「聖書のリレー読み」

〇〇さんへ

こんにちは。

礼拝人数が減って寂しく感じている最近の礼拝ですが、〇〇さんがおみえになると、パッと嬉しくなります。
〇〇さんが、転入/洗礼を受けた日から、気づけばずいぶん日が過ぎています。礼拝を一緒にまもらせていただきながら、私は、みなさんの中に聖書を読む楽しさがどんどん大きくなることを期待し、祈っています。

そこで、今日は一つお願いがあります。教会では、「聖書を皆で読みつないでいこう!」と、今、聖書のリレー読みをしているのはご存知だと思います。
〇〇さんには〇月〇日の週を担当して戴けないでしょうか。その週の週報で案内する聖書個所(たいてい1章だけです)を家で、1週間のうちの好きな時に読んでいただくだけ、です。
聖書個所は、週報の「仲間と共に読む聖書」に書いてある個所を順番に読んでいますが、その週はどの個所になるかは、週報で見るか、お休みになった時は、メールでお知らせします。
すでにこの写真のように、リレーがつながっています。
泉教会で聖書を読みついでいくリレーが途絶えないため、教会員のあなたにもご協力いただけるでしょうか。
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by rev_ushioda | 2014-05-31 00:17 | Comments(0)

「どこでもドア」

泉教会ではインターネットにホームページを開いていますが、ある時、ドイツから、ページを見ました、というメールが舞い込んできて、なるほどこれがインターネットかと感動しました。また、カリフォルニアからもメールが入って、何とその人のお姉さんが教会の近くにいるので教会案内を送ってほしいということでした。カリフォルニアからのメールで、すぐ近くの方を知る。その方が教会に関心があるかないかは別にして、私は、またまた感動してしまいました。机の上が、まさに世界に向かって開かれているのです。「ドラえもん」の「どこでもドア」というのがありましたが、インターネットを通じて机の上から、どこでも行けるのです。
しかし、考えてみると教会は2,000年前から、世界に開かれた「どこでもドア」を持っていたのではなかったかと思うのです。住んでいる地域を問わず、老若男女を問わず、民族、国籍を問わず、趣味、学歴を問わず、すべての人が自由に出会う場であったし、あり続けました。
私たちの泉教会に集まる方々は、皆、玄関先で初めてお会いした方々ばかりで、それまでに知り合いであったわけではありません。住んでいる地域や年齢が同じというわけでも、仕事や、趣味が同じであったわけでもありません。大人も、子どもも、います。国籍から言えば、韓国の人も、2年ほど日曜日の礼拝に来られていたこともあります。教会は「どこでもドア」なのです。どこにでも行けるという意味ではありませんが、しかし、どこの誰とも、普通に出会えるのです。教会に行ってみると、会社の部長さんが、スリッパ拭きをやっていたりするのです。アメリカのカーター元大統領は、現職の時も教会で子どもたちに聖書を教えてきたそうです。教会はどんな人も、そしてどんな人とも、普通に出会うことができる、そういう「どこでもドア」なのです。あなたとの出会いも、楽しみにしています。泉教会では、初めての人をお招きしています。日曜日、朝10時30分からの礼拝に、あなたもぜひおいでください。

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by rev_ushioda | 2014-05-27 21:50 | Comments(0)

「線で読む聖書」

聖書は1冊に編集され、製本されていますが、実は66もの小さな「本」から、できています。その1冊、たとえば福音書を、日曜日の礼拝で少しづつ読んでいくと、読み終わるまで2~3年かかります。一気に読めば数時間で読めてしまうものを、2年、3年かけるのです。
私は、このような長さで聖書を読むということは、本当に大事なことだと思っています。2~3年といえば、そこにはどういうことがあるでしょうか。楽しいことも、もちろんあるでしょう。しかしまた、人間関係が悪くなることも、リストラに遭うことも、あり得ます。病気をしたり、思いがけない事故に遭うことも、そして、家族の誰かが亡くなるということだって、あります。
泉教会は、死去、転居、高齢化、転籍などが重なり、この3年間で11人が礼拝から離れました。30人弱まで伸びた礼拝が三分の二になったのです。思いがけない打撃を受けています。
そういう2年、3年にわたって聖書が読まれるということは、聖書は、今言ったどの例に対しても問題をごまかしたり、逃げたりしないで答えている、ということになります。
アメリカのあるキリスト者の家庭にホームステイさせてもらった時のことです。その家庭は、数か月前に息子さんを自殺で亡くされていた、ということを知りました。そういうことだったら、いくら予定されていたこととは言え、ホームステイを断わってくれてもよかったのに、と思いましたが、彼らはそうしませんでした。お話を聞きながら気付いたことは、この辛い出来事の前にも後にも、彼らは教会の礼拝に通い続けていた、ということです。聖書を読む生活を続けていた。聖書は、このような思いがけない出来事にも、問題をごまかしたり、逃げたりしないで、この家庭に語りかける言葉を確かに持っていた、ということでした。
すれ違いざま、ひと言ふた言、言葉をかけて終わり。責任も持たない、という時代に、聖書の言葉は2年、3年どころではありません、生涯にわたって、私たちに責任を持つ言葉であるのです。そのことを、私は40年の牧師としての経験から、そして50年にわたって聖書を読み続けてきた経験から、確信することができるのです。

