教会の夏の子どものプログラムは、過去、三浦でのキャンプを数度、行なったが、その後は、子どもの人数に応じて臨機応変のかたちになっている。
中高生のほうは昨年、初めて独自のキャンプを渋沢教会を会場にして行ったが、今年は高座教会のキャンプに参加させてもらう形になった。引っ越した子どもや、友だちが誘い合っているので私も知らない子どもも含め、6人が参加予定である。良く整った内容を持っているので、期待して送り出したい。
一方、小学生のほうは、娘がいる青葉教会の夏期学校にずっと参加させてもらってきたが、今度はこちらが今年初めて泉教会独自の夏期学校を実施することになった(・・といっても、低学年なので「お楽しみ会」であるが)。小さい子どもにシフトさせて活動することにしてから、最初の大きな試みと言って良い。神学生の奉仕があって実現。子ども10人+幼児2人。3時間だけであったが、本当に良いものとなった。神学生や、中学生たちの奉仕に心から感謝。それにしても、皆が集まればこんなに子どもがいるのだ。何とか教会に結びついてほしいと、つくづく思う。

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by rev_ushioda | 2014-07-29 08:43 | Comments(0)

私は高校生のとき、駅前で受け取ったチラシを手にして、初めて教会に行きました。興味があるから教会に行ったので、聖書を知りたくて、礼拝だけでなく祈祷会にも出席しました。ところが、そこは祈祷会、当然ですが、祈りの場所です。聖書の学びを終えると、順番に皆がお祈りするのですが、私は聖書に興味はありましたが「神」を知らない人間です。「知らない相手に話(祈り)などできるか…」というわけで、私は、祈る順番が回って来ても祈らないのです。それでもいつか祈り出すんじゃないかと、周りの人はしばらく待つのですが、でも祈らないので、次の人が祈る。こんなことが1年、続きました。神を知らない人は、お祈り出来ないのではなく、しないのです。当然です。
しかし、神を知る人(キリスト者)は、お祈りする。これもまた、当然です。
赤ちゃんは、生まれれば毎日毎日、親が話しかけるので、いつの間にか、しゃべるようになるのです。親を知っている赤ちゃんは、こうして言葉を覚えるのです。神さまからいつもいつも聖書や礼拝を通して話しかけられている人(キリスト者)は、いつか、沈黙を破って、たどたどしくでも話し出さないでしょうか。話しかけられていることを知りながら、何も応答しないことは、あり得ないのです。神を知る人(キリスト者)は、お祈りをし始める。これは、当然のことなのです。祈らないキリスト者は、いないのです。
もちろん、赤ちゃんは、「あ~、あ~」から言葉を話し出します。キリスト者の最初の言葉は、何でしょうか。「神さま」という呼びかけのひとことでいいのです。または、『主の祈り』の冒頭の「天におられる私たちの父よ」でいいのです。本当に、それだけでいいのです。毎日、毎日、朝に番に、「天におられる私たちの父よ」と、それだけでいいから、繰り返してみてください。溢れる言葉が、いつか必ず、続いて出て来るでしょう。

 さて
 あかんぼは
 なぜ あん あん あん あん なくんだらうか
 ほんとに
 うるせいよ
 あん あん あん あん
 あん あん あん あん
 うるさか ないよ
 うるさか ないよ
 よんでるんだよ
 かみさまをよんでるんだよ
 みんまもよびなよ
 あんなに しつっこくよびな
(八木重吉)

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by rev_ushioda | 2014-07-24 20:19 | Comments(0)

「ドキッとする話」

「明日の自由を守る若手弁護士の会」発行のリーフレットから、次の絵を見つけた。
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面白い風刺画だ。

「これからの日本展 ~美しい国~ 」
「集団的自衛権ノ像」が真ん中に置かれ、首相らしき人が、はたきをかけている。
向こうの方の「処分まち」のガラクタの中に、「9条ノ像」がグルグル巻きにされている。

来場者:「あの…『平和憲法』は?」
首相らしき人:「だいじょうぶ まだそこらへんにありますよ♪」

9条ノ像:「いや ヤバイって」



話は替わって、朝日新聞夕刊7月19日より、こちらは北大の授業。

「①」は憲法を守らなくてはなりません。もし守られないときは「②」が守らせなければなりません。

学生の7~8割が、①国民 ②政府 と誤答した。
しかし、正解は ①政府 ②国民 である。
そういえば、憲法の真髄「国民主権」をどこで習ったかなあと振り返ると・・・ 遠い昔、中学校だったか。
今までは、そんな呑気でもよかったのかもしれない。しかし、このことを繰り返し教えなければならない時代が来ていたのに、私たちは気づくのが遅すぎたのだ。まさか、首相が好き勝手にする、こんな時代が来ようとは。

