「お祭りをしよう」

子どもの頃、村の神社のお祭の日となると、学校は早く終わりました(うろ覚えですが、そのように記憶しています)。どの宗教でも、お祭は本来、特別な礼拝が行われる日であるのですが、子どもにとってはそんなことは関係なく、境内に並ぶいわゆる出店だけが「お祭」の意味であり、楽しみでした。
そういうことからすると、日本の教会は「お祭」の演出が下手であったと思います。教会には三つの祝日があります。クリスマス、イースター、ペンテコステですが、クリスマスを除いてなかなか「お祭」にならないようです。そういう反省もあって、昔のことですが、一番「お祭」性の低いペンテコステに焦点を当てて「ペンテコステ運動会」を企画したことがあります。万国旗がはためく運動会が、ペンテコステの意味としていいのではないか、となったのです。子どもたちに案内したら、当時のこととはいえ、意味もわからず30人以上の子どもが、その日のために借りた幼稚園の園庭に集まったのです。その日、初めての子どもたちと一緒に、運動会を楽しみました。
来週は、イースター。泉教会の「お祭」にしようと、私たちは、小さなバザーを計画中です。ガレージを使ってのガレージセールですが、通りに向けての演出なのです。復活の意味として、立ち寄られた方に「イースターエッグ」をプレゼントしようと、前日に準備します。
木曜日の聖書会に集まった皆さんと一緒に、教会周辺にチラシを1000枚配りました。はたして、どのくらいの「お祭」になるでしょうか。

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by rev_ushioda | 2015-03-27 16:39 | Comments(0)

最近の新聞に、「カトリック “軍備優先”に危機感」という見出しがありました。日本のカトリック教会が、平和の理念を揺るがす政治の在り方に危機感を強め、戦後70年に際してメッセージを発表した、という内容でした。
そのメッセージは具体的に何と言っているかというと、政治は歴史を書き換えているとか、憲法9条を変えようとしているとか、沖縄の基地問題で人間が無視されているとか、そのような踏み込んだ内容だ、と紹介しています。その上で、なぜ、教会がこのような踏み込んだ発言をするかということが、記事に書かれています。要するに、「なぜ教会は平和を“祈る”だけでなく、政治について発言するのだろうか」という問いに答えようとする記事でした。
私たちカンバーランド長老教会日本中会も、そういう意味では声明などを盛んに発信していますが、好き好んでそうしているわけではありません。本当はそうしたくないのに政府に対してメッセージを発表せざるを得ないのは、日本のカトリック教会の場合、かつて、明確に反対せず、結果、戦争遂行に協力してしまったという反省があるからだと、記事は紹介しています。
ほっておけば、結果的に戦争に協力することになるのは、歴史が、はっきりと証明していることです。集団的自衛権のたどる道は、戦争です。政府はそのための国民の意識改革と、法整備を、もう何年も進めてきて、ここに来てそれが顕著です。もし、発言しないなら、戦争に協力することになってしまうのです。
N兄は軍国主義に育った少年時代、「晴れた」空を見たことがなかったと言われました。実際、晴れた日はあったでしょう。しかし、心の記憶は、いつも曇りだったのです。そして、それが今、この時代に重なると言うのです。
私の信仰上の祖父は、京都で牧師でしたが、治安維持法で検挙され、信仰のゆえに殉教しています。その悪法が今、特定秘密法に姿を変えて復活しました。だから私は、政府の考え方に反対の意思表示をするのです。それは、ただただ、信仰を護ることなのです。
今、ほっておいたら戦争を起こす協力者になるのです。かわいい孫たちは、将来、徴兵制によって兵隊にとられます。カトリック教会が声を上げたと報じられました。あなたは?

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by rev_ushioda | 2015-03-20 10:54 | Comments(0)

「ちょこっと休暇」

ちょこっと休暇を再び…。日曜日、夕礼拝が終わってから箱根に出発、月曜日3時までに帰宅するプチ休暇のこと。
中山道には、娘一家が家の近くから引っ越すし、母の年齢が97歳になることを考えると、しばらく出ることは出来なくなった。岐阜止まりのままだ。
この、「ちょこっと休暇」の行先の基準は、到着が夜中12時まで可/朝食付で7000円台/チェックアウトが、できれば11時/口コミ評価が高いホテル、この検索で当たったところなら、どこでもいい。今回、強羅にある、ホテル マロウドに泊まった。直前予約なので、ヒットするホテルは毎回違う、というスリル感が、また、いいものだ。新しいホテルとの出会いがある。
今回も、初めて利用するホテルだったが、口コミ通り、大満足であった。一番よかったのは、レストランでのスタッフの会話。その人の自然体かもしれないが、お客さんを喜ばせる短い会話のコツを心得ていると、思った。そのほか、アンケート用紙が置かれており、意見を聞いて、その対応をきちんととっている感じがあった。人への対応がきちんとできることなどホテルの基本だと思うが、当たり前のことが当たり前にできないのが、また人間である。そこをソツなくこなしているのを見ると、ほっとするものを感じ、プチ休暇に行った甲斐がある、というものである。
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by rev_ushioda | 2015-03-16 20:58 | Comments(0)

