れば想像できるはず。
ちなみに、頂上からの景色はこんな感じだ(下)。今回はこの景色が見れず、非常に残念だった。
https://youtu.be/tm26JlkzyOE



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by rev_ushioda | 2017-07-25 23:51 | Comments(3)

「スマホを無くす」

もう時間が経ってショックも軽減したから書いておこう。
しばらく前にスマホを無くした。まだ替えてから1年も経たないというのに・・
警察にも届けを出したが、結局、見つからなかった。
仕方なくショップに行って相談。1年も経っていないけれど、幸いに旧型だったために新しくしても月々それほど圧迫しないとか云々で、新しいものにしても、ほとんど同額だと分かった。即、新しい端末を購入!
問題は、持っていた住所録をどうするとか、以前の設定に戻すとか、考えただけでも大変である。しかし、icloud というものを使うとよいと言われて(スマホは何を使っているかこれでわかってしまうが)ボタンを数回、、、、何と、何と、手にした新しいスマホの待ち受け画面から、そこに置いたアプリから、その置き方から何もかも、今までとまったく同じになったではないか!もちろん、住所録も! 端末が新しくなって、古いものを無くしてここにはないにもかかわらず、まったく同じになってしまった。

すごいものだね~ 

無くしたショックはどこへやら、このマジックに、いまだに感動している。


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by rev_ushioda | 2017-07-11 17:42 | Comments(0)

子どもが教会にたくさん来ていた頃の話ですが、教会でバス遠足をしました。バスの中で子どもたちは大はしゃぎで、そのうちに遊び感覚だったと思いますが、こういうやり取りが始まったのです。

「あなたの生きる目的は何ですか?」

「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

何とこれは、当時、教会で子どもたちに教えていた信仰問答の言葉でした。意味はわからないかも知れません。しかし、教会の言葉がこのようにすぐに口に出て来るということの素晴らしさを感じた一瞬でした。
私たちの日々の生活は、時間的にもこの世のことで一杯いっぱいだし、気持ちも、いつの間にかこの世の煩いに巻き込まれ、自分を失うことがしばしばではないでしょうか。チクショー、バカバカしいと思って投げやりになることもあれば、人への不平や批判、怒りに明け暮れるようになることもある。そのような時、自分を見失わないための言葉があるでしょうか。
もちろん、聖書の言葉です。聖書の言葉でも、礼拝の度に繰り返している同じ言葉となれば「十戒」や「主の祈り」です。さらに教会が産み出した言葉があります。上のような「信仰問答」や、また「讃美歌」もそうです。そして、もう一つ、教会で交わす私たちの言葉があります。私は、自分の言った言葉をいつも思い出せるわけではありませんが、よく人から言われるのは、「あの時、先生、こう言いました。」牧師としての言葉を覚えていてくださる。(忘れてほしい言葉のほうが多いかもしれませんが…)
聖書の言葉を暗記することは、得手不得手があるでしょう。しかし、毎週礼拝で口にする言葉や、歌う讃美歌、人との会話は意外と覚えていきます。途方にくれたり、困難な日は、必ずやってきます。その時に思い出し口ずさむ言葉を、私たちは教会の生活の中でしっかりと身に着けたいと思います。



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by rev_ushioda | 2017-07-09 17:55 | Comments(0)

「礼拝を大事に」

「イエスは…いつものとおり安息日に会堂に入り…」(ルカ4:16)。

いつものとおり、いつもの場所で。このことは大事なことなのだ、と気づくのです。教会は、いつものとおり、いつもの場所、日曜日の礼拝を大事にします。

私たちの生活にはいろいろなことが起こります。外からの試練、内からの試練、襲って来る不安、恐れ、失意、落胆。そういうものによって、自分を情けなく思っているかも知れません。ひょっとしたら、憎しみ、怒りがあるかも知れません。湧き上がる欲望、傲慢、人への裁きに支配されるかも知れません。支配されていることさえ、気づかないかも知れません。イエス・キリストだって、誘惑を受けましたし、苦しみ悶えて祈りましたし、怒ることも、涙を涙されることもありました。そのような中で、いつもの通り、礼拝の場に立たれたのです。不安、恐れ、失意、落胆、憎しみ、怒り、湧き上がる欲望、傲慢などの克服の秘訣は、いつものとおり日曜日にはいつもの場所、礼拝堂に入ることなのです。淡々と、祈りの道に立つことこそが、すべての誘惑からの勝利の秘訣なのだ、ということです。

ティーリケという人の「主の祈り」という本を読んで、驚いてしまいました。この本は、戦争中、日曜日に礼拝堂で話された説教集なのですが、いたる所に次のような挿入文があるのです。「この説教はサイレンと空襲によって中断された」「この説教はこれを行う直前に教会堂が空襲のために廃虚となり、場所を移して行なった」…破局のただ中で、人の心はすさみ、希望をなくし、どんどん心を閉ざしてしまうのが当たり前です。しかし人々は集まり、祈りの生活を作り続けた。礼拝をまもることで、すさみ、閉じていく心を、逆に彼らは押し広げていったのです。この説教集は、原題が「世界を包む祈り」となっています。爆弾で礼拝堂が吹き飛ぶ中でさえ、いつものとおり、いつもの祈りができるとき、心の視野は、世界を包むほどに押し広げられる、と言うのです。

「いつものとおり」祈りの生活を作るとき、祈りは、私たちの貧しい心を、世界を包むほどに開くことが出来るのです。

礼拝への道がまもられますよう、祝福を祈ります。


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by rev_ushioda | 2017-07-01 17:46 | Comments(0)