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by rev_ushioda | 2014-07-20 22:15 | Comments(0)

「ウィキぺディア」

「ウィキぺディア」というネット上の百科辞典がある。
寄付が必要なことを知り、わずかだが送金した。その返信が以下。

潮田 さま

世界中のすべての人に知識を届けるという、かけがえのない贈り物をしてくださいましてありがとうございます。

私はリラ・トレチコフ、ウィキメディア財団の事務長です。この一年間、287言語版におよぶ百科事典を展開し、またそれを世界中でさらにアクセスしやすいものにするという私たちの営みは、あなたのような方々からの贈り物によって支えられてきました。私たちは特に、教育を受けられないような人たちの状況を変えることに邁進してきました。私たちが知識を届けたのは、例えばインド・ソーラープル出身のアクシャヤ・アイエンガーのような人々です。織物業が盛んなこの小さな町で育ったアクシャヤは、ウィキペディアを一番の教科書として学習してきました。この地域の学生には、本はほとんどなかったものの、携帯からはインターネットに繋げることができたので、ウィキペディアがとても役立ちました。アクシャヤはインドで大学を卒業し、今ではアメリカでソフトウェアエンジニアとして働いています。アクシャヤは自分の知識の半分はウィキペディアのおかげだと考えています。

このような話は珍しくありません。私たちには志の高い使命があり、険しい道のりを歩んでいます。ウィキペディアが非営利団体で運営されていて、皆さまの寄付で資金を賄っていると聞くと、ウィキペディア利用者の多くは驚きます。例年、人類の知識の総和を誰にでも利用し続けられるようにするのに、何とか足りるだけのご寄付を皆さまにいただけています。この使命を可能なものとしてくださって、ありがとうございます。

ウィキペディアの5億人の読者、何千何万人のボランティア編集者、そして当財団職員を代表し、御礼申し上げます。おかげさまで、今年もウィキペディアを、広告なしで運営できました。

ありがとうございます。
リラ

ウィキメディア財団
事務長
リラ・トレチコフ

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by rev_ushioda | 2014-07-19 21:14 | Comments(0)

「キリスト教って何ですか?」と訊かれて、私は、牧師でありながら、実は答える自信がありません。こういうものです、と答えた瞬間、キリスト教から離れている、と感じるからです。「イエス・キリストって、どういう方ですか?」も、同じです。神学校で「教義学」とか「組織神学」を通して「キリスト教」について学び、一定の理解を持つことは大事です。しかし、それで分かったとするなら、それを傲慢というのであって、学べば学ぶほど、分からないことが分かった、とすべきでしょう。
最近、ニュースで「解釈改憲」という言葉を聞いたことがあるでしょう。解釈を変えて、結局は憲法を変えたと同じ効果を出すこと、つまり、私たちから言うと、憲法の平和主義を骨抜きにしてしまっている、ということになりますが、そういうことが世の中に起こっているのです。今回の解釈改憲は、「首相がやりたかったことだ」と与党幹部が言いましたが、やりたかったことで解釈が生まれ、結局、改憲と同じ結果が生まれたというのですから、事は重大です。
同じことをキリスト教信仰に対して、聖書に対して、私たちは、してはならないのです。してはならないということは、してしまいやすい、という意味です。聖書をこのように読みたい、読むべきだ、という欲求があるとします。それは、その人の性格とか、人生経験とか、背景にはいろいろあると思いますが、聖書にこう言ってほしい、という気持ちがどこかにあると、それが聖書解釈になり、そして、あたかも聖書はそこを大事に言っているのだ、というように「改憲」できるのです。私たちは、そんなことは、してはならないのです。
『使徒信条』や、カンバーランド長老教会には『信仰告白』があって、そこには信仰の基本的なことが短くまとめられていますから、まず、その範囲にとどまることが大事です。そうでないところに興味関心があるとしたら、あるいは、たとえその範囲内にあってもどこかを強調したい気持ちがあるなら、それはなぜか、まず立ち止まって、自己吟味することから始めることが必要だと思います。個人の潜在意識で、聖書やキリスト教を「解釈改憲」してはならないからです。
私たちが知りたいことで、しかし、聖書や信仰告白諸文書には書かれていないことは、たくさんあると思います。その場合は、「私は」というように限定的に話すべきでしょう。「私は、聖書をこう読んだ」「私は、こう信じる」というように。その解釈を人にも押し付けるべきではありません。聖書を通して神はご自身を啓示してくださっています。『使徒信条』には教会が基本としている信仰の言葉があります。しかし、そこには意外と、人が知りたいと思うことは書いていない。ということは、キリスト教は、人間はすべてを知りえないのだ、という理解、敬虔を示しているのではありませんか。それを傲慢にも「解釈改憲」してはならないのです。
興味や関心があるテーマは、では、キリスト教諸文書ではどう位置付けられてきたか、そこ(神学すること)から始めることが肝要です。

