ある人が、子どもの時の経験を語っていました。
母親にひどく叱られて所在をなくしていた時、たまたまそこに庭の手入れのために来ていた植木屋さんの姿が目に映った。一仕事終え、腰を下ろして一休みしながら今、手入れした植木を眺めていたのだ。行くともなしに、その人のそばにぼんやり座った。しばらくの時間が過ぎた後、キセルの殻をポンと捨てながら、植木屋さんは言った。「坊、お母さんに叱られたな。」またしばらく時間が過ぎ、「なあ、坊、あの松の木はきれいだなあ。」さらにしばらくの時が過ぎてみると、自分の中に安堵した気持ちが流れ、「おじさん、遊びに入って来るよ。」と立ち上がると、植木屋さんは「それはいい。それはいい。」と声をかけてくれた。
その人は言います。それは、自由と安全の雰囲気であった、と。これが、相手を支配しない会話なのです。その時はほとんど沈黙の時間が流れたのですが、そして私たちはすぐ「実際はそうはいかない」と思うのですが、しかし、沈黙しないと、私たちは何を語り出し、いかに人から「自由と安全」を奪っているか、ということになります。
心理学は相手を支配する会話を例示しています。まず、たいていの場合、私たちは「いつ、どこで、誰が、どうした」という「状況」に注意が向きます。そして、命令、注意、訓戒、提案、講義講釈、非難、称賛、侮辱、解釈、励まし、探りなど、全て自分の価値観からくる興味や関心の言葉を話し出すのです。状況を判断して、自分の価値観を語り出す。相手の人の考えや感じ方を受け止める前に、こちらの考え、こちらの感じ方を語り出すのです。それでは、相手は自由と安全を感じませんから、防衛的になる。閉じこもるか、反発してくる、ということになるのでしょう。「あなたは何をそんな屁理屈言っているの?」と感じたら、それはこちらが「自由と安全」を与えていないからなのです。
教会はどういう姿勢で人と接するべきか、まず最初の立ち位置を考えておきたいと思うのです。「自由と安全」の中で人は自分に気づき、福音に触れ、自らそこに向かって立ち上がることを期待したいと思うのです。
「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」ヨハネによる福音書8章6節

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by rev_ushioda | 2014-09-27 10:07 | Comments(0)

コンサートに来られた方の中に、私が大学2年生の時、希望ヶ丘教会で担当した6年生のクラスの生徒だった人が来られた。43年ぶりの再会。うれしかった。
話がはずみ、そして「先生、まじめでしたね」と言われた。そうだったな~と思い、当時の記録ファイルを開いてみた。(捨てずに取ってあったのだ!) 開いて、唖然とした。クラスの子どもたちがグループを作って仲が良くない。そこで必死で書いた手紙がA4で4枚。ああ、一生懸命だったんだな~ そして笑ってしまったのが、その頃、にきびだらけの私が受け取った、子どもからのメモ書き。
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ほかにも、そういうクラス内の事態を何とかしようと、交換日記のようにして「お祈りノート」をつけようと提案したようで、案の定、「お祈りノート反対運動」を起こされ、署名用紙が回された。(空欄には、何と、私の名前のコピーが張り付けられていた)
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改めて、「まじめでしたね」と言われ、子どもの目にも「がーがーうるさい」と本当にまじめ(生真面目)と映っていたことに赤面の至りである。
しかし、私の「がーがーうるさい」言葉に、子どもたちも負けてはいないでやり返す。一人も欠けずについてきているのだ。今になれば恥ずかしいが、しかし、うれしいことを思い出させてくれた出会いであった。

娘にそのことを話したら、何よりも、その頃のそんな紙を取ってあったことに呆れていた。

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by rev_ushioda | 2014-09-25 15:51 | Comments(0)

