「無為に延期ではない」

ついに、再び街道行きは延期となった。去年の8月に行って以来、この分だと、美江寺に立つのは、今度も8月になる。
街道に立てないからといって、無為に過ごしているわけではない。岐阜(美濃国)と言えば、斎藤道三。司馬遼太郎の長編歴史小説『国盗り物語』ということで、これを読破。さらにこの先の中津川、馬籠と言えば、島崎藤村の『夜明け前』である。現在、読書中。
ところで、もう一つ、作業を進めているのは、教会のホームページの再建だ。すでに運用はしているが、古いソフトで作ったもので実際は書き込み不能となって6、7年が経っている。今は業者委託をして再建中である。製作費4万円ほど、月々のランニングコストが5,000円。礼拝人数が減る一方では、ここは何としても新たな来会者を得たいので、この出費は、致し方ない。
さらに作業中なのが、電話メッセージの製本化である。例のブログ製本に持って行くために、現在は編集中。伝道用、また、数百円の上乗せで、わずかではあるが教会への収入も期待したい。
前回作った新型トラクトも、6000部が出たので、また新しく作り直したい。これは今、構想中。すべきことが山積しているので、街道の楽しみは、8月まで取っておくことにしよう。

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by rev_ushioda | 2014-04-25 21:22 | Comments(0)

20日は、イースターであった。泉教会では毎年、野外で早朝の礼拝をしている。
去年は雨で、出来なかった。今年もずいぶん心配したが、何とか雨は降らなかったものの、ずいぶん寒い朝になった。暖かい日のあった後だから、この時期の寒さは堪える。他の二つの教会からも数名が参加して、合わせて20人くらいでの礼拝。鶏も、コケコッコーと、いいタイミングで鳴いていた。
高齢化で管理をする人がいなくなったという「森」は、だいぶ荒れていて、来年は、もう、ここで出来ないかもしれない。

教会に戻ってからの礼拝は、(神学生夫妻が入っても)16人という、思いがけなく寂しいイースター礼拝であった。最近の礼拝人数の低下に輪をかけるような少人数に、クラクラ…と、めまいが…それは冗談だが、半分は本当だ。ここは何とかしなければと、以前からの課題であったホームページの再建、ここは外注でお金をかけてでも、そう思うしかなく、今日は、委託業者を探し、インターネットに向き合った一日だった。
教会の入り口には、のぼり旗がたなびいた朝。しかし、いろいろ手を打ってはいるのに、どうして新しい人が来てくれないのだろうか、教会の仲間の多くもいなかったイースターに、かなりの危機感/疲労感の一日であった。
(夜、目覚めてから今後の教会のことを色々考え、寝つけなくなった。新しい人が来てほしい…)

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by rev_ushioda | 2014-04-21 22:12 | Comments(0)

映画「アオギリにたくして」を、泉公会堂に観に行った。9条の会で情報を得て、ぜひ、と思いつつ時間のやりくりに困ったが、飛び込んだ。
平和記念公園内にある「被爆アオギリ」の下で、被爆体験を語っていた故・沼田鈴子をモデルにした映画である。広島の原爆投下で被爆した上に片足を失い、婚約者も戦争で亡くした女性教師がたどる生涯を、その妹の目で描いていく。被爆者であることを広島でさえ隠し通さなければならない不条理、悲しみと、そこから這い上がっていく実話であり、よい映画だった。

アオギリについて、

原爆によって、街は一瞬のうちに破壊され、約14万人もの命が奪われた。爆心地から2km以内のほとんどの建物は全焼、樹木も焼き尽くされたが、その中を生き抜いた樹木がある。焼け焦げた樹木から芽吹いたものもあるのだ。そうした被爆二世の樹木は、被爆者に生きる希望を与えた。平和記念公園内には移植された被爆一世のアオギリがあり、その種から育てられた「被爆アオギリ2世」は、今、希望者に配布されている。

YOUTUBE でのプロモーション・ビデオは ここ

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by rev_ushioda | 2014-04-18 13:34 | Comments(0)

9条を保持する日本国民にノーベル平和賞を、という推薦がノーベル委員会によって受理された。
署名運動を後押ししている者としては、これは非常にうれしいニュースだ。賛同者がさらに広がることを望む。

TBSニュース
朝日新聞デジタル
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by rev_ushioda | 2014-04-12 10:14 | Comments(0)

