「私の原風景」

昔、家の周りには畑があり、その周りを雑木林、松林が、ぐるりと取り囲んでいた。夏は、その林からヒグラシの声が右から左からの大合唱で聞こえた。この写真は、教会からの帰り道で撮った。昔のイメージを思い起こさせるような気がした。
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小学校低学年の頃、家では小犬を飼っていた。やんちゃで、とてもかわいい黒い犬だった。田舎道を30分くらいかけて学校に行くときは、しばらく後をついてきて、あるところまで来ると、自分で戻っていくのだった。
しかし、その日、いなくなった。子どもの足で周辺を探し回り、そして、見つけた。「肥溜め」(屎尿をためておく設備)の中に浮かんでいた。おなかを大きく膨らませて… ショックだった。「僕を送ってくれた帰りに落ちたんだ。僕のせいだ。」と自分を責めた。肥溜めから、一生懸命に掬い上げた。肥溜めだから、それは臭かった。その匂いの中で、涙が止まらなかった。
やはり教会の帰り道で、今はごみ溜めになっている「肥溜め」を見つけた。今もまだ、こんなのが残っているのかと、悲しい思い出がよみがえる。
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by rev_ushioda | 2015-01-29 17:25 | Comments(2)

雨上がりの家の庭先。雲の合間から差し込んだ太陽の光を受けて、ドウダンツツジの枝先に雨粒が光る。きれいなので思わずパチリ。携帯カメラなので、限界あり。
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もう一枚は、賛美の会の風景。イースター礼拝で発表の歌を練習中。他教会の人も参加していて、地元の参加者を励ましている。よい指導者が与えられて、もう一つの可能性を秘めた活動である。
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何でもない、今日の風景だ。

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by rev_ushioda | 2015-01-28 16:49 | Comments(0)

「免許更新」

今日、運転免許証更新に行ってきた。
それにしても、すごい人だ。あっちに並び、こっちに並びと、ようやく終えたが、最後の講習は「優良運転者」として30分だけの講習を受けた。次は5年後だ。
ところで、写真は精度が高まったのか、以前のような指名手配用の写真ではなくなった。被写体の出来はともかく、写真の精度としては、まあまあ満足できる範囲であった。

これは、免許証からのコピーである。
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by rev_ushioda | 2015-01-19 23:19 | Comments(2)

「私は、国境に立つ」

横浜市には、かつて(明治26年までの1000年間)武蔵国と相模国の2つの国の国境線が通っていた。私の家がある瀬谷区は、相模国であった。道を隔てた東側(旭区)は、武蔵の国であった。少し北から下ってみると、マリアンナ医科大学病院の前の道から三ツ境駅を通って、私の家の前を通って隼高校横に抜ける道が、まさに国境であった。私の家の前に1000年間、国境線が通っていたのだ!

『わが街探訪再発見 武相国境』というサイトには、こう書かれていた。
「国境は、国や村の境であると同時に、水を分ける境でもありました。大部分の生活が農業によって支えられていたこの時代、水は人々にとって「命」と同じくらい大切なものでした。当時はその川がどこの海に流れ込むかで、どこの水かが決まっていたので、東京湾へ注ぐ日野川・笹下川・大岡川などの流域が武蔵国、相模湾へ注ぐ芹谷川・馬洗川・平戸永谷川などの流域が相模国と、分水嶺が「武相国境」となったのです。」

なるほど、近所(旭区)に帷子川の水源があるが、横浜方面(東京湾)に流れ、一方、瀬谷区側には阿久和川や和泉川が流れているが、いくつかの川に合流しながら、こちらは境川(武蔵と相模の境、という意味)となって相模湾に流れ込む。私の家は、その中間、まさに分水嶺にあるのだった。そうだったのか。確かに私の家は丹沢や富士山を見渡せる尾根道にあるのは知っていたが、少し大きな地図を見ると、ここは、北は多摩のほうにまで至る「多摩丘陵」だとあった。私は国境に立つ。64年にして、自分の立つ場所を知った、目から鱗の新しい発見である。

そして、話はそれで終わらない。私は牧師として、「神の国は近づいた」と伝える者である。神の国の支配があなたにあるのだ、と伝える。私の前にいる人に、神の国の国境線を拡げる者なのだ。私は、国境の人なのだ。


下は、明治14年の古地図。よく見ると、国境の両脇に谷が迫るが、国境を越えてはいない。分水嶺に国境線が引かれたのがわかる。
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この写真は、家の2階から見た西側の景色。大山まで遮るものがない。分水嶺から見る相模の国である。
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次の写真は、その反対側、相模の国側から東をみたところ。分水嶺(国境の稜線)が壁のように立ちはだかり、そこに住宅が建っているのがよくわかる。
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以下のサイトがわかりやすい。私の家は、瀬谷区と旭区の境である。
http://www.geocities.jp/kk810558/busou1.htm

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by rev_ushioda | 2015-01-16 12:06 | Comments(0)

