「瀕死の重傷は誰か」

ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

これは、ルカによる福音書10章30~37節の引用です。

これを読んで、純粋で正義感溢れる人は、最後の善いサマリア人のようになりたいと思います。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われていますから、それで間違いはありません。
しかし、もう一度読んで、あっと気づく人が出てきます。読み手の私こそ、この瀕死の旅人ではなかったかと。助ける側に自分を置いていましたが、本当は私たちこそ、倒れ込んでいる人なのではないか。そう気づくのです。自分をどこに置くかで、全く違った物語になります。
礼拝人数が少なくなって、私たちの教会は、瀕死の状態です。その礼拝を大事に出来なければ、私たちは瀕死の状態です。仲間が寂しい思いをしていることに気づけなければ、瀕死の状態です。私たちは、道に倒れているのではないでしょうか。
その時、善いサマリア人は、誰か、となります。もちろん、それはイエス・キリストですが、しかしそれは今日初めて礼拝に来た人であるし、1週間の中で教会のためにいろいろな形で援助を差し出してくれた町の人なのです。主イエスは、確かに私たちに近づいて来てくださっているのです。新しい礼拝者として。町の人として。私たちは、今、ここに来ているイエス・キリストを見る目を持ちたいのです。

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by rev_ushioda | 2015-02-23 12:04 | Comments(0)

良いお天気に誘われて、休日の境川ウオーク。前回はいつだったか、町田から古淵であったが、調べてみたら記録しておらず、いつのことだったか… 
前々回は、瀬谷から町田駅まで → 2014.3.3
そういうわけで今日は前回の続き、古淵駅~矢部駅付近(常矢橋、町田市常盤町)まで。地図では境川が町田街道に頻繁に接近する辺りだ。ここまで行くと、しばしば農地が現れる。川の右が、武蔵の国(町田市)、左が相模の国 高座郡(相模原市)である。この辺りは相模原市側に青山学院大学、麻布大学、和泉短期大学、町田市側に桜美林大学がある。

次回は橋本の先、相原まで行けるか… その先は川沿いの道はなくなるようだが、道沿いに「八木重吉記念館」がある。というか、その辺りが、多くの水源から延びる小さな川が境川として一本になるところなので、ここが当面の目的地になる。まだ2回以上先なのだが、楽しみになってきた。

今日の帰りは、町田までバスで25分だった。
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by rev_ushioda | 2015-02-16 18:15 | Comments(0)

「大丈夫ですか?」

礼拝に長くお休みされている方に、「お祈りしています」とお伝えすると、多くの方が「何とかやっています。私は大丈夫です。」とお答えになります。牧師の祈りは、もちろん健康のためもありますが、牧師が祈ると言えば、何よりも、信仰のことです。洗礼の時、誓約で「はい」と答えた、その信仰は、大丈夫でしょうか?
礼拝に出なくても「私は大丈夫」となれば、牧師も教会も要らなくなります。礼拝に出ることが出来ないなら「私は大丈夫ではない」と言う。聖書を読まなくなったら、祈らなくなったら、「私は大丈夫ではない」と言う。キリスト者(信仰者)には、そういう自覚が何よりも必要なのです。

昔、エジプトから導き出したユダヤ民族に、神は世界の厳しい状況を見せ、その世界に調子を合わせることで神から離れ、命を失うな、と警告しました。以下、その時の言葉です。
「もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。」(申命記29:18)

どんなに「潤っている者も」、そこに祝福はないのです。礼拝に出ることが出来ないなら「私は大丈夫ではない」のです。自分の体温を計ることが出来るキリスト者でありたいと思うのです。そして健康を回復する手当を、すぐにでも始めたいのです。

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by rev_ushioda | 2015-02-15 21:07 | Comments(0)

「エクソダス 神と王」を観た。
3D映画で、あの出エジプトを描くのだから、迫力満点というのが第一印象である。
そして、聖書を題材にしているのは間違いないが、当然であろうが監督の「解釈」が加わった「映画」であると、観て、まず思ったことである。
「10の奇跡」が及ぶシーンは、神の意志は主張されていたが、むしろそれは自然現象として引き起こされた。水が血にかわるのは、ワニに食べられた人間の血で表現。血に染まった川から逃げて来たカエルの群れ。カエルの死体からぶよが大量発生し、うじが街中にあふれかえる。うじが運んできたウイルスで家畜に疫病が流行り、死ぬ。刺された人の身体には、はれものが生じる、加えて、雹やイナゴといった自然異常、暗闇などの天体異常、という具合である。
そして、あの紅海を渡る壮大な場面は、自然現象として水が引き始め、大きな竜巻のようなもので再び水が押し寄せるのである。
神からの啓示はどうなっていたかというと、一人の子どもを登場させ、子どもの言葉で神を啓示するという方法をとる。神はだれも見たものはいないのだから、子ども(の姿)であってはいけないか、というような台詞があったと記憶する。
そして、私が一番興味を持ったのは、モーセが一人の人間として、迷う人として、描き出されていたことだ。自分たちがエジプトを脱出できたのは「神の奇跡」だったのか、「偶然」だったのか。最後まで信仰のない、悩む人間として描かれていた。「出エジプト記」13章では神が民を導くのに対し、映画では、イスラエルの民を従えるモーセ自身が、悩みながら、進む道を選択しないといけない。
聖書ではモーセの手には杖があるが、映画では、剣である。それが象徴するように、最後まで人間の力を前面に押し出す。たとえばエジプト王ファラオが、「私が神だ!」と言う。他方、モーセは剣の人であったが、神に選ばれ、しかしその神と格闘しながら、神から託される役割を担うようになる。
映画の題には「神と王」とつけられている。自ら神と言うエジプト王ファラオ。他方、神を否定しながら最後まで剣と自分の判断に頼っていながら、しかし神に選ばれ、用いられていく、人間モーセ。私は、これは映画であると割り切りながらも、人間モーセに焦点を当てながら、しかし「神と王」と題をつけ、結局、人間を導くのは神の支配だとこの映画は言っていると、思った。

