「休養ふたたび」

中会の召天者記念礼拝の後、冨士霊園からそのまま一泊の休養に出かけた。昼食は、山中湖で「ほうとう」を食べよう、ということで、気ままにドライブの方向を定め、何十年ぶりかという「かご坂峠」経由で山中湖に。

そこから箱根に向かい(休日の上りを意識していなかったため、ここでそこそこ渋滞に巻き込まれながら)、今回の行先は「箱根の森おかだ」奥湯本のさらに一番奥ということで、そこからの景色は期待通り、最高だった。山々の押し迫る谷間の大空間が小田原方向に延び、湯本駅辺りが遠く眼下に見え、さらに遠くに小田原市街地と海が、その向こうに大磯が見えるという、箱根を感じるには絶好のロケーションだった。景色も、和洋室という部屋も、お風呂も、よし。B&Bで手に入れた安いプランに満足した。

帰りは、江の島経由で―  今回は、島の反対側まで行き、そこの磯から、江の島入口まで10分で行くという船に乗った。江の島で初めて乗る船だ。そこまでよし。今回のオチは、「船酔い」だった。

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by rev_ushioda | 2016-10-12 12:52 | Comments(0)

「女性のつどい」

躍動する教会! 女性会の研修会に出席して、私たちカンバーランド長老教会に対して改めて感じた思いです。歴史を振りかえってみても、現在の教会の動きを見ても、伝道のために躍動している。それがカンバーランド長老教会です。
私たちは一つの教会で礼拝をまもり、交わりをし、教会の印象を持ちますが、大事なのは、その教会がどういう共同体に属しているか、ということです。目の前の教会が高齢化だとか、建物が貧弱だとか、経済が厳しいとか、当座のマイナス印象はあるとしても、どういう共同体に属しているか、それが大事です。
カンバーランド長老教会は、国単位で教会組織を作らない、めずらしい教会です。教会はアメリカ合衆国から始まりましたが、すぐに海外に宣教師を送り、今日ではアジア地域にも宣教地域が広がり、名実ともにグローバルな教会となっています。研修会では、私たちは境目を作らない、多様さを含んだ一つの教会、グローバルな教会であると言われていました。つまり、インターナショナルではないのだと。インターナショナル、つまり、ネイション(国家)があって、その境目をつないでいるという意味で、私たちの教会は一つなのではないのです。私たちの教会は、国境を越えて一つなのです。境目を作らない、「一つの」教会なのです。
それを後押ししたのは、女性たちの組織でした。男性は組織とか枠組みとかを大事にしますが、女性的な感性はそういう枠組みを自然に超えたのかも知れないなと、私は講演を聞きながら思いました。泉教会も、女性たちのキリスト者としての感性が、生き生きと用いられる教会でありたいと思っています。
さて、「共同宣教」試論は、そのような考え方を私たちの教会にあてはめて具現化するためにはどうしたらよいかということの投げかけです。この時のために私たちの教会があったのだ、と言えるものを、見えるものとして現したいのです。パウロが「渡って来てわたしたちを助けてください」という幻を見て、すぐ、トロアスから船出したように。

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by rev_ushioda | 2016-10-06 22:01 | Comments(0)

「教会の壁を越えて」

CCC (キリスト教カウンセリングセンター)交友会からの『原稿依頼があり、以下のように書いてみた。

当時、3年間の学習が修了した時、CCCの修了証に「カウンセラー2級」と書いてありました。この「お墨付き」をいいことに、開拓伝道に出た20年前、地域との出会いを求めて傾聴講座(注1)を始め、現在は教会と別組織でNPO法人化し、教会が地域に出て行く足がかりにしています。すると、これをきっかけとして、以下のように牧師がこういうところに招かれて講演するだろうかという、おもしろい経験をさせてもらっています。事業所を対象とした第三者評価委員の講演会、成年後見人(行政書士会)の講演会、子どもの相談を受けるチャイルドラインの研修会、病院の看護師研修会、地域の公立小学校PTAの講演会等々。いつも「ただの牧師です。心理学を勉強したわけではありません」と言いながら、教会と地域との接点は1回でも多い方がいいと考えていますのでお招きに与ります。CCCでの学びと体験がこんな展開になるかと驚き、また、そのような機会を与えてくださったCCCとの出会いを感謝しています。
CCCで学習し始めた2期目、当時、そこでエンカウンターグループが用意されていました。早々に私は、これはまずいことになった、と思いました。皆さんが言っていることがまるで分からないで、一人取り残される感覚。3回目で、「気持ちがわかりません。ついていくことが出来ない」と言うと、すかさずファシリテーターの大西先生が「潮田さんの両脇の人、潮田さんの手をたたいてください。」(パチッ!)「どうですか?」「痛いです。」「“気持ち”が、言えたではないですか!」― 気持ちの言語化とその受容・共感。たったこれだけのことが、その後の私のすべてを方向づけました。
教会で出会う子どもたちは限られています。しかし、子どもの電話を受けるチャイルドライン(注2)のリスナーの研修に招かれて、牧師だったらこのように聴く、という聴き方を5年にわたり共有できたことは幸いでした。教会に来る人だけを相手にするのではなく教会の壁の外の人にいかに主イエス・キリストの慰めを届けるかを考えると、福音伝道こそ教会の働きですが、牧師はこのように話を聴くということをお伝えできることは、これも、福音の多様な現われの一つと考えています。