「葬儀の司式」

…そして、今日と明日は、葬儀となった。昨日の週報、「牧会のはなし」から引用。

明日、横浜市北部斎場にて、泉教会主催で外部から依頼のあったTさんの葬儀が行われます。皆さんは会ったことのない方ですが、教会から何人かに参加していただきます。
私は、これまで何回、葬儀にお仕えしたことでしょうか。その都度、ご家族の悲しみと痛みに出会い、また、家族の死に際してのさまざまな感情に出会ってきました。その方の生きた年齢や、死の迎え方にもよるのですが、人の生涯が閉じられるその時は、人の言葉ではどうにも包むことのできない、収めることができない、その時でなければ経験しない気持ちが動きます。こんな気持ちがあったのかと、自分でも驚くような感情に出会うこともあります。死別の悲しみや寂しさや、さまざまな思いと共に、不思議な感情が湧き出てくるのです。
そういう家族に、牧師は葬儀の諸式を司式する者として、接します。いろいろお話を聞かせていただき、そして黙想のうちに、聖書からふさわしい個所を引用してお話しすることになります。今、このとき、神さまは御家族やそこに集まる方々に何を語ろうとしているのだろうか。一番ふさわしい慰めと希望の言葉を分かち合えるように祈り、短い時間に全力を傾けて準備します。そして、神さまは、その時にふさわしい言葉を与えてくださるのです。
悲しみや寂しさや、さまざまな感情が動く一番大事な場面に、牧師として居合わせ、司式者としてそこに立てるということは、何と光栄なつとめをいただいたものかと思うのです。葬儀に際して、説教がなければ、つまり決まりきった言葉を読むだけであれば、葬儀の準備をするために、もっと動き回ることができるのでしょう。しかし、説教に集中し、神の言葉をもって葬儀にお仕えできることほど、尊い仕事はないのです。慰めと平和と希望を与える神の言葉が、その家族の中に突き抜けていく。そのために、牧師は集中します。そのためには、教会では準備する人が必要ですが、共に、神の言葉が語られるふさわしい場を用意するのです。
今回の葬儀に際して、改めて、教会は神の言葉に生かされ、神の言葉にお仕えする光栄ある仲間たちであることを思うのです。
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教会から両日とも妻と、神学生、長老1名、そして前夜礼拝にはほかに2人が参列してくれた。ご家族にキリストにある慰めと希望、復活を証ができ、また、お見送りに際して喜んでいただけるよい葬儀であったと思う。

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by rev_ushioda | 2014-09-23 01:27 | Comments(0)

教会のバイオリンコンサートは、すばらしい恵みを感じた。

以下、伴奏者のグルナラさんのブログ
http://www.gnsafarova-piano.com/#!blog/c1ib6
からの引用;

この素敵なお花を泉教会でいただきました。素晴らしい友達とバイオリン演奏者宮池正子さんのバイオリンの伴奏でコンサートでした。多きくて立派な教会と比べると、泉教会は小さな教会ですが、中に本当にあたたかい雰囲気を感じました。コンサートも良かったですし、そしてみんなと一緒に頂いた、手作りのお昼ご飯や紅茶もとても美味しかったです。泉教会の講師潮田様が、「ここはちょっと狭い」、とおっしゃいましたが、普通の大きな教会で感じないあたたかさはこの教会の独特なところだと、私は思っています。小さな教会の明るい雰囲気で、「ここは神様の家」だと感じました。泉教会のみな様、ありがとうございました!

それに対する私の返信

グルナラ様
昨日は、「大感謝」でした。
素晴らしいバイオリン/ピアノ演奏に引き込まれてしまいました。
涙を流された方も、いました。
今度はピアノコンサートがいいね、と言う人もいました。
グルナラさんは謙遜な方ですね、そしてすばらしい演奏だと思いました。
40人の人が来てくれて、礼拝堂があのようにいっぱいになったことは
伝道所開設式、また、献堂式以来、過去にありません。
日曜日の礼拝出席は、20人以下という低調な日が続いていましたので、
コンサートを通して人が集まってくれたことで本当に励まされました。
そして今回のチラシによって初めての方が礼拝にも来てくれたこと、
午後には、今後に期待できる出会いがあったことなど、
大変、うれしい一日でした。
このような機会を戴くことが出来て、心からありがとうございます。

今後も、お働きが祝されますように。
教会を通しても、ぜひ演奏活動を続けられますように、とお祈りいたします。

ホームページ見ました。よく出来たホームページですね。
すてきな感想をありがとうございます。
そして、YouTube も観ました。すごいですね!
すごい方をお迎えしたのだと改めて思い、心から感謝です。
また、いつかお目にかかると思います。お元気で。

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by rev_ushioda | 2014-09-22 09:54 | Comments(0)

「那須に」

和泉短期大学後援会の主催の親睦旅行で、11人の参加者を得て、那須に行ってきた。大型タクシー2台を使用し、朝7時30分、海老名出発。

まず、私としては開通したばかりの圏央道に興味があった。海老名集合で東北道に向かったが、相模川沿いの実に景色の良い道に感動していると、あっという間に八王子ジャンクション。今まで16号の混む道路を走っていた時と比べ、中央高速にこんなに早く入れるのに感動だった。(そのあと、トンネルが続くのは残念だったが)

さて、行先の第一は、那須ステンドグラス美術館。イギリスの中世の貴族の館をモチーフに建てられた石造りの建物。工法まですべて本物にこだわって建てられているとか。そして館内には、礼拝堂が3つ。といってもそこで教会の礼拝が行われるわけではなく、いわゆる結婚式場である。ちょうどその一つで結婚式が行われており、すべて公開!パイプオルガンのすぐ横で、奏者の見学も。いや、演奏を楽しむこともできるという、そこまでの公開ぶり。礼拝堂には1800年代中心のアンティークステンドグラスが配され、壁一面のステンドグラスは、特に圧巻だった。
この美術館の館内は、ステンドグラスの光とアロマの香り、美しい造形物、パイプオルガンやオルゴールの音色があり、そして那須のやわらかな風に包まれた空間で、「五感を楽しむ」というコンセプトであった。ナルホド。

