「1週間交代」

今、1週間交代で自宅、ショートを繰り返している。土曜日にショートに出かけ、木曜日に帰宅。1週間家にいて、また土曜日に出かけ、木曜日に帰宅。この繰り返しである。大変だなあと思ったら、また次のショートが来る。送り出したその1週間は、介護がなかった2年前の生活を取り戻す。
7月の終わりには伊豆の雲見に予約をとった。40年前、新婚旅行で泊まった地である。同じ場所で、写真を撮ろう・・  8月の終わりの週には、再び、中山道に立つ。夏休みなので孫と一緒である。

いい感じである。母は、6月26日に99歳の誕生日を迎えた。

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by rev_ushioda | 2017-06-26 17:59 | Comments(0)

「日曜日を盗むな」

日曜日は、教会では「主の日」と言います。「私の日」ではありません。「主の日」、礼拝の日です。キリスト者は、洗礼を受けた時に誰も皆、そのように教えられ、洗礼の誓約で「礼拝を大事にしますか」と訊かれて「はい」と答えました。ですから、日曜日には何を置いても礼拝に行く人を「キリスト者」と言うのです。

それが、いつから「私の日」にしてしまったのでしょうか。仕事や試験、子育てなどが重なって、気づいてみたら「私の日」になったのではないでしょうか。気分で、行きたくないから行かない。こうして「私の日」にした人もいるのではないでしょうか。いろいろあって、「主の」ものを「私の」ものにしてしまったのです。

エデンの園で、アダムとエバが、取ってはいけないと言われた木の実を取って食べ、主のものを自分のものにした結果、どうなったか、皆さん、御存じでしょう。神と人とのコミュニケーションを破壊しました。神の前から隠れ、人間関係において責任転嫁し、子どもたちは、殺人事件を起こす。やがて人間が神のようになったと、「バベルの塔」はあらわしているのです。主のものは、私のものではないのです。それをしたら、すべてが歪み始めるのです。破綻するのです。

キリスト者にとって、日曜日は主の日です。主の日なので、私の日ではありません。私たち、日曜日は主の日として、私の手を開いて、主にお返ししようではありませんか。

子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら/わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるのかと/万軍の主はあなたたちに言われる。

…あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に/汚れたパンをささげておきながら…/あなたたちが目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても/悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる。(マラキ書1章6~8節)


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by rev_ushioda | 2017-06-01 17:50 | Comments(0)