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by rev_ushioda | 2014-07-18 11:04 | Comments(0)

「神学生の研修教会」

神学校から、教会(神学生が研修している教会)と神学校との懇談会があるという知らせが届いたので、出席しました。
こういう機会を戴いて、改めて、神学生が研修する教会とはどういう教会かを考えました。普通に考えると、研修は、いわゆる成功している教会で受けるのだろうと思いますが、日本中会はそのようには考えていません。どの教会にも、つまり、伝道所にも神学生を送ります。そこで研修が出来ると考えているのです。たとえば、泉教会は種別で言えば「伝道教会」ですから、「教会」へと種別変更するためにはどうしたらいいのか、そのために小会はどう取り組んでいるのか、そういう努力は何のために行うのか、というようなテーマが与えられます。成功している大きな教会(便宜上ここではそう言っておきますが)から学ぶことができるものは、もちろん、たくさんあります。しかし、それだけが教会ではないのです。大きな教会では、組織的な関心や、次の世代への信仰継承が大事でしょうし、小さな教会は、組織よりも会計の自立とか、礼拝者を増やすとか、宣教現場の開拓に力がそそがれます。どの教会でも、研修テーマがあると考えているのです。
ですから、「研修教会」といいます。「奉仕教会」とは言わないのです。教会は、人手の足りないところを都合よく神学生にしてもらうのではありません。日本中会の「教職志願者及び伝道師規定」を見ると、神学生は教職委員会に報告を出さなければならないのは当然ですが、そのことを定める条項よりも前に、教会は教職委員会に報告を出さなければならない、という条項があるのです。神学生が報告をすることは大事ですが、それよりも教会はどういう研修をさせたか、報告しなければならないのです。神学生に対する姿勢がよく表れていると思います。
こうして神学生は、自分が研修する教会を足掛かりにして、中会というシステムを学びます。やがてその中会に身を置くことになるからです。
さらには、自分が研修する教会を足掛かりにして、ただ奉仕するのが牧師ではなく、牧師に召された意味を学んでいくのです。どれだけ仕事をしたかは、重要ではありません。その教会で、たとえば自分が出来る仕事が何もなかったとしても、それでも自分は牧師に召されているということを確認する場が、研修教会なのです。泉教会は小さな教会で、力もないかもしれません。しかし、私たちは私たちで、牧師を産み出す教会に召されている、と言うことが出来るのです。

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by rev_ushioda | 2014-07-17 21:57 | Comments(0)

「転倒の傷」

ある時、私は年がいもなく、子どもが乗って遊ぶキックボードに乗っていて転倒し、アスファルトの路面に頭を打ちつけて目の上を切り、数センチ縫うことになってしまいました。すぐ病院に行って手当をしたためか、傷の直りは思ったより早く、1週間くらいですっかり癒りました。けれども、気付けば両方の手や肘には何の傷もありませんでした。倒れる体を支えるはずの腕は、その時、まったく動いていなかったのです! 気持ちは二十歳でいたのに、何か厳しい現実を突き付けられたような感じがしました。「お前の体は、もう若くない」という宣告を受けたような感じは、どうにも情けないです。体よりも心に傷を負ったような感じです。
事故についてはいろいろ励ましてくれる人もいたのですが、私は、事故を起こしたというよりも、とっさに反応できない反応の鈍い、そういう年齢になったのかという自分に失望していたのです。
表には現れない、その人にしか分からない、いえ、場合によっては自分でも気付かないかも知れないような感情のところで、人は傷を持ち、癒やしを必要としているのかも知れません。その感情を抑えているから、どこかで無理が来るのです。カウンセリングにおいでになる皆さん、多くの場合は、傷がある気持ちを言葉にして言えなかったということです。感じていることを感じてよいのだと自分に許可を与えることができなかった… その時は、言えるような状況でもなかった。もしそうしていたら、ずいぶん違った結果になっていたのです。
旧約聖書のヨブという人は、理論や知恵を持ち出す友人たちの前で、その理論とか知恵の枠組みで考えることを拒否して、思い切り、神に向かって叫びます。そして、悲しみや怒りに奪われそうになる心を、人間を、取り戻していくのです。思い切り叫ぶことができる対象として、神、人間の造り主である方と向き合える人は、幸いです。

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by rev_ushioda | 2014-07-12 20:20 | Comments(0)