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by rev_ushioda | 2014-05-26 06:34 | Comments(0)

「不調続き」

う~ん、このところちょっと調子が悪いかな・・ 
箱根での牧師研修会には出ることが出来たが、前後、風邪の症状で、結局、外部の関わりのあるところを結構あちこち欠席連絡せざるを得なかった。

・あさひ伝道所委員会(会員との懇談会)欠席
・市川運営委員会(予算対策会議)欠席
・和泉短大後援会役員会欠席
・東京キリスト教大学評議員会(新任最初の会議)欠席
・NPO心を聴く市民ネットワークの第一回勉強会は1週延期
・同 スタッフ研修欠席

加えて、一般健診は延期、という具合である。多くの皆さんに迷惑をかけてしまった。風邪だけでなく、別に不調があって、腎臓の造影剤検査もした。そちらは問題はなく、大いにほっとしたが、ただ、前立腺肥大の薬は飲むことになった。泌尿器科というのは、私にとってまた新たな受診科目である。内科、歯科、皮膚科(縫合手術)、循環器科、肛門科、眼科、脳神経外科(MRI)、整形外科(MRI)、麻酔科(ペインクリニック)、泌尿器科。年々、受診科目が増えて行く…
風邪は、何と2年半ぶりである。以前は年に3回はひいていたが、熟成にんにくを食べ続けて、体質的に改善されたのかも知れないが、その後、続かず怠けすぎた。もう一度、しっかり食べることにしよう。こう、あちこち休んでばかりいると、何とも具合が悪い。仕事も押せ押せになっている。とにかく健康第一だ、と思った。
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by rev_ushioda | 2014-05-21 22:17 | Comments(0)

「すばらしい証の日に」

今年の「女性の集い」は、日本FEBCの代表を務め、現在は相談役、理事である吉崎恵子姉のすばらしい信仰の証を聞くことが出来て、200人を超える出席者一同、大変励まされました。お母様から、みことばの体験、祈りの体験、罪の赦しという三点を受け止めたことを証しされました。そしてマリアとマルタの記事から、二人共に必要とされたこと、マリアという御言葉を聞く女性が生まれるためにマルタが必要だったことなど、お話を聞きながら、感銘を受けました。
さて、その日、以下のニュースが流れました。憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にし、他国を守るために自衛隊が海外で武力行使できるようにする。安倍政権は日本をこんな国に作り替えようとしている。(毎日新聞)「戦争をしない国」という基本理念を見直すことを意味する。(朝日新聞)
はからずも、すばらしい恵みと祝福を受けて礼拝堂を出た日、流れたニュースが、上の内容でした。

私は、暫く前にここで、以下のようなことを書きました。
たとえば、元気がない池の鯉を治療して、健康を回復させ、池に戻します。しかし、元気がなかった理由は、池の水が汚れて酸素が不足していたからだとしたら、どうでしょうか。「伝道」によって、一人の人が神を信じるキリスト者として、世に送り出されます。しかし、そこが汚れて酸欠状態であったら、どうなのでしょうか…だから、生きていく場所をしっかりと残すことを、「伝道」に対して、「宣教」(説教をはじめ、教会の働きのすべて)と言っておきたいと思います。教会は、「伝道」と「宣教」と、この両方が必要なのです。