「人間回復」

いつだったか、新聞に「人間回復」という言葉がありました。ハンセン病の隔離が解かれた、という記事でした。ハンセン病は、らい病と言われていました。この病気は感染力はないに等しく、遺伝もしないのに、日本では患者を隔離し、怖い病気という意識が植え付けられてきました。世界では、すでに40年前にこの病気の人は自宅療養が主流になっていたにもかかわらず、日本ではずっと差別、偏見、隔離を続けてきたのです。それで患者さんたちは、自分のことで迷惑がかかるからと本名を名乗らず、決して家族に連絡をとろうとしなかった。これが現代の日本であろうかと耳を疑いました。裁判で、この隔離は誤りであったと判決が出た時、患者さんたちはまさに「人間回復」の戦いを、勝ち取ったのです。誤解と偏見で奪われていた人権が、ここに回復されたのです。
聖書に、「重い皮膚病を患っている」人のことが書かれています。彼らは、道を歩く時には誰かが接触しないように自分を「汚れた者」と言わなければなりませんでした。キリストが山から降りて来られた時、誰に最初に出会ったかと言うと、この「重い皮膚病を患っている」人であったと書かれています。山のふもとに「重い皮膚病を患っている」人がいたのは、町から離れた山際に、追いやられていたからです。隔離されていたのです。その「重い皮膚病を患っている」人を目掛けて、キリストは山から降りて行かれたのです。
そして、キリストは「手を差し伸べてその人に触れ・・」たことを聖書は書いています。ここに、人間回復が起こったということです。キリストが手を差し伸べてその人に触れた時、そのことで、私も山際に追いやられるなら、追いやられてもよい、というほどの決意がみなぎっています。キリストは、こうして、自分は清いと主張する人々から、十字架に(文字通り)“捨てられた”のでした。その犠牲によって、今も山際に追いやられているような人、差別、偏見を受ける人、場所を失っていると感じる人は、人間として生きる道に連れ出されているのです。キリストによって、あなたも人間として生きられるのです。

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by rev_ushioda | 2014-04-11 21:22 | Comments(0)

「痛みは深い」

最近、― 3月27日、強盗殺人罪などで死刑が確定していた袴田巌さん(78歳)に対して、静岡地方裁判所が、死刑と拘置の執行を停止すること、裁判の再審を決定しました。逮捕から48年、半世紀にわたって獄中から無罪を訴え続けてきた結果でしたが、死刑確定から34年です。34年間、死刑は明日か、明日か…という毎日、おびえ続けてきた心中を察するに余りあります。
この事件に関連して、ある見出しに目が留まりました。「袴田事件で重い十字架を背負った男」というのです。その男というのは、熊本典道さん(76歳)という、当時の裁判官の一人です。当時、熊本さんは29歳、主任裁判官として袴田事件の公判に臨んでいましたが、無罪を確信したといいます。しかし一人が反対しても、判決はあくまで3人の裁判官による多数決。しかも、彼は判決文を書く担当だった。有罪の主張を譲らない他2人の裁判官に「あんたが書け!」と用紙を投げつけたこともあったそうです。結局、自ら、有罪判決文を書かざるを得なかったのですが、以後、「自分がしたことは殺人ではないか」自らを責め続けることになった。そして、死刑判決が確定した7ヶ月後に裁判官を辞めました。転身して弁護士になったのです。長女が高2になったとき、「お父さんは殺人未遂犯だ」と苦しい胸のうちを明かしました。そして、当時、酒に溺れ、過去にもがき苦しむだけの熊本さんの元から、やがて、家族も離れていったそうです。
袴田さんの事件の裏に、また、そういう人もいたのです。今回の再審決定を心から喜ぶ熊本さんの姿が、テレビで報じられていました。

聖書を読むと「イエスが多くの病人をいやされた(仕えた)ので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた。」と書いてあります。この「いやす」という元の字は、仕える、という意味ですから、病気とか、そのほかの原因で悩む人たちが、行き所を失ってもがき苦しみ、聴いてくれる者がいると聞けば、助けを求めたのです。そういうことは、今も至る所にあるのです。さらに、「病気に悩む」という、「病気」という元の字は、「鞭で打つ」という言葉から作られています。どうして、病気が鞭で打つことなのかというと、人間は、病気があると、「この病気は、神の裁きなのだ」と、言われるのです。あなたが病気になったのは「神の懲らしめ」なのだと、(病気の症状に苦しんでいただけでも苦しいのに)人から言われる。すると、そう言われれば、人は何かしら心当たりがありますから、ああ、自分は神から裁きを受けている、鞭で打たれている、そう思うようになった人たちがいたのです。だから、「病苦」とも言うのです。病気そのものよりも、自分で自分を肯定できなくなり、自分に鞭を打ち始めますから、そちらのほうが苦しみになるのです。病気の苦しみ、「病苦」とは、よく言ったものだと思います。
そういうことに悩む人たち、もちろん病気の人もいたでしょうが、自分に負い目を感じて苦しむ人が、たくさん、キリストのもとに押し寄せたのです。「袴田事件で重い十字架を背負った男」という記事を紹介しましたが、「自分がしたことは殺人ではないか」と、自らを責め続けた人がいた。そのように、自分に鞭を当てる人、十字架を背負う人が、たくさんいたのです。今もそうです。そういう人たちが、聴いてくれる人、向き合ってくれる人がいると聞けば、押し寄せるのです。人間の痛みは深いと言わざるを得ません。