「神学校同級会」

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神学校の同級会が開かれた。神学校を卒業して10年くらい経ったある年から始めて、以後、毎年開催。今年は多分24回目かな? 会場はローテーションで、今年は私の教会であった。
出席は大竹先生夫妻、熊田先生夫妻、潮田夫妻、池田姉、高本姉、以上8人(欠席は、木内先生と橋本姉の2人)。昨年は、仲間の1人を天に送るという、悲しい出来事があった。仲間の連れ合いが亡くなるということは以前にあったが、仲間がいなくなるという出来事に直面して、いつかは2人目、3人目と続くであろうと、初めてのように思った年であった。そして今年である。今年は、二人で介護認定(要支援1、要介護1)を受けているという夫婦が誕生(?)した。こんな具合に進んで行くのだろう。しかし、どんなに体力の衰えがあっても、意識や関心の持ち方は、神学校を卒業したときと同じだなあとお互いに思った。
初めの礼拝は、ロマ書13章。時が時だ。来た!と思った。そして、その神学的な思索と、導かれた結論(信仰と神学の言葉を語ろう)に、説得力を感じた。前提をもって書かれた新聞記事や人の言葉に振り回されたらいけない。私たちは神学の言葉で語り始めなければならない。なるほどなあ。時の勢いでは、人を説得できないなあ。世間が騒がしくなればなるほど、私たちは静かに、落ち着いて、信仰の言葉で語る者となろう。そう思った。

昼食に選んだサンマルクは、あれほど人が多いとは思っていなかったが、考えてみれば、夏期特別プランとかいうメールが配信された直後。私もそのメールがあったので、サンマルクに行くことを決めたのだった。混んでいて当たり前… ^_^; 最初、人の多さで言葉が届かず、皆さんには失礼してしまったが、最後まで粘って、最後は、主の祈りをもって解散した。

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by rev_ushioda | 2014-07-07 22:35 | Comments(2)

「バックギア」

私は、車の運転をしますが、車のギアはうまくできているものだと思います。同じ力のエンジンなのに、坂道を力強く登る低速運転にも、高速道路を突っ走る高速運転にも、そして、車をバックさせることもできるのですから。
ところで、車のギアがいつもバックギアに入っていたとしたら、それでは車の機能は発揮できません。そればかりか、エンジンをふかせばふかすほど後戻りしてしまいます。ニュートラルに入れ、さらに次のギアへと入れ替えていくときに、車は前進し、車はその本来の役割を果たすことになります。
なぜ、こんなお話をするかと言うと、私たち人間は、意外とバックギアに入ったままの状態、ということがあるのではないでしょうか。相談に来られる方の中には、時々、この人はもう結論を持っているのではないか、と思う人がいます。私がどうお話しても、「ええ、でも…」とバックギアを入れる。「でも…(私はこう思う)」。それなら初めからそうすればどうか、と思うのですが、実は自分の考えや思いと同じ言葉を言ってほしくて、おいでになるようです。しかし、それでは、前進しようがありません。
心の中にあるこのような後向きのパターンを、「心理ゲーム」と言いますが、このゲームを始めると、どんな話題においても、また、そこでどんな話を聞かされても、必ず同じ思い、同じ感情に戻っていってしまうのです。つまり、バックギアに入ってしまっているので、いつも「他人のせいでこうなった」とか、その反対に「自分はだめ人間だ」というように、同じことを繰り返します。
知らずに入っているバックギアを引き抜いてニュートラルに、そして、それぞれに合ったギアに入れていくとき、快適な、自由な人生の走りができるはずなのです。
聖書はこう言います。「この自由を得させるため、キリストは、(十字架によって)私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)

「くびき」とは、牛が荷物をひくために首に掛ける木のこと。
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by rev_ushioda | 2014-07-05 20:11 | Comments(0)

「何ということか」

「しゅうだんてきじえいけん」 分からない者は切り捨てる今回の「閣議決定」と言う暴走劇の結果、日本は、戦争への舵を切った。「これで戦争から遠ざかった」という首相の説明は、素人でもわかるまったく逆の説明で、集団的自衛権は、戦争に自ら飛び込むことを指す言葉だ。首相の暴走をだれも止められない歯がゆさ。宗教団体を後ろ盾にし、平和政党を自認する連立・公明党は、いずれ苦杯をなめる時が来るだろう。

「閣議決定」と言う暴走。「これはテロだ。」と野党党首が言った言葉が耳に響く。先の特定秘密法にしろ、今日のことにしろ、私たちは何という暗い時代を迎えたことか。

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by rev_ushioda | 2014-07-02 16:46 | Comments(0)