「山積みの答!?」

前回、「見上げてごらん、空の星を」と書きました。今日は、「見上げてごらん、神の答を」ということを書こうと思います。まず、今さらなのですが、良く知られた次の小話から始めましょう。

ある人が天国に行きました。ペトロが、天国の中を案内して見せてくれました。天国は美しい、素晴らしい所でした。
ところが、天国には似つかわしくない、大きな倉庫が立ち並んでいる所に来たので、「ペトロさん、あれは何ですか?」と訊きました。
「中を見せてあげましょう。」と言われて一緒に中に入ると、何と床から天井まで、びっしり荷札のついた荷物で一杯でした。ペトロは言いました。「地上の皆さんがお祈りをしたので、神さまが祈りの答をお送りになったのですが、みな宛先人不明で戻ってきたものです。」

私たちは、あれこれ祈っておきながら、神さまの祈りの答を待てずに、または気に入らない答が返ってきた時など、怒り、不安になり、または悲しみを感じて、さっさと祈りの席を立ってしまうのではないでしょうか。神さまの祈りの答は、「はい」か「いいえ」か「待ちなさい」です。しかし私たちは、祈った結果、自分に都合の悪い答が返って来ると、その答を受け取らないで、自分に都合の良い答を与えてくれる友人、知人の所へ走り、あるいは状況を作り出し、とにかく自分の欲しいものを受け取ろうとするのです。こうして、宛先不明の荷物が、また一つ、神さまの所に増えるわけです。
私たちは、神さまの玄関のベルを押すだけは押してすぐに帰ってしまうようなことはしないのです。祈るには祈って、しかし、さっさとその場を離れるようなことはしないで、神さまの答を必ず受け取る者でありたいと思うのです。
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by rev_ushioda | 2014-08-29 22:13 | Comments(0)

「アイヌ民族へのヘイトスピーチを撤回しない札幌市議会議員に対する議員辞職勧告決議を求めます」というキャンペーンに、今、署名した。少数の人々への一方的、独善的、無理解な発言が多いが、これもその一つである。心を痛めて、ここに紹介しておく。

キャンペーン本文

今年8月11日に札幌市議会議員 金子やすゆきがツイッターで以下の発言をしました。

「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません。」

この発言はアイヌ民族に対する「ヘイトスピーチ」であり、許されるべきものではありません。

ヘイトスピーチとは人種的、民族的あるいは性的なマイノリティに対するその属性に基づいた侮辱的な発言を意味します。これはマイノリティに対する言葉の暴力であり、差別を煽動してさらなる被害をつくりだす恐れがあります。残念ながらこの国では、ネット上で人種的、民族的あるいは性的マイノリティに対する差別的な言説が蔓延しており、さらに一部は街頭にまでデモや街宣として溢れ出しています。それはこの札幌市も同様です。そのなかでいまヘイトスピーチをなくす取り組みが市民や議員、報道などさまざまなレベルで試み、すすめられています。

しかしそのような社会的状況で、この金子市議の「アイヌ民族なんて、いまはもういない」という発言は、人が人として存在するということすら、その民族的属性ごと否定しています。それだけにとどまらずに、「利権を行使しまくっている」とアイヌ民族であれば不正を働くものであると解釈できるような文章で中傷しています。そして、それが発言者の中にある偏見から生み出されたものであるにもかかわらず、その責任を「納税者」に押し付けています。このような卑劣な文章を、ツイッターのような不特定多数が読むことができる、いわば「公共の場所」で書くことは決して許されることではありません。

この金子市議の発言に対して多くの市民から疑問の声があがり、また専門家も厳しく批判しています。例えば、北海道大学の丹菊逸治准教授は、「例え固有の言語や伝統文化が失われたとしても、過去との連続性を保ち、同じ民族に属するという意識を持った人々の集まりである以上、アイヌは民族として存在する」(どうしんウェブ 8/21付)と断じています。

以下、署名サイト
http://www.change.org/p/高橋-克朋-アイヌ民族へのヘイトスピーチを撤回しない札幌市議会議員-金子やすゆきに対する議員辞職勧告決議を求めます?recruiter=77323032&utm_campaign=signature_receipt&utm_medium=email&utm_source=share_petition

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by rev_ushioda | 2014-08-26 18:09 | Comments(0)

