「朽ちないもの一つ」

娘が幼稚園の時、一緒に遊園地に行ったことがあります。ボートがあったので、乗せてあげようと順番を待ち、いよいよ私たちの番になりました。しかしその時、娘が急に逃げ出してしまったのです。順番を待ちながら、娘はあの、ゆらゆら揺れる様子を見ていて、急に不安になり、逃げ出したのでした。
私は思います。足元が揺れる、気持ちがどうしても踏ん張れないということは、実は、誰にもあるのではないでしょうか。
実際、精神的に落ちこんだり、ましてや病気になったりした時は、人はボートに乗っているような感じになるものです。踏ん張れなくなるのです。足元が揺れてしまうのです。周りの人は、「頑張りなさい」「しっかりしなさい」「そのくらいできるでしょ!」と言いますが、どうしてもそれができない時があるのです。もし、一緒に舟に乗ってみてくれたら分かるはずなのに、そのように声をかける人は、見れば、陸に立っているのです。そういう人に限って陸にいて、自分の足はしっかり大地に立って、ボートに乗って揺れている私に向かって、頑張れ、頑張れ、と声をかけている。
しかし聖書は、「キリストは神の身分でありながら、・・自分を無にして・・人間と同じ者になられた」と言っています。キリストは神の身分を離れ、つまり、先の話ですと陸地からボートに移って「本当にずいぶん揺れているね、これでは不安だね」と言ってくださっている、と言うのです。そしてここが大事ですが、私たちが今、直面しているそのところ、まさに私たちの現場から、神は救いのドラマを始めてくださるのです。
聖書にはこう書かれています。「神はその独り子・キリストを送ってくださった。それほど、あなたを愛してくださったのです。あなたが滅びないで、永遠の命を得るために」。─ ですから、あなたの舟にキリストをお迎えするなら、そこから、新しいドラマが始まるのです。「神は・・それほど、あなたを愛してくださった」からです。

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by rev_ushioda | 2014-06-27 10:42 | Comments(0)

君は 愛されるため生まれた
君の生涯は 愛で満ちている
君は 愛されるため生まれた
君の生涯は 愛で満ちている

永遠の神の愛は
我らの出会いの中で 実を結ぶ
君の存在がわたしには
どれほどおおきな喜びでしょう

君は 愛されるため生まれた
今もその愛 受けている
君は 愛されるため生まれた
今もその愛 受けている



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by rev_ushioda | 2014-06-26 23:07 | Comments(0)

「安倍さんへ」

憲法解釈を変える、という今の内閣には、情けなくもあり、あきれるばかりだ。あきれてばかりいられない。というのは、このことが通れば、即、日本が戦争に巻き込まれる可能性に立つことになるからだ。声を上げなければ後世に禍根を残すのとは必死である。
今日、中会議長から以下の文面が届いた。ここに転写しておく。


