「人間を取り戻す日」

テレビを見ていたら、イスラエルの映像が映っていました。サバト、安息日の映像でしたが、町の店という店はみなシャッターが閉められていて、通りには一人もいません。なるほど、これが安息日なのかと思いました。安息日について、イスラエル人が次のように説明していました。
「もし、安息日がなかったら、私は1週間に7日働くでしょう。旧約聖書では、これは奴隷という意味なのです。かつて自分たちがエジプトで奴隷であった時、休みはなかったからです。休まないということは、つまり奴隷なのです。1週間に7日働いて、もし100万円もらったとしても、私は、奴隷にすぎない。働くことを止めないからです。」
…なるほど、安息日は、聖書を読む人々にとって祈りの一日、礼拝の日、神と向き合う日です。この日は、人が奴隷をやめて、人間を取り戻す日だったのです。私たちは、「豊かな奴隷」なのかも知れない。経済力もあるし、自分で何かを選択する能力もある。休日もないわけではない。しかし、神を礼拝することがない。あらゆることをしながら、神を礼拝しない(できない)なら、それがすでに何者かに支配されている奴隷という指摘は、心に刻み込まれる言葉です。
私たちはよく「余暇」(余った暇な時間)と言って、仕事をして、余った暇な時間があったら何かしよう、教会にだって行こうと思うのですが、実は、「余暇」ということ自体、何かに支配されている言い方なのではないでしょうか。むしろ、その時間こそ、人間を取り戻し、仕事の質を決める時間なのです。
また、レクリエーションとは、リ・クリエーション。即ち「再創造」という意味です。日曜日を祈りの日、礼拝の日としていく時、そこで、再創造が起こる。新しく造られる。主イエスは言われました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。・・それを取り上げてはならない。」

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-28 13:20 | Comments(0)

中会には、宿泊施設があります。あまり知られていないかも知れませんが、かつて「富士峰山伝道所」として使われていた建物で、西富士は朝霧高原、白糸の滝のすぐ近くに、その施設はあります。教会として使っていたために、当然ですが1階は礼拝堂、2階が3LDKの住居スペースになっていて、真正面に富士山の大展望という、絶好のロケーションです。先日、メンテナンス作業のために行ってきましたが、建付けはしっかりしており、部屋には埃もないし、壁、その他、非常に綺麗です。中会ではこの建物の貸し出しをしており、全館貸切りの別荘ステイが楽しめます。
近くに白糸の滝、体験型牧場、富士花鳥園、朝霧高原温泉、奇石博物館、本栖湖ほか、また富士山YMCAなど、行ってみたいところは多数あります。家族の交わりを深めるため、また音楽などの創造的な活動のため、家一軒、丸ごと貸切りのこの施設を、利用されてみてはいかがでしょうか。

データ 所在地:静岡県富士宮市上井出424−4 バスはありますが基本的には自家用車での利用です。ふとんはありますが、貸布団を利用すると良いかもしれません。使用料は大人1泊500円。小中学生は割引がありますので、一家で出かけても1,500円前後です。

(建物に管理人はいないが、普段はセコムによって防犯管理されている。)
→ 地図(ストリートビュー)  地図を拡大すると見えてくる、中央、赤い屋根の建物です。ストリートビューでご覧になれます。

f0086426_21361544.jpg

f0086426_213644100.jpg
f0086426_21365574.jpg


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-25 21:36 | Comments(0)

「ぶどうの収穫」

教会のぶどう。今年は例年になく房が10以上、垂れ下がり、ようやくぶどう棚という感じである。が、現状は写真のとおり(大笑)。まあ、よくやったと、ブドウに言って、今年はこれで良しとして、年々良くなっているので、来年に期待したい。
収穫は色づいた順に粒ごと(笑)であるが、食べてみると意外と甘いねと、皆でささやかな喜びを味わっている。感謝。
f0086426_1759487.jpg


にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-24 17:59 | Comments(0)

教会に行くと、どこの教会でもそうですが、受付で名前を書いたり、いつも来ている人は自分の名前のところに〇を付けたりする。(アメリカなどでは、そういう習慣はないようです。)初めて教会に来た人は、抵抗感があるに違いないと思います。
どうして名前を書くかというと、きかれると困る話です。記録のため、というのが一般的でしょうか。初めての人は、ちょっと教会を覗いただけなのに記録されるというのは、やはり抵抗感があると思います。ある教会では、保険を掛けてあるからだ、と言っています。教会に行ったことで、その途上、何かの事故があったら教会活動という名目で、保険金が出る、というのです。もちろんそういう保険に入っているからですが。なるほど。