行先の二つ目は、藤城清冶美術館。影絵の世界、ひっくり返して言えば、つまり、光の世界に足を踏み入れ、目を見張った。その美術的価値、センス、遊び心。どれもが満足いくものであった。私が特に一番驚いたのは、男性トイレである。扉を開けた瞬間、私は「おっと」と足を引っ込めてしまった。なぜなら、床の黒いタイルに天井から白い照明が当てられ、そして、トンボの絵が映されていた。床がまさに大空のようで、その大空に吸い込まれる錯覚を覚えたのだ。美術館の建つ場所は、小川の流れる林の中。那須の自然に溶け込んだ、つまり、自然もまた展示にしたような志向に、感動であった。
聖書(創世記)に、「神は言われた。『光あれ』」とある。光は神の最初の被創造物であったことを思うと、この光を私たちが意識することはとても大事なことで、その作品には当然のことながら最高の価値があると感じた。今回は、2館を訪問したが、那須の自然の中で「光」を感じ、受け止め、楽しむという共通点があった。
残念なことは、ツアーに参加した一人が、絵葉書売り場で、「創世記の作品はありますか?」とお尋ねしたら、スタッフが、食べ物の作品を持ってきてくださったこと(「ソーセージ」と勘違いしたようである)。キリスト者の作者にある精神的な背景をある程度ご存じの上で館内の案内にかかわってほしいと思った。皆さんに愛される、より良い美術館になってほしいと願って美術館を後にした。林の中にある駐車場は、満杯であった。

帰宅は、連休最終日ということもあってか(ニュースでは自然渋滞とは言っていたが)混雑し、海老名に9時40分頃の到着であった。

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by rev_ushioda | 2014-09-16 11:15 | Comments(0)

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中山道歩きは、今度行くとしたら岐阜県可児市をベースにすることになる。そこまで行く経路として、調べたら、図のように、いよいよ中央高速道路が経路候補として入ってきた。今まで、いったいどこで東名、中央の選択肢がわかれるのかと思って楽しみにしてきたが、距離的には、ここ(岐阜県可児市)だった。
しかし、距離は中央高速が2キロ多いだけ、ほぼどちらでも同じというのに、中央高速の方は時間が50分近くも多くかかるって、どういうことなのだろう?(後からわかったことは、高速に入るまでの一般道が、中央の方がたぶん5、6倍も長いという理由だ。)時間からいったら、次回も東名高速を使うことになるのかな。しかし東名を使うにしても豊田ジャンクション(岡崎)で東名に分かれ、東海環状自動車道に入るのは、新しいルートになる。このようにルートが徐々に変更され、知らない道を走るのも、楽しみの一つだ。

次の地図は、中山道(青の線)と、中央/東名高速道路(緑の線)。う~ん、ちょっとわかりづらいか‥ 赤線は、関係ないが、群馬県境。
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by rev_ushioda | 2014-09-12 14:07 | Comments(0)

「また救急車」

今夜、私が2階にいると、下でドンという音。すぐ、母が台所で倒れた!の声。かかりつけの病院に対応を聞き、さらには提携の病院に対応を聞き、最終的に119番で救急車を要請して、病院に行った。途中でも、病院でも嘔吐していたが、しかし、一番心配だった心不全ではなく、あちこちの検査の結果も重篤な個所は見当たらず、原因が分からないまま、処置もせず、帰宅した。
とにかく2年前に心不全で2度入院しているので、また来たかと思ったが、今回は、心不全ではないとのことで、まずは安心。しかし、心臓が弱っているのは事実で、ニトロを頻繁に使用している。倒れてすぐ、苦しそうだったからニトロを服用させたが、それで改善する程度の一時的な発作だったのかもしれない。すでに96歳。何があってもおかしくない、かな・・

母もであるが、あちらの方(かた)も、こちらの方(かた)も、みこころがなりますように、と祈りつつ今日を閉じよう。

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by rev_ushioda | 2014-09-10 23:59 | Comments(0)