今回の中山道は去年8月以来の1年ぶり。岐阜県下「高温注意報」で、35度はあったであろう2日間の道行きとなった。まず、今回の地図を添付。美江寺宿から加納宿を通り、鵜沼宿(正確には鵜沼手前、各務原駅)まで。地図では左から右へ、真東に移動。まさに濃尾平野を突っ切っていくコースである。
目標とした鵜沼まであと一歩と及ばなかったが、暑い日に、これだけ歩くことが出来たのだから、満足である。
途中、ぶどう園があったので、宅配で送ってもらうことにした。歩きながら食べると良いということで一房余計に戴いたが、暑い日にはこれがのどの渇きにも、活力にも、非常に良い効果をもたらすことが分かった。有難かった。横浜で営業していたという人で、今はリタイアして、郷里に戻って果樹園をしているということだった。
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いやあ、暑かった。半ズボンをはいていたら、後方からの西日が当たったふくらはぎが、真っ赤に日焼けして、ひりひりしている。
それはそれとして、暑い日は日傘が効果的だということが分かった。妻の日傘は普通の日傘ではない。熱を全く通さないのだ。それに比べ私の普通の日傘は熱が通って来る。妻の持っている日傘を見て、普通ではない日傘があることに初めて気づいた。
そして今回は、ホテルが良かった。都市型ホテルにして本物の温泉。無色だったがぬめり感が最高! しかも、浴場が大きいのだ。だからこのホテルにしたのだが、大当たりでこれは良かったね~
写真は岐阜駅前。織田信長の銅像が写真左側に立っている。(金ぴかで、これを銅像とは言わないかもしれないが)今回は金華山の岐阜城にも行くことが出来た。夜だったが、360度の夜景は素晴らしかった。司馬遼太郎の『国盗り物語』を前もって読んだが、あの斉藤道三、信長も見た夜景だ。天下を盗ろうという野心が燃えた景色を堪能した。
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ドーミーイン岐阜駅前

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by rev_ushioda | 2014-08-21 22:20 | Comments(0)

「殉教者のバトン」

私に洗礼を与えたのは、当時、希望ヶ丘教会を牧会されていた竹入悦夫牧師です。その父君である竹入高(たかし)牧師は、戦時中、特高警察に検挙され、教会は解散を命ぜられ、竹入高牧師自身は、1年3カ月後に及ぶ獄中で感染したとみられる結核が悪化し、突然保釈されると、すぐに命を落としました。かかわりを恐れてでしょうか、京都では葬儀を引き受けてくれる牧師は一人もいなかったそうです。
ある牧師が書いています。「留置場は3畳ほどの広さで鉄格子があり一番奥が便所で、新参者は便所の蓋の上に正座させられた。食事は茶碗一杯。寝具は綿が片方によって透けて見える、薄い人絹の布団、寒くて眠れず、凍傷のため足の爪が抜けてしまった」と。
 そういう中で「殉教」の死を遂げられた竹入 高牧師のご子息が、私に洗礼を授けた悦夫牧師です。そんな目に遭う父君を見ながら、なぜ、牧師になったか。聞いたことはありませんから、分かりませんが、いずれにしても父君の信仰を受け継ぎ、同じ福音の証人として牧師になる決心をしたのです。その牧師によって洗礼を与えられたのが、私なのです。
考えてみれば、私には、殉教者の血が流れていると言ってよいのかも知れません。殉教なんて、私には恐ろしくて考えられません。しかし、そんな迫害を受けるかどうかは別にして、手渡されてしまったのです。イエス・キリストのものとして、その国(天の国)の中を生きるように、というバトン。人に、将来と希望を与える、神の支配の中を生きるように、というバトンを。
そして今度は、私から皆さんに、殉教者の血が、バトンが、手渡されている、と言ってよいのかもしれません。大変なバトンを持つ牧師に皆さんは出会ってしまったわけです。しかし、そうでなかったとしても、前回は澤田美喜記念館の話を書きましたが、私たちは日本人殉教者の血の上に立ち、そのバトンを繋いでいるということは確かなのです。
竹入高牧師が牧会された教会は、今、山科の地にある京都復興教会として信仰を証ししています。私たちは今の時代、この地にあって、信仰生活をしっかりしていきたいと思います。権力によって解散を命じられてもいないのに、礼拝を手放すことのないようにしたいと思います。

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by rev_ushioda | 2014-08-16 18:29 | Comments(0)

「チラシ作製」

今、できたばかりのチラシ。
11月に泉公会堂で9条の会の講演と音楽の集いが開催されるが、チラシを担当。デザインはワードで作るので限界はあるが嫌いではないので、楽しみながら作成した。これをインターネットの印刷に依頼し、7,000枚を準備する。
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by rev_ushioda | 2014-08-12 23:36 | Comments(0)