現内閣は矢継ぎ早に法整備をしていますが、目指すのは「美しい国」であり、それは、戦前のような君が代を学校でうたわせるなどの思想統制とか、情報操作とか、軍国主義回帰、憲法を都合の良いように変えようという強権政治を指しています。今回も、ニュースを聞きながら、私はそれこそ窒息しそうな気持でした。
私たちは、そういう世の中に生きていることに十分な関心を持ちながら、祈りの道を歩んで行きます。そして、そういう世の中に生きていることに十分な関心を持ちながら、福音を語ります。伝道します。そうでないなら、福音は、絵に描いた餅になってしまうでしょう。私たちは「空を打つような拳闘」はしないのです。

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by rev_ushioda | 2014-05-17 10:21 | Comments(0)

「牧師研修会」

牧師研修会が箱根であった。
参加者21人ということで、全館貸切りプランのある「四季倶楽部 和の香」を推薦し、それが良いということで決まった会場であったが、実は、この「和の香」に、私は泊まったことがなかった。口コミによってここに決定したが、口コミというのはほぼ当たるもので、参加した皆さんに満足していただけたようで、推薦者として、まずはほっとしている。集会のための部屋の貸出料とか入湯税とか税金を含めても、少し援助があったために、一人5,000円であった。それで全館(12室)貸切りという豪華な気分が味わえるのだ。下の写真は、ロビーで、1枚ガラスが高い天井まで続き、まさに大開口。緑に映える外の景色を見る気分のよさは、たとえようもない。

この系列ホテルはシーズン問わず、いつでも5,000円を打ちだしている。

研修の中身は「牧師とは何か」。本の内容紹介を分担して行い、そして話し合うという内容であった。時間的に十分ではなかったが、牧師とは何か、時々、確認する必要がある。一つ、はっと気づいた言葉があった。「世のための教会」。今、泉教会は礼拝人数が減少して寂しい思いがし、焦りの気持ちがあるとき、教会の標識は宗教改革以来、説教、聖礼典と言われてきたのだが、そのほかにバルトが「世のため」という一項目を付け加えた、ということだ。この下降する教勢の中で、世のための教会という標識を打ちだせるのか、どのようにそれが言えるのか、問われて帰宅した。

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by rev_ushioda | 2014-05-16 16:23 | Comments(0)

「沈黙の値打ち」

新聞記事の見出しに目が止まりました。「息子の心、受け入れた父」という見出し、副題が「名門高校を卒業した息子が、金属バットを振り回し始めた。父の闘いが始まった」とありました。よく聞く、家庭内暴力、家庭崩壊の話でした。ここでお父さんの「闘い」とは何かというと、カウンセラーから言われた、ありのままの息子(の気持ち)を受け入れることでした。それまでは息子に「こうなってほしい」「こうすべきだ」と、子どものためと思えばこそ、親の期待や価値観、道徳的な言葉を、疑いもなく押しつけてきた。ところが今は、カウンセラーの指導に賭けて、今まで言ってきた言葉を、一切、言わないと誓ったのです。言わないことのもどかしさ、苦しさがつのる中で、それでも言わないのは、お父さんにとっては、まさに自分との「闘い」だったわけです。こうして親が自分と闘い、親の期待や価値観、道徳的な言葉を押しつけなくなった時、やがて、子どもは自分の道を歩き出し始めた・・そういう記事でした。
価値観をおしつけられ、外面的には「いい子」を演じながら、今にも爆発しそうな人がどれだけいるでしょうか。しかし、価値観をおしつけている側は、それが子どものため、人のため、と言って、それが当然という考えなのです。あなたはどうでしょうか。
ある便利屋さんが一人のご婦人のところへ呼ばれて出かけると、「たった1時間話を聞いただけで、100万円くれました」と、「人のために人となる人」(サンマーク出版)という本に書かれています。自分の話ができない。気持ちを誰にも伝えられない。自分のことを言おうとすると、いつも決まった同じ価値観を押しつけられる。そういう人にとって、話を聞いてくれるということは100万円の値うちがあった、ということです。言い換えれば、私たちは自分の価値観で100万円もの値打ちを人から奪っている。取り返しのつかない損害を、人に与えているのかも知れません。泉教会は、100万円を値積もるほどの値打ちがある、人の気持ちを大事にしたいと考える教会です。

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by rev_ushioda | 2014-05-15 20:05 | Comments(0)