「病床洗礼式」

先週の日曜日、マリアンナ医科大学・横浜西部病院で病床洗礼式を執行しました。私にとって前回は(20年以上も前になりますが)東海大病院で行った病床洗礼式です。病床で洗礼式をするというのは、つまり、もう命が限られている方への洗礼式という意味です。そう何度もあるものではありませんから、今回、私にとってもお二人目でした。
第一報は、マリアンナ横浜西部病院で緩和ケアをされているTさんのお嬢さんから、お母さまがキリスト教で葬儀をしたいと願っている、というものでした。早速お見舞いに伺ってみれば、もうご自身の葬儀準備のお話しかなさらない。「分かりました。ではキリスト教の葬儀ですから、準備のために聖書を読む時間を持ちましょう。」ということでお見舞いに伺うこと2回目で、この方は三浦綾子、曽野綾子の本を読んでおられて、信じてゆだねておられることを確信。葬儀の準備の前に洗礼のお勧めをしたところ、即座に了解され、その次にお見舞いした時、「洗礼はいつですか?」思わず「今度の日曜日にしましょう。」
という次第で、この日の洗礼式となりました。看護師さんの配慮で特別な部屋を用意していただき、洗礼式が執行されました。その様子を小会の代表者、神学生、妻と、そしてお嬢さんが見守りました。Tさんは、うれしい、うれしいと、何度、繰り返されたでしょうか。もう時は残されていないというのに、不思議な時間が流れました。
この方に、神は、最期につけるすばらしい節目の時をお与えになったと思うと、本当に感慨深い瞬間でありました。そしてここに、泉教会のもう一つの物語が起こされたのです。

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by rev_ushioda | 2014-09-08 21:26 | Comments(0)

「動物埋葬の祈り」

先日、依頼されて、初めて動物(犬)の葬儀を行った。
ご自宅に家族が集まる中、以下のように進めた。

賛美「いつくしみ深い」

聖書朗読 創世記1章24~25節
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。

奨励

祈祷「動物埋葬の祈り」(下記)

賛美「どんなにちいさい ことりでも」
 どんなにちいさい ことりでも
 かみさまは そだててくださるって
 イェスさまの おことば。    
 
 なまえもしらない 野のはなも
 かみさまは さかせてくださるって
 イェスさまの おことば。

祝福

なお、以下に引用するのは、教会が持っている礼拝書にある「動物の埋葬の祈り」である。
式中の「祈祷」は、この祈りを使った。前文は参考にそのままここに掲載する。

カンバーランド長老教会日本中会『神の民の礼拝』より
「動物の埋葬の祈り」
前文
今日、動物と生活を共にしている人は非常に多い。視覚障害者は盲導犬を自分の一部のように思い、その存在に助けられ、深い感謝を覚えている。また、愛玩動物の場合でも、人が彼らに存在の意味づけをしているばかりではなく(創世記2・18~20参照)、動物が人に仕え、人生に豊かな語りかけをもたらしてくれているという現実もある。そして、そうした動物の死によって深い苦しみを負う人があり、医師の治療を受けたりしている事例も見受けられる。
イザヤ30・24には、家畜も神の祝福にあずかることが預言されており、同43・20には、終末の時、「野の獣、山犬や駝鳥もわたし[主なる神]をあがめる」と預言されている。預言者エリヤを養う主なる神の憐れみは、烏が主の命令を受けて運んだ(列王記上17・1以下参照)。また、ヨブ記38・41に記されている主なる神の言葉は、烏の雛は「神に向かって」鳴いている、と教えている。そして、キリストは、「神は烏を養ってくださる」(ルカ12・24)と言われた。キリストのエルサレム入城の際、大切な意味を担って用いられた動物は子ろばだった(マルコ11・1以下参照)。この他、神の前に生きる人間に、動物が深い意味をもって関わってくる聖書個所は少なくない。
私たちは、人間と動物の違いを見失ってはならないが(マタイ6・26、12・12参照)、動物の死を神と共に見つめたいという願いに人間らしいものを認め、大切に受容したい。以下は、動物の死に際しての祈りの例である。

祈り
天地万物の造り主である神さま、御子イエスさまは、小さな一羽の雀さえ、あなたのお許しがなければ、地に落ちることはないと教えてくださいました。あなたの愛の支配が、小さな生き物にも及んでいることを思い起こし、感謝をささげます。あなたは、私たちに(    )と共に過ごす時を与え、私たちの生活に美しい装いを増し加えてくださいました。私たちは、あなたが、「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て」(創世2:19)くださった愛について、深く判らせていただくような時をたくさん与えられました。そして、この愛してきたものの死に遭遇して、私たちは深い悲しみをおぼえています。多くの祝福を与えられながら、思いやりが足らなかった悔いもあります。どうか主よ、私たちを憐れんでくださり、魂の平和を回復してください。私たちは、聖書の偉大なドラマの中で動物を豊かに意味づけてくださった神さまに、(    )を委ねます。万事を益としてくださる御愛に信頼して、主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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by rev_ushioda | 2014-09-01 20:51 | Comments(1)