「うしおだ発電所稼働」

我が家も、ついに太陽光発電にした。
稼働して1年は見ないと確かなことは言えないが、設備費のためにこれから15年間は電気代に換算すると月々1万円アップすると思われる。しかしその後は電気代がはるかに安くなるのは間違いない。それよりも何よりも、自家発電により、原発を推進する東電から電気を買わなくて済むというだけでも、気分は晴れやかである。
「うしおだ発電所」の稼働である。
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この二つの写真は、8月8日(曇り)朝8時頃撮ったものである。
上は、左側の太陽光発電量0.8キロワットに対して、家の使用量は0.1キロワット。差引き0.7キロワットを東電に売りつけている(笑)ということを示している。
しかしなぜ家の使用料が(朝8時頃だというのに)0.1キロワットとこんなに低いのかと言うと、下の写真のように、実際は家では1キロワット使っているが、「電池」から、0.9キロワット供給されているからだ。そう、蓄電池併用システムなのである。夜間、安い電気を蓄電池に溜めておいて、昼間にそれを使っているのだ。結果、太陽光発電から0.1キロワットもらうだけで、家の電気は賄えている。曇りの日、太陽光発電が0.8キロワットと低い時でも、東電に0.7キロワット売ることが出来る、というわけだ。
まあ、冬場、太陽光が不足するとこんないうまくは行かないし、蓄電池の能力も半日分くらいだろうから、年間を見ないと、何とも言えないわけであるが。さしあたって、「得」することは、何も考えていない。設備費での支出の方が大きいだろう。しかし、東電から買いたくない、という一点を目的にしている。

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by rev_ushioda | 2014-08-08 10:15 | Comments(0)

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今年、カンバーランド長老教会の総会(GA)がテネシー州チャタヌガで開催された。
このチャタヌガで30年前に開催されたGAに私は代議員として出席したが、そのGAというのは、今の信仰告白が承認された画期的な時であった。
その時の録音を公開する方法が分からなかったが、やっと YouTube にアップすることが出来たので、ここに紹介することにする。3分内の短い音声である。

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by rev_ushioda | 2014-08-05 14:29 | Comments(0)

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あはは、、これが今年の収穫。
う~ん、ぶどう作りは難しい。まあ、手間もかけなかったから、当たり前かもしれないが・・

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by rev_ushioda | 2014-08-02 18:15 | Comments(0)

「信頼できる人」

教会で、信頼できる人とはどういう人のことを言うのかというと、それは祈る人です。祈って、自分と自分の計画を神に預ける人です。そして御言葉を聞く人。つまり、聖書を読む人、礼拝をまもる人。その人が、教会で信頼できる人なのです。
教会にはいろいろな人が来られるのですが、どんなに知名度があり、人徳があり、知恵があり、経済力があり、発言力があったとしても、祈らない人、御言葉を聞かない人の意見や考えは、絶対に通りません。通してはならないのです。3か月以上礼拝に出席しないなら「不活動」になる、つまり被選挙権がなくなるという筋の通し方をするのです。どんなに立派な意見を言われても、祈らないなら、それは世の中と何も変わらない団体になってしまいます。
しかし逆に、徳などない、知恵もない、経済力もない、話す力もなく、たどたどしい話しかできない人であっても、祈る人の言葉を教会は聞こうとします。そこが、世の中と違うところだからです。
私が以前いた教会に、役員をつとめた女性がいらっしゃいました。この方が亡くなってからご主人が話してくれたことによると、実はこの方は小学校3年までしか出ていませんでした。字が読めない。教会に行っても、聖書が読めない。それで聖書を読むためにと、ずいぶん努力して勉強を始めたのだそうです。しかし教会の役員になったときは、さすがにご主人、叱りつけたというのです。「字も読めないお前に何ができるか(断りなさい)」と。
その通りです。字が読めないなら役に立たない。これが世の中の常識かも知れません。しかし、教会の常識ではありませんでした。教会のかしら、主イエス・キリストは、まったく違う価値を計られます。彼女は、こうして教会で見事に用いられたのです。何よりも、字が書けないことを一番よく知っているのは彼女自身でした。にもかかわらず、彼女は「私でもお役に立つなら」と、祈りつつ、身を乗り出したのです。
教会は、決して何かできるかどうかという要領のよさ、そのようなこの世の基準に支配されないところです。祈りによって身を乗り出す人を信頼し、その人の言葉を聞こうとします。

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by rev_ushioda | 2014-08-01 22:13 | Comments(0)