注1.カウンセリングの学びを生かした「気持ちの聴き方」という市民講座。内容は、「聴くこと」、共感・受容、会話記録分析、ロールプレイ。全10回。現在まで20年間で受講生400人。現在「NPO法人 心を聴く市民ネットワーク」。
注2.「いのちの電話」の子ども版。電話にかかって来る子どもの話を共感的・受容的に聞く。神奈川県では、県内公立小・中・高等学校の子どもたちに学校を通して約75万枚の案内カードを配布、月に500件の着信がある。

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by rev_ushioda | 2016-10-05 17:26 | Comments(0)

「共同宣教試論」

私たち泉教会は、いよいよ20年目の1年間を歩み出します。前任地であるさがみ野教会は、今年、40周年の節目を迎えています。しかし、どちらも共に「教勢の伸び」は思わしくない。そこで私は思うのです。教会は、年数が経てば「盛栄」「発展」していくところなのだろうかと。ビジネス文書にはよくそのように書かれています。その通り、伸びるに越したことはないのですが、実際、盛栄、発展することなく、いつまでも小さな教会ということも、あるのではないでしょうか。
しかし、ここが大事で、小さな教会だからといって、保身的に内固めするのではない。教会の使命は、小さかろうが、大きかろうが、伝道以外ではないのです。小さな教会は小さな教会なりの機動力を生かし、伝道するために、ここに置かれているのです。この視点が抜け落ちると、どうしたら教会を維持できるかといった、せこい話に終始し、炭酸の抜けたコーラのような得体の知れないモノにしかならない。
牧師を招聘する力がないなら「兼牧」(一人の牧師が小さい教会の働きも併せ持つこと)という考え方があります。何とも教会を馬鹿にした言い方だと思います。教会はそんな片手間で出来るような所ではない。
他方、「共同宣教」という言葉があります。力がないなら、地域の教会が共同で宣教を担ったらいいのではないかという考え方です。共同宣教は、限られた人材、限られた経済力で、では、伝道をどうしたらよいかという、前向きの議論の中で生まれてくる言葉である、というところが大事です。力がある教会が、力のない教会を支援する(兼牧する)というような考え方では決してありません。私たちは今、伝道する教会として、そのような伝道する教会の新しい仕組み、枠組みをもって動き始める時を迎えていると思います。

教会が一人の牧師を招こうとして、しかし経済的な能力を持たないなら、方法は少なくとも3つあります。
一つは、他の教会の牧師に、臨時代行を依頼する。つまり、牧会のために一定の時間を割いて来てもらう、いわゆる「兼牧」です。しかし、これは間に合わせ的な形態であって、しかも受ける側は負い目を感じ、この状態を何とかしなければ、というあせりは、どうしても内向きの考え方になります。

一つは、牧師が教会以外で何か仕事を持ち、そこである程度の収入を得ながら教会の働きをする「自給」です。仕事とは、たとえば学校の聖書科で教えるとか、教会の関連事業(英会話教室、塾、幼稚園、介護事業など)での働き、あるいは地域で証しになるような働き(学童保育、NPO、その他)になるでしょうか。

一つは、これは複雑で簡単ではありませんが、いくつかの教会と協力関係を結び、開拓伝道を起こしつつ、地域の複数教会の協力体制で互いの必要をカバーするという方法。開拓伝道に派遣された牧師は、メインとなる教会(牧師を招こうとしている教会)からの謝儀、他の協力教会からの支援、そして塾で教えるなど自給収入で生計を支える。メインとなる教会は専任の牧師ではないものの、協力関係を結んだ牧師により礼拝をまもり、牧会と、小会指導を受けます。この方法の要は、単に受けるだけでなく、他の教会と共に新たな開拓のために牧師を送り出し、「共同宣教」を実現するという視点を持つことにあります。この方法は未知の領域で課題は多いですが、内向きの矢印が外に向かう点で、見える形は「兼牧」と同じようでも意味はまったく違います。

今、泉教会はどの選択が出来るか、小会はその方向性を出すことを当面の優先的課題としています。弱さは他の教会よりも多く持っている教会ですが、だからといってただ受けるだけでなく、私たちも宣教に関わる喜び、期待、を共有する方法を選んで行きたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-10-02 17:31 | Comments(0)