内閣総理大臣 安倍晋三殿

2014 年6 月26 日
カンバーランド長老キリスト教会日本中会
議長 荒瀬牧彦
神学・社会委員会委員長 瀬底正博

集団的自衛権の行使容認に断固反対します

私たちカンバーランド長老キリスト教会日本中会は、集団的自衛権の行使を容認するこ
とに断固として反対します。
日本国憲法の平和主義は、内外にはかりしれない悲惨をもたらした戦争に対する深刻な
反省をもとに堅持されてきました。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の
行使」を「国際紛争を解決する手段として」放棄し、そのために戦力の不保持と交戦権の
不行使をうたう憲法9 条があったからこそ、戦後70 年近くの間、日本は直接武力によっ
て人を殺すことも殺されることもない歴史を築くことができました。
しかし、集団的自衛権の行使を容認することは、それとは全く逆の方向に進むことです。
他国が武力攻撃を受けたことをもって攻撃した国に日本が反撃することは、武力攻撃した
国に対しては日本の先制攻撃となり、日本は敵国となって反撃を受けることは必至であり、
戦争状態に入ります。安倍首相は「国民の命を守る」ことを強調されますが、根強い対話
による解決を放棄して集団的自衛権を行使することは、日本国民の命だけではなく、世界
の人々の命さえ危険にさらすことになります。
日本が進むべきは、人間の命が戦争によって失われることがないよう、憲法の平和主義、
中でも9 条に基づいて武力によらない平和を追求する道であり、それでこそ世界の先端を
ゆく名誉ある地位を占めることができると考えます。
集団的自衛権の行使容認は、世界に誇るべき日本の平和主義を突き崩します。しかも、
集団的自衛権を認めていない憲法のもとでその行使容認に踏み切ることは「憲法改正」に
ほかならないにもかかわらず、第96 条の憲法改正の手続きを回避し、国民の意思を問う
ことがないばかりか、国会の審議も経ないで、閣議決定によって行使を容認することは許
されることではありません。これは、立憲主義を崩壊させる行為であり、憲法を尊重・擁
護する義務を負う政治家として憲法違反、憲法への反逆であり、民主主義への挑戦と言わ
ざるをえません。
後世に民主的な平和国家を引き継ぐ責任を果たすためにも、集団的自衛権の行使容認、
閣議決定による解釈改憲を行なわないよう強く求めます。

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by rev_ushioda | 2014-06-25 16:55 | Comments(0)

教会は、一人一人の求めに、どのように応えるのでしょうか。
主イエスのもとに多くの人が押し寄せました。病気に悩む人たち、苦しみや悲しみをかかえた人々、いろいろな訴えや、求めのある人が、どんなに多かったか、ということです。その時、「イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。」と、マルコによる福音書は書きます(3章9節)。
「押しつぶされ」るほどに、一人一人に応えて行かれたのですが、主イエスは弟子たちに小舟を用意させました。ある時点で、群衆との間に距離を置こうとされたのです。距離を置き、されることは一つしかありません。初めの説教の言葉に戻るのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」小舟を用意するというのは、舟の上から岸にいる人々に向かって、み言葉を語るためです。苦しみ、悲しみを背負って押し寄せてきた人々に対して、主イエスはその要求をただ満たし続けるのではなくて、彼らに、ついに「時は満ち、神の国は近づいた」という事実を伝えたのです。それが舟を用意した理由でした。群衆の要求に押しつぶされない!
そうなると、主イエスに触れてもらおうとして押し寄せて来た人々にとって、み言葉の説教は、ずいぶん期待外れだったでしょう。説教を聞いても、現実は変わらないし、病気が治るわけではなかったからです。「こんなことのためにわざわざ礼拝に来たのではない」と、私たちなら思うでしょう。
主イエスは、ついには期待通りにしてくれない。しかし、ここが大事なところです。主イエスは、最後の最後で、こうしてほしいと期待する人の、その期待からから、距離を置くのです。そして、舟から語る説教、ついに十字架からの言葉の中に(神の国の中に)、聞く人を連れて行くのです。
主イエスは私たちの期待を成就するのではなく、期待を外し、ひっくり返して、そこで初めて見える世界を見せるのです。そういうことが分からないで、私の願いを押し通し、私の願いに教会は応えてくれないと言い続けるのか、それとも、ついに神の物語に新しく生きるのか。私たちは立ち止まらなければならないのです。私たちの期待に応えてくれない所に留まれば、そこから始まる物語が、教会にはある。

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by rev_ushioda | 2014-06-23 20:52 | Comments(0)