しかし、それにしてもなぜ名前を書くかといったときに、私は、自分が名前を書いた(名前にチェックした)そのように、神が私たちのことをこのように記録してくださっている、という考え方をしたい、と思っています。
イザヤ書49:16節に、こういう言葉があります。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神などいない、神の助けなどないのだ、と言う者の前に、神が言われる言葉が、今の言葉です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」そして言うのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
私たちの罪が、それがどんな深いものであっても、取り返しのつかないものであっても、そういう神がおられるなら、私たちは、いつでも、この神、この言葉の前に立つことが出来ます。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」私たちが名前を書く時、実はその前から、神が、私たちがするように、私たちのことをちゃんと記録してくださっているのです。名前を書く時に、ああ、そうだったと、そういう神さまのことを思い出せたらいいと思うのです。思い出してほしいのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-20 09:27 | Comments(0)

「子どもお楽しみ会」

昨年から、教会では、小さい子どもたちの「夏期お楽しみ会」を開いている。多くの教会は「夏期学校」として開くものであるが、私たちの教会は子どもの年齢、人数、奉仕者の手当ての状況から、夏期学校としてのプログラムより、教会生活奨励日という意味付けとしている。
去年は、子どもの成長を考え、また、ちょうど神学生がいたから実現できたのだが、それまでは娘の行っている教会に参加させてもらっていた。その神学生は今年はいないので私たち夫婦でするしかない …幸い、お手伝いしてくださる方があり、また娘夫婦に応援を頼みこんで、何とか形にできた。その娘夫婦による、ギター賛美と振り付けは、さすがになかなか高度なもので(毎年行われる超教派の本格的キャンプでの奉仕経験により、みがきがかけられている)、子どもたちはノリノリであった。私たちは、といえば、昔とった杵柄、リーダーさがしや、サラスポンダ、チェッチェッコレ、オユポイヤイヤ…(汗)
f0086426_23141188.jpg

f0086426_2342857.jpg

(歌詞)
全てに感謝しよう我が主に/賛美と喜びもて
声高らかにほめうたおう/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ
賛美主 ハレルヤ/賛美主 ハレルヤ/ハレルヤ

次は今回と関係ない画像だが、歌は同じ。(画像をクリックしてください)
f0086426_1213489.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-18 23:14 | Comments(0)

「修道院訪問」

今日、7人で藤沢修道院に行き、「十字架の道行き」の祈り体験をした。初めての体験であるが、手には「十字架の道行き」 (山下神父著)がある。それにしたがって、蝉の声が聞こえる木立ちの中に設けられたステーションを、祈りつつ、順にたどって行く。プロテスタントの私たちにはない、祈りの道行きだ。マリアに対する理解の違いは、申し訳ないが修正しながら、また、聖書にはない内容をもったステーションもいくつかあったがそれほど違和感なく、そのほかの記述に信仰的な立場の違いはほとんど感じられず、かえって霊的な洞察の深さに感動。歩を進めるうちに十字架の意味が体に伝わってくる。これがカトリックの信仰かと、それだけでわかるはずもないが、敬意の湧き出るのを感じた。

道行き最後は軽い坂になっていて、木立の中から、開けた明るいところに出ると、そこが復活の場面。またそこは聖堂の正面となっていて、待っていてくださったシスターに聖堂内に招き入れられた。エアコンが効いた聖堂に入り、一同、その質素さと意匠に感動。とにかく修道院の聖堂は始めてという人も多い。復活の場面の後、ということで、「主よ、おいでください/クンバヤー・マイ・ロード、クンバヤー/主よ、おいでください/おお主よ、クンバヤー」と再臨を待つ意味でこの歌を歌い、祈って、プログラムを終えた。

別室に案内され、用意してくださっていた、よく冷えたドリンクをいただく。木立の中といえ、のどが渇いていたので、おいしかったこと。被災地に贈るために作っているという、キリスト生誕場面の人形(ナティビティ)を院長のシスターが見せてくださった。この部屋はいつもはそのための作業場だということ。修道女は20数名で皆、高齢者だという説明に、「若い人は入ってこられないのですか?」とお聞きすると、(存続のために祈っていると答えが返ってくるかと思っていたら)「必要がなくなればなくなるでしょう」と。シスターが高齢なので、今はいろいろなボランティアに支えられているという話も聞いた。逆に「教会の人数は?」と聞かれるので、「小さな教会です」と答えると、「教会は人数ではありませんね」と。修道院だからか、何か、洗練された人の言葉に私には聞こえた。

写真は、14ステーション。次は復活の場面となるが、ちょうど奥から光が射しているところが、復活の場面となる。そこがまた礼拝堂の入り口となっている。
さらに次の写真は、まったく関係ないが、聖堂にいた虫。めったに見ることができない「ナナフシ」だ。それだけ自然に囲まれているという証。
f0086426_22571446.jpg

f0086426_07552.jpg


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-08-02 22:43 | Comments(0)