「岐路に立ち」

「一同は死刑にすべきだと決議した。」(マルコによる福音書14章64節)。

先週の国会、参議院特別委員会の様子を見たと思います。毎日新聞によると、委員長の説明では採決したというが、どの時点で何の採決が行われたのか、議場にいた議員すら分からなかった。ある人は「委員長が何を言ったか、誰が何をどうしたのかさっぱり分からない。あんな暴力的な採決が認められるなら、この国の民主主義は死ぬ」と言いました。生中継するNHKすら、「何らかの採決が行われたものとみられます。」と言って、実況したそうです。散会するまで「可決」を伝えられなかったと。
つまり、誰にも分からないのですが、ある人たち(与党側)は、裏を合わせていて、声が聞こえなくても皆、次にどうするか分かっていた。聞こえなくても合図で皆、立ち上がって、「はい、賛成の人多数、可決」ということになったのです。そのように、裏で動いていた。

そういう決議が行われた先週の国会を目の当たりにし、聖書を読めば、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(上掲書55節)「一同は死刑にすべきだと決議した。」(64節)とあります。(正式の死刑判決はまだ先であり、ここでは予備裁判のような場面ですが)ここで起こったことと、この日本で先週、実際起こったことと、何か重なるような思いが致します。裏があって、もう筋書き、結論は決まっている中で、表向きは形式だけの審議が行われた、ということなのです。
しかも、主イエスの逮捕は真夜中、裁判も夜中となったのですが、こういったスピードもまた、今の国会の仕方と重なります。結論が先にあると、疑問を持つ人がどんなにいても、期限までに突っ走るしかない。時間内に決めてしまわなければならない。
人間は、一度、こうだと決めていることがあると、人の話を聞くようには見せますが、しかし自分で思っていること、決めた事を、ただ通そうとするだけになる。そういうことを繰り返していくのです。こうなると、人間を大切に、人の心や平和を大事にしよう、というかけらも見ることは出来ないのです。

先週の国会で「死刑」の「判決」を受けたのは、憲法であり、民主主義であり、平和国家のブランドであり、そして平和を願う私たちでありました。

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by rev_ushioda | 2015-09-24 09:58 | Comments(0)

「あなたは誰ですか」

問 あなたは誰ですか?

答 わたしはキリスト者(クリスチャン)です。

問 キリスト者(クリスチャン)とは、何ですか。

答 キリストを主として、キリストに従う者です。

問 あなたがキリスト者であることは、何によってわかりますか?

答 日曜日、わたしは属する教会で主を礼拝します。日曜日にわたしが居るところが、わたしがキリスト者であることを証明しています。

問 ほかに、あなたがキリスト者であることが分かる方法がありますか?

答 わたしがキリストのように考え、行動しようとしていること、それが、わたしがキリスト者であることを証明しています。

問 あなたはなぜ、キリスト者なのですか?

答 キリストが、わたしのために十字架で死んでくださったからです。

問 あなたはいつまでキリスト者なのですか? 

答 死ぬまで。

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by rev_ushioda | 2015-09-11 11:07 | Comments(0)

「97歳の母のこと」

先週の水曜日、救急車を呼んだ。医師から言われたのは、過呼吸。原因は不安ということで、安定剤投与の結果、1時間で落ち着きを取り戻し、深夜1時に帰宅。
その時、医師が言われた。「これも認知です。」 「自分でできると思っていることが、体のほうではできなくなっている。そのできるということと、できないことのギャップが不安を引き起こし、過呼吸になった。」
ナルホド、自分でできる、やりたいという思いは人一倍強い母である。今年前半は、庭の草むしりなど、こなしていた。6月には、立ったまま草が刈れる鋏を通販で買った。一度はその鋏で庭の草刈りをしたのである。もうできないのだから無理をすることはないと言っていたのだが、その後、外に出ることができなくなった。家の中でも杖をついてでないと歩けなくなった。最近では、杖もだめで、シルバー用ショッピングカートという、両手をそこにゆだねられる手押しカートで、ゆっくり移動している。トイレ、お風呂も介助が必要になった。それが当たり前と言えば当たり前なのに、できる、したいという意識がある。そういうギャップが不安となり、過呼吸になったというのだ。
年齢相応に自分の手から放していくものがある。しかし、人にゆだねることができないことも認知の状態ですよ、過呼吸になるのですよと聞き、何か信仰に通じる話だと思った。握りしめていたものを、徐々に開放していく。そして、できなくなったことをうらめしく思わず、自分でやろうとせず、人に指示もせず、すべて主にゆだねていく。それが成熟した信仰者だ。
その時が来ているのに、あれをやりたいとか、あなたはこうすべきだと指示、判断するとか、何とかしようとせず、そこで過呼吸を起こさず(苛立たず)、むしろ、自分自身の次の段階の方にこそ目を向ける作業が、私たちには必要になるのだ。
「あなたたちの息子、娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)
夢は、若者の特権ではなく、老人の特権である。言ってみれば、天の国を夢見て「はしゃぎまわる」。夢見る高齢者、これが聖霊の働きなのである。そして預言、福音宣教は、次の世代によって力強くなされ、教会を通して神の支配する領域(天の国)が拡大して行く。預言は次の世代に委ね、老人には老人の、夢を語る特権と使命があるのだ。私も含め、70代、80代あたりからこの特権と使命にシフトし、信仰において過呼吸になりませんようにと祈りつつ。

母の体力の落ち方は、この数か月で大きい。この1週間で、さらに顕著になった。先日も、そして今日も、教会の仲間たちが来てくれた。とてもうれしいと、言っていた。

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by rev_ushioda | 2015-09-08 20:21 | Comments(0)