「頑張れないとき」

娘が幼稚園の時、一緒に遊園地に行ったことがあります。ボートがあったので、乗せてあげようと順番を待ち、いよいよ私たちの番になりました。しかしその時、娘が急に逃げ出してしまったのです。順番を待ちながら、娘はあの、ゆらゆら揺れる様子を見ていて、急に不安になり、逃げ出したのでした。
私は思います。足元が揺れる、気持ちがどうしても踏ん張れないということは、実は、誰にもあるのではないでしょうか。
実際、精神的に落ちこんだり、ましてや病気になったりした時は、人はボートに乗っているような感じになるものです。踏ん張れなくなるのです。足元が揺れてしまうのです。周りの人は、「頑張りなさい」「しっかりしなさい」「そのくらいできるでしょ!」と言いますが、どうしてもそれができない時があるのです。もし、一緒に舟に乗ってみてくれたら分かるはずなのに、そのように声をかける人は、見れば、陸に立っているのです。そういう人に限って陸にいて、自分の足はしっかり大地に立って、ボートに乗って揺れている私に向かって、頑張れ、頑張れ、と声をかけている。
しかし聖書は、「キリストは神の身分でありながら、・・自分を無にして・・人間と同じ者になられた」と言っています。キリストは神の身分を離れ、つまり、先の話ですと陸地からボートに移って「本当にずいぶん揺れているね、これでは不安だね」と言ってくださっている、と言うのです。そしてここが大事ですが、私たちが今、直面しているそのところ、まさに私たちの現場から、神は救いのドラマを始めてくださるのです。
聖書にはこう書かれています。「神はその独り子・キリストを送ってくださった。それほど、あなたを愛してくださったのです。あなたが滅びないで、永遠の命を得るために」。─ ですから、あなたの舟にキリストをお迎えするなら、そこから、新しいドラマが始まるのです。「神は・・それほど、あなたを愛してくださった」からです。

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by rev_ushioda | 2014-06-19 16:22 | Comments(0)

「署名」

以下、「東京都議会における差別発言を許さない市民一同」の署名運動から引用。


2014年6月18日、東京都議会の本会議において、みんなの党会派の塩村文夏議員が、女性の妊娠・出産を巡る都の支援体制について一般質問をしていた際に、自民党都議らの座る一角から男性の声で「自分が早く結婚した方がいい」「産めないのか」などといった野次を浴びせかけられました。

 毎日新聞(http://mainichi.jp/select/news/20140619k0000m040122000c.html)

 朝日新聞(http://apital.asahi.com/article/news/2014061900004.html)

 出生率の低下が日本全体の問題として叫ばれており、その対処が模索されています。

 この問題の一因は女性をとりまく状況にあります。

 いま日本の社会では、女性は、妊娠・出産をたとえ強く望んでいたとしても実際に行うためには、その女性本人をとりまく社会環境に由来するさまざまな障害を乗り越えなくてはならず、それゆえに非常に重い負担を強いられています。

 まして、東京都はもっとも子育てしにくい場所だといわれています。

 塩村議員はまさにこうした都のなかで起きている社会的問題を解決するために女性の気持ちを代表して一般質問をしていたところだったのです。

 しかるに、前述のような野次は、塩村文夏議員に対して彼女が女性であることを理由に個人の意志や事情に関係なく結婚や妊娠を強要するという人格無視の差別的発言にあたるばかりでなく、この東京都の社会的問題を解決するために協力しようという意志をみじんも感じさせないどころか女性に圧力をかけるという点でむしろ問題を悪化させるものであり、ゆえに東京都に住んでいるか働いているすべての女性までをも侮辱するものです。

 議員の発言の社会的影響力は無視できません。このような重い差別的発言が東京都議会で見過ごされるのであれば、東京都は2020年オリンピックという機会に向けて世界に開かれた国際都市として発展できなくなるでしょう。もしもこの問題がインターネットを通じて国際的に知られれば、各国選手のボイコットも予想されます。

 したがって、こうした発言を行った都議会議員が責任を問われず放置されている現状は、きわめて重大だといえます。そもそも、なぜ議長はいったん進行を中止してでもこの野次を放った議員を叱責しなかったのか、まったく理解に苦しみます。しかしそれ以上に、みんなの党会派から申し入れを受けた議会運営委員会の吉原修委員長(自民)はなぜ事の重大さに言及せず「(各)会派の中で品位のない発言をしないよう確認すればいいのでは」と述べるにとどめたのでしょうか。これでは単に身内をかばっているように見えてしまいます。

 私たちは、この現状を深く憂慮し、都議会本会議内で女性差別発言をした自民党都議会議員を特定し厳正に処分するよう、自民党東京都連に対して強く求めます。



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by rev_ushioda | 2014-06-18 23:35 | Comments(2)