「外見によらず」

この写真は、たまたま通りがかりに立ち寄った、通り沿いにあったラーメン屋さん(左の建物)。
中に入ると何やら色紙が壁一面に。「6杯完食」とか、書いてある。なるほど、完食したらタダになるあれか、と思ってみていたら、「1万円ゲット!」とある。30分以内に6杯完食でお祝い金がでるらしい。1時間以内10杯完食で5万円ともあった。スープも完飲だから、この人、5万円ゲットしたはいいけれど、生きて帰れなかったんじゃないかと…(笑)そして、何と、タイだったかどこだったかの国から来たというテレビ番組の一団が(と、うろ覚えで記憶しているが)、大型バスで乗り付けた写真が貼ってある。
田舎の普通の店なのに、このように話題を振りまいている店もある。6杯完食で1万円、広告費と考えれば安いものなのだろう。茅橋ラーメンという店だったかな、食べログなどにも紹介されている有名な店のようだ。要は、店構え云々よりも、頭の使いどころか。外見、立地がネックになっている、わが泉教会のことを、いろいろ思いめぐらせた。
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by rev_ushioda | 2015-03-14 20:56 | Comments(0)

「神学校卒業式」

今日、東京基督教学園の卒業式だった。関係する卒業生がいるので出かけたが、今年は、他の神学校でも関係者がいた関係で、はからずも二つの神学校の卒業式に出ることになった。神学校の卒業式(卒業礼拝)は、自分が牧師である原点に触れる貴重な場である。今年は2回もそのような場にいることができた恵みを思う。
今日の礼拝説教は、ヨハネによる福音書13章36~14章6節からの説教であったが、実に感銘深い説教であった。説教者は、藤本 満牧師 (イムマヌエル綜合伝道団代表、同 高津キリスト教会)。内容は、人は「どこへ」「なぜ」「どうして」と問うが、主は「わたしは道である」とだけ答えられる。そしてヘンリク・シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』を引用しただけの非常にわかりやすく、しかし明確に献身を促すものであった。
小説の引用をしながらも、しかし、聖書の言葉だけをもって語る説教で、御言葉が深く心に刺し込んで涙があふれた。よい説教に久しぶりに出会い、また、その後の祝辞も意義深いもので、言葉が心に響き自分の身に迫り来て、良い意味でぐっと疲れた(?)卒業礼拝であった。

改めて私の出発の時となった卒業証書をコピーしておこう。今は口語に変わっていて残念なのだが、私の時は文語体であった。丸山忠孝先生の読み上げるこの卒業証書本文は、今もなお耳に焼き付いている。

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by rev_ushioda | 2015-03-13 21:11 | Comments(0)

特別伝道礼拝に来てください、今日もお電話をいただきながら、お断りした。アメリカの日本語教会設立式にも再三、来てほしいとせっかく声をかけてくださっているのに、教会の事情で今は出ることができません、とお断りした。期待されているのに身動きが取れないのは、本当に申し訳ないことである。
昨年来、泉教会の礼拝の減少が激しく、数年前から比べて10人減の17人平均である。昼食の交わりの時、「今日もさびしいね」と聞いたあと、日曜日は外に出ないことに決めた。この人のために、出てはいけないと思った。それもこれも私の至らなさである。来年末は65歳の定年年齢なのだから、せめて、何とか数年前までの人数に復帰させて、外の期待にもこたえていきたいところである。

それにしても、どこかで私のお話を聞いて、ぜひ来てほしいとお招きいただけるだけでも、礼拝に人が集まらず落ち込みがちになる心には、百倍の勇気と励みになる。

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by rev_ushioda | 2015-03-10 13:50 | Comments(0)