私たちはキリストがその後、したようなことは、とうてい、できません。
しかし、その見ている方向に向かって、立つくらいは、出来るかもしれません。人の深い悩みを聴く、という耳を持って。

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by rev_ushioda | 2014-04-08 18:46 | Comments(0)

「航空灯台」

湘南を代表する灯台が一つ、老朽化のために解体され、姿を消したというニュースを聞いたことがあります。その灯台は、平塚市にあるので「平塚灯台」と言いました。この「平塚灯台」は、元々は船のためではなく、かつて、夜、東京-大阪間を飛んだ“飛行機のための灯台”の役割を担っていました。こういう灯台のことを「航空灯台」と言うそうです。なぜ、夜、飛行機が飛んだかというと、荷物を早く運ぶためでした。その役割を終えてから、今度は海の灯台として使われてきたそうです。
この平塚灯台の 一つ東京寄りの灯台は、私たちの泉教会がある、和泉町にありました。こちらの灯台は、戦争中、敵の標的にならないよう取り壊されたと聞いていますが、ここにあったという その場所に立つと、なるほどその辺りで一番高い、富士山が真正面に見える、とても見晴らしのいい所です。
私は、このような航空灯台は、空から どのように見えたのだろうかと想像します。きっと真暗闇の中に、点々と明かりの点が続いていたことでしょう。そこを辿って行くと、道に迷わずにちゃんと目的地に着いたのです。
八木重吉という人の詩に、次のようなものがあります。
「ゆきなれた路の/なつかしくて耐えられぬように/私の祈りのみちをつくりたい」
真暗闇の中で手さぐりし、失敗したり、思うようにいかず文句も出るような時、イエス・キリストは、まさに闇夜(やみよ)を飛行する私たちのために、折々にふさわしい「光」となってくださるのです。「私は道である」と言われて、そこに道をつけてくださる。この光の道に従って、私たちは「祈りのみちを作る」ということです。この「みち」では、闇夜(やみよ)でも決して迷うことはないのです。
「ゆきなれた路の/なつかしくて耐えられぬように/私の祈りのみちをつくりたい」。
さあ、あなたも、泉教会に来る「祈りのみち」を作り、そこを歩き始めませんか。

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by rev_ushioda | 2014-04-04 21:35 | Comments(0)

「びっくりした話」

今、教会として使っている家は、普通の住宅を増改築したものです。ところで、その増改築工事を検討していた時、工務店がコンピューターグラフィックスで改築のイメージを作ってくれたのですが、見て、びっくりしてしまいました。家をものすごい高い壁で囲ってある。しかもその壁は黄金色で輝き、その上に重量鉄骨の十字架が大きくそびえているのです。なるほど、いかにも「宗教」という感じでした。ああ、これが一般の人の教会のイメージなのかと思いました。私は、逆に今まであったブロック塀を取り払い、手すりを設置する程度で簡素で開放的なエントランスを考えていましたから、その違いに唖然としてしまいました。
教会とは、いったい何なのでしょうか。
泉区の社会福祉協議会に登録しているボランティア団体「NPO法人 心を聴く市民ネットワーク」があります。そこでしている「気持ちの聴き方」という講座に、泉教会は牧師を講師として17年間、派遣しています。また「チャイルドライン」という子どもの電話相談窓口の受け手の研修にも、泉教会は5年間にわたり牧師を講師として派遣しました。その他、病院の看護婦研修、幼稚園の教師研修、ヘルパー研修、作業所のスタッフ研修、行政書士さんの研修、地域の公立小学校PTAの講演会などにも、牧師を派遣してきました。
牧師をそこに派遣するということは、教会がそのようにしてこの世に生きるという証しなのです。壁で囲って、この世と断絶するのではなく、また、その壁を黄金色に塗ってなにやら有難く見せるのではなく、教会は、そういうインチキ臭い壁や囲いを取り払って、町に出て行くのです。それは、人の叫びや嘆きを聞かれたイエス・キリストが、もうすでに町に出て行かれているからです。イエス・キリストは、もう、すでにあなたのそばに立っていてくださいます。だから、私たちは囲いをするのではなく、それをかなぐり捨てて、イエス・キリストが立っているあなたのそばに、立ちたいのです。

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by rev_ushioda | 2014-04-01 21:29 | Comments(0)