「ミスを隠さず」

病院での医療ミスがときどき問題になっていますが、良識ある医師、看護婦さんたちはいろいろ気を遣って、さぞかし大変だろうと察します。
さて、アメリカのある病院では、ミスを一切隠さず公表するそうですが、初めからそうではなかったそうです。かつて、自分たちの医療ミスに気付いた時、黙っていればそのままで済ます(?)ことができたそうですが、ひょっとしたら、いつか外に漏れて莫大な賠償金を払うことにもなるかも知れない。悩んだ末、今、率直に公表しようということになりました。そして公表した結果、意外にも思ったよりはるかに低い額で、和解が成立したのです。それからこの病院では「人はミスを犯すもの」という前提に立って、ミスがあったら医師の責任は一切病院が負って、公表する。その上でミスを繰り返さないために徹底的に対策を練ることにしました。こうして100とか200もの対策が生まれ、賠償費用もはるかに低い額になったそうです。
私たちは、自分の弱さ、失敗に気付くと、一生懸命に隠そうとする、のではないでしょうか。意識していないところで、無意識的に、弱い自分を隠しているのではないでしょうか。そしていつも強く、完璧な、役に立つ自分であることを、人に見せようとしているのですが、そのために、弱さを隠そうとする、ものすごい負のエネルギーが、体の中で働いているのです。自分でない自分を演じるのですから、やがて体調が崩れ、バランスが崩れ、破綻します。
弱さを隠さず、開けっ広げになれたら、どんなにいいでしょうか。聖書は言います「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」(ヨハネ一 1:9)。造り主(神)に対しての的外れ、「罪」を今、隠さずに言い表すことができたら、私たちはどんなに平安になれるでしょうか。あなたもぜひ、教会においでになってみてください。

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by rev_ushioda | 2014-06-15 06:54 | Comments(0)

「自分と向き合う」

以前、「先生、そんなに説教、がんばらないでください。」と言われ、その意外な言葉に驚いたことがあります。牧師である以上、説教に努力はしますが、「頑張っている」という評価は意外でした。お話を聞いていくうちに見えてきたのは、人が頑張っているのを見ると、自分に頑張れ、頑張れと言われているように感じてしまう、ということのようなのです。だから、人が自発的に、喜んで、あれこれ奉仕しているのを見ても、辛くなってしまうのだそうです。
なぜそう感じるのかは、うすうす、成育歴やその後の人生体験が重なっているのだろう、と分かりました。「転移感情」という言葉がありますが、過去に誰かから言われた言葉が、今向き合っている相手から聞こえてくるような気がすることを指します。辛い経験をした方は、今はそういう状況から離れているにもかかわらず、常にその時の体験に支配されていて、その体験が今向き合っている相手(もちろん、過去の相手とは違います)との中に再現されてしまうのです。その結果、そういうことはやめてほしい(あるいは、こうしてほしい)、と、言います。
そのような場合、今向き合っている現実を、自分に合うように変えて行くのがよいことでしょうか。それとも、そういうカラクリに気づき、そのように生きざるを得ない自分と向き合うことが、よいのでしょうか。心理学が「転移感情」というカラクリを見抜いたのは、人を自分の感情に会うように変えるのではなく、自分と向き合い、自分を変えていくしかない、という結論に至ったからなのです。
教会は、聖書を通して、また説教を通して、多かれ少なかれ様々な過去に支配されている、生きにくい自分と向き合う場でもあります。説教を聞く時、その言葉は、何かに支配されている自分に語り出すでしょう。そのとき、弱さや痛みを引き受けている自分と向き合うことは、できれば避けて通りたいことだと感じ、また、環境や周りを変えたい衝動にとらわれますが、良い羊飼いであるイエス・キリストに信頼して、自分と向き合い続けるのです。そうしていくうちに、見えてくるのは、初めの例で言えば、頑張れ、頑張れと言われているように思う、過去に支配されている自分からの解放なのです。

「しかし、神の言葉はつながれていません。」(テモテへの手紙 二 2章9節)

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by rev_ushioda | 2014-06-14 06:55 | Comments(0)