「最後の七言」

時は受難節。しかし、十字架上の「最後の七言」ではない。

We’ve never done it that way before.
「私たちは今までそんなふうにやったことはありません。」
これは、話し合いを否定的に打ち切る常套句で、「最後の七言」と言われるものです。この道具を使うと、人の前向きな思考、やる気、成長したいと思う気持ちを落ち込ませるのに非常に有効です。
私たちは、常にこの効果的な道具を使いたい気持ちがあります。なぜなら、それによって同じところに留まり続けることが出来ます。何も試す必要はなく、危険な冒険をしないで済みます。安全地帯にいたいなら、この「七言」を使えばいいのです。We’ve never done it that way before.「私たちは今までそんなふうにやったことはありません。」

しかし、私たちは、そのように召された者だったでしょうか。
アブラハムには、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」
漁師ペトロとアンデレ兄弟には、「わたしについて来なさい。人間を獲る漁師にしよう。」

私たちは、今まで、そんなふうに神に信頼して立ち上がったことはありません。しかし私たちは、神が招かれるならば、今までそんなふうにやったことがなくても立ち上がって行く者になるのです。私たちは、人がやったことをしようとしているのではなく、神が招くこと、神がなさることをしようとしているのです。私たちは、人の言葉、人の経験に制限されるのではありません。神の言葉をこそ心に記憶して、それに向けて出発するのです。

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by rev_ushioda | 2015-03-07 09:11 | Comments(0)

「東京駅はこりごり」

行けば何とかなる、とは言うけれど、東京駅はそんな言葉は通じないところだった。
「聖書事業懇談会」があって、会場 フクラシア東京ステーション(朝日生命大手町ビル)というところに行ったのだが、駅に降り立ったところからまったく行先がわからない。案内表示を見ても、自分の現在位置は標示されてはいるが、そこからどっち方向に行ったらいいかがわからない。上に出たいのだが、上に行く階段がわからない。道がいたるところ分岐して、まるで蟻の巣の中だ。新幹線とか、地下鉄の何々線とか、あっちこっちに表示があるが、肝心の出口の表示がない。表に出たいのに、出れない。やたらと飲食店ばかり。何だ、この駅は?出口がわからない駅など、初めてだ。心細いの何の…30分うろうろして、人に訊いてやっと表に出たら、高層ビル街の谷間だった。そして、目の前に目的のビルがあってホッとしたが、道に迷うとは、こんな心細いものかと思い知った。
帰りは、人の後について駅に行ったが、地下では、いったいどこからが駅だったのか… あげくの果て、何と東海道線が見つからず、たまたま目の前にあった横須賀線で帰ったものの、行きたいところに行けない東京駅は、二度と行くところではないと思った。
たとえば下の図。これで、分からない人が本当にわかるんだろうか。
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by rev_ushioda | 2015-03-06 23:51 | Comments(0)

「犠牲の上に」

灰谷健次郎という児童文学者の作品に『兎の眼』という小説があります。足立先生という小学校の先生が、ハンガーストライキをしている、そこに訪ねてきた子どもたちとの会話が書かれています。「先生、しんどいか」「うん、苦しい」と言いながら、先生は、昔、貧しくてお腹を空かせて、生まれて初めてドロボーした夜のことを話し出します。
子どもたちは先生がドロボーしたと聞いて驚きますが、先生は続けます。「先生はお兄ちゃんと二人でドロボーに入った。怖かったなぁ。先生はドロボーが恐ろしゅうて恐ろしゅうてかなわんかった。だから、四、五回でやめてしもた。」
でも先生のお兄ちゃんはドロボーが平気で、何回も何回もドロボーしたのです。兄弟が七人もいたから、ツバメが餌を運ぶように何回も何回もドロボーした。おまわりさんに何回も捕まりながら、何回もドロボーした。やがて少年院に送られ、そこでお兄ちゃんは死んだのです。ところが、死んだとき、文庫本の『シートン動物記』がボロボロになってポケットに入っていたというのです。そこで、先生は気づいたのです。ドロボーして平気な人間はいない。先生は一生、後悔するような勘違いをしていた。先生はお兄ちゃんの命を食べていたのだ。お兄ちゃんの命を食べて大きくなったんだ、と。

これは児童文学(小説)ですが、この場面で何を言っているかというと、犠牲、ということです。お兄ちゃんが他の兄弟たちの犠牲になって、先生は、そのお兄ちゃんの「命を食べていた」という話をしている。先生は、お兄ちゃんは好きでドロボーしていたのだろうと思っていたのですが、一生、後悔するような勘違いをしていたんだ、と。
人間は、他の人の犠牲を食べて生きているという、命の理解の仕方をこの本は書くのですが、十字架にかけられたイエス・キリストは言われます。「わたしが命のパンである。」一生、後悔するような勘違いをしないようにしたいのです。

「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節)

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by rev_ushioda | 2015-03-02 12:16 | Comments(0)