「神の大いなる欠け」

休暇で箱根に行ったが、部屋に入ってすぐ、机の上にあったパズルにくぎ付けになってしまった。
4つのピースで「T」の字を作りなさい、とあった。しかし、30分かかっても出来ない。ピースの数が4つしかないというところが、なかなか難しいのである。
これではせっかく休養に来たのに休養にならない…というわけで、ついに裏技を使って解明したが(ネットで調べた。反則である。)、こういうふうに、…なる。
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こうして一つ作ってみると、これには、ポイントがあることに気づいた。それに気づくと、ほかの例題も次々、解け出した。ポイントはどこにあるか。一つのピース(図では2)の角の部分、欠けた部分を埋めてはいけない、ということである。普通は、こういう「欠けた」部分があると、そこを埋めて、何とか形にしたいという意識が働くわけだ。しかし、それを埋めてしまってはこのパズルは解けないのである。これでいくと、欠けた部分、空白は、そのまま残すことが、ポイントなのだ。「欠け」、空白こそが大事。埋めようとするのを抑えて、埋めてはならない。
そう気づいたとき、聖書が私たちに言っているのは、そういうことではないかと思った。この欠けたところは、そのままにしなければならない。聖書は言っていたのだ。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53章5節)と。
イエス・キリストの十字架は、神の「欠け」、そのものだったのである。弟子たちにしてみたら、自分たちの先生、イエスさまが殺されるなんてとんでもない、ということである。殺されるというのは、負、マイナスイメージの象徴である。だから「そんなことがあってはなりません」(マタイ16章22節) 神のイメージの、「欠けた部分」を埋めようとする。しかし、それでは神のこころはわからない。その大いなる「欠け」十字架をもって、神は、私たちに大事なことを語っているのだ。

「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

もちろん、そのパズルは、ショップで買って帰った。かくしてホテルの手にうまく乗せられた次第。
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by rev_ushioda | 2015-01-14 16:40 | Comments(0)

「もちつき」

礼拝後、恒例の餅つきをした。人数が少ない今の状況で、餅つきができるか、するほどのことがあるのかと心配したが、お願いした助っ人が来てくれたのは言うまでもないが、思わぬ人が来たり、家族が手伝いに来てくれたり、久しぶりの人やらで、良い交わりの時となった。私の心配は杞憂に終わった。とにかくあれこれやってみることだ。
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by rev_ushioda | 2015-01-11 23:58 | Comments(0)

「自分へのお祝い」

64歳の誕生日を迎えた。
自分へのお祝いで、箱根宮ノ下の富士屋ホテルを前日に予約。クラシックな高級感のあるホテルだが、ただしB&Bで、安く、しかしいいホテルをという技を使った。この技は私のホテル宿泊術で、いい部屋で、いいお風呂に入って、朝ゆっくり食事ができる、というもの。(富士屋ホテルに関しては、「いいお風呂」は期待できない)

というわけで今回、狙いを定めたのが、日ごろ気になっていた富士屋ホテルだった。さすがにこのホテルで、いくら安いといっても、じゃらんのポイントを使っても二人で2万円を超えたが^^; (いつもは1万5千円以内)、そこは誕生祝いの“ごあいきょう”ということで。
正月が過ぎ、宿泊者が少なくなったこのころというのも、よし。有形文化財の中での一泊は、思う存分、堪能できた。40分の館内ツアーがあったのにはさすが文化財と感心。建物に限らず、ロビーも歴史を感じさせる古さと優雅さがあって、庭の散策もできた。春、秋だったらなおよかったが、いずれにしても、64歳、おめでとう(^^)/  ?

以下、写真はホテルのHPより、上より明治24年築の本館、部屋の内部、館内ツアー。
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by rev_ushioda | 2015-01-07 21:25 | Comments(0)

「囲いから出よう」

『ねずみくんのひみつ』という絵本があります。はなくそをほじるねずみくんを見た、ねずみのねみちゃんは、あひるに会って言います。ねずみくんが「はなをほじってた。」あひるは豚に会って、ねずみくんが「花をほったんだって。」豚は馬に、ねずみくんが「歯を折って寝てるんだって。」馬は象に、ねずみくんが「はねて、とんでるんだって。」と言うのです。
こういうことだから、こういう伝達を、面白おかしくゲームにもするくらいです。私たちは、聞いたことを、おそらく自分の経験や理解の仕方という枠の中で聞き、また、自分の言葉に変換して理解したり人に伝えたりしているに違いないのです。言葉を聞いて、勝手な解釈をするという、そういう聞き方があるのです。勝手な解釈というのは、健全な方向に進むことは稀です。『ねずみくんのひみつ』くらいならまだいいのですが、人間には防衛機制が働きますから、私たちのフィルターを通って変換された言葉は、不健全なほうに進みやすいのです。
創世記3章の「蛇の誘惑」などは、まさにそういう不健全な伝達を言っているところです。まず、聖書の言葉、神の言葉は、私の中で健全に受け止めているでしょうか。それとも「ねずみくんがはねてとんでる」ようなものに、なり下がっていないでしょうか。
元旦礼拝で、私たちは、良い羊飼いによって「囲い」から連れ出される者だと聞きました。主イエスに導き出され、自分の勝手な理解、勝手な言葉、人を混乱に招き入れる言葉から解き放たれる者に、私たちはなりたいと思うのです。
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by rev_ushioda | 2015-01-04 22:10 | Comments(0)

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by rev_ushioda | 2015-01-03 14:04 | Comments(0)