「南房総に一泊」

安房自然村に一泊旅行で行ってきた。

南房総に行くのは、全員、今回が初めて。だれも土地勘なく、イメージがわかないまま、仲間と5人、連れだって、行きはアクアライン、帰りは東京湾フェリーを使って東京湾を一周するかたちの旅行。山の中の洞窟を通って行くめずらしい温泉に感動し、ゆったりしたホテルの和洋室の部屋に感動し(施設の維持管理の面では難点あるが)、何もない南房総に感動(?)し・・
忙しい毎日の中、何もない南房総に足を運ぶのも、よかったのかもしれない。箱根など、次はどこの美術館、次はどこに行こうかと忙しいが、ここは、本当に何もない、のだから。期待した南房パラダイスは、改修工事中のオチ。
行きの昼食は、観光案内で「さとみ」と決めていた。そろそろ右側に、と探していたが、「今、あったみたい」と、その文字を見つけたのは、どう見ても「う~ん」という店。観光案内になければ、横浜から来て食事でここに入ろうなどとは決して思わない外観。入ってみれば、味はよし。お昼時は過ぎているのに、次々、お客さんが来る。見かけにはよらないものだと。教訓をいただいた。
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http://www.awa-shizenmura.jp/

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by rev_ushioda | 2014-06-10 18:29 | Comments(0)

「新しい人」

ブラジルから日住慎一兄が52年ぶりに帰国され、先週、礼拝で証をしていただきました。日住兄はブラジル東北部バイア州(フランスよりやや広い)に唯一の日本語教会、マッタ・デ・サンジョアン伝道教会の会員です。52年前、故郷、佐世保を離れ、40日間、船に乗ってブラジルのサルバドルに家族と共に移住しました。移住地に着き、さあ、これからだという1週間目、その日に何と、お父さんが交通事故で亡くなってしまったのです。お母さんは、ブラジル移住に反対でした。その見知らぬ土地に、右も左も分からないまま、子ども3人を抱えて放り出されてしまいました。それからというもの、何もない土地でどんなに苦労したか。そのお母さんの姿を考えるだけでも、日住さんは今も、辛くなると言われます。それから5年経って、今度は、そのお母さんも亡くなったのです。子どもたちだけがとり残されました。それからというもの、とにかく頑張って頑張って、ついに半世紀たって、今回、52年振りにようやく帰国できたのです。
日住兄は、教会に行くようになって、人生はすべて変わったと言われました。景色が変わったと言われました。感謝に変わったと言われました。「あなたがたは以前には…この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」しかし、今や、一人の新しい人になった、とエフェソの信徒への手紙2章は述べています。教会に行くようになってそのように変わった日住さんを見て、52年前に同じ船に乗っていた人が、イエスさまを信じるようにもなりました。
8年前の新聞に「ドミニカ訴訟」「国の移民対応『違法』」という記事が出ました。戦後、日本政府がドミニカに移住者を送り、約束と違う過酷な環境に置いたのは違法だというのです。訴訟のためにわざわざ来日して政府を恨み、人をうらみ、天を恨む。当然のことです。日住さんも「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」しかし教会に行くうちに、神さまは日住さんをとらえてくださった。こうして「縦」の関係がつながると、不思議に「横」の関係も祝されていったのです。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもない。」「新しい人」が生まれました。
日住さんがいる同じ移住地に、佐々木さんという人がいました。移住直前に高座教会で洗礼を受けたキリスト者で、移住地で礼拝を始めた人です。佐々木さんは、こう言っていました。「イスラエルの民は、エジプトという外国で430年、奴隷だった。そこから神の民が生まれたのです。ブラジルの入植民も430年経てば、日本人でもブラジル人でもない、神の民という新しい民がそこに生まれる。それは神の業だ。私たちがするのではない。神がなさる。私たちはその神の業を証したい」
430年かかりませんでした。聖書が開かれ、キリストを礼拝するところ、そこに神の民、新しい人が生まれたのです。「移住40年『楽園』なかった」とドミニカ移住者は言っていますが、どこに行ったら「楽園」はあるのでしょうか。答は、イエス・キリストが礼拝される所に神の民、新しい人が生まれ、その人がいるところだ、ということです。
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by rev_ushioda | 2014-06-07 14:19 | Comments(0)