「1年ぶりの休暇」

こんなに疲れていたんだ、と思った。
昨年9月から母の介護生活が続き、10か月。この辺りで、と思って母をショートに預け、日曜日午後から妻と二人で箱根に。
毎回、安いB&Bプランを探して、今回は強羅の「ホテルマロウド箱根」。夕食は高速道路SAのレストランで済ませ、現地に行ってゆっくり温泉に。もう一度入ろうかと思っていたが、9時過ぎには眠ってしまい、起きたのが朝8時。食事のあとも眠くて… チェックアウトが11時だったのでゆっくり横になっていたが、今回、やっと休養が出来て改めて、ああ、こんなに疲れていたんだ… と思った。出がけに、娘が、おいしいものでも食べてと包んでくれ、気遣ってくれた。

帰宅した翌日も、やはり眠くて眠くて、一日ソファに横になるしかなかった。
こんなに疲れていたんだ。



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by rev_ushioda | 2016-06-20 16:50 | Comments(0)

「信仰告白に生きる」

 絵画や映画を見ると、意図して、事実に即して描こうとしていない(・・・)ことに気づきます。典型的なのがダヴィンチの『最後の晩餐』。当時、ユダヤではあのような部屋やテーブルで食事をしなかったくらい、承知の上で描いています。レンブラントは『十字架を立てる』絵の中に十字架を立てている自分を描き込んでいます。聖書に関係した絵のほとんどは黒人は黒人のイエスを、日本人は日本人のイエスを、というように自分の国の顔立ちで人物いています映画、直近の『エクソダス』ではモーセ手に杖ではなく、剣を持たせ『復活』は、ローマの司令官の目で(すなわち監督の目で)見た創作です。音楽となれば、私たちのイメージ聖書でいないだけに、まったく独創的な世界が広がっています。小説言わずもがな私たちは、すぐに、これは事実に即している、いや違うと、評論家のようになって話をするのですが、芸術の世界では、そういうことはおかまいなしに事実を正確に描こうとなく・・聖書を読んだ者実存的な受け止め方、彼らの信仰告白をその絵に、映画に、音楽に、小説に、伝えているのです。

 私たちは言葉で教会的な信仰告白を告白するのは言うまでもありませんが、しかし、私たちの、聖書を読んだ者としての実存的信仰告白はどうなのだろうと考えます。絵が描けたら、私はイエス・キリストにこのように従うのだという絵を描きたいし、映画だったらそのように舞台に立ちたいし、音だったらその音の世界に生き、小説ならその主人公として生きたいのです。そこにおいては、他の人と違う生き方があります。その告白を実存的に生きる仕方は人によって違う。そのような人の信仰告白に、だれも異をとなえることはできない、そういう告白的な生き方を、私たちは、持っているだろうか。教科書的な信仰告白をただ繰り返すだけの生き方を、主イエスはのぞんではいないでしょう。また、何かの基準(ファリサイ的基準)に、あっている、あっていないと他人の信仰をそのように見る評価的な生き方は、なおさら、主イエスは望んではいないでしょう。イエス・キリストにぶつかっていく実存的な信仰、その人の、その人らしい告白をこそ求めておられるに違いないと、私は信じています。そこにおいては皆違っていい。私たち泉教会は、その違った信仰告白が一つにされ、神の国を形成する仲間です。




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by rev_ushioda | 2016-06-14 12:18 | Comments(0)