やっと教会のホームページがリニューアル出来た。

先ずは 観てほしい。→ 泉教会ホームページ

最近の礼拝人数を見て、これではいけないと危機感を感じ、手掛けたいくつかの一つが、このホームページのリニューアルだった。17年前に作ったものはこの6、7年、更新していない(更新できなくなっていた)。そちらを破棄して、新しく作り直したのだ。外部委託(有料)は痛かったが、もはやそんなことを言っていられる状況ではなくなった。初期費用4万円かけて製作してもらい、あとは月々5,000円かかるが、自分で更新できるものを選んだ。ここが、今回依頼した会社。→ webma いつでも自分で更新できるのが良い。分からない所はいつでもアドバイスしてもらえる。遠隔操作という方法で、離れた所から私のパソコンのマウスを動かし、画面を設定していくのには驚いた。かくして、完成。公開した。スマホでもきれいに観れる。ぜひ、ご意見を戴きたい。

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by rev_ushioda | 2014-05-09 23:00 | Comments(0)

「説教原稿を配布する」


どの教会の週報でも、よく目にするのが「先週の講壇」。先週の説教の要約です。私は、先輩牧師がそうしているのを見て、これだと思い、ずいぶん昔から、その日の説教の要約をその日の週報に載せています。ただ、要約というとあまりにも説教とかけ離れ、別の言葉になりますので、私は、その日の聖書個所の「一つの黙想」としています。
また、この数年は、説教原稿も6、7部コピーして欲しい人に配布することもしています。その日の説教の原稿を、その日に配布する。これは、聞いた言葉を、1週間のうちにもう一度反芻(はんすう)してほしい、という願いがあるから始めたのですが、お休みになった人も、御言葉を求めれば読むことが出来る、ということでもあります。
そのようにしているのですが、していながら言うのも変なのですが、説教ということを考えると、これは、あまり良いことではないと承知しています。語った言葉と文字の言葉には当然、聞く、読む、という違いがあるのですが、実は、それはものすごい開きなのです。語るというのは、その日の調子や語り方がありますし、原稿にない言葉も出てきますし、用意した原稿をカットすることもあります。原稿というのは、とりあえずそのように準備したというもので、実際は、あとは「開いている」のです。礼拝の主に「開いている」。ですから、語った言葉は、用意した原稿を越えています。それが説教だと思うのです。そういう意味で、原稿は原稿であって、説教ではないのです。
それを、語る前に準備して配布してしまうというのは、かなり乱暴ではあるのです。よく分かっているのですが、しかし、説教としては未完成の文字原稿ではあるにしても皆さんに何とか礼拝の言葉に近づいてほしいという思いがあるから、原稿を配布しています。その日に聞いた言葉を道々、思い出してほしい、聞いた言葉を1週間の生活の中で動かしてほしい、という願いがあるから、原稿を配布するのです。
私たちは、完全な道を行くことは出来ません。しかし、エマオに向った二人が、あとから「心は燃えていたではないか」と言ったような道行きに、何とかしたいと思うのです

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by rev_ushioda | 2014-05-09 10:25 | Comments(0)

「高校時代」

こんなことを思い出した。

私が卒業した高校は、神奈川県立 相模台工業高校と言った(40年の歴史を持ち、現在廃校)。その、機械科である。
機械科には、いくつかの独特の習慣があった。その一つを、なぜか急に思い出したので、記録しておこう。
職員室に入るとき、ドアをノックして中に入るまでは、どこの学校も同じ。しかし、職員室に入ったらそこで立ち止まり、

「機械科何年何組、潮田健治、何々先生に用があって入ります!」

と大きな声で言わなければならない。まるで軍隊だ。
そう。時の機械科科長、確か、杉山先生とおっしゃったが、軍隊上がりの人で、県立高校であるにも関わらず、そのような教育をしていたのだ。その先生が、一声「気をつけ!」と言えば、それは、もう何を言っているかわからないような単なる「叫び」だった。
修学旅行で横浜駅に集合、その奇声を発したあの時は、通行中の皆が、何事かと振り向いたね~
おかげで、相模台工業高校機械科に属する生徒は、それほどの問題行動もなく、規律のとれた学校生活を送っていたように思う。

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by rev_ushioda | 2014-05-06 14:12 | Comments(0)