映画「エクソダス 神と王」 予告編
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by rev_ushioda | 2015-02-10 11:59 | Comments(0)

「ガソリン110円台」

記事に一貫性がないが、こういうこともあるんだねえ~

国際情勢は、日本人も標的にということで緊張感が走るが、そもそも私たちは国際情勢の中でしか生きられない。そういう緊張を感じることができるなら、聖書が言う「神の国はあなたがたの間にある」という緊張も、感じていきたいものだ。しかし、神の国の「国際情勢」^^;は、教会が語る言葉でしか伝えられない。
こういうサインがあったら、どうなるのだろうと、思ったりして… 今度、教会の前に出している のぼり旗に、「神の国はあなたがたの間にある」と書いたら、「それ、今だ」と、人は押し寄せるだろうか。

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by rev_ushioda | 2015-02-06 17:43 | Comments(0)

ヴァイツゼッカー氏は、その格調高い演説によって国内外に感銘を与えたドイツ連邦共和国の元大統領である。その演説のなかでも、『想起と和解』(加藤常昭訳)の一節は、広く知られた言葉だ。(元訳『荒れ野の40年』)

“過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります…われわれは理解しなければなりません。思い起こすことなくして和解は起こりえないことを。”

“思い起こすとは、ひとつの出来事を正直に、混じり気なしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにすることであります。”


彼は、自分の大統領としての制約ある立場でできることは、問いを発することであると言っている。
人は、どのような問いを受けるかによって人間性が深まっていくと言ったらよいだろう。ヴァイツゼッカー氏は、すぐれた問いを発することができた人という意味で、卓越している。1月31日になくなったが、今も、彼の言葉は光っている。

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by rev_ushioda | 2015-02-04 16:36 | Comments(0)

海老名シオンの丘教会での牧師会の帰りは、例によって歩いて3時間。…しかし今日は風邪気味のため、予定通り途中で電話して車の迎えを頼み、半分の行程となった。
途中、地図ではわかりにくいが、海老名と綾瀬の境近くに流れる川は、目久尻川。上流は、昔、伝道していた「座間市栗原」である。
家までの方向はほぼ一直線なので、このままの距離を東に折り返せば、自宅のある横浜市瀬谷区阿久和に至る。歩いて3時間(180分)、車では40分。車の速さって、このくらいの距離の場合、歩く時間の4~5倍程度なんだと思う。ずいぶん違う、といえばその通りなのだが…



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by rev_ushioda | 2015-02-03 23:10 | Comments(0)

武装組織「IS」に拘束されていた後藤健二さん(日本基督教団田園調布教会会員)が殺害された。平和の殉教者だ。2月2日、後藤さん、湯川さんを追悼する「宗教者祈念集会」が、2日、首相官邸前で開かれ、キリスト教、仏教、イスラム教の信徒約40人が集まり、宗教を超えて、平和への祈りをささげたということである。今日の夕刊を見たら、、世界中で 「I am Kenji」 と呼応する人たちがいる。
彼の祈りは、今、世界中に平和の祈りの共同的連鎖を生んでいる。

「目を閉じて、じっと我慢。
怒ったら、怒鳴ったら、終わり。
それは祈りに近い。
憎むは人の業にあらず。裁きは神の領域。
ー そう教えてくれたのは、アラブの兄弟たちだった。」
(2010年9月7日 後藤健二)

戦争が起こると、弱い立場の人が一番犠牲になると教えてくれたのは、後藤さんだった。この後藤さんへのインタビュー記事が、昨年5月のサイトに載っていた。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/13401/20140530/goto-kenji.htm

写真は、先週、教会からの帰り道に撮影。倒木更新とは聞いたことがあるが、この木は倒木ではない。しかし、どう見ても、まったく枯れてしまった木である。そこから芽生えた若葉があった!

イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
ヨハネによる福音書11章25節
[実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ルカによる福音書17章21節
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by rev_ushioda | 2015-02-03 19:21 | Comments(0)