「説教への反応」

 説教を聞いて、少なくとも、以下の13の反応があります。説教がどの反応を期待しているかは、すぐお分かりと思います。それが、説教の聞き方です。

1.眠気を催し、眠りこける。

2.つまらない話だ。

3.馬耳東風。自分とは関係ない。

4.ほうっておく。

5.あざ笑い、いつかまた聞こう(もう聞かない)、と言う。

6.当惑と興味と半々。

7.実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようかと言って去る。

8.言葉じりをとらえてどうにかしてやろうと思って聞く。

9.説教者をわきへ連れていき、私の理解と違うと言って、いさめる。

10.説教者を始末しようとする。

11.難しい…

12.素直に受け入れ、新しく聖書を読む生活を始める。

13.では、どうしたらよいのかと、尋ねる。

14.今日の説教は私のためであった。みことばによって心が動いた。

ちなみに、1、2、5、12番目は、あの使徒パウロへの反応です(使徒20:9、第2コリント10:10、使徒17:32、同17:11)。また、3、6番目は、洗礼者ヨハネへの反応です(マルコ6:20、ルカ7:3132)。4、13番目は、ペトロへの反応(使徒5:382:37)。7、8、9、10番目は、主イエスへの反応です(ヨハネ6:60、ルカ20:20、マルコ8:32、ルカ4:29)。1114番目は、同じ日に私の説教を聞いた、お二人の人から実際、私が聞いた言葉です。

私は、駆け出しの頃、色々な人の批判も一生懸命聞こうとした時がありましたが、しかし、批判した人はある時、私の説教の聴き手をやめる時が来ました。礼拝においでにならなくなり、私は取り残されたのです。聞き手は、気にいる説教を自由に選ぶことが出来たのです。私は悟りました。私は自分の説教を語り続けるしかないこと、また、そういう聖書の読み方をするしかないことを。以来、人の批判に対して、私は相当に頑固な人間になったと思います。感想なら喜んで聞きますし、また、牧師会のような説教の研鑽を通してなら喜んで自分を変えたいと願いますが、批判に振り回されるのはやめようと心に決めています。そして、上の121314番目の応答をこそ期待し、語り続けてきました。私の説教の聴き手である泉教会の皆さんは、そのことをよく分かって、良い礼拝をささげてくださっています。






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by rev_ushioda | 2016-06-11 12:43 | Comments(0)

「あかし言葉を」

荒井献とか、大貫隆と言えば、日本の聖書学の大家です。たまたま泉教会に出席されているお一人が昔、同じ教会だったという話になりました。さぞかし難しい話が飛び交っている教会だったでしょうという話になると、「いいえ、教会では難しいことは何もおっしゃいませんでした。教会で教えようという態度は見せず、荒井先生などは、古着の叩き売りが上手だったんですよ…」という日常を紹介してくださった。私は、この先生にしてそうだったのかと、大層感心しました。
そういえば、ある時、仲間から聞いた話ですが、礼拝にその教会の牧師の恩師が出席された。恩師であることは伏せ、一人の礼拝者として紹介。本人も、礼拝で短く「自分は何も取り得がない者です…」と挨拶されたそうです。礼拝が終わると一人の人が近づき、励まそうとしたのだと思いますが、「そんなことはない、聖書には、神は…」と、とうとうと話し始められた。牧師はあわてて、「この方は…」と説明しようとしたが、やめたという。なぜならその恩師の方は、言われるままに「そうですね。本当にそうですね。」と耳を傾けていたからだと。
教会の営みの中で何が必要なのかといえば、聖書の言葉をもって自分が教えられたことを語り合う、「あかし」の空間を作ることを私は大事にしていますが、改めて、その思い新たにいたしました。あかしとは、私はこう生きて来たけれど、聖書によって、礼拝によって、こういうことに気づき、キリスト者になった、キリスト教信仰に生きるようになったし、今後もこの信仰を大事にして行きたい、という言葉です。教会の秩序を教えたパウロは賜物の違いを述べていますから、主語が「あなたは」という指導や教えはその賜物を持った人に委ね、私たちは、もっぱら主語を「私は」にした、「あかし言葉」を教会に溢れさせたい。
信徒が信仰の大事さに気づくのは、人に実際起った神のわざに触れた時です。また、初めて来た人が、聞いて、心動かされる言葉は、神がその人に何をされたかという、あかしの言葉なのです。私に実際起ったこと、私が実際動かされたことを語る、主語が「私」である「あかし言葉」は、泉教会で大事にされ、これからも大事にしていく言葉なのです。 

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by rev_ushioda | 2016-06-03 